2023年12月31日

歳終わる【白鳥、枯野、冬の菊、冬菜、冬椿・・・ 】


歳終わる【白鳥、枯野、冬の菊、冬菜、冬椿・・・ 】

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ノスリと別な鳥

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急ぐ車さらに急ぐや年終わる
車追いい車に追われ年終わる
見ゆるものノスリ一羽や枯野かな
裏の庭目立たず咲くや冬の菊
近くなれ我が墓通り冬椿
石の倉古りて冬菜や農家かな
わずかでも養うものや冬菜かな
一軒の家また壊され歳終わる

一木に共に刻みし年輪や心に留めて年も終わりぬ
新雪の蔵王をかなたに望み朝映えて連なり飛びぬ白鳥を見ぬ

今年も終わりである。今年は一身上でも何か特別なこともなかった。相手言えばなぜか足が悪くなる。両方の足が血が滲だよーに黒い痣になっていた。その字も二ヶ月ぐらい取れなかった。なぜそうなったのか。靴が合わなくて歩いてそうなったのか。それもわからない。ただそれで軽い新しい靴を買った。私は日頃は歩かない自転車だから靴の影響はないただ歩くと足が悪くなったのである。それは多分老化の影響かもしれない。

ともかく今年も終わりである。何か車が別に早いのだから普通なのだが急いで早くいつもより走っているように見えた。車が車を追い年終わるとなる。まさにこれが現代である。なにかそこに人が見えないのである。

いつも見るのは白鳥でありノスリである、これは大きいから必ず見る、小さい鳥は見えにくいのである。すぐ近くの墓地には我が家の墓があr。その公園に冬椿が咲いている。墓でも身近にあると一体化するのである。また一軒の家が壊された。空家は増えるからこれを活かすとしてもなkなかむずかしい、でももったいないとなる

材木が積まれて一木に年輪が二つ刻まれている。それが夫婦のようにも見えた。でも今熟年離婚が増えている。これも問題である。何故かというともう男女とも新しく共に生活して親しく愛し合う時間がないのである。何するにも人間は時間がかかる、つまりこうして年輪を刻むとしてもやはり30年なのか50年なのか時間がかかるからである。人生にそんな時間などないのである。

今年は知っている人は怪我したり病気にない不運だった、でも別に自分は何か悪いこと無かったのである。

それでは良いお年を、、、新年の投稿は年を明ける12時にアップするので御期待!




カルト宗教団体の池田大作大川隆法が死んだ 【世界でもイスラエルで宗教が問題になっている】


カルト宗教団体池田大作大川隆法が死んだ

【世界でもイスラエルで宗教が問題になっている】

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●ユダヤ人とは何なのか、アメリカを支配しているのはユダヤ人?

今年を総括するとやはり宗教が大きな問題としてクローズアップされた。それは統一教会に始まり大川隆法池田大作が死亡したことでそれが一つのカルト教団の終わりとなる象徴になるかもしれない。
また世界的に見てもイスラエルとパレスチナ問題で千人もハマスによって殺されたということはそれも宗教が絡んでいた。
そして最近プーチンがカトリック教に対してそこで武器を蓄えてるとか何か攻撃している。同じキリスト教でもカトリックとロシア正教は違ったものだから攻撃してくる。

それでヨーロッパとロシアはそもそも宗教的にも対立しているとなる。宗教と政治でもやはり切り離せないものはある。様々な宗派があり宗派対立はある。それはイスラム教でも同じだからである。日蓮にしても念仏とか禅宗を念仏無限とか禅宗を天魔だとか強烈に批判したからである。だからもともと宗教というのは対立する。仏教でも日本に入ってきた時神道派から反対されたからである。でも日本の場合はいつしか時代をへて神仏習合になったのである。そういう国は珍しいとなる。

そしてわかりにくいのはユダヤ人でありなぜユダヤ人がそれほど今問題になっているのか。日本人とか日本とかではユダヤ人というのは馴染みがない。だからユダヤ人とは何なのだろうとなってしまう。でもキリスト教徒なら聖書を書いたのはユダヤ人なのだから切っても切り離せないものなのである。

第一イエスキリストはユダヤ人だからである。ただそのユダヤ人がキリストを殺したのである。そのためにヨーロッパではユダヤ人は迫害されてきたのである。それでもユダヤ人はなぜ民族として2000年も国を失ってから存続できたのかということである。ただ今のイスラエルの人たちは別にユダヤ人でもないというこれおそらく2000年も過ぎたらユダヤ人という純潔民族はいなくなってるかもしれない。

だから今のイスラエルの民族はユダヤ人というものでもなくロシアとかに多数いた別なアシュケナジユダヤ人とかであり純潔のユダはユダヤ人ではない。そもそも純潔のユダヤ人はいないのではないか。ただユダヤ教を信じる人がユダヤ人としているのかもしれない。それにしてもなぜユダヤ人がこれほど力を持っているかということである。アメリカの中枢を支配しているのはユダヤ人でありイスラエルはアメリカを動かしている。イスラエルはアメリカの言うことを聞くのではなくイスラエルの言うことを聞いて動いているという。するとこれほどアメリカの中でユダヤ人が力を持ちアメリカの中枢にありアメリカを動かしている

それは金融業などでまたはマスコミなどであユダヤ人が主に支配しているからそうなっているのだという。そういう事情はなかなか日本では分かりにくい。ただなぜかユダヤ人というのは優秀なのである。だからこそ神が旧約聖書では選ばれた神の民となっているのである。なぜユダヤ人が問題になるかというと最初に神が現れたのはユダヤ人の前のヘブル人にでありその人たちは神の直系であり聖書の系譜の中で神を伝える民族となっていたからである

形あるものを拝む偶像崇拝を禁止する宗教である。神を妬む神であり本当の神を示すためにヘブル人に現れたので。神が自らを示すためにヘブル人を選んだのである。そして神の民としたのである。イスラム教はもともとはアブラハムを祖するのだから兄弟の民族だったのである。アラブ人はアブラハムが子がなくて奴隷の娘に生ませた子孫だからである。だからユダヤ人とアラブ人は兄弟であり連帯すべきだという意見も出てくるのである。

●宗教が世俗の権力を持つことは最悪

ともかく宗教が関わると複雑になり本当にややこしくなる。そもそも政治でも宗教を持ち出すと複雑怪奇にもなってしまう。それを象徴しているのは創価なのである。それが宗教団体のように見えるが実際は政治団体であり完全に政教一致の団体だから問題になる。その目的は日本の権力を掌握して権力奪取して様々な権力を手中にして日本を支配することだからである。
それが宗教と一体化しているから複雑怪奇になってしまう。宗教団体の悪質さというか世俗的問題でも必ず宗教を持ち出して地獄に落ちるとかバチ当たるとか攻撃してくることで。それは奇妙だが創価の元となった日蓮宗の本山をやはり同じように地獄におちるとか攻撃しているからである。同じ宗教でも宗派が違うとそうして宗教を通じて呪いあってるのである。

四国で遍路をしていたのは職を失った人でありホームレスだった。それでかわいそうだと金をやろうとしたらお経を唱えるという、何かわからなかったが私はただの乞食ではない、お経を唱えることができる僧侶でもあり私は敬われるべきだともなる。
その人は食べることもできなくなったいたが食い詰めていた、そして四国だからお経を唱えることを覚えた。それでお経を唱えれば金になることを知ったのだと思う、その人に何か信心などゼロである。今日の食い扶持を得る為にお経を唱えるだけである。
そんな坊主が時代劇に出ていた。乞食なのだがお経を唱えればありがたいとして敬われるとまでなる
カルト教団の幹部もこれと似ているのだる。

要するに人間というのは確かに軍事力とか権力を思考するにも力だけではない何か力を必要とする。それが宗教的権威だとなる。だからこそヨーロッパではカトリックは絶大な力を持っていて王様でもカトリックの法王の許しがなければ王にもなれなかったのである。その権威を授けるのは宗教だとなっていた。だからカトリックの法王の前に王様でも跪くのである。
だからカルト宗教団体でもやはり同じように宗教の権威を借りて世俗世界を支配しようとするのである。それがカルト教団に共通している。その力のとなっているのは実は宗教ではなく世俗的な力なのである。

民主主義なら選挙ならすべて数で決まるからとにかく数を集めることである。その人がどういう人かどういう人とか罪を悔い改めるとかそんなことは一切言わない。何であれ一票になればいいだけなのである。それが力となるからそうなる。あとは金を集めることである。金が集まればそれでまた大衆を支配できるからである。そのために各地の新聞社で聖教新聞を刷らせて批判をさせないようにしているのである。田中首相は金と数だと言ったときまさにそれが現代の権力だからそうなったのである。

つまりイスラム教のように右手にコーラン左手に剣を持っている。まさに実際は剣の力で人々を従わせることが象徴しているのである。だから宗教はそうして権力を持った時何か別のものになって歪められるのである。その聖なるものが世俗のために利用される。だからこそ宗教すらサタンによって利用されるのである悪用されるのである。カルト宗教団体の人たちはそうしてサタンによって奴隷の霊を与えられ支配されるのである。

そして常に何か悪いことがあるとそれがバツだとか地獄に堕ちるだとかいって喜んでいるのである。でも何百万人も会員がいればそこにどれだけ不幸になった人がいるかその人たちが罰が当たったとか地獄に落ちたとか言っていたらキリがないのである。
でも会員以外が不幸に陥るとそう言って喜んでいるのである。だからそもそもカルト宗教団体というのは世俗の権力をもつことでサタンに乗っ取られた団体だということにもなる。それでカトリックに対して免罪符などを出して金儲けしていたからそれに反対してプロテスタントは生まれたのである

●宗教はいかなることでも人を殺すなを説く

日本の太平洋戦争でも天皇は現人神となり日本兵は死んだら靖国に祀られ神となるとして300万人も死んだとなる。それで天皇は人間宣言したとき三島由紀夫怒ってなぜ人間宣言したのかということで自ら自刀して果てたのである。天皇を神として死んでいった日本人に対して申し訳ないということでそうなったのである。だから何か戦争でも必ずただ武力で戦うというのではなくそこに宗教が絡んでくると複雑怪奇なものになってしまうのである。

そもそもキリスト教であれ仏教であれその根幹は人は人を殺すなと言っている。だからそもそもは戦争は否定されるのである。なぜなら戦争とは最大の人殺しが公認された人殺しになっているからである。それは何であれ否定されるべきものだからである。いくら天皇は神だとしてもても人を殺していいとはならないからである。

それよりキリストは汝の敵を愛せよと言って十字架に着いたからである。だから旧約聖書はへブル人に歯向かう民族は虐殺されたがキリストが出て以来はヘブル人の後のユダヤ人のように民族宗教ではなくなったのである
いずれにしろ殺人は宗教ではもう本来は正当化されない。旧約で肯定されてもキリストが出て以来はそういういうかなる殺人も否定されたからである。そういう観点から見ると果たして今イスラエルが行っているアラブ人のパレスチナ人の虐殺は許されるのかとなるとただ今回はやはり千人もハマスによって虐殺されたのだからハマスも同罪だとなる

ともかく宗教と世俗の権力が一体化することは最悪なものではないか。右手にコーラン左手に剣を持ち件でもって宗教でも強制し社会を支配する。一方でまたコーランを強制的に教えるということにもなる。ただコーランだけをもって教える聖書だけをもって教えるなら別にいいとなる。でもカルト教団は実際は剣でも持って強制しようとしているのである。その剣とは権力のことなのである権力をもち権力でもって宗教も強制し人民を支配しようとしているのである


宗教を隠れ蓑として世俗的権力を得ようとする。何かそこで宗教看板にすると批判しにくくなる。なぜなら宗教は絶対的なものでありそれに逆らうことは許されないからである。それは人々人民を支配するのに好都合なのである。だから政教分離の法律ができたのだがそれがなぜ実行されていないのか理解できないのである。個々人に信教の自由がある。でもそれが団体化して巨大化するとき世俗の権力を利用して人民を支配するようになるのである。だから政教分離の法律ができたのでありそれを守らせるべきだとなる。








posted by 天華 at 16:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年12月30日

人間が変わるのは技術の進歩や環境の変化で変わる 【グローバル経済は誰も知りえないから陰謀論になる】


人間が変わるのは技術の進歩や環境の変化で変わる

【グローバル経済は誰も知りえないから陰謀論になる】

●時代と環境の変化せ人間も変わった―農業社会は共通の認識で共同していた

人間が変わったというとき人間社会が変わったということにもなる。人間は本質的に変わらない。でも縄文時代から弥生時代からとか時代を遡れば江戸時代でもその中で生きた人間は今の人間とは違っていたところがある。つまり時代によって時代の変化や環境の変化によって人間が変わるということである。だからよく江戸時代の人間は今の人間と違って情があり人々は助け合い生きていたとか美化される。

結局過去になると歴史になるとその時代に生きる感覚がリアルに再現できない。なぜなら人間は自分の経験したことしたことからしかイメージできないからである。だから戦後生まれの団塊の世代とかは戦争が終わってから生まれたのだから戦争をリアルに理解できない。ただ親から戦争のことを聞く。現実に戦争に参加した人もいてその話を直接聞いているから違っている。今になると孫の世代んあると何か話を聞いていてもそれがリアルなものとして伝えられなくなる。

卑近な例として農民が80%がいたとか戦後でも農民が60%かとかいった時代は今とは相当に違っている。今は農民は田舎でも1割くらいしかいない。だから田舎に住んでいるからだと言って農業のことを知らない人が普通にいるのである。
確かに周りは田畑があるから都会とは違っている。でも現実は農業している人は少数派であり農業社会ではないからやはり都会化しているともなる。何か戦後の子供時代を見ると今とは全然違っていたと思う。働いている人を見れば何をしているかわかった。それは狭い地域での自給自足的生活である。例えばカゴヤとかあれば竹で編んで竹のかごを作っていた。何かそうして手作りで日用品を作り売っていたとなる。近くに漆塗りをしていたとか豆腐屋がいて豆腐を作っていたとか何か近くで自営業して作って売っていた。

●自給自足的生活が基本だった時代

その時外国から入ってくるものをわずかだったろう。バナナを売って秋市にバナナの叩き売りとかあった。また私の家族が病人になってわざわざ仙台まで行ってバナナを買ってきたという。バナナなどいまいくらでもある。その頃はバナナすら外国から入ってこなかったのである。また卵すら満足に食べられないし食べていない。その時豊かだったのがかえって農家だったのである。農家というのはそもそも自給自足体制であり買うという生活はあまりなかった。だからカヤの実から油まで取っていたとか納豆も作っていたとか自給自足的生活をしていたのである。もちろん水道など無いから井戸水を使っていたのである。

私は戦後私の家では戦後店を始めたがその店屋にしてもただ商品を並べているだけでありそれでも近くに店屋もないから売れたのであ。それで卵とか野菜は近くの農家から買っていたのである。私は卵を買いに自転車で行かされた農家に行かされた。糠に卵を入れて自転車で運ぶのだがそれが必ず一個ぐらいは壊れるのである。その理由が道がまだ舗装されていなかったのである。だから道が悪いからどうしても自転車では割れてしまう。そして橋でも木の橋であるそれが揺れたりして怖いものだったのである。
その頃車はほとんど使われていない。だから卵自体が贅沢なものだったのである。それで卵焼きが食べられることが贅沢な暮らしとなったことを象徴している。
巨人・大鵬・卵焼きが流行語になったのはやはり卵焼きというがみんな普通に食べられることになったことが食の変化だったからである。

