人間が変わるのは技術の進歩や環境の変化で変わる
【グローバル経済は誰も知りえないから陰謀論になる】
●時代と環境の変化せ人間も変わった―農業社会は共通の認識で共同していた
人間が変わったというとき人間社会が変わったということにもなる。人間は本質的に変わらない。でも縄文時代から弥生時代からとか時代を遡れば江戸時代でもその中で生きた人間は今の人間とは違っていたところがある。つまり時代によって時代の変化や環境の変化によって人間が変わるということである。だからよく江戸時代の人間は今の人間と違って情があり人々は助け合い生きていたとか美化される。
結局過去になると歴史になるとその時代に生きる感覚がリアルに再現できない。なぜなら人間は自分の経験したことしたことからしかイメージできないからである。だから戦後生まれの団塊の世代とかは戦争が終わってから生まれたのだから戦争をリアルに理解できない。ただ親から戦争のことを聞く。現実に戦争に参加した人もいてその話を直接聞いているから違っている。今になると孫の世代んあると何か話を聞いていてもそれがリアルなものとして伝えられなくなる。
卑近な例として農民が80%がいたとか戦後でも農民が60%かとかいった時代は今とは相当に違っている。今は農民は田舎でも1割くらいしかいない。だから田舎に住んでいるからだと言って農業のことを知らない人が普通にいるのである。
確かに周りは田畑があるから都会とは違っている。でも現実は農業している人は少数派であり農業社会ではないからやはり都会化しているともなる。何か戦後の子供時代を見ると今とは全然違っていたと思う。働いている人を見れば何をしているかわかった。それは狭い地域での自給自足的生活である。例えばカゴヤとかあれば竹で編んで竹のかごを作っていた。何かそうして手作りで日用品を作り売っていたとなる。近くに漆塗りをしていたとか豆腐屋がいて豆腐を作っていたとか何か近くで自営業して作って売っていた。
●自給自足的生活が基本だった時代
その時外国から入ってくるものをわずかだったろう。バナナを売って秋市にバナナの叩き売りとかあった。また私の家族が病人になってわざわざ仙台まで行ってバナナを買ってきたという。バナナなどいまいくらでもある。その頃はバナナすら外国から入ってこなかったのである。また卵すら満足に食べられないし食べていない。その時豊かだったのがかえって農家だったのである。農家というのはそもそも自給自足体制であり買うという生活はあまりなかった。だからカヤの実から油まで取っていたとか納豆も作っていたとか自給自足的生活をしていたのである。もちろん水道など無いから井戸水を使っていたのである。
私は戦後私の家では戦後店を始めたがその店屋にしてもただ商品を並べているだけでありそれでも近くに店屋もないから売れたのであ。それで卵とか野菜は近くの農家から買っていたのである。私は卵を買いに自転車で行かされた農家に行かされた。糠に卵を入れて自転車で運ぶのだがそれが必ず一個ぐらいは壊れるのである。その理由が道がまだ舗装されていなかったのである。だから道が悪いからどうしても自転車では割れてしまう。そして橋でも木の橋であるそれが揺れたりして怖いものだったのである。
その頃車はほとんど使われていない。だから卵自体が贅沢なものだったのである。それで卵焼きが食べられることが贅沢な暮らしとなったことを象徴している。
巨人・大鵬・卵焼きが流行語になったのはやはり卵焼きというがみんな普通に食べられることになったことが食の変化だったからである。
とにかく時代が変わる社会環境が変わればまた人間も変わってしまう。その時代が変わる社会環境が変わるというとき様々な技術の変化もあるがやはり交通の発達も大きな影響があった。
なぜなら食料というのはそもそも戦前から戦後10年くらいまでやはりそれぞれの地域で自給自足的な生活をしていた。それは車もないし運ぶというのが鉄道になるしするとどうしても狭い身近なところで食料供給する。だから近くの梨農家の人は相馬市まで15キロくらいあるのにリアカーで売りに行ったという。つまりリヤカーで運んだらどれだけ苦労だったかとなるからである。
つまり交通が発達しなければそれだけ運ぶということが容易なことでわなかったのである。結果として身近にあるもの取れるもので生活するほかなかったのである。だからその頃人々の関心はやはり狭い地域の中にあったともなる。その住んでいる地域で食べ物でもまかなっていたら常にその米とか野菜の取れることに関心をもっていた。それは遠くから運ばれないからそうなっていたので。すると常に近くで食料は得られるかどうかが問題になるから農家のことで今以上今より相当に身近なものであり関心をもっていた
