2023年11月03日

文化の日に近くの地蔵堂をたずねる 【菊、秋薔薇、残菊、柿、、、、】

文化の日に近くの地蔵堂をたずねる

【菊、秋薔薇、残菊、柿、、、、】

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南屋形村と北右田村の境だった?北右田と記していないから海老村の境だった?

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他者の家黄色に映えぬ秋薔薇
秋薔薇あわれ一輪散り残る
菊映えてや近くも遠く道しるべ
道しるべ境とありぬ秋の暮
菊畑村に一つの地蔵堂
柿なりて家二軒ほど地蔵堂
干しものや残菊哀れ住宅に

秋の薔薇山茶花と咲き我が庭や余生静かにここに送らむ
仲良くも地蔵六つの御堂中秋の日さして畑中にあり


そこはすぐ近くだった。でも見逃していた。灯台下暗しなのである。なぜそこに御堂が一つあり中を見たら地蔵が六体くらいあった。それはなんとも微笑ましく見えてなごんだ。なぜそこに地蔵が納められているのか。他にもそういう御堂はある。大概は六地蔵になっている。ここもその六地蔵なのかもしれない。

お地蔵様を道端でお見かけすることもあると思います。この場合は、日本の道祖神信仰とつながって地域を守る存在として建てられていることが多いです。

 道祖神とは、旅の安全や道の安全を守る神様、またはそれらを祈願して建てられた石碑や石塔、祠を指します。また、集落や村の入り口にある場合には、外からの災いを避けたいという願いが込められています。

六地蔵は境にある。そしてすぐ近くの交差点に道標がありそこに境と記してある。でもどの村との境なのだろうか。おそらく南屋形村とあるから隣の右田村との境となるのかもしれない。昔は江戸時代なら村単位で生活していたから境が大事になるのである。

今の感覚だとなぜこんなところに境の碑があるのか。そしてわざわざ方角を示しているのか分からなくなっている。歩くことが基本にある生活はやはり今のように車で行き来する社会とはまるで違っていた。それでやたら馬頭観音の碑がいたるところにある。それだけそれだけ馬で荷物を運んでいたからそうなったのである。

歴史を知る時調べるとき例えばここに二軒の家があるがそれはいつの時代からあるかということである。江戸時代からあればやはり相当に古いから価値がある。この御堂にしてもいつの時代に作られたかとなるとやはり江戸時代なのかもしれない。地名としては南屋形村であり大畑とある。まさにそこは畑であり家二軒しかないからである。他にも近くに一軒か二軒くらいしか家がない。ではなぜそこに御堂が一つたったのかとなる。それはやはり境になっていたからなのか何か理由があったことは確かである。

昔を知るということは歴史を知るということはどういう暮らしがあったのかそれを今と比べることで今の時代を知るということもある。なぜかその地蔵堂の中の六つの地蔵を見たとき子供のようにも見えて見えて心が和んだのである。つまり今の時代になると小さな村単位のつながりとか協同性は喪失した。だから村で協働する何かを社でも地蔵堂でも薬師堂でも作るということはない。村単位で生活していればそういうものが必要だから作られたのである。そのとき地蔵堂に中に見た六地蔵のように子供もそういう中で遊んでいたのかもしれない。村の子供としてみんなで育てられていたのかもしれない。ただそこは家の数が少ないから実際は南屋形村として広い村として生活があったのかもしれない。

とにかく人間今の社会と比べるとその変化があまりにも大きすぎたのである。車がない社会だったら街まで出るのも容易ではない。歩くことやり荷物でも馬車で運ぶことになるからである。すると近くでもかなり遠くなるのである。その感覚がわからなくなったのである。そして付き合うのは村人でありよそ者はほとんどいないかいないとなっていた。

今や一万の町でも何をしているかわからない人が普通にいてその交わりは希薄化した。別に地元で働いているというわけでもないし車で遠くへ働きに出ている人も多い。戦前ならやはり近くがで働く人が多かった。だからこそ前田とか前畑とかというという地名があり前田となるとそこがその土地の草分けの農家なのである。
なぜなら家の前の田が最初の生活の根拠となったからそうなったのである。でもそこから遠く離れたとこが遠田とかなって大原に残っている。ともかく前だとあればそこが村の中心だったのである。

いずれにしろ今日は文化の日だけども夏だった。異常気象である。だから俳句の季語が通用しなくなっているのである。これこそまさに文化の危機だともなでもこれは自然現象なのだからどうにもならないのである。今頃は秋の終わりであり晩秋であるがまたは秋深むとかなるわそれも感覚的になくなっている。
ただ虫の声は聞こえなくなっているからこれは晩秋から冬になっている。
文化というときは何か特別なものでもなく日常的なものにまたは卑近なところに文化はあるし。でもただそれが掘り出されていないのでだけなのである。その自分の住んでいるところはどういう歴史があるのかでも意外とわからないのである。




2023年11月02日

物価高に苦しむーデフレからインフレへ 【適正価格を知るべき】


物価高に苦しむーデフレからインフレへ

【適正価格を知るべき】


●デフレ時代長く物価が安すぎた反動が今出ている

一番身近に感じる物価高は食品である。なぜならそれは毎日買うし食べているからである。それが20円でも30円でも高いと感じてしまうのである。大判焼きが150円だったのは200円になっているのは高いと思って買えないと見た。
その他コンビニに行くと何でも20円とか30円は上がっているそしてお菓子でも中身が半分くらいに減っている。それは実質値上げなのである。ただ気づいたことは葡萄などはもはや高級品であり買えるものではないと思った。
でも安い葡萄が出ていてそれを買っている。私自身は貧乏だったので長い間贅沢をしたことがない。だから多少お金が入っても贅沢はしない。そもそも貧乏性が習慣になっていたのである。私は旅をしたとしてもいつでも最低の宿を探していた。私はただそこで寝るだけでいいと思っていた。私の目的は何か旨い物を食べるのではなく旅をすることだったからである。