とにかく時代が変わる社会環境が変わればまた人間も変わってしまう。その時代が変わる社会環境が変わるというとき様々な技術の変化もあるがやはり交通の発達も大きな影響があった。
なぜなら食料というのはそもそも戦前から戦後10年くらいまでやはりそれぞれの地域で自給自足的な生活をしていた。それは車もないし運ぶというのが鉄道になるしするとどうしても狭い身近なところで食料供給する。だから近くの梨農家の人は相馬市まで15キロくらいあるのにリアカーで売りに行ったという。つまりリヤカーで運んだらどれだけ苦労だったかとなるからである。

つまり交通が発達しなければそれだけ運ぶということが容易なことでわなかったのである。結果として身近にあるもの取れるもので生活するほかなかったのである。だからその頃人々の関心はやはり狭い地域の中にあったともなる。その住んでいる地域で食べ物でもまかなっていたら常にその米とか野菜の取れることに関心をもっていた。それは遠くから運ばれないからそうなっていたので。すると常に近くで食料は得られるかどうかが問題になるから農家のことで今以上今より相当に身近なものであり関心をもっていた

●失われた共同意識ー日ごろから共同しないものは共同できない

今年の米の収穫はどうだろうかとかそれは農家だけの問題ではないそこに住んでいる人たちがその米を食べるのだから他から入ってこないとしたらその米が豊かに実るようにやはり農民と同じように祈っていたと思う。でも今や経済が広域化してグローバル化してくると食べ物でも外国からでも入ってくる。するとそこに住んでいる農家が作る米でも野菜でも果物でも特別関心を持って見ていないとなる。

なぜなら別に日本中から野菜でも果物でも米もさらに外国からでも食料が入ってくるとなる。そこで必要なのはそれらを買うための金となってしまうのである。だから地域でも昔のように地域でとれる食料に関しても関心がなくなる。問題は金が大事だとなる。なぜなら金で世界中からでも日本中からでも食料が入ってくるからそれを買うことが必要になってくるからである。別に地元でそうした食料がとれなくても金があれば世界外国からも入ってくるから金で買えばいいとなってしまうので

おそらく戦前とか江戸時代とかなれば農民が80%なのか多いのだからそして交通も発達してないから狭い地域で暮らしていたからみんな社に集まって豊作を祈っていたともなる。そこで共同意識が生まれていた。それが今になるとそうした共同意識は生まれにくい。なぜなら食糧でも外部からいくらでも入ってくる時金さえあれ買えばいいとなってしまうからである。それは人間の心に影響して人間を変えてしまったともなる。

だから孤独死が増えるというときそれは人間の共同体とか共同意識とか失われただ金だけが全てとなった社会がそうさせたと思う。共同しろと言っても日頃から共にに共同していなければいくら強制しても簡単にできるものではない。農村共同体だったらやはり日頃から密接な繋がりがあり共同していたからおこそ共同できるのである。
だから人間関係というのはそもそも物を流通するような関係とは違うからものはいくら外国から入ってきても必ずしもその外国人と共同するというわけでもないのである。だから外交関係でもうまくいかなくなるとものも入ってこなくなるのである

つまり現代というのは何かグローバル化でも物はいくらでも入ってくるわそれで共同しているというわけでもない。一旦何かあるとそうした物でも入ってこなくなる
だから常に貿易戦争というのは起きてくる。なぜ日本の明治以降とか世界大戦が2回もあり莫大な人間が1000万以上とか戦争で死んだのかとなそれはグローバル化しても人間は共同するわけでないからであるだからロシアでも肥料とか麦でも買っていたとしても日本売らないとなってしまう。それは石油とかガスでも同じである。

外交関係でうまくいかなければ必ず貿易は止められるもし共同することがありあったならそういうことはないはずなのである。だからアメリカで日本車が叩かれて潰されたりしていた。アメリカでわ自国の車が売れないとなれば公平な貿易というよりは自国優先になるのは普通だからそうなってしまう。つまり政治と経済を分離できないのである。政治的に分断されれば経済的にも分断されてしまうのである。

●グローバル経済は共同意識を作らない

公益化社会グローバル化社会というのは返って人間の共同意識が消失してしまう。貿易が悪いというのではなくやはり何かそこに制限するものは必要だったともなる。あらゆるものはグローバル化に自由に経済というのは人間社会というのは成り立つのかという問題が生まれた。それが道徳なき経済ともなったのである。それは機械化によっても起きた機械が便利でもその機械に頼りすぎると何か人間的なものは失われてゆく。それは2000年前に老子が指摘していたことである。

つまり結果的には人間が機械の奴隷にまでなってしまうということである。そういう危険性が機械もあり今話題になっているAIとかチャットgptとかにもある。それはいい面もあるのだが必ず悪い面としても作用するのであるそれは車でもそうである。車というのも一地域に縛り付けられた生活から解放されたという感覚になる。
車に乗ればたちまち遠くに行ける。すると近くより遠くが生活の場になってしまうのでそうすれば当然近く大事なものではなく近隣の関係も希薄化してで助け合うということなどもなくなったのである。それも必ず道具とか機械はいい面と悪い面に働くのである。

人間というのは何か物を買っている生活しているのと実際に野菜でも米でも果物でもそれを育てて直に食べているのとは相当違っている何故ならその時米でも野菜でも果物でも必ずその土地の気候とかその土地の豊かさとか何か必ずその土地と関係して食料は作られてくるからである
それで特産物というのはその土地の気候とその土地が持っている豊かさとかと関係しているそうした土の栄養分とかそういうものは簡単に作れないからである。だからその土地に精通して気候にも精通して食料は作られるとなる。

でもただそうした食糧でもお金を出して買うだけならそんなことを感じないのでただ金さえあればいいというだけであるだから食料を作り売る人とただ買う人とかのその差も相当に大きいということである。
だから文化というときカルチャーとはcultivate耕すということになっていることでもわかる。その土地土地の風土から耕して作られたものだからである。それが広域社会化してグローバル化するとそれはただ買うというだけでありそこに独自の文化は生まれないのである。だからもともとは物と心は一体であり心を離れてものもなかったのであるそれが物と心が分離してただ金で買えばいいというだけになってしまったのである

●人間で大事なのは実感

馬酔木なす栄えし君が掘りし井の石井の水は飲めど飽かぬかも

何か人間は実感が大事である。何でも実感がないと訴えないのである。戦争でもテレビで見ていてもなかなか実感をもてないのである。それで私が近くの井戸の水をもらって自らペットボトルに汲んだ時飲んだ時ここの下に飲める水があるのだということを実感してした。それは感動的なものだったのである。ただ蛇口をひねって水道の水を飲んでいるのとも違っていた。この土地の下に水が蓄えられていてそれを飲めるということである。その水は絶えることなくあると流れてあるということでもあった。それはなんとも豊かなものを感じたのである

確かなことはあまりにも経済の規模が拡大化して巨大化したことでもはやそれは人間が操作などできない。だから金融資本主義になり金を左から右から左へと流して巨万の金を得ている人がいる。それはグローバル経済でなればとてつもなく巨大なものである。それをもはや知ることもできないのである。ということは必ず誰かが裏で操作しているとか陰謀論になるのである。それはあまりにもその規模が大きいから誰もその知ることができないからである。もし地域経済とか小規模なら別に経済学者でなくても手に取るようにわかっていたからである。

だからと言って江戸時代に戻れとかというのでもない。何かやはり経済優先であり人間の心というもの置き去りにした結果そうなった。だからどうしても株で儲けるとか銀行でも金融に携わる人は胡散臭いとなってしまうのである。
でも野菜を作り米を作り果物を作りとか食料を作っている人は密接に自然と繋がりそうした職業とはまるで違ったものとなっている。だから銀行員をやめて農業を始めた人もいた。それはなぜかというと何か生きる実感というものを持てないからそうなってしまったのである。ただ金を右から左に流しているだけで何かを育て実らせるという生の充実感が得られないためにそうなったのである。

ともかく経済にしても来年はどうなるとか株がどうなるとかいろいろ円安がどうなるとかそれもわからない、いくらいろいろ本を読んでもわからないのである。ただ貯金しても利子はつかないし何のために銀行に金を預けているのかもわからない。だから金利を上げるというのは老人がかなりの金融資産を持っているからそれで使うから景気良くなると言うのも分かる。
とにかく利子もつかない物価は上がる将来どうになるのどうなるのかもわからない。そして常に預金封鎖がどうだとかそんな話ばかりになったらいくら金があったって老人でも金が使えないのである。もし高度成長時代のように利子が5%でもついたらそれはすごいことになる。老人は金を使わないと言うがやはりそれだけ金の余裕ができれば金を使うのである

いずれにしろ経済にしても将来のことはわからない。楽観論があり悲観論がありそれもわからない。人間が理解できるのはやはり狭い範囲でしかない。グローバル経済とか巨大になればそこで操作しているのは天文学的数字でありそんなものを知り得ることは不可能なのである

経済という時でもやはり身近に狭いところだと手に取るようにわかる。でもあまりにもグローバル経済とか巨大になればそれが現実なのか架空なのかすらわからなくなってくる。
だからそれは巨大なグローバル経済とはある一部の者が操作して儲けている詐欺だという人もいる。それはあまりにも巨大なために常に陰謀論になってしまうのである。だから人間というのはやはりある程度手にとりわかるような世界でないともはや世界認識でも必ず偏ったり誤ったものになるのは当然である







posted by 天華 at 21:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年12月29日

なぜ日本の地理は理解しにくいのか 【山が多くて視界がさえぎられる-福島県の地理】


なぜ日本の地理は理解しにくいのか

【山が多くて視界がさえぎられる-福島県の地理】

●浜通りは阿武隈山脈に遮られ福島市の方が見えない

なぜ日本の地理が理解しにくいのか。狭い国なのに日本は山が多くて必ずそのために視界が遮られる。福島県は浜通りと中通りと会津から構成されている。でも浜通りになると海に面していて阿武隈山脈が高原が視界を遮る。中通りの方は見えないのである。この影響は本当に大きい。つまり阿武隈山脈というのはそれを取り除くこともできないからである。だから地理の影響というのは確かに社会が変わり技術的にも便利になりトンネルが掘られて車で行き来することも容易になった

でもなぜ依然として何か中通りとか福島市の方になると別な世界になる。そして浜通りから飯館の山の方に行き佐須峠を越えると吾妻山が見える。その時中通りの方実感として感じる。つまり安達太良山から吾妻嶺が連峰として続いているからである。浜通りで不思議なのは蔵王が意外とはっきりと見えるのである。

それは浜道りでも南相馬市でも鹿島区までは見える。だから地理的に見ると蔵王が見えるのだから山形県が近いのかとまでなってしまう。でも実際は山形県は仙台から仙山線で行き別の世界なのである。ただ蔵王が見えるということで近いのかとまで見てしまう。だから人間っていうのはその視界に入るもの見えるものから判断している。見えなければそれは存在しないともなるからである。いつも見ていればその影響は大きい。そもそも見えなければそもそも存在しないと同じになってしまう。だから見えるということが大事なのである。

●会津が別世界の山国である

福島県にしてもハマナカアイズとありそれを分断されている。特に会津となると山国でありまたわかりにくくなるのである。なぜ山国となるとわかりにくいのか。それは山また山で平地がなくそれで地理が分かりにくくなる。だから栃木県とか群馬県は山また山でありそこもわかりにくいのであ。一方で茨城県とかなると広い平地があるからなんとなく分かりやすい。とても地理的には魅力が少ないのである。福島県だけをとっても海があり山があり川があり猪苗代湖がありと変化に富んでいるのである。だから地理的には福島県は魅力がある。

日本の地理がわかりにくいのは必ず山で遮られているからその向こうが見えないことなのである。だからこそ峠という言葉は国字ぬなっている。それが日本の地理の特徴なのである。必ず峠を越えなければ隣の村にも行けないというのが日本の地理だからである。すると日本という国は山に遮られ隣の村に行くだけでも難儀するからそれぞれせまい地域で自給自足のような生活をしていた。それで小国という地名が多いのである。その小国という国で自給自足して暮らす他なかったからだともなる。

そして日本の平地は原初の状態は湿地帯になっていた。例えば奈良盆地でもそこは湖だったとか言われ海に通じていた。盆地になっているところはもともと海だったところも多い、湖だったところも多い。福島市もそうだったらしい。そこは広い平地があるからそこが湖になっていた。それがやがて平地となりそこに田畑を作り人々が集中して住むようになったのである。日本の特徴はまた湿地帯が多いということである。海に面しているところも釧路湿原のように湿地帯だったのである。だからもともとそこには人が住んでいなかったのである。なぜ下駄が作られるようになったかというとそうしたぬかるみとか湿地帯を歩くやめに田下駄というものも作られたのである。

ともかく日本の地理は山が多くてわかりにくい。その視界が必ず山に遮られ見えなくなるからである。だから会津とか栃木県とか群馬県とかは本当に分かりにくい。それはどこでも日本の場合共通している。ただ茨城県になると広い平野があるからわかりやすいとはなるが地理的には魅力がないともなる。確かに観光的には魅力がないからあまり人も来ないともなる。

●日本の平地は湿地帯だった

日本というのは海彦山彦の物語のように海の幸山の幸が豊富であり海とい山の国でありでも平地が少ない国だとなる。そして山に遮らえて人々の交流盛んにならない。山に閉ざされて外に出て行くにしても山を越えなければならないしその山を越えた向こうは見えないのだから意識しにくいのである。物を運ぶにしても山に遮られて峠を越えなければならないからなかなか人の行き来が自由にならないのである。塩の道があるとして山の険しい道を馬や牛で運ぶのだからそれも難儀なのである。つまり交通でも山に遮られて交わりができないということである。

その影響は相当に大きい。確かに大陸になると広すぎる。とても山に遮られることなく平原砂漠は返って交通には便利なのである。だからこそシルクロードが生まれたとなる。そこであ山を越えるということはない。確かにその道は距離的には遠大であるが山がないので交通には便利だとなるのである。また大陸の川は運河のようになって交通が発達したともなる。日本の川は外国人が滝だといったように急流になるからなかなか交通には利用しにくかった。同じ川でも相当に違ていたのである。

日本の地理の特徴はこのように山が多くてまた海に囲まれているのだから一つの孤立した世界にもなっている。だからこそ鎖国ということもできたのである。海を障壁として他国との交わりを断つこともできたのである。また山と山に閉ざされてそれぞれが地球的な生活を強いられた。そこでどうしても外と交わらない内向きの閉鎖的な世界を世界に生きた。
技術的にも日本がトンネルの技術が発達したというのは当然だとなる。それだけ山が多いのだからどうしてもトンネルを作る必要があったからである。だからトンネルを抜けるとやま雪国だったとかトンネルを抜けるとまた別の世界が開けたともなるのである。自転車の旅でトンネルは一番怖いのである。闇の中に閉ざされなかなか出ることができない。だからそのトンネルを抜けるとき開放感がある。それは峠を越えるときも同じである。車がない時代に歩いて峠を越えるということがどれだけ大変だったかかそれが今だとわかりにくい。つまり峠を越えるということはそれだけ苦労であり物を運ぶにして苦労になったのである。

●日本にはヨーロッパの都市国家が生まれなかった理由

とにかく日本はいかに山が多い多いか。砂漠とか平原の国に国と比較すれば多い。地平線まで平地になっているのは日本ではほとんどないからである。わずかに北海道にそういう広い平原のようなところがあるというだけである。あとは山また山なのである。だからこそまた大和ともなったのである。また日本にもともと山城が多いのも山が山そのものが敵の侵入を防ぐ自然の要塞となっていたからこそそうなった。平城になるのはその後でありもともとは山城であった。それも日本の特徴なのである。