●失われた共同意識ー日ごろから共同しないものは共同できない
今年の米の収穫はどうだろうかとかそれは農家だけの問題ではないそこに住んでいる人たちがその米を食べるのだから他から入ってこないとしたらその米が豊かに実るようにやはり農民と同じように祈っていたと思う。でも今や経済が広域化してグローバル化してくると食べ物でも外国からでも入ってくる。するとそこに住んでいる農家が作る米でも野菜でも果物でも特別関心を持って見ていないとなる。
なぜなら別に日本中から野菜でも果物でも米もさらに外国からでも食料が入ってくるとなる。そこで必要なのはそれらを買うための金となってしまうのである。だから地域でも昔のように地域でとれる食料に関しても関心がなくなる。問題は金が大事だとなる。なぜなら金で世界中からでも日本中からでも食料が入ってくるからそれを買うことが必要になってくるからである。別に地元でそうした食料がとれなくても金があれば世界外国からも入ってくるから金で買えばいいとなってしまうので
おそらく戦前とか江戸時代とかなれば農民が80%なのか多いのだからそして交通も発達してないから狭い地域で暮らしていたからみんな社に集まって豊作を祈っていたともなる。そこで共同意識が生まれていた。それが今になるとそうした共同意識は生まれにくい。なぜなら食糧でも外部からいくらでも入ってくる時金さえあれ買えばいいとなってしまうからである。それは人間の心に影響して人間を変えてしまったともなる。
だから孤独死が増えるというときそれは人間の共同体とか共同意識とか失われただ金だけが全てとなった社会がそうさせたと思う。共同しろと言っても日頃から共にに共同していなければいくら強制しても簡単にできるものではない。農村共同体だったらやはり日頃から密接な繋がりがあり共同していたからおこそ共同できるのである。
だから人間関係というのはそもそも物を流通するような関係とは違うからものはいくら外国から入ってきても必ずしもその外国人と共同するというわけでもないのである。だから外交関係でもうまくいかなくなるとものも入ってこなくなるのである
つまり現代というのは何かグローバル化でも物はいくらでも入ってくるわそれで共同しているというわけでもない。一旦何かあるとそうした物でも入ってこなくなる
だから常に貿易戦争というのは起きてくる。なぜ日本の明治以降とか世界大戦が2回もあり莫大な人間が1000万以上とか戦争で死んだのかとなそれはグローバル化しても人間は共同するわけでないからであるだからロシアでも肥料とか麦でも買っていたとしても日本売らないとなってしまう。それは石油とかガスでも同じである。
外交関係でうまくいかなければ必ず貿易は止められるもし共同することがありあったならそういうことはないはずなのである。だからアメリカで日本車が叩かれて潰されたりしていた。アメリカでわ自国の車が売れないとなれば公平な貿易というよりは自国優先になるのは普通だからそうなってしまう。つまり政治と経済を分離できないのである。政治的に分断されれば経済的にも分断されてしまうのである。
●グローバル経済は共同意識を作らない
公益化社会グローバル化社会というのは返って人間の共同意識が消失してしまう。貿易が悪いというのではなくやはり何かそこに制限するものは必要だったともなる。あらゆるものはグローバル化に自由に経済というのは人間社会というのは成り立つのかという問題が生まれた。それが道徳なき経済ともなったのである。それは機械化によっても起きた機械が便利でもその機械に頼りすぎると何か人間的なものは失われてゆく。それは2000年前に老子が指摘していたことである。
つまり結果的には人間が機械の奴隷にまでなってしまうということである。そういう危険性が機械もあり今話題になっているAIとかチャットgptとかにもある。それはいい面もあるのだが必ず悪い面としても作用するのであるそれは車でもそうである。車というのも一地域に縛り付けられた生活から解放されたという感覚になる。
車に乗ればたちまち遠くに行ける。すると近くより遠くが生活の場になってしまうのでそうすれば当然近く大事なものではなく近隣の関係も希薄化してで助け合うということなどもなくなったのである。それも必ず道具とか機械はいい面と悪い面に働くのである。
人間というのは何か物を買っている生活しているのと実際に野菜でも米でも果物でもそれを育てて直に食べているのとは相当違っている何故ならその時米でも野菜でも果物でも必ずその土地の気候とかその土地の豊かさとか何か必ずその土地と関係して食料は作られてくるからである