人間は日頃の生活が習慣化して習性化してくる。それをなかなか変えることができないのである。貧乏性になるとそれもなかなか変えられない。また逆に裕福な生活をしてきた人もその生活を落とすことはできない。私は果物は好きで果物は一応それなりに買って食べていた。でも今年は梨が高いので買わなかった。それで安く売れ残ったものがあったのでそれを買ったらまずかった。得したと思って買ったが結果的には損だった。

そういうことは前にもあった。ただ梨一個250円とか300円までなっているので高いと思った。でもよくよく考えたら250円でも高いとは言えないものだったのかもしれない。今までの物価は本当は安すぎたのかもしれない。安いということは消費者にとってはいいことだが生産生産者にとっては苦しいことであり体。いかにして安くするかということで苦労するからである。

ただあまりに高いと葡萄などは本当に高級品であり金持ちしか手が出ないというふうに見た。それがまるで宝石のようにも見えたのである。でも果物が好きだから食べたいと思った。それで安い葡萄を買って我慢しているとなる。
とにかくあらゆるものは上がっている。でも年金生活は年金は上がらないし貯金はあっても利子もつかないだから物価高は年金生活者とか老人には余計に響くものとなる。でも人手不足だから働ける人は賃金が多少上がっているかもしれない。賃金が上がらない上がらなければこの物価高にもう対応できないからである。

最低限の生活のしてる人はまともなものは食べていない。するとそれは体に影響する。その体に影響するということはもっとも悪い影響なのである。老人にとっては健康が最も大事だからである。健康を喪失すると金があってどうにもならなくなっ。だからこそ健康に気をつけねばならないのだが物価高で果物でも野菜でも上がる時苦しくなる。
でもその健康の源の食品の選択を誤ると体にじかに影響する。だから多少高くても基本的に食品を安物には全部することはできない。ただお菓子などは贅沢品となったかもしれない。どこかで何かを減らさざるを得ないのである。

●回転寿司のネタはにせもの

原材料の粗悪化も進めていた。たとえば、回転寿司のネタはニセモノのオンパレードというのはよく知られるようになっているのだが、これらのニセモノは本物とはまったく違う「安い原料」を使って作られる。

*偽装、代用の例

ヒラメ→米国産アメリカナマズ
天然マダイ→ティラピア
キハダマグロ→赤マンボウ
カツオ→南半球産アロツナス
アナゴ→ウミヘビ科のマルアナゴ
ブリ→南半球産シルバーワレフ
ヒラメのエンガワ→オヒョウ
カンパチ→コバンザメ近隣種スギ
スズキ→ナイルパーチ、ブラックバス
アイナメ→深海魚のヒモダラ
アワビ→ロコ貝
赤貝→サルボウ貝
クルマエビ→養殖ブラックタイガー

レストランやスーパーで売っているカニ爪フライも、海老フライも、イカリングのフライも、今ではすべてニセモノの安い原材料を使って作ることができるし、実際ニセモノが堂々と売られている。

要するに本物を食べていない。本物を偽装したもの食べている。それが現実なのである。なぜなら安くするにはそれなりのものしか使えないからである.でも本当の本物の寿司を食べようとしたらばか高くなる。それは金持ちにしかできない食べられないものになっている.

ともかくデフレ時代が長かった。そこで安物志向が習性になってしまったのである。だから本当の価値あるものはどういうものかわからなくもなっている。葡萄などばかだ買い物があるがそれはもともとそれだけの価値あるものだったのである。価値あるものはやはり高くなる。それは市場の原理で当然である。でも安物志向が習慣化して物価でも何でも安くなければならないという感覚になっていたのである。でも庶民からすればそれは当然のことである。高いものを買うにしても買えないからである。今これだけ物価高になり年金も少ないとか収入も上がらないとすればさらに安物思考になってしまう。すると健康に影響して寿命でも縮まるとなってしまう。

そもそもやはり物には適正価格がありあまりにも安いとかあまりにも高いとなると問題になる。デフレ時代は安すぎたということはある。それで物の価値が歪められてきたのである。梨が一個200円にしろ250円にしろそれが適正価格なのである。それを高いと見るのは問題だったともなる。もはや安さには限界がありそれでは作る人が生産者がやっていけなくなっているのである。なぜなら肥料代とかでも上がり人件費でもあげねばならないからである。

そういうことを考慮すると100円くらい上がってもそれが適正価格だったということ認識したので。でもみんな金がないのだからそれが適正価格でも高いと思うし現実に買えない人が増えている。それだけ日本は総じて貧乏になっていて購買力も無くなっているのである。ただ確かなことはこれまで物価は安すぎたということである。そしてこれだけ円安になると金の価値は持っていても低下するだけである。だから年金とか貯金だけで暮らすということは厳しいものとなる。貯金があっても利子はつかない。その金の価値は目減りするだけだからである。

posted by 天華 at 19:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年11月01日

日本の城と柳と紅葉の風景 Japanese Castle, Willow and Autumn Foliage Scenery


日本の城と柳と紅葉の風景

Japanese Castle, Willow and Autumn Foliage Scenery


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一時 being image creator が操作できなくなった、それで休んでいた
でも今日試してみたらできた。これはとにかく別に工夫も何も必要ないから楽なのである。前の他人の絵なり写真を変化させるのは手間だったからである。