なぜ日本でヨーロッパのような小都市国家が生まれなかったかというとやはり地理的な条件がありできなかった。なぜなら平地が少なく山が多いのだから人間の営みとしてやはり平地がないと人間も集中してそこで都市が形成されないので。やはり年は平地に形成されやすいからである。そして大陸の川はは運河のようになっていてそこで人間でも外部からの人を受け入れることになったのである。それもやはり地理的影響でそうなったともなる全てがそうでないにしろ人間を作るのはやはり地の利なのである

日本は統一国家を日本日本を作り行ったのはそれは海の影響が大きかった。その神話も極めて海洋民族の影響は大きいのである。だから海人族の安曇族がどれだけ日本に影響したかそれが見逃されているのである。そのことで南相馬市とか相馬市に綿津見神社が多い。綿津見神社と山津見神社が多いのかを考察したそれは海人族の安曇族はこの地を開拓したからだともなる。地名でも八木沢峠があるとしてそれは安曇族の同族の八木氏のものであり他にも松川浦には山津見神社があり和田があり和田は綿津見である。
そこから宇多川に沿って玉野村にまで行きそこに八木原とありまだ霊山を越えると犬飼【犬養】というバス停がある。安曇一族なのである。だから安曇一族が山深くまで入って焼き畑などをして他にも技術を伝えたのである。

ただ最初は浜通りでも山の方の影響が大きかった。なぜなら国造【くにのみやっこ】が置かれたのは栃木県や群馬県の毛野国の系統だったからである。。山の方の影響が最初にあり次に海から進出した安曇氏がこの地を開拓したのである。そして気候的には照葉樹林文化照葉樹林の影響がある地帯でありマルハシャリンバイが自生するのは南相馬市鹿島区の海老村であった。そこはちょうど気候の限界でもあったのである。またスダジイ神社などがあるのもそれは南国的なものでありここは限気候の分かれ目の限界の地点だったのでは。だからこそ万葉集の真野の草原というのはその気候の限界点でもあり大和王権のの進出した境界だったのである。

●山が多くて地理がわかりにくい日本

とにかく日本の地理は山が多くて分かりにくい。だから会津でも会津平野があり会津盆地がありそこは分かりやすい。でも一旦山また山に入って行ったら地理は分からなくなったのである。自転車で山また山を越えるのは難儀である。どの辺に来たのかも分からなくなった。山があるために視界がさえぎられる。地理が分かりにくいのである。それは飯館村に行った時でもそうだった東西の感覚がわからなくなったのである。

それで日が沈む方は西と意識していたがでも方角がわからなくなったのでそれは周りが山のだから海に面しているのと違う。海に面していれば海が見えれば東だとわかるからである。山の場合は周りが山のだなだからどこが東か西かわからなくなったので

山科の木幡の山は馬あれど歩(かち)ゆ吾が越し汝(な)を思いかね 柿本人麿集

山を越えるのに馬でも行けるが歩いてその恋する人を想いかねてとかの意味だがやはりその当時でも馬は便利である。でも歩いてい行ってこそ何かそこに人間的なものが生まれる。今なら別に車で行けばいいのだがまた自転車で行くのと歩いてゆくのと違った感覚になるからである。この場合は馬でも行けたか歩いてゆくとなったのかもしれない。でもまた馬に乗って行くという感覚も今ではなかなかわからない。それは自ら馬に乗ってみなければ実感できないからである。身近に馬というものも居ないからそうなる。

この辺では野馬追があるから馬を飼っている人も多いがただ馬に乗るということは今やなかなかできないのである。地理でも歩いて行くのと自転車でゆくのと車で行くのでは全然違った感覚になるのである。車だと峠も何もないその峠を越える苦労もないからすると歴史がわからないことになる。自転車ですらそうである。でも車もない電動自転車でない時峠になれば必ず歩くのである。私は坂は自転車でも歩いていたからである。だからやっと峠を越えたということになりそれが喜びともなっていたのである

山閉ざしかなたは見えぬ年の暮








2023年12月28日

人間の歴史は権力闘争であった 【三権分立の由来―政権交代がない権力は腐敗する】


人間の歴史は権力闘争であった
【三権分立の由来―政権交代がない権力は腐敗する】

●人間の争いの原因

人間社会で歴史を振り返れば何が一番問題かというとなぜ人間は争うのかということである。その争いの原因が何なのかということである。トロイ戦争は女性を巡っての争いだったという。女性の奪い合いによる争いで大規模な戦争に発展した。別に女性を巡っての争いは生物なら雌の奪い合いで常に争っているから別に不思議な不思議なことではない。人間も生物の1種なのだから当然そういうことはある。また生物なら必ず縄張り争いがそれも人間にもある

人間の争いで一番熾烈になるのは土地による争いではないか。それは個々人にもありどうしてもありまた村とかの共同体でもある。そもそも戦国時代が始まったのは村の入会権がありそれに大名は加勢したために起きたとも言われる。つまり土地を巡る争いである。この辺では森林に覆われていて木材資源が豊富だから米沢藩伊達藩相馬藩で熾烈な争いがあった。

それは木材というのは炭とかいろいろなものに建築資材でも使われたからそうなったのである。だから資源をめぐる争いというのも苛烈になり争いになる戦争にもなる。グローバル化したとき石油はエネルギー源になるから石油をめぐり争いがあり戦争にもなる。だから中東が世界の火薬庫と言われるようになったのである。日本などにも日本なども中東の石油に9割も頼っているとしたら中東で何かあると石油は入らなくなったら致命的になってしまうのである。

●土地の争い奪い合いが戦争の原因

人間にはさまざまな争いがあり衝突がある。その最たるものはやはり土地でありエネルギー源となるものになる。だから農耕社会になったとき農業というのは土地がなければできないのだからどうしても土地を巡る争いとなる。戦国時代もまた農業社会だからこそ領土を広げるために土地を得るために苛烈な争いとなった。土地の争いというのはかなり根深いものがありそれで争うことになる。なかなか解決しにくい私の家の土地もだまされて奪われた。それもわずかなのだが恨みとして残ったのである。尖閣諸島でも北方領土でももともと日本の領土だったのに戦争に負けて奪われた。だからどうしても奪い返したいとなるのである。
今のガザとイスラエルの争いも土地争いでありウクライナとロシアの戦争もそうである。

人間の歴史では争いが戦争がない時代はなかった。大陸ではどうしても陸続きだから例えば金があれば食料を求めて隣の国へでも移動すること自体戦争にもなるのである。だからこそ遊牧民のモンゴルなどが農業者社会の中国に食料を求めて攻めてくるから万里の長城は作られたのである。
これだけ常に陸続きの国ではいつ他国は攻めてくるかもわからないのである。それは現代にも続いていた。それがウクライナとロシアの戦争なのである。だから陸続きの国では常に国境をめぐって争いがあり今現在でも継続していたのである。日本は鎖国で300年間外国との関係を最小限にとどめることができたのは日本は海に囲まれて特殊な別世界になっていたからである。でも大陸ではそういうことは不可能なのである。
これが人間の歴史で戦争がなくなくなくならない原因でもある。

政治というのはそもそもなぜうまく納められないのか。その最大の問題が人間が権力を持つその権力をどう操作してまた制限するかということが難しいからである。だから人間の歴史は世界的に権力闘争の歴史だったと思う。そして結局力で持って力が強いものが武力に秀いでたものは戦争に勝ち治めるようになった。だから人間の政治は武力で軍事力で決着していたと思うな。でもそれでは悲惨だということで政治の権力の持つとしてもそれを決めるのは投票によって決めるということになった。でもそこでも決して公平なものとはならない。そのために票を集めるために自民党が裏金を作りその裏金で地方地方の議員に気を配ったりして票を集める。

でも政治資金として税金で政治活動をするようにさせたのだがそれでも足りなくて裏金作りをしてそれが検察に特捜に調べられるようになった。つまり三権分立になったのである。そこで検察と議会が取り調べられたのである。。それは三権分立だからそうなったのである。

でも権力の怖さはその背後に警察が軍隊が相手それが実行力をもつから人はそれを恐れる。また検察の問題は力を背景にしてやりすぎることだということでもある。警察は常に権力を持つ実行力をもつから何も力もない庶民に対して上から目線で傲慢になってしまうのである。つまり人間にとって最大の問題はこの権力をどう使いこなし制御するかということなのである

●宗教も権力を持ち腐敗した―カルト教団は権力に執着する

だからローマだったらただ軍事力だけではない能力だけではない法で持って納めるとローマ法が作られたとなる
つまり法治国家にしたということである。すでにそこに三権分立の発展するものがあったともなる。でもまた権力というとき宗教もヨーロッパでカトリックが政治権力化して民衆を支配することになりそのために政教分離の法律が生まれたのである。つまり宗教権力を持つとき非常に社会を歪める弱めるものとなったからである。

それは日本でもカルト宗教団体が現実に創価学会などが政教一致であり絶えず考えていることは日本の権力を手中にして掌握して支配することしか考えてない。だからこそ毎日が一票を得るための戦いでありそれが仏法の戦いにまでなっているのである。なぜそんなことが民主主義社会で許されているのかも解せないのである。何か怪文書が出て裏金作りの原因が公明党にもあったとか噂になっている。まだ宝塚のいじめ問題で自殺したことでも民音などが宝塚に関係して何か関係があったとかしている。

創価というのはいかにして日本の権力を得るかということしか考えていない。そのためには手段も選ばない。そして大衆洗脳して落ち目になった新聞社に聖教新聞をそらせて批判させないようにする。自民党に関しては会員の票を与えて権力の一部となり国土交通大臣にもなりそこで権力を振るう立場になる。そもそもは日本の権力を手中にして権力を振るうことを最大の目的にしているからである。そのために宗教はただ手段なのである。それはカトリックが政治権力を持ち一体となり堕落したのとであると同じである

ただあからさまに権力奪取とかを公言して毎日拝んでいることにと疑問持たない。それはナチスとも似ていたのである。なぜなら私が接した学会つ子かとはヒットラーユーゲントであり毛沢東の紅衛兵と同じだったのである。なぜそうなったかとなれば家のものは議員となったことで権力を持ち金にもなり大学にも入れたとこ言っていたからである。何かこうして一番分かりやすいのは創価の議員とか幹部がなった人は権力を持ち金を持ちそれがでますます励むことになる。でも結局統一教会でもそうだったように会員は金を巻き上げられて幹部とかがその金が使れるというだけなのである。

●三権分立が生まれた由来

とにかくなぜ人間の問題としてこの権力のどう操作するかということが最大の問題なのである。そのために三権分立が出来たのである。ただこれも機能させることは相当に難しい。逆に検察の力が強くなると警察の力でも強くなるとそれも大きな問題になる。そこで前に検察でも特捜でもやりすぎたということで反省しているという。つまり何であれ権力を持つということはそれだけ傲慢になり怖いことなのである。人間はどうしたら収められるのか誰が上に立ち収めることができるのか。それが最大の人間の問題なのである。

例えば共産主義国家があるとするとその最大権力者は中国だったら習近平になりロシアだったらプーチンになりほかの国でも一人の方が独裁者となり権力を持ち支配する。そこで反対者は批判するもの反対するものは牢獄に入れられる。するとそうして殺されたりした人はその家族でもまたその周りの支持者でも今度はその支配者達を武力でも戦いその権力を奪おうとする。それが今ミャンマーで現実に民衆は軍事政権に反対して抵抗して武力で戦っているからである。

つまりそこでは民主主義のように選挙で決めることもできないからそうなっている。そうした独裁制は一人の人間に権力が集中することで必ずそれに反対する人たちもいてその反対する人たちを警察力で軍事力で武力で押さえつけるからさらにそのために国の中が分裂して武力で決着するようにもなってしまう。ただそれが今までの人間の歴史だったのである。だから民主主義というのは別に戦争して殺し合いして権力を持つものでもないからそれよりはましだとなる。

政治は必ず絶対的権力は必ず腐敗するというようにそこで利権が集中してその利権を守るために政権が長くなると必ず腐敗してしまう。公明党も自民党と一体となってその権力を持ちその甘い汁の分配をえる。そもそも創価とはその目的が権力を得て日本を支配してその権力を持って会員に御利益を配分することが目的なのである。ただ祈って御利益があるというだけではない現実的に政治的権力を持ちその御利益を会員には配分することが目的だからである。だから執拗ににあらゆるところに権力を得るために画策して行動しているのである。芸能界であれどこであれ支配するために画策する

●原発事故も国家権力がかかわり安全神話が作られた

だから民主主義というのピカーととはラジオから生まれたとか言っていた。そのラジオはテレビでありマスコミになったのでマスコミと権力は一体化したのである。それは原発でもそうだったのである。原発というのは事故になって初めてそれが国家的事業であり東電だけのものでは東電だけでらしたものではない。
国家が関わり作られたものだからその規模は除染でも6兆円もかかったとかとてつもない国家予算がつぎこまれたのでそんなことイメージもできなかった。だから安全神話を作ったのはそうした国の権力であるそれに追随して東電がその指示に従ったとなる。また電事連というのも巨大な利権団体でありそこから800億円もマスコミに金が流れていたという。

だからこそ原発が爆発した時中国に招待されていたのが朝日新聞をはじめマスコミの幹部たちだったのである。つまりマスコミ莫大な宣伝費が流れていたのであその後原発というのは金の成る木であり相双リテックとかは幹部に何億という金を幹部が山分けして銀座で遊んでいたという。地元でも補償金でうるおい何か復興というとき保証金をもらうことが復興になったので。地元の人はみんなでなんとか町でも村でも復興するというより補償金をもらって町や村を出て別のところに家を建てて暮らすようになったのでそれはあまりにもその補償金の額でも大いなものだからそうなったのであるつまり金に狂ってしまったということである

私は私の住んでいるところは30キロから離れていて区切られたところだから保証金は一人16万だった。でも隣の原町区は一人50万だった。そして避難区域になったところ一人240万とか桁外れのお金をもらったのである。それはそこに住めなくなったということで仕方がない面はあったでもあまりにもその額が大きいからその金を浪費した人も相当いたのである。だから今や復興とはなのかも分からなくなってしまったのである。補償金をもらってそれぞれの家族が別々に復興すればいいでどこに住んでもいいから復興すればいいというだけにもなったのである。だから必ずしも保証金がすべていいようには働かなかったのである
いずれにしろ政治の問題も金である原発事故でも結局補償金の問題であり金の問題となってしまったのだがそれで解決するわけでもなかったのである。なんでも金が金で解決するわけでもなかったのである。

また結局カルト宗教も求めているのは金である。金は御利益のことだからである。そうして日本全体がただ全ての人が今や金を求めているだけだとだなる。お前もそうじゃないかと言えばそういうことを否定することはできない。ただ原発の保証金でも一人追加賠償でも一人16万だからそれは多いとは言えないしそれで原発乞食だとか批判される金ではないと思う。そのために私は内部からも批判しているのである。
でも隣の原町区のように一人人50万もらうとなかなか批判はできなくなっていたと思う。だからマスコミなど電事連から800億円もの宣伝費を貰っているのだから当然批判などしなかったのである。