それで特産物というのはその土地の気候とその土地が持っている豊かさとかと関係しているそうした土の栄養分とかそういうものは簡単に作れないからである。だからその土地に精通して気候にも精通して食料は作られるとなる。
でもただそうした食糧でもお金を出して買うだけならそんなことを感じないのでただ金さえあればいいというだけであるだから食料を作り売る人とただ買う人とかのその差も相当に大きいということである。
だから文化というときカルチャーとはcultivate耕すということになっていることでもわかる。その土地土地の風土から耕して作られたものだからである。それが広域社会化してグローバル化するとそれはただ買うというだけでありそこに独自の文化は生まれないのである。だからもともとは物と心は一体であり心を離れてものもなかったのであるそれが物と心が分離してただ金で買えばいいというだけになってしまったのである
●人間で大事なのは実感
馬酔木なす栄えし君が掘りし井の石井の水は飲めど飽かぬかも
何か人間は実感が大事である。何でも実感がないと訴えないのである。戦争でもテレビで見ていてもなかなか実感をもてないのである。それで私が近くの井戸の水をもらって自らペットボトルに汲んだ時飲んだ時ここの下に飲める水があるのだということを実感してした。それは感動的なものだったのである。ただ蛇口をひねって水道の水を飲んでいるのとも違っていた。この土地の下に水が蓄えられていてそれを飲めるということである。その水は絶えることなくあると流れてあるということでもあった。それはなんとも豊かなものを感じたのである
確かなことはあまりにも経済の規模が拡大化して巨大化したことでもはやそれは人間が操作などできない。だから金融資本主義になり金を左から右から左へと流して巨万の金を得ている人がいる。それはグローバル経済でなればとてつもなく巨大なものである。それをもはや知ることもできないのである。ということは必ず誰かが裏で操作しているとか陰謀論になるのである。それはあまりにもその規模が大きいから誰もその知ることができないからである。もし地域経済とか小規模なら別に経済学者でなくても手に取るようにわかっていたからである。
だからと言って江戸時代に戻れとかというのでもない。何かやはり経済優先であり人間の心というもの置き去りにした結果そうなった。だからどうしても株で儲けるとか銀行でも金融に携わる人は胡散臭いとなってしまうのである。
でも野菜を作り米を作り果物を作りとか食料を作っている人は密接に自然と繋がりそうした職業とはまるで違ったものとなっている。だから銀行員をやめて農業を始めた人もいた。それはなぜかというと何か生きる実感というものを持てないからそうなってしまったのである。ただ金を右から左に流しているだけで何かを育て実らせるという生の充実感が得られないためにそうなったのである。
ともかく経済にしても来年はどうなるとか株がどうなるとかいろいろ円安がどうなるとかそれもわからない、いくらいろいろ本を読んでもわからないのである。ただ貯金しても利子はつかないし何のために銀行に金を預けているのかもわからない。だから金利を上げるというのは老人がかなりの金融資産を持っているからそれで使うから景気良くなると言うのも分かる。
とにかく利子もつかない物価は上がる将来どうになるのどうなるのかもわからない。そして常に預金封鎖がどうだとかそんな話ばかりになったらいくら金があったって老人でも金が使えないのである。もし高度成長時代のように利子が5%でもついたらそれはすごいことになる。老人は金を使わないと言うがやはりそれだけ金の余裕ができれば金を使うのである
いずれにしろ経済にしても将来のことはわからない。楽観論があり悲観論がありそれもわからない。人間が理解できるのはやはり狭い範囲でしかない。グローバル経済とか巨大になればそこで操作しているのは天文学的数字でありそんなものを知り得ることは不可能なのである
経済という時でもやはり身近に狭いところだと手に取るようにわかる。でもあまりにもグローバル経済とか巨大になればそれが現実なのか架空なのかすらわからなくなってくる。
だからそれは巨大なグローバル経済とはある一部の者が操作して儲けている詐欺だという人もいる。それはあまりにも巨大なために常に陰謀論になってしまうのである。だから人間というのはやはりある程度手にとりわかるような世界でないともはや世界認識でも必ず偏ったり誤ったものになるのは当然である