●政権交代できない日本に民主主義はない

政治とは権力と一体なのだからどうしても金がつきまとっている。でも政治資金法改正で税金で政治活動をまかなうようにさせたのだから法律違反になったのである。でもそれが取り締まることができなかったのは安倍首相が権力を持って検察を抑えていたからだと思う。だから権力というものがどのよう操作することが本当に至難なのである。だからこそ最終的に話し合いとかではなく武力で決着をつけてていたのであそれが人間の歴史だったのである。
いずれにしろ権力を絶対的に腐敗するというとき自民党はそうなっている。公明党も一体であり腐敗しているのである。だから民主主義の基本は必ず政権交代がないと機能しないことになる。権力で持った思ったものはその旨味を知っているから権力を手放したくないからである。

だからこそ選挙がありそこで政権交代がないと民主主義は機能しないのである。でも自民党に代わって政権交代できる野党は日本にはいないということが民主主義が機能してないことになるのである。それはなぜなのかというと日本自体が主権国家ではなく政治でもアメリカが関わりアメリカのお伺いを立てて政治も行う。そのために日本では政権交代も一回あったくらいでないことによってどうしても権力が腐敗するのである。

ただそもそも人間社会を理想国家など生まれないし作れない。それで緑子に治めさせろと聖書に書いてある時それは緑子なら何の欲もないからそう言ったのである。また老子なら治めずして治める言ったのは必ず上に立ち治める人は権力をふるいそれで苦しめられる人がいるからである。
中国の王様を見ればわかる。始皇帝のように地下まで宮殿を造り酒池肉林となり莫大な富を民衆から収奪して作られた。そんなものに莫大な富が労力が費やされたのである。そのために人民はいかに苦しんだかということである。それは共産主義国家になってもやはり変わらないのである。つまり権力というのは人間に操作できない。人間は公平になりえな。それでシオンで公平な裁きが行われというときそれはこの世では行われないということなのである

とにかくカルト教団の教祖の大川隆法も死に池田大作も死んだ
これも一つに時代の終わりを象徴している。そして自民党もいまや自壊してゆくのか公明党も腐敗しているから共倒れになるのか、日本はあらゆる分野で刷新しなけばじり貧になるだけだとなる、だから来年は刷新の年となる
posted by 天華 at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年12月27日

なぜ人生が誤算で終わるのか 【今年も終わるが未来は予想できない―時間がなくなることが最大の誤算】


なぜ人生が誤算で終わるのか

【今年も終わるが未来は予想できない―時間がなくなることが最大の誤算】

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30才以降急速に時間が消失してゆく

●金は計算できても時間は計算できない

そもそも人生が思いどうりになって人生きた人がいるだろうか。そういう人はいないと思う。何らかで人生は必ず後悔し計算どうりにならない誤算で終わるのである。
一級の免許を持っていたが技術者であったが事業を起こして失敗して借金を抱えた。事業に失敗する人もまた多い。そもそも原発という事業は大失敗だったのである。また太平洋戦争で300万人も死んだ者も大失敗だったのである。歴史的大失敗であり大誤算だったのである。つまり歴史も必ず失敗の歴史なのである。その失敗から教訓は生まれているのである。

また結婚したとして熟年離婚も多い。それもまた失敗でありその前に1/3は離婚しているのである。ただ熟年離婚というのは夫にとっては思いがけないものでありそんなことあり得ないというふうに思っていた夫も多いかもしれない。それも誤算だったのである。人間は何か計算どうりに行くことはほとんどない。それは思いがけないことが起きる。そのために運命が変わってしまうのである。それは個々人にも起きるわ全体的にも起きる。戦争とかは国全体の運命を変えてしまったからである。またこの辺では津波があり原発事故があり故郷に住めなくなったとかあり大きな変化に見舞われてしまったのである。それも大きな誤算だったのである。

人間は計算どうりに行かない。なぜまたそうなるのかというと意外と見逃しているのは実は時間の問題なのである。時間を計算することが人間はできない。常に金だったら日日計算しているし老後のことなどでも貯金していた方がいいとかなる。つまり金の計算はできるからである。ところが時間の計算ができないのである。
私自身でも何かしようとしたのだがそれもほんの試しで終わり時間も無くなり何もできなくなったのである。

●人生は何に時間を費やしたかで決まる

だから私のしたことは旅だけだったともなる。人間は何かするにしても限られた時間しか与えられていない。もちろん金も必要だが意外と時間が与えられないのである。だから会社員なれば一か月休んで自由に旅することもできない。すると旅するということは金よりも実は時間が大事だったとなる。私は仕事もしないのだから会社に勤めているわけでもないから時間は充分にあったから旅に費やしたとなる。

別にそれほど金も必要であってもそれほど金はかかるものでもなかった。何かホテルであり旅館でありそこで何かうまいものを食べるという目的もないし一番安い旅館にホテルにを探してそこではただ体を休めるというだけだったのである。旅をしたければ別に金がなくてもできないことはない。それより時間が大事だったのであるって何かする時間というのはいつまでもあるわけではない。
例えば留学するにしてもそれをそれは若い時にするものでありその時期を逃せばなかなかできなくなる。その時々にやるべきものをやらないと必ずそのチャンスはなくなり時間は消失してしまうのである。

例えば学問にしてもあらゆることに精通することなどできない。ほんの一部しか精通できないしそれは人間に与えられる時間が限られているからである。だからある極わずかな一部分しか詳しくはなれないのである。だからこそあらゆることで専門家して細分化してそこでその一部分には詳しくなるが全体になれる人はいないのである。それは人間の知りうる範囲が限られている。それは学ぶにも時間がかかるからそうなる。やはり人間は天才でない限り知識でも蓄積してゆくことが大事なのである。
だから雑学にしてもある一分野で詳しくなれることがある。つまりその一分野に時間を費やしたということなのである。でも他の事には費やす時間はないのである。

意外とその人を見る場合その人は何に時間を費やしたかを見ることである。それが人生だったからである。例えば会社に60まで働くとしたらそれが人生であり私はただ社畜として生きて来たという言っても不満でもそれが人生であった。なぜならそこに人生の時間を費やしたからそうなるのである。そして30年働いたとしてその30年間は会社のために尽くしたとか働いたとかなり何であれそれが人生だったともなる。

●限られた時間を何に使ったかが人生になる

人間はだから与えられた限られた時間何に使うかが大事になる。ただ常に金の計算をして金を稼ぐということは常にしている。でも時間計算している人は少ない。時間が計算しにくいからである。金だったら常に得した損したとか計算しているわ時間はあまり計算しないからである。

ところが老人になった時なぜみんな後悔するのか。それは何かをするという時間がなくなる。また体力もなくなってしまうからである。なかなかきつい登山などはできなくなる。若い時できることをしなければ老人になってからはいくら金があっても時間があってもまたできないとなってしまうのである。つまり老人とはいろいろなことはできなくなるということである。その大きな原因は時間がなくなるということでもある

なぜ事業をして失敗する人が多いのか。それを私自身でもそうだが人間の与えられてる時間は限られているからである。何かしようにも必ず時間が必要であり事業をしてみて失敗したからといってもう一度やり直すことはまた時間がかかり難しくなるのである。つまり一度押して失敗したからAに移りBに移りCに移りとかできないのである。人間のなし得ることは様々な分野があってもせいぜい一つ二つくらいなのである。それすらまともにやる時間も無いのである。それほど時間は消失しやすいということである。

結婚にしても一度失敗したからまた再婚してとかそういうことそういう時間もうない。人間関係を作るにも必ず時間は必要なのである。やはり長くいるということは親密になり信頼関係を作るにわ大事なのである。家族の場合はそうして長く一緒に暮らしてるからそこで愛情や信頼関係が生まれてくるのである。
たとえ家族で憎しみあっていて長い間暮らしていると自ずと愛情も湧いてくるのである。だからなんでも時間の作用がありその時間が見逃されているのである。だから親密になり信頼関係を築くに時間が必要でありその時間が限られているから人間関係でも難しいのである

例えば10の時間を与えられる人とその十倍の時間が与えられる人があるとしたら10倍の時間を与えられる人はやはり何をかで専門家にもなり何者かになれることは確かである。でも時間はみんな平等に限られたものしか限られた時間しか与えられないのである。 だから大して才能なくても一つの分野に時間をかければその分野については詳しくなれるのである。

●人間は一分野にしか詳しくなれない

人間ははあらゆることに詳しくはなれないのである。それは時間が限られているからである。何か30過ぎる頃から急速に時間が進んで行き40頃になると白髪が入ったりしておっさんになっているのである。それも早いなと思った。だから人間の盛りは30歳まででありそこで完成しているのである。キリストも30歳で人間として完成していたからである。そのあとはただ時間は延長すると言うだけにもなってしまう。ただその間でもやはり時間をいかに使うかということで人生は決まる

人生=時間×X

Xはは変数でありその人が何に時間をかけるかでその人の人生が決まる。もちろん金をかけるということもあるがそれ以上に何に時間を費やすかでその人が決まるとなる。
例えば語学でもさまざまな外国語があり全部など極めることはできない。 一分野には詳しくなれてもとても全部に詳しくなることなどは不可能である。つまり一つの言語に詳しくなれるがほかの言語に詳しくなることはほとんど不可能であるなぜなら言葉自体が難しいからそうなる。十か国語も話せる人間などこの世に居ないからである、そして山ほど本が買って積まれたがそれも消化されなかったのである。

●人間は未来は意外なものとなり予想できない

ともかく人生というのは時間が消失してゆく。 30歳から辺りから時間は下降気味であり急速に消失してゆく。70も越えれば生きる時間もわずかだとなってしまう。何かしようと思ったら時間切れになってるのは人生だともなる。
だから一番浪費しているのは時間なのである。時間は計算しにくいからである。金は常に計算しているが時間は計算しにくい。それで意外と老人は死ぬとき日本人は相当な金を残している。それも金が必要だろう後に金が必要だとして貯めていたがそれも有効に使えず死んでしまったということである。

それは人間はどれくらい生きるのかもどれくらいの時間をこれから生きるのかも分からないからである。そのために貯金をしていたのだがその貯金も使えずに死んでしまったともなる。それは金の計算はしても時間の計算はしていなかったからだとなる。またどれくらい生きるのかもその時間が計算できないからそうなっているのである。あと十年生きるのか20年生きるのかでは相当に違ったものになるからである。もしあと十年ならその間に使うお金を計算できるからである。でも時間は計算できないのである。そこで必ず誤算が生まれるのである。だからみんな人生は誤算で終わっているのである。

要するに人間は来年のことを言えば鬼が笑うというように来年のことすら何が起きるかわからないからである。ましてや十年後とかどうなるのかわからない。必ず何か思いもよらぬ誤算が人生にはつきまとっている。この辺で津波とか原発で故郷に住めなくなったということもそのことであるこれほど大きな変化に経験することは想像すらできなかったからである。人生には70年であれ80年であれ生きていれば想像もできないことが起きてくるのである。だから必ず人生は誤算になっているのである。こんなはずでわなかったとみんな後悔しているのである。

ともかく今年も終わりである。今年で何が良かったのか悪かったのかやはり私にとってはbing image creatorの経験が一番印象に残った。なぜ言葉だけを入れて絵が作れるのいうのは不思議になる。こんな経験するの今まではありえなかったことである。だから技術的にも経験できないことは時代によってできる。その最たるものはコンピューターの技術だったのである。

だから将来的には誰でも宇宙旅行ができるようになることは確かである。それは大金持ちだけではなく一般化するのである。それだけの技術開発は進むからそうなるのである。その技術進歩にしても未来はどうなるかということは確かに予想するのだがそれ以上のものはできてくるということがある。だからそれもなかなか予想できないのである。そして技術の進歩で思いがけないことができるようになり経験するようになるということである。

来年はどういう年になるのかそれもわからない。いろいろ予想して確実なことはわからない。大地震が来て壊滅的被害を受けるかもしれない。それもわからないので。つまり未来は常に未知でありいくら科学が発達しても予想できないのである。其れで必ず誤算になる。誰も未来を知ることはできない。それは神のみぞ知るとなる。。

一山の本積まれ読まじ年の暮






2023年12月25日

フラワーアレンジメントのこと 【花を心に映すには清い心がないと見れない】

フラワーアレンジメントのこと

【花を心に映すには清い心がないと見れない】

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幾日か我が見つめて花の美のここに静かに全うされぬ

我が母の遺影に添える白菊の塵もつかずに今日も暮にき

近くの花屋の女性の主は花に詳しい。飯館村で銀蘭が咲いているのを話ししたら小高でも咲いていますよ言った。
そんな身近に咲いているものなのか?。かなり山深い森の中に咲いてると思っていたからだ。その森の花屋の人はやはり野草などについても詳しいので。森の花やにふさわしいよなる。もちろん花全般とか肥料とかにも詳しい

花屋というのは意外と知識が必要な商売なのである。前の花屋でも生け花の免許を持っていたし正月になると独自の花を飾りそれを売っていた。ただ森の花屋では正月になるがその店独自のもの釣り飾っていなかった。それが寂しいとはなるただ正直花は高い。花は贅沢品である。ちょっと飾るだけならいいなそれなりの物として飾る庭高くなってしまうただそれだけ高くなるのは仙台の方から花を仕入れているから高くなるのである。ただ我が町わ一軒しか花屋がないのだから貴重になってしまったのである

私自身は花は前から興味を持って見ていたが生け花とかフラワーアレンジメントしたのは65歳なのかそんな年からであるだから自分はこれもまた失敗したと思った。なぜフラワーアレンジメントをしなかったのかおそらくそれは女性がするものであり男性がするものでないと見ていたからかもしれない。

フラワーアレンジメントで気づいたことは必ず家に飾り1週間くらいその花を見ている。その時間が大事だったのである。その時間の中でおのずと心にその花が映ってくる。白菊を遺影に添える合っている。そこには塵もつかず純白のままにある。それが今死者には相応しいとなったのである。菊の花が死者にふさわしい、また菊は長持ちするのでいいのである。それも白い菊の花が似合っているのである

結局人間というのは何かを見るにして必ず時間が必要なのである。この時間だけははぶけない。だから旅に行っても見るべきものも見ないのはそこに時間をかけられないからである。ただいま交通が便利だから目的地にはたちまち着いついてしまう。でもその途中のものは何も観ていないのである。そこで時間をかけて見れないということが心に映じないということなのである。
だからフラワーアレンジメントが生け花は必ず何日か見ている。すると自ずからその心にその花が映ってくる。
ただ花を見るときやはり心が清らかでないと花を見れないということがあると思う。確かに金持ちであればいくらでも花を買える。でもその心が汚れていれば花も心に映らないということがあると思う。だから意外とその点が見逃されている。人間は何でも金で買える見るがそうでもないのである。

実際にフラワーアレンジメントするにしても花は本当に高いと思う。だから金持ちしかできないのかとも見る。でも別に安い花でもスーパーなどに売っているからそれでも花を見るということは可能である。また不思議なのは花というのは他人の庭の咲いている花を見ても無料であり咎める人もいない。特に塀などに咲いている花は通りすがりの人に見てもらいたいとして咲いているのである

花を映すという時その心は湖のように透き通った心でないと映らないともなる。心の清い者は神を見るだろう。心の清い者は神の技として成した花の美を見るだろうとなるのである。この世には実際は自然での美を見ることは無料なのである。だから金がなくて別に自然の美には誰でも触れることができる。
ただ大都会とかなるとその美は汚されるから見えなくなってしむのである。確かに大都会には豊富な花を売っている。
でもどうしても何か環境的に野の花と違ってそぐわないということがあるただフラワーアレンジメントは都会でもできるのである。

キリストが言った野一輪の花ほどに飾られていないというときそれは自然に咲いている花のことなのである。何かそこが見逃されている。例えば競馬があるとして馬は本来大草原の中を走るときその本来の生き物の躍動感を伝える。その時こそ馬は生きているのである。その大草原にはどこまでも野の花が咲き満ちている。そこにこそまた花は映えている。競馬というのは何かいつも同じであり同じコースを走っていてただ競争するというだけでつまらないと思った。それはギャンブルでありそこで馬は活きていないのである。

とにかく花でもやはりその美を本当に見てもらいたいと思っている。でもその美を見るにわその心が清らかでないと見えないのである。別に安い花でも一輪でも花は鑑賞できる。ただフラワーアレンジメントになるとどうしても色々な花を飾った方がいいのである
要するに自然の美というとき実際は至る所にありそれはそもそもは無料なのである太陽が輝き美しいからといって別に金を払う必要はない太陽はどこでも輝いているからである。ただ大都会とかになるとその輝きもしぼんでしまうのである。

今年も終わりになるが私の仕事も総決算がありこれまで創作したものを整理しているがまた本も整理している。でも整理しきれないのである。本の整理というのは本はかさばるから整理しにくいのである。でも捨てることも出来ないからまた整理しにくいのである。それで一番困っているのである。それだけ本というのには内容がありそれが消化できないということだったのである。何か本が買うと知識が増えて賢くなったような気分になっただけだったのである。実際はその内容も深く読んでいないし消化できなかったのである

消化できないという時花を見ることでも同じである。花を見るにも必ず時間がかかる。現代人に欠けているのはこの時間なのである。交通が便利になって時間を短縮してもそこで何か深く見るということは却ってできなくなっているのである
でも何でも毎日身近にあるのであるもので見ていればおのずとその事物が心に映じてくるのである。それは必ずしも才能ではなくその時間があり心が清いということが大事なのであるそのことがなにか欠落しているのである。だからフラワーアレンジメントでも別に安い花でもあるそれでもその花の美を見ることは可能なのである
また花は畑にでも野原にでも公園にでもいたるところに咲いているから観賞することは無料だということもある。だからこの世の中すべてが金がなければ何もできないということではないのである。

例えば本にしてもそれを読む力が深く読む力がなければいくら高価な本を買っても理解できないのである。ということは理解力こそが大事になるのであるそれが若い時は身につかない。やはり老人になると本であれなんであれ深く見ることができる。だからなんでも批評するのに適してくるのであるほら

2023年12月24日

原発は自治体を越えたアメリカと国家権力で決められた 【賠償金でも南相馬市で決められず分断された】 【沖縄の辺野古のアメリカ軍基地建設も同じ構図】


原発は自治体を越えたアメリカと国家権力で決められた
【賠償金でも南相馬市で決められず分断された】
【沖縄の辺野古のアメリカ軍基地建設も同じ構図】

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●原発はアメリカと日本国政府によって強制された

原発とは何であったのか。今追加賠償金の支払いが行われている。そこで東電の社員と直接に会う。でもこれまで東電の社員とかに直接会うということはなかった。そもそも南相馬市でも原発というのは遠いところにあり関係ないと思っていたのである。ただ原発の煙突が見える浪江とかはかなり身近に感じていた。また親戚の人で原発の下請けになって働いていた人もいたからそういう人はより身近である。だからその人は事故は起こらないと力説していた。東電から金を貰っているのだからそうなってしまったのである。危険より金をもらうことの方が大事になっていたからである。

ここで考えねばならないのは一体原発というのはどいうふうにして作られたのか。それは南相馬市とか原発周辺の町でも村でも何かそこに交渉があったのかというとそれも明確ではない。
原発で一番問題にしなければならなかったのはそれは国指導で行われるものであり国家権力が関わるものだったのである。それが日本の国家だけではないアメリカはその上に関っていたのである。だから強大な権力の圧力で原発は作られた。

ではそこで一番問題になるのは原発が作られる市町村の自治体である。でも何かこの辺で原発に対してで自治体でも市民でも何かまとまって反対するという運動も見えなかった。それより南相馬市だったら議会であれ何か原発に対してどういう態度をとるのか何か協議されたのかもわからないのである。それよりそもそもは自治体の市町村が原発に対して反対することが不可能でありだから協議するしなかったのかとなる。でも新潟県の巻町では小さな町でも原発を建てさせなかったのである。だからそのどうしてそうできたのかよくわからない。反対できないということはここでわなかったのである。

でも市町村の上に県の権力がある県の行政は中央の政治の権力と結びつきその配下にある。だから国と県がその原発が立つ市町村の自治体を無視して原発を作ったとされる。
だから別に自治体というのは原発に対して何ら協議することさえなかったのかもしれない。ただ地元の人にとっては原発が建てば景気が良くなるということしかなかった。何か危険というものを感じなかったのである。
私自身にしても30キロ離れているのだから何か遠い場所に思って関係ないと思ってたのである。それはそもそも原発というのはどういうものかわからなかったからである。だから危険も感じなかったのである。第一なぜ南相馬市の議会であれ市長であれ何か原発に関わることができていたのかどうかも分からない。ましてやそこに住んでいる住民などは東電のことなどまるで分からない。

●補償金でも南相馬市自体で決められず分断された

だから賠償金問題で東電の社員とじかにあったのは事故以後であってその前に東電の社員とかとはあっていないのである。ただ浪江から双葉大熊とかはすぐ近くにあるからより身近であり東電の寮などもあり東電の社員と町民でも直接接していたとなる。
でもその前に原発については住民に対して説明は必要だったのである。ただ南相馬市でも何か原発を立てるに当たっても協議したりその説明を受けて危険がないのかとかも問いただすこともなかったようである。そもそもそういうこともできなかったのかも知れない。なぜなら国の権力と県の権力が一体となりその肝心の原発は立つ地元のことが住民に対しては無視されていたとなる。

だから原発は安全だとか安全神話が作られて決して危険な情報は東電からなどから出なかったのである。本当はすでに配管とか老朽化して危険だと内部の仕事をしている人は指摘していたのだがそれも無視されたのである。常に安全だ安全だと題目のように唱えていて安全神話が国家と県とマスコミとかが一体となり強固な安全神話が作られたのである。

だからこそ東電にしても安全に対しておろそかになってしまったのである。それより安全神話を作ることに莫大な金を使っていたのである。それはマスコミでもそうである。そこに金を与えて危険なことは言わせなかったのである。
例えば電事連とかには800億円とかマスコミ関係に使ったとこも言われる。つまり電気とか原発関係の金は信じられない巨額なものだったのである。それは事故後除染だけで7兆円使うとかその額をとてもイメージできるものではなかった。だからその除染で相双リテックとかは大儲けして幹部で何億でも山分けして銀座で遊んでいたとかその金の巨額さがそうさせたのである。
その後の補償金の額にしても信じられない金これが国からでも出たのである。

その巨額の補償金が出たことで地元の人は東電にそれほど批判するということもなかったのかもしれない。金をもらってそもそもが原発で金になるとかと言って今度は事故になったらまた金をもらえばいいというふうになった。でもそこで失われたものは何なのかそれはやはり避難区域になって町に住めなくなった人たちが一番感じている。

●補償金で割を食った南相馬市の鹿島区

だからあまり東電とか国でも原発事故の被害者はそれほど批判していない。むしろ小高などは津波に被害に遭った人津波の被害は保証されないが原発事故の被害の補償が大きいので助かったと言っているのである。
でそれは南相馬市だったら小高区と原町区のことであり30キロから外れた鹿島区などはその補償の額が原町の1/3だったのである。現実に一人16万であり原町区は一人50万だからその差も大きい。小高は例外であり一人240万とかもらっているその差も大きいのである。だから鹿島区の人は東電と交渉してもっと補償金を出してくれと言っても応じられなかった。それで南相馬市が分断されたのである。

そもそもが本当は補償金であれ南相馬市に自治体に供給して自治体で協議してその補償金を分けるべきだったと思うな。そうすればともかく不満が出てくるどうして一応協議したということで別なものになっていたかもしれない。ただすでに補償金について何か鹿島区には払うべきではないという人はネットで盛んに行っていたのである。でも確かに原町区は3倍ももらっているのだから文句を言うこともなくなったのかもしれない。で南相馬市全体の全体で自治体で協議したら争いが起きていたことは確かである。

でもそれでもやはり南相馬市補償金を国で与え東電で与えそれを南相馬市民が協議して分配すれば自治体として機能していたとなる。ただ一方的に国と東電がその額を決めて分配したのである。だから鹿島区だけが除外される補償金の額が少なかったのである。それより相馬市になるとほとんどもらえない一人6万ぐらいからくらいしか貰えなかったのである。

ただ南相馬市と相馬市は違っているのだからそれなりに理由がありい諦める他なかったかもしれない。私が相馬市の市街を測ったら0.5リリーベルト代わりここより高かったのである。だから放射線の量で補償金の額が決まったわけでもないのである。ただ山側の方が放射線量は高かったことは確かである。

だから国で決めた30キロ圏内は特別視された。放射線量としてはそれほど変わらなかったのである。ただ便宜上払いたくないから30キロで区切ったということである。そこで南相馬市は分断されたのである。
でも私がこうして国とか東電を批判できるのはそもそもはその額が30キロから外れて少なかったからだともなる。これが小高区とか原町区とかなれば補償金の額が大きいのだから政府であれ東電に批判しにくいとなっていた。そもそもが原発事故は被害が大きかったのだがその補償金の額も大きかったのでその後政府とか東電を批判することがあまりなかったのである。だから追加賠償で東電の社員と直接会っても別に文句も言わないし親切だとかなってしまっている。

●沖縄と辺野古の米軍基地と原発は似ている

この問題はここだけの問題でわなかった。今起きている沖縄の辺野古に米軍の基地を作るという時もそうだった。地元の人でも反対する人もいたが沖縄県でも反対ということもあったが裁判で国が勝ったのである。それはアメリカと国が一体となった権力でありその圧力に逆らうことはできなかった。それは原発の構図とも似ていたのである。

辺野古という時山原から出てくる場所にあり辺鄙なところである。山原にはヤンバルクイナとか天然記念物がいるジャングルなのである。そこを自転車で回った事がある。そして辺野古の砂浜でテントはって寝たことはありあの辺の状況が分かっているのである。
辺野古にすれば原発アメリカ軍の基地ができれば町として豊かになることは確かである。でもそのために失うものもある。何らかで自然がに影響をする。ヘリコプターでも離着陸したりして騒音は出て平穏な生活が生み出されるということもある。だからそれは原発とも寝ているのである。金にはなるがそれで失うものもあるということである。

でもどうしてもアメリカと国が一体となり巨大な権力の圧力で抵抗できないということであった。それはこの辺の原発と似ていたのである。そして今言われていることは日本は主権国家ではない。アメリカの従属国家であり主権がない国だとしている.それもやはり戦後80年くらいになっても変わらない問題であり何らかの日本の国家最高の主権の確立が必要なのである。それができないと原発であれ沖縄の米軍基地であれほかの基地であれ日本はアメリカの従属国家でありそのために原発事故となりまたアメリカと中国では戦争に巻き込まれてしまうということである。

ただアメリカに従属してアメリカが守ってくれれば楽なのだがそうともならなくなっている。アメリカはもし中国と戦争になれば日本人を前面に出して日本に戦わせ犠牲になるのは日本人だともなる。もしアメリカが全面に出て戦ってくれるらばそれはそれでいいの実際はそうならないのである。アメリカと日本は戦争になれば一番被害になるのは日本なのである。
つまりアメリカの覇権を維持するために日本人が犠牲になってしまうということでもある。だから中国と手を組めばいいということでもない。でも日本主権国家ではないというときどうするか自体が日本では決められないのである。そこに一番の大きな問題があるとなる
それは原発でも同じであり辺野古のアメリカ軍基地でも同じなのである。



posted by 天華 at 11:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2023年12月23日

人間の幸不幸はわからない‐災い転じて福と成す 【家事について感じたこと】

人間の幸不幸はわからない‐災い転じて福と成す

【家事について感じたこと】

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●洗濯機も冷蔵庫も使わなくなって楽になった女性

人間は何が良く作用するのか何が悪く作用するのかそれもわからない。驚くのは家事を簡素化するために冷蔵庫から洗濯機からレンジから掃除機から便利などうなの道具を捨てた人である。洗濯板でしていた時代に戻っている。返ってそれで余計なものを買わなくてすっきりしたと言っている。そんなことあり得るのかと思うけどこれはユーチューブで見た本当の話である。なぜ極端にこんなことまでして道具を捨てたのか。返って道具を捨てた結果余計なものを買わずものが増えずすっきりしたと言っている。この人は女性だからそういうことも言えたのかもしれない。

それにしても選択まで手でしているということに驚いた。ここで考えさせられることは家事にしても便利さを追求してきたのだがそれが不便にもなるということである。冷蔵庫がなければその日の暮らしになる。その日その日で料理をして後に残さないということにもなる。それは江戸時代のような長屋のその日暮らしになるのかもしれない。長屋にあるものは本当にわずかなものしかなかったからである。でも暮らし自体は余計なものを持たない簡素なものとしてあった。また火事の備えとしていろいろなものを持っていると逃げにくいからそういう風な暮らしにもなった。身一つで逃げるだけでいいということにもなっていたからである。

家事というのはそれだけでいろいろあり手間にななる。だから電器製品を使うようになったのである。でもその道具でも書いて返って煩わしい物となった。それも極端だがそういうことを感じる人もいたということである。だからその人にとっては別に電化製品が無いことに苦痛を感じていないのである。
だから災い転じて福となすとなるのである。人間は何が幸福なのか不幸なのか分からないということである。結婚すれば幸福になる。でも離婚も1/3以上しているから結婚というのは重荷になるだけだという人もいる。結婚がうまくいかないとただストレスになるだけだともなる。でも独身がいいかとなればそうでもない。何か病気になったりすると助ける人もいないからである。でも結婚でもうまく行かなければただストレスが溜まり苦しくなるだけだと思うんだ。

すぎると金持ちの息子が放蕩息子のようにもなってしまう。それはあまりにも恵まれてそうなったのである。でも不幸な生い立ちでもいいとは言わないが苦労人になりその苦労したことでやがて幸福にもなる。それは長い一生で見ればそうなるのである

●家事もしないで認知症になった女性

私の家では特殊な事情があり二人の母親がいた。一人は役所に勤めていたが退職してから何もしなくなった怠け者になってしまった。それが認知症のねなる原因でもあった。
ただテレビだけを見て何もすることなくボケッとしていたのである。結果的に本当にボケて認知症になってしまったのである。その原因は分からないにしても明らかにそうして頭も働かせず何もしていないことが大きな原因だったと思う。
それで認知症になる人は例えば嫁におばあちゃんは何もしなくていいからテレビを見ていてでもくださいと言われる人だという。それがボケに通じているのである。なぜなら家事をするということ料理をするということそれはかなり頭を働かされる仕事だからである。

だから一見働かせられている女性の方が苦しいとかつらいとか見ていたが実際は何もしないで怠けてボッケとしていた人が認知症になってしまったのである。それで一見良いように見えることが悪いものとして作業したとなる。それも不思議な現象だった。
それは例えば召使いというか女中というか金持ちの女性の人が雇って金持ちの女性の人が何もしなければ同じようにボケてしまい認知症になってしまうかもしれないのである。だから人間というのは本当に何が幸福にし何が不幸にするかわからないということである。

ともかく人間の幸不幸は何か分からない。幸福だったと思うことが不幸になり不幸だったことが幸福にもなる。人間はいつまでも幸福ということはありえないっていつまでも運がいいともならない。人間は常に社会でも変わり人間関係も変わり変遷するからである。私自身がそうだった家事など何もする必要はなかった。すべてしてくれる人が居たからである。
今や誰もいないから自分でするほかないのである。だからいつまでも人間は幸福であり同じ状態も続かないのである。必ず何から不幸があり運命の変わってしまうからである。だから人間に一生安泰ということはない。どこかで必ず不幸になり苦しみが与えられる。それが人間なのである。

だからそもそも何が幸福になり何が不幸になるかもわからない。不幸だったことが実は幸福にもなる。不幸な生い立ちの人がいるがその人には同情する。でも恵まれた人でも恵まれすぎると金持ちの息子が放蕩息子のようにもなってしまう。それはあまりにも恵まれてそうなったのである。でも不幸な生い立ちでもいいとは言わないが苦労人になりその苦労したことでやがて幸福にもなる。それは長い一生で見ればそうなるのである

●人間の幸不幸は常に変わり無常

人間万事塞翁が馬とかもそうである。人間の幸不幸など何かわからないのでだから不幸があるときそれがすべて悪く作用するともならないその反対に幸福であってもそれが不幸にもつながる。幸不幸は反転するのである。この辺でし確かに津波や原発事故は悲惨だった。でも原発前から漁業者などは多額の補償金をもらい豊かになった人達もいた。
それが反転してふるさとにも進めなくなったのである。だから幸福になると思っていたものが反転して不幸にもするのである。オ要するにこの世に絶対的幸福とか絶対的不幸とこは無いのである。常に無常だという時常無きものでありこの世は変わるからである。だから幸不幸も常に変わってゆく。何が幸福なのか不幸なのかわからない。

確かに老人になれば体が弱くなり病気にもなりやすくなりいいこともないとなる。でも老人には老人の幸福がある。その老い先も短いからいろいろと青年のように悩み苦しむこともない。まもなく死ぬだけだとなればこの世にあまり執着することもなくなるから気が楽である。だから老人がすべて不幸だともならないのである。老人には老人の不幸がありまだ幸福もあるのである。

そして死というのは最悪なものだとなるが最後に老人になって邪魔者扱いするより扱いされるより死んで迷惑をかけずただ崇められるということもある。その方は人間として尊厳がありましだと思うなってしまうのである。だから死がすべて悪いものともならないのである。それより邪魔者扱いされ病気になり苦しみ苦しみ生きていることこそ地獄なのである最悪の不幸なのである。

ともかく人間の幸福を幸不幸はわからない。それは常に社会でも変わり価値観も変わり人間関係も変わり常に無常の世界だからである。常なき世界である。これまで価値があったことも価値なくなり価値観も変わってしまう。そしてその価値観が変わりこれまで生きたことの価値まで否定されることにもなってしまう。戦前は国家のために命を捧げるのは普通だった。戦争に負けてまるっきりその価値観も変わってしまった。日本人から国家というものはあまり意識されなくなったのである。

でわそれがいいかというとそうでもない。私益ばかりを計る人間ばかりになってしまったからである。そこに日本人としてのモラルを消失してしまったのである。だから戦争を経験した人はそのとき国家のためであり日本人が強く一体であることを感じて懐かしく回想する人さえいたのである。だから戦争ですらそこに簡単に幸福であることを幸不幸であることを決められないということもある。戦争はいいということではなくそれでも何か当時を懐かしむの人もいたということである。

いずれにしろ人間の幸不幸は簡単に決められない。それは常に変遷するからである。ある時は幸福だと思っても急激に変転して不幸になる人も普通に居る。でも逆に不幸極まりないと思っている人でもある時から幸運に恵まれて幸福になる人もいる。つまり人間の幸福は幸不幸は変わるということである。それがまさに自分自身が今家事をしているがこれ必ずしも悪いということではないかもしれない。

家事は仕事であり妻でもなんでも家事をしてくれたとして夫がただ何もしないでいればその夫が生きがいもなく認知症になるかもしれない恐怖があるからだ。だから家事というのもバカにできないのである。家事はかなり体も頭も使う仕事だと仕事だからである。その認識が男性には欠けているのである。まず一人暮らしでも男性で料理をできる人はやはり優秀であり一人暮らしでも充分に豊かに暮らせるとなるからである。それが自分自身してみて料理ほど難しいものはないと思ったからである。このように家事というのは今や男性にとってもすることが強いられる時代なのである


posted by 天華 at 21:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年12月22日

推理ドラマを見た感想ー殺人を犯した人は花の美が見えるだろうか?


推理ドラマを見た感想ー殺人を犯した人は花の美が見えるだろうか?

栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかったーその意味 

●殺人を犯罪を犯した人が花の美が見えるのか?

推理ドラマを見ている。それも再放送しているから二度見ている。なぜなら前見たものを忘れているからである。そして2回見るとそのドラマが何を訴えたいのか理解できる。推理ドラマはそれだけ複雑であり人間の罪とか心理をテーマにしているからである。時代劇だと勧善懲悪でありあまりにも単純化しすぎているので飽きてしまうのである。
でも推理ドラマは複雑であり現代も表現しているし特に鉄道テーマにしているのは鉄道好きだから面白いのである。大概の鉄道は載っているからそれも改装できて面白いのである

ただ私が推理ドラマを見ていて何か必ず違和感を覚えるのである。それは殺人を犯した女性が綺麗な身なりをして花を愛でていることである。それは別に殺人など犯してなければたとえ金持ちの娘であれ夫人であれそれほど違和感がないかもしれない。でも殺人を犯したような女性が花を愛でている時その女性は本当に花伸びがbingピザ美術わかるだろうかということである。

というよりその女性は花を愛でては美を知るということが本当にできるのだろうかということである。このことは常にドラマの中で例えば華道の家元でもそこでは殺人事件が起こる。そしたらその花をテーマにして花の美を追求しているがそんなことができるものだろうか。そこで何か醜い財産相続争いとかありそこで花を活けるのだがそういう資格があるのだろうかとも思う

私自身のテーマは花である。だからその花のことが気になるのである。なぜなら人間の心が曇り汚れた時花の美しさが見れるだろうか。それがドラマの中では何もそこに葛藤がない。それが何か常に違和感を感じているのである。今日のドラマでも殺人を犯して何億とか手に入れて金持ちになった女性がいい庭を作り花を愛でている。でもその女性がその花の美しさを愛でたり知ることができるものだろうか?

その心は人を殺したのだから汚れているしその立派な家でも庭でも汚れた金で作られたものであり住むことになったからである。別に金ががどこから入ろうか関係ないという人もいる
でも人間の心とか良心を偽ることができないではないか?人を殺したような犯罪人が果たして花の美しさを見れるのだろうかという疑問がある。でも推理ドラマではそんなことは全く無視しているのである。殺人を犯した女性が花を愛でているのである。

●花はどんな場所にも飾られるが花の美はそこに映えるのか

何かこういうことは他でも常にある。この世界はそもそも汚れた世界である。常に利益を求め利権に関わり政治家は平気でごまかして金を得ていた。でもそれを悪いとも思っていなかったのである。罪になるとも思わなかったのである。政治の世界はどうしても汚れたものとなる。だからそんなことを気にしてたら政治家などにはなれないとなる。
ただ不思議なのは人間の集まるところに必ず花が飾られているが本当にそこに花が映えるのだろうかということである。たとえば政治家が密談している料亭の部屋にも花輪飾られている。別にキャバレーでもどこでも花が飾られているのである。しかしそういうところに本当に花が映えるものだろうか。そういうところにそれは大都会でもそうである。花はそんな東京のような大都会に映えるだろうかとなる。

栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 

キリストがそう言ったのは野に咲く花のことである。花はもともと野に咲くものであったからである。でも別に今はいろいろな花を売っている。外国の花でも売っている。でも花は結構高い。するとやはり花を見るには鑑賞さらには金がかかるとなる。では貧乏人が花を観賞できないかとなればそうでもないのである。
それは私がいつも通っている道でバラの花を見たり椿の花を見たりしている。公園でも見たりしている。花は別に無料で見れるものもある多い。野に咲く花をもともと無料で見れるのである。だから塀に咲いているバラの花を詩にしたときその花は他人の家の花なのである。でも別にその花を観賞するのは無料なのである。ただその花を見る目が必要なのである。花に関心のない人はそうして無料で見る花すら関心がないからである。

だから人間社会で一番何か不可解なのはそもそもは野に花は映える
でもどんなところでもキャバレーだろうが政治家が集まるところだろうがもしかしたら暴力団の集まるところにも花が飾られたりしているのである。でもそういう場に本当に花が映えるものなのだろうかとなる。ただそれは決まりとしてそうしているだけでありその花を別に鑑賞するというわけでもないからかもしれない。
それからカルト教団などがあってそこでもやはり花が飾ってある一見宗教団体だからそこは心の清い人たちが集まっているから花を飾るにふさわしいとなる。でも全く違っているのである。カルト教団に集まるような人はそれもやはりこの世の欲を求めて汚れた人たちがこの世の利権と権力を得るために集まっているのである。だからそこで花のことなど語る人などいない。ただ御利益と権力とやはり出世と金を求めているだけなのである

カルト宗教団体というときまた偽りの宗教団体というときそれをどうして見分けるのか。それはその中から真善美が生まれるかということである。どうしても確かに立派な会館とか宗教礼拝場とかを作る。それは確かにキリスト教ならゴシックの大聖堂のように立派なものもある。でもそもそもカルト教団から何か真善美になるものは生まれないのである。そのこと自体が何か偽りの宗教でありそういう場所では真善美よ求めていないのである。だからそういう場所から真善美なるものは生まれないのである。

その事が一番カルト教団などがまるで本来の宗教とは違った俗世よりも汚れた場所だということがわかる。普通に心の清浄を求めればばそんな場所に居られないのである。でもそういう場所に居られるということ何の違和感も感じない。そのこと自体その人は汚れに染まっていて感じなくなっている。ではむしろそういう汚れた場所だからこそどんな人でも受け入れるから住みやすいとなるのである。普通なら正常を求めるならどんな人でも入れるわけではないからである。むしろ拒否されるからである。

●真善美が生まれないのははなぜなのか

ともかく確かなことはいくら人が集まっても会堂会館を作ってもそれでそこにそれの中に集まる人が心が汚れていれば何かそこから真善美なるものも生まれないのである。そもそも東京のような文明と真善美なるものが生まれない。野に咲く花のように本来の美はそこに喪失しているのである。
だから山伏のようなものが胡散臭いとなっていても山岳を歩き六根清浄と唱えて身を清めようとしていたのはやはり本来の宗教をはそこにあったとまでなる。今のカルト宗教などにわ心を清めるなどということは一切ないからである。御利益とこの世の権力をひたすら飽くことなく求めているだけなのである。そんな場所に花が映えるのだろうかとなる。

どこでもこの世界は汚れた場所でありこの世界から離れた場所で身を清める心を清めるのは元々宗教だったとなる。とにかく仏教でもやはりそれなりの歴史があるからそこに真善美が生まれている。もちろんキリスト教でもルネッサンスのように美容¥が生まれている。イスラム教でも偶像崇拝で何か気になるものを拒否しているようだが幾何学模様を飽くことなく作りそこに美を見出していたのである。でも現在の宗教からそういうものが全く感じられなくなったのである。

そもそも東京のような大都会は何かそこから真善美が生まれるのか。なぜそんなに醜悪なものとなっているのだろうかとなる。そのこと自体がまさに野に咲く花のように飾れていないということではないか。一体人間のしてきたことは何なのかとなってしまう。そんな醜悪なものを作り神はそれを嘉するのだろうかとなる。

科学技術の時代になれば科学第一になるのそこに真善美があるとは限らない。その最たるものが原発であった。それは自然の中で住んでいた人たちが放射線物質で汚染されて住めなくなったからである。また車社会になってやはり自然でも排気ガスとか騒音で汚しているからである。ただ人間というのは意外と美というものに無関心なのである。
だからこそ東京のような醜悪な場所に1000万人も住んでいても別にそれでいいとなっている。人間はそもそもそうした美など関係なく腹を満たせばいいとも。だから人間の本来の感覚が麻痺してしまっているのである。そして人間にとって一番恐ろしいのはいろいろあるにしても一番恐ろしいのは食えなくなることとかあるがいろいろあるにしてもそういう物質的なことではなく精神的なものがある。

それは真善美が見えなくなることである

すでにだから推理ドラマでも肝心の華道の家元でも跡目争いで財産を受け継ぐために争うということ自体そういう人が花を愛でることができるのだろうか。それが根本的な疑問として自分には常にあった。私自身のテーマが花だったからそうなるのである。
何か人間はいろいろなものを求めている。何かを得たい特に金を得たいと必死になっている。でも根本的にもし心が汚れたらこの世の真善美は見えなくなる。だからこそ心の清い者は神を見るだろうと言ったキリストが言った。それだけではない心が清くなければ自然の美とかこれこの世にある美を見ることはできなくなってしまうのである。このことこそ恐ろしいことではないか。でもそのことを深刻に考える人は本当に少ない。

ただこの世の欲のために金のために出世のために何でもするあらゆる労力を惜しまないとまでなっているのでは。だからそのためにはこれのためでもこの世の栄誉栄華を得るために殺人までしているのである。それはまた小説家とか短歌を作っている人でも何か必ず賞をもらいたいとかいうのもそのためである。推理ドラマでそのために殺人まで犯してたということがある。それはあくまでもドラマにしてもそんなことまでして賞をもらってその人が果たしていいものを作れるものだろうかとなる。

何かこの世の矛盾は一番そこに現れているかもしれない。一番恐ろしいのは真善美の見えなくなることである。現実にさまざまな人の集まりがあり団体があるがそこが宗教団体でもそこから真善美は全く生まれない。そこは穢れた人たちの集まりであり偽りの団体でありだからこそ何か良きもの真善美などは生まれないのである。そのことが一番如実に語っている。だからなぜ宗教なのかとなる。最も反宗教な場所だともなるからである。ただ人が集まり大きな会館を作ったり数でもって権力を誇示して政治に関わり利権を得ようとするだけなのである



私のカード番号は盗まれて不正に使われた 【でも大東銀行で停止して助かったー忙しい年末】


私のカード番号は盗まれて不正に使われた

【でも大東銀行で停止して助かったー忙しい年末】

●寒くて石油を買ってこぼした
●大東銀行からビザカードの不正に使われている連絡があった
●東電の追加賠償で印鑑登録と戸籍謄本をとる
【死んだ母親の賠償は面倒になる】

今大東銀行からピザカードの部門からあなたのカードが不正に使われているという連絡があった。何か高速バスで使われたという。どうもアマゾンとかでも不正に使われたようでもあった。AUではハガキで連絡がきたので一万請求されたの払ってしまった。メールは信用できないがハガキなどだと信用したとなる。

でも今回は大東銀行で直接電話で連絡がありカードの番号を変えるからという連絡があった。これも面倒だと思った。なぜなら契約している会社がいくつかありその番号を変えねばならないからである。そこで問題になるのはす契約を変える手続きをしていないと番号を変えないと例えばインターネットなどが使用できなくなることである。

そのことをレンタルサーバーで経験している。たまたま入院していて支払いしていなかったので自分が持っているサーバーのホームページとかプログが消されるという恐怖であった。それが最も恐ろしいことだった。苦労して作ったものが一瞬で消されてしまうからである。たまたま日曜日でありでもさくらのレンタルサーバーでわ電話連絡ができたから消さないようにできたのである。でも今はさくらのレンタルサーバーでも電話では受け付けていないすると何かあったとき連絡も急な連絡もできず消されることになるのである

ネット社会の怖さはいろいろあるがこうして何かと安全性が得られない脆弱なのである。それが最大の問題なのである。今回は大東銀行でその不正を連絡してきたから助かったとなる。でもその後の手続きは面倒になるのである。今はどうしてもカードで契約して支払いしているからである。でもそのカードの番号は盗まれやすいということが問題なのである。一旦盗まれて不正使用されるとその後の処理も面倒になるのである。ネット社会の問題はいろいろあるがこの安全性が最も大事なのである。せっかく書き続けたホームページでもプログでも一瞬にして消えてしまうからである。

何か年末になりいろいろ追われる。仕事をしているわけでもないな家事のことやら東電の追加賠償の書類のことなど事務処理があり面倒である。今日あまりに寒いので石油を買った。でも自動で石油を入れることをしたのだがそれを取り出すとき石油があふれ出したのではこれを一年間使っていないから使い慣れていないから失敗したのである。何かこうして家事のことでもいろいろありうまくいかないのである。

これから東電の追加賠償のために印鑑登録をしなければならない。登録した印鑑の半分が欠けてしまったからである。他に死んだ母親の賠償もありそのために戸籍抄本は必要になってくる。いずれにしろ家事だけでも家のことだけでも結構色々ある。一番の手間とお金がかかったのは家のリフォームだった。その金額も大きかった。でも今年なんとか直してもらったから楽である。

とにかくネット社会というのは老人には苦手である。私はたまたまワープロ時代から通信をしていてパソコン早い時期からしていたからなんとかやれるがほかの人は難しいと思う。でも今やネット社会になったとき車社会と同じようにパソコンやネットができないということは社会から遅れて取り残された人間になってしまう。それは車を持ってない人が下級市民となっているのと同じである。そういうことは昔からあった。馬を持っている人は侍であり馬を持たなければ足軽となりその人たちは御徒町というように集まって住んでいたのである。車を持たない人もそれと似たもの担う。ネット社会になったときもやはり同じようなことが起きているとなる。

やはり自分でメディアを持つということが大きな権力を得たことになったからである。それは今までテレビが独占していたが今やユーチューブで誰でも簡単にテレビに出るともでなる。でもそれを見る人はそれを見られるとみられるとなると至難になっているのである。 1万から十万ものチャンネルをあったらとてもそんなもの見切れないからである。だからユーチューブにデビューしても全く見られないということが起きる。それはプログでも同じなのである。

だがら最近私のプログ訪問者数が増えた。もしかしたら千人くらい見ているかもしれない。それは今までからすると数が多いのである。なぜなら3倍ぐらいになっているからである。ただページビューはそんなには増えていない。でもなぜそんなに訪問者数が増えたのか謎である。facebookで一週間に一度being image creatorで作った絵を宣伝しているなのかどうかそれもわからない。ただいまいろいろ追われてコメントはしてない。ともかく年末になり忙しいとなる。

いつも行く道【冬菜、冬椿、冬薔薇、葉牡丹】


いつも行く道【冬菜、冬椿、冬薔薇、葉牡丹】

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前畑に養う人あれ冬菜かな
夕暮れや石の倉古り冬菜かな
散り残る一片あわれ冬薔薇
冬日さし木の根残りし家の跡
葉牡丹に木の根に石や冬の暮
庭に石家建て定着冬椿
庭の石組合い一つ冬椿

黄色なる冬の薔薇咲く見逃しぬ赤き椿や常行く道かな

この辺では原発事故があり避難区域からかなりの人が移住した。そこに新しい家が次々に立ったのである。新住宅街が生まれたのである。でもそれから月日が経ってすでに震災原発事故から12年も過ぎてしまった。ただ人間は必ず時間軸で見る。何かその家がその新しい家でも7、8年は過ぎたのかそうなると何かここに定着したという感覚になる。

人間はやはり建物でもそこに住んでその土地に定着するには時間がかかる。毎年その家を見ていてもやはり時間の経過の中で感じ方が違ってくる。だから冬椿がふさわしいともなる。
今の時期冬椿があっている。やはり寒くならないと冬椿の感じが出ない。でももっと寒くなると寒椿になる。 1月はやはり寒椿になる

空き家の庭は大きな石をっているから立派である。その塀に冬椿が咲いている。だからあそこは庭は価値があり残せばいいとなる。でも家には価値がない。何か古民家などと違って家自体には価値無いと思う。でも庭には相当な価値がある。何かその石が組み合わせられて力強いのである。

constraction of stones
mighty united one
the garden in winter 

いつもよく道で変わり映えしないが黄色いバラが咲いた隣に赤いバラが咲いていた赤い椿が咲いていた。それを毎日のように通っていても見逃していたのである。人間は意外と身近なもの良く観ていないのである。そこが人間の盲点でもあった。灯台下暗しになるのである。

冬菜という時前の畑にそれがある。昔だったら遠くから野菜でも果物など入ってこないからそうして家の前であれ近くであれ冬の間でも野菜をとって食べることになっていた。でも今なら野菜すら外国からまで入ってくる。だから昔の人は冬だと言った時の感覚は今の感覚とは相当違ってそれは冬の間でも命をつなぐ食料ともなっていたからである。今はどこからでも食料が入ってくるからそういう感覚も失われたのである。

家があった所に一つの木の根が残っている。その家がなくなってからもまた歳月が過ぎた。根っこだけが一つ残っていたのである。そこに誰が済んだかも分からなくなってしまったのである。
空家が1000万軒になるとかそれをどうするのか、そおれも大問題である。何か利用するにも所有者がいるからめんどうになる。でも使わない家や庭でも何か利用しないともったないのである。そして建物でも傷んでくる。もう使わないとすると所有する権利もなくなるともなる。

庭の冬の薔薇の花片が二つほど残って散っていた。やはり花でも散りたくないのかもしれない。それはまるで陋習のしわくちゃのおばあちゃんのようにも見えたのである。あとは葉牡丹を買って植えた。やはり冬には葉牡丹があっている







2023年12月20日

家事にかかる手間と時間 【人間はあらゆることに手間と時間をかけられない】


家事にかかる手間と時間

【人間はあらゆることに手間と時間をかけられない】

●家事の手間ー鉄砲風呂のこと

人間は何でも効率的にして手間と時間を短縮しようとしてきた。その一つの例として近くに井戸があった。それは子供の時使っていた井戸である。街の中では井戸がない家があった。それで井戸水をもらっていたのである。そして風呂に入るにもその井戸水をバケツに汲んで運んで風呂の水にしていたのである。子供の時バケツで運んだことを経験しているからである。その後も私は風呂焚きが仕事になっていた。

鉄砲風呂と言ってそこに木の屑のバタや新聞紙はみなどを入れて燃やすのである。それは結構な手間である。昔は何をするにも手間がかかり時間がかかった。水を汲むにしても井戸があるにしてもそこから水を汲み上げて運ぶということ自体手間であり時間がかかるのである。

水を汲むのと、湯を沸かすのが子どもたちの仕事でした。水汲みは何度も何度も往復して風呂桶に入れるので大仕事。湯が沸くのに鉄砲風呂はわりに早く、1時間弱もすればあったかいお湯になりました。
鉄砲風呂の写真がここで見れる

だから近くの井戸水を利用するにしてもあまり出が良くないのでペットボトルをでその水を溜めていたがそれも時間がかかるのでやめた。それで水をどうしているかというとスーパーから安い水を買うことにしたのである。一箱六本くらいで1週間以上は持つからである。またツルハとかでも無料で水を提供しているのだがそれもなかなか暇なのである。人が並んでいる時もあり一気に水は出てこないそれは手間なのである。

家事を全部一人でしているから手間になること時間にかかる時間がかかることをしたくないのである。もし昔のように風呂をたいていたらそれだけで労力を費やして時間も失われるのである。
だからどれだけ昔は家事に労力を費やし時間を費やしたかわかる。今なぜ自分のようなルーズなものがなんとか一人で家事ができているのか。それは一人暮らしでもでん便利になっているからできるのである。ただ料理だけは相当な手間であり時間がかかり簡単にはできない。料理には10種類くらいのものが必要になるそれを揃えるだけで手間なのである。調味料とか様々なものがありそれが面倒になってくるのである。料理というのはどうしても手間が省け無いのである。だから弁当を買って簡単に済ましたいとなってしまうのである。でも弁当は必ず飽きてしまうのである。

●人間はあらゆることに手間と時間をかけられない

とにかく人間は何をするにしても手間と時間がかかる。これは省くことができないのである。例えばインターネットでも何か新しいことをしようとすると覚えることがかなりありなかなか出来ない。ワードプレスをしようとしているのだがそれも今になるとなかなか出来ない。私がインターネットをに早い時期からしていたのは引きこもりであり暇だからできたのである。
この世界を知るにはやはり相当な手間が必要でありまた時間もかかっていたのである。だから何十年も前にワードプレスでもしていればこうはならなかったのである。つまり何でやれ何かを習得するということは学習するということ自体が時間がかかるということで手間もかかるのである。でも人間はあらゆることに手間と時間をかけることはできない。例えば楽器一つでも習得するにわやはり手間であり時間がかかるのである。語学なども習得するにわ必ず手間であり時間がかかるのである。

そして人間はあらゆることに労力を注ぎ時間をかけることはできない。あることに時間をかければ他の事には時間をかけられないのである。そして人間に与えられた時間は短いのでは。だからみんな老人になればなんで何もたいしたこともやれずに終わったとまでなる。私自身も何かをしようとしてきたのだがそれもちょっと試しただけで何も成さずに終わってしまう。つまり何かを経験するにしてもわずかのことしか経験できないしそのうちただ時間が過ぎて何かを試したり何かをする時間もなくなっていたのである

ともかく家事は一仕事である機械化されていたとしてもやはり人間の手間と時間がかかるのである。特に料理はそうである。料理に凝ったりしたらもう何かほかのことはできなくなってしまうのである。つまり人間が専門化するということは料理にだけ集中して経験を積んでいけばその人の能力もあるがやはりそれなりの料理人になってゆく。要するに人間とは才能もいろいろだが何に時間をかけたか何に労力を費やしたかでそれがその人の人生だったともなる。

とてもあらゆることに精通する人はいないし何でもできる人は居ない,何かに熟練するにしてもそれは一つの事にはできるが一分野にはできてもあらゆることに熟練することは不可能である。だから無数の専門家に分かれてしまったことでもわかる。
家事でも掃除であれ料理である頼むようになった。家事の専門家に頼むようにもなったのである。それは人間はあらゆることに手間をかけて時間をかけることができないからである。こうしてプログでかけるの手間と時間を省けるから一人でもやれているのである。もしこれが手書きだったり紙に原稿に書いたりそれから雑誌に載せたりしたらそれを配るだけでも大変な手間になる。ネットならそういうことは全部誰にも頼まずに一人で出来てしまうのである。
でも依然として文章を書く労力と暇は手間は必要なのである。だからどんなに便利になっても人間の労力と手間を全部省くことはできないのである。機械がやるにしてもその機械を点検する人も必要になってくる。AIでもそれが全部人間の代わりはしてくれない,必ず人間のすることがありそこに労力と手間がかかるのである

ただ文章入力にしても音声入力でしているがこれがもっと精度が良くなりなれば効率的になり時間が省かれる。音声入力の問題は後から必ず校正しなければならない。そのために一回だけでなく何度も文章を読み直して構成しなければならない。それが手間なのである。だからいくら機械が発達してもAIになっても人間の手を加えないと仕事にならないのである。逆にすべてが機械がやるようになったら人間は必要な物となってしまう。それはaiで起きるとされている。それをそれをまたそれはバカげた世界だと思う.
人間はいらないとして人工知能化した高度な知性のある機械が人間を支配してしまう。人工知能機械がコンピューターは人間を操作するという恐ろしい結果になるのである。

●老人は利益を求めず好きなことするにが理想

人間には機械には休むということはない。 24時間でも一年中でも休むことなく機械は働き続けることができる。それで文句も言わない。そうなると経営者は人間より機械を使った方が良いとなるのである。でもそんな世界は異常な世界である。人間には休息が必要であり自然にも休息は必要である。神も創造の技を1週間続けた後にその手を休めて休息したからである。その休息することが日曜日で聖なる日となったのである。日曜日は人間の技は何もしていけないということである。だから機械すら停止して休むべきだともなるかもしれない。冬はやはり休みに居る時であり休息の季節なのである。
ただ不思議なのは冬はふゆーふえるであり意外と野菜が育つときなのである。冬の時期に育ちやすい野菜が多いからだともなる

今年も終わりに近づいたが老人でも働かざるをえない働くことを教えられる日本は貧乏な国になった。でも昔から隠居というように老人がそんなに働くことがいいものなのかどうかはわからない。働きたいという人もいるし働く働けば生きがいがあるという人もいる。要するに人間は何かしら老人になっても生きがいを求めるのである。だから別に働くことは悪いことではない。ただ老人になってまで働かさせられることはいいことではない。自らが働くという働くことに生きがいを求めるならばいい。

でもそれを金銭のためにだけするというときまた問題がある。理想としては子供の時とときは遊ぶといってもそれは純粋な遊びであるそこに何か金を求めるとか利益を求めることはなかった。でも大人になれば何をするにしても遊ぶにしても利益を追求しているのである。だから老人になったらそうした利益から利益追求から金から解放されるというのは理想である。利益を得るためでなく金を得るためでなくその人の追求したいことをする。それは利益にならなくてもその人にとって価値があればいいとなる。それはあくまでも理想であり現実はそうはなっていない。人間はどうしても利益から離れられないし金から解放されないそして地獄の沙汰も金次第となっているのである。それが人間の現実なのである。

おそらく天国とは金で価値を計れない世界になる。そもそも無数に花があるとしてその花のそれぞれに価値がある。その花自体に花のイデアに価値があるのであり神はその価値を人間に示したくて創造したのである。別に神は金など欲しくない、その花自体が持っている美をみとめてもらいたいとして創造したのである。それはそもそも金額で計れないものである。要するにに価値というときすべてを金で計ることはできないのである。だから天国では金は通用しなくなる。そのものが持っている神が創造した純粋な価値だけが問題になる。



posted by 天華 at 18:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年12月19日

車社会でで邪魔者にもなった歩行者と自転車 【自転車を持つ人は共に共感する―車は災害に弱い】


車社会でで邪魔者にもなった歩行者と自転車

【自転車を持つ人は共に共感する―車は災害に弱い】

●車を持つ人ともたない人の差

車を持たない人は車のことがわからない。この頃急に寒くなって自転車で買い物に行くと冷たい風を受ける。だから冬は自転車は不便である。車だと中は暖かいし風を受けることもないからである。それで自転車に乗っている人はやはり同じ気持ちになる。寒いと言うことで共感するからである。

でも車を持っている人とは共感しないのである。これは他でも弱い人は弱い人に共感する。それは同じように苦しむことがあるからその苦しみを知っているから共感するのである。でも必ずしも弱い人は弱い人を助けるということもできない。ともかく車を持っている人と持って居ない人の差も大きい。

だから昔はスーパーがないときは近くで買い物して用を足せるようにしていた。それは歩くことが歩く範囲が生活の用を足せることになっていた。遠くまで歩くとなると不便になるからである。でもスーパーができると歩く距離が長くなり面倒になる。車は車があれば遠くでも気にならない。雨であろうが寒くても風が吹こうが車なら気にする必要もない。
それだけ車というのは便利であり車を一旦持ったらばとても手放すことは出来ないだろう。そのために社会自体が車社会に適用するようになり車を持たない人は不便な生活を強いられるようになったのである。

ともかく買い物は一仕事である。それは買うことが生活にいもなる。だから買い物はできなくなるというか深刻になる。足を悪くした人は自力でスーパーにも行けなくなった。それでタクシーで買 い物しなければならない。でもその金がないのだからその負担も大きいのである。また医者に行くにしても歩いていけないからタクシーを利用するようになる。それも負担なのである。息子が車を持っていても仕事で使っているから土日としか乗せてもれえないからである。

●高齢化社会で老人が車に乗れないことが大きな問題になっている

奇妙なのはトラック運転手だった人が足を悪くして自転車に乗るようになったことである。その人は結構遠くまで電動自転車で行っている。丸森とかまでも行ったと言っている。だからその人と時々あって話している。つまり自転車を通じて話が合うとなるのである。その人はすでに老人であり車の運転が危険なのでしなくなったとも言える。だから老人になって事故になるとかで免許を返納するという人も多くなった。

でも車を乗らないということは相当に不便になる。車というのはそれだけ便利なものだからである。だから車に乗らないことは手足をもがれたような感覚にもなるかもしれない。人間はとにかく一旦便利なもの使っているとそれを手放すことは簡単にはできない。だからそもそも車がどれほど社会に影響したか。それは社会の変化でもいろいろあっても車ほど社会に影響したものはなかった。それは根本的に社会そのもの変えてしまったのである。

ただ高齢化社会になってこうして車に乗れない人も増えてくる。するとその足をどうするかとなる。そういうインフラはもうなくなっている。バスにしても一日2回くらいがら空きのバスは隣の一市まで一日二三回行き来しているだけである。いつもがら空きなのである。鉄道にしても不便なのは駅で待ってまた駅についてもそこから目的地まで行くのに距離がありタクシーを利用したりすると時間と金がかかるのである。だから病気になったとき車に乗せられて病院であり医者に行くの便利なのである。

ただ高齢化社会になるとどうしても近くが大事になる。それは車ででも運転できない人が増えたり足を悪くして歩けなくなった人もいてそれは昔のように近くに店があればなんとか用を足せるということもあった。今はそういうことができないからなんとか近くでも店はあったらいいなとか言う人もいる。
つまり高齢化社会とは身近な大切になるのである。それは買い物だけではなく身近に助け合う人がいれば楽になるのである。近くであれば歩いて相手の様子も見に行ける。

でもいくら車で便利だからといって隣の市まで8キロくらいしかないにしても行ったり来たりするのは不便になるのである。それで遠くの親戚より近くの隣人が頼りになるというのは今の時代でも活きている諺なのである。
でも今の社会は隣同士でも疎遠であり助け合うということもない。だから一概にそれがいいともならない。要するに近くでも疎遠であれば遠くに居る人と同じになってしまう。すぐ近くで助け合うこともないとすると遠くに居る人と同じとなってしまうのである。

理想は車でも自転車でも歩行者でも共存する社会である。でも車が道路を占有しているから自転車や歩行者は脇に追いやられるのである。車にとって自転車や歩行者は目障りなのである。共存するとしたら本当は自転車道路車の脇に作ることである。ヨーロッパあたりではそうしている。そうすれば車にとっても目障りとならない安全となり共存するということにもなる。ただ人間日本の土地は狭いからそうして大きな道路でも作りにくい。だから車の脇に自転車道路を作ることはなかなか出来ない。

でももしこれから老人高齢化社会で車が乗れなくなる人が増えると足をどうするのかということが問題になる。田舎だともはや車がなければ買い物もできないし何もできなくなるという状態にある。だから夫婦がいるとすると必ず一人一台車を持っているのである。そんな金があるのかとみるが日本では車だけはみんな持っている。みすぼらしい市営住宅でも車は持っているのである。

車なしではそもそも仕事もできないからそうなっている。それだけ車社会になれば車を持たない人は下級市民にもなってしまうのである。車は相当に金のかかるものである。おそらく私が車を持っていたら30年くらいで1000万くらいかかっていたかもしれない。車に金をかけないからその分が残ったともなる。


車社会は人を分散させ居住地差別を作り出し本質的に貧乏人、高齢者、ハンディキャッフをもった人間を排除する社会だ、車社会は車に乗れない人の身分を半人前にして彼らを社会の「一人前のメンバー」から排除した。

小さな駅から見えるもの (車社会を批判した本を読む-
「日本文明最強の秘密」増田悦佐)

●車は風流を感じない

ともかく最近急に寒くなった。自転車だとまともに風を受けて寒い。だから買い物でも楽でないとなる。それで自転車と車の持っている人の差がそこで感じるのである。車の中は暖かいし風を受けることもないからである。ただ風流を感じるにはまさに風の流れというように風を感じることだから車だと風流は感じなくなるということもある。

車だと夏で夏なら暑いからといって木陰で休むこともない。クーラー付きの車だから中は涼しいからである。でもそのことで自然を感じなくもなるのである。ただ一方で夏にしても自転車だと日差しをまともに受けるから日射病ににもなる。だから夏の間は外に出れないとなってしまうのである。だから夏でも車は中が涼しいから便利なのである。

だから自転車は夏と冬に弱い。外に出にくくなり閉じこもってしまうようにもなる。隣の市まで用事があって行かねばならないのだがそれも寒いと行きにくいのである。風流は寒きものなりといっても厳しいものとなるのである。
でも風流はまさに外の風を感じることなのだからそれを感じないことは風流にはならない。でも風流より日々の生活が大事なのだからそんなことを第一にする人はいないのである。そんなことは車がない自転車に乗る人は共感するのである。それは弱い人が弱い人に共感するのと似ている。車の人車を持っている人は自転車に乗っている人のことをわからない。

だから車から見れば自転車は邪魔ものなのである。それは自転車は突然道を横切ったりして目障りなのであそれは自転車に乗る人にとっても逆に車は急に後ろからきたりするから危険なのでつまり車と自転車は相入れないものなのである。また車にとって歩行者も邪魔者になってしまうのである。だからこそ車社会であり車優先社会であり社会自体が車によって大きく変化してしまったのである。その変化こそ根本的なものでありそれは人間自体も変えてしまったということにもなる。

つまり歩く時代は歩く人に共感する。旅は道連れ世は情けとなり歩くからこそ自ずとそうなったのである。車ではそんなことはありえないからである。ともかく自転車でもそうだがバイクでもバイクに乗る人に共感している。だから機械というのはやはり人間を変えてしまったである。だから必ずそこで得るものもある失うものはあるということである。科学技術自体が確かに得るものがあまりにも大きいものであったが失うものもまたあった。

それはこの辺の原発事故でそうだった。その恩恵は大きかったがいったん事故になったら故郷にも住めなくなったからである。科学技術がすべて良いものとしては作用しない。でもそれを否定することもできない。でも何が失われたかを知ることも大事だと思うのである

●災害に弱かった車、津波で渋滞して流された

車で意外と盲点になっていたのは津波の時渋滞になって身動き取れなくなって流された。車というのは意外と大きななものであり道路を占有する割合が大きいのである。でも人を運ぶにしてもせいぜい4人くらいでありバスとか鉄道のように多人数を運ぶことはできないのである。それで津波のとき渋滞したのは一台一台の車が道路を専用する割合が小さいようで大きかったから渋滞したのである。

もし大型バスであれ他人数を乗せて逃げればそうはならなかったので一台一台車をみんな持っているからそれが道路を占有して渋滞して津波から逃れられなくなったのである。だからそれは盲点だったのである。
例えば東京あたりで大災害になると地震であれ車は使えなくなるかもしれない。道路が陥没したり建物が倒れたりして車が使えなくなる。それは私のところで大地震があり津波があり原発事故があったとき車が使えなくなったのである。ガソリンが使えなくなり車が長蛇の列となった。ところが私は2週間くらいたって隣の市でスーパーをが開いたということで自転車で買い物に行けたのである。その時は車は使えないということもあった。だから何かある時車はもう一転して不便なものとなり危害を加えるものともなるのである。

ともかく何か便利なものというのは科学技術でもすべてがよく作用するとは限らない。そのことか原発事故でいやというほど経験した。津波でもやはりそういうことがあったのである。だからこれほど便利な社会になっている時一旦大災害が起きたときどうなるのかそれをイメージするとき空恐ろしくなる。それは東京とかの大都会が大地震になったときどうなってしまうのか。それを想像するとするとき恐ろしくなるのである。家も密集していて火事になっても逃げ場も場もなくなる。大都会は災害には弱いのである。

そしてその時車などは使い物にならなくなる。だからその時歩いて逃げるとか自転車でも利用する他なくなるかもしれない。ただ自転車などでも道路が破壊すれば利用できなくなってしまう。だから文明社会というのは便利なのだがその反作用として災害に弱いということなのである。田舎のように家が点在していればそうはならないからである。ビルでも火事になり煙が充満したら逃げ場がなくなってしまうのである。

つまり大都会というのは脱出しにくくなるのである。でも仙台市くらいならなんとか郊外に脱出できるかもしれない。それでも結構大きな都市だから苦労するとなる。東京となるともはや脱出は不可能になる。歩いて脱出するにしてもその距離が長いから簡単にはできないからである。その時車は使い物にならず食べ物でも飲み物でも備蓄しててそれで足りるとはならない。でも三陸のほうでは裏の清水を取ってきて汲んできて薪を山から切って切ってそれで米を炊いて互いに協力して助かったということがある。

むしろ災害に強いのは自然に依拠して生活している人かもしれない。だから大都会に住んでいる人は災害に対して危機感を持たなければならないのだがそれにも限度がある。だからでも最近では東京遷都など話題にもならなくなった。でも人間とは何もなければ危機感を持たない。でも津波や原発事故や大災害を経験したこの辺では危機感を持つことが大事なことが現実で示されたのである。だから大災害が来なくてもいつか必ずくるのである。でもそれに備えることができない。東京から脱出することもできない。でもその未来をイメージしたら空恐ろしいものとなる。

posted by 天華 at 17:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年12月18日

宗教の基本は偶像崇拝の禁止 【人は形あるもの神とする―youtubeではまず顔と体を見る】

宗教の基本は偶像崇拝の禁止

【人は形あるもの神とする―youtubeではまず顔と体を見る】

宗教というとき宗教の基本は何なのか。人間は何でも神にしやすい。だから原始時代でもその後もあらゆるものが神となり崇拝した。

それは彼の名前が即、神に対する反逆を表明しているからである。つまり「ニムロド」とはヘブライ語で「我等は反逆する」を意味している。狩人としての彼の行為もまた、凶暴かつ残虐的に描写されている。なかんずくバベルの塔の建造においてはその企画発案者と見なされている。彼は巨大な塔を建て、唯一の神ではなく、偶像崇拝を始めるようになる。

ミドラーシュには、バベルでの偶像崇拝を拒絶した青年時代のアブラハムを炉に投げ入れるよう命じる場面が詳述されている。この逸話は一神教徒アブラハムと偶像崇拝者ニムロドとの間に起きた神学的な闘争として、アブラハムの信仰心について語る際によく引用されている。

ダンテ・アリギエーリの『神曲』では、ニムロドは巨人の姿で登場し、地獄の第九圏において裁かれている。

宗教の基本は偶像崇拝の拒否である。とにかく人間は目に見えるもの形あるものを神として崇拝する。だからエジプトでわ巨大な神像を作りさまざまな動物の神として崇拝した。だからエジプトは偶像崇拝で満ちていたのである。それでその偶像崇拝を拒否してエジプトを脱出したのはモーゼに率いられたヘブル人だったと思う。

つまり宗教の起源は神ならざるもの神として崇拝していることである。そのことが日本などでは理解されていない。日本はだから偶像崇拝に陥り安い国だとなる。 八百万の神がいる日本だからである。聖書でも偶像崇拝との戦いでありそのために命も賭けている。偶像崇拝が極端になったのはイスラム教である。一切の形あるものをー作ることは禁止されたからである。だからモスクでわ幾何学模様の文様しかないのである。

とにかく偶像崇拝を許さない極端に恐れているのである。それはやはりイスラム教でも今日もアブラハムから出て聖書に現れた記された神よ起源としているからである。
そしてねたむ神として神は偶像を拒否して真実の神を示したのである具現したのである。それは目に見えるものではない形あるものではない。それは確かにアブラハムからヘブル人に現れたのである。

人間は偶像崇拝に陥りやすい。カルト教団でもその教祖は競争は偶像化した。池田大作であれ麻原彰晃であれ大川隆法であれ偶像化した。。何か偶像というとき常に身近にある。例えばユーチューブでは必ずその人の顔とか体を見る。するとその身体を見て顔をまず見る。それで何か体が大きいとその人は偉大なように見えてそれも偶像崇拝にもなりやすい。何かか弱小な人間は体の強い大きなものに憧れるからである。そこで偶像崇拝に陥りやすいのである。

だからテレビという媒体はその影響が大きかった。前はラジオだったがそこでアナウンサーだった人がテレビが出た時やめたのである。それはテレビだとまず顔と体が映る。だから見映えが良くないと人気にならない。言葉だけだったら音声だけだったらその人の姿を見ないからその姿や顔から判断されないからそうなったのである。ともかくユーチューブだとその人は何かを語ることよりその人の顔を見たり体をみたりするのである。そうすると顔とか体の影響が大きなものとなる。そこで偶像崇拝に陥りやすいともなる。

ともかく一方でただの人間が神ともみない。ただの同じ人間じゃないかとも見る。だから神話時代でわ巨人が神となったくてエジプトでは巨大な心臓神の像は作られた。人間のようなものは神であるということはありえないと見たからである。でも一方で依然として人間でも神となる偶像崇拝がやはりある。人間はどうしても形あるものを実在するもの現実としてみる。

でも神は見えないものであり形あるものではないのである。だから人間が人間を師とするとき確かにそこで学ぶものがあるとしてもその差があまりに大きいから神格化されやすいのである。
つまり偶像化されやすいのである。ニムロデは巨人であり最初に王となった人物である。その人がバベルの塔を計画したという。ニムロデと反逆する意味であり神に反逆するものとして記されているのである。

確かなことは人間は形あるもの神として形無いものは見えない。でも神は形のない物として現れたのが神である。形のあるものを神とした時人間は神はそれを見て人間に対して妬んだのである。だから妬む神として現れたのである。でも神が妬んだりするのかということもある。でも神といっても人間と通じるものがあるのが神なのである。だから妬むと言う時やはり神も人間的なものを持っていたのである。



2023年12月16日

俳句の英訳の試み【石についての俳句】 【丸森の石など―冬の暮、冬の星、冬の灯、短日】


俳句の英訳の試み【石についての俳句】

【丸森の石など―冬の暮、冬の星、冬の灯、短日】


短日や丸森暮れむ分かれ道
大内の菓子店に冬の灯ともる

旅人の去り行く影や冬の暮

one traveller has gone away 
in the distance
a winter day close

旅人の寝そべる石や冬の暮

a traveller lies down
on the stoned bed
by th way of mountains
one winter day close

yoriishi.jpg

石一つ村に隠され草の花

by the way of a villiage
a  kind of flowers in autumn
one silent hidden stone

大石の位置の変わらず冬の星

the big stationary stone
one winter day close
a star in the distance

marumoristone.jpg

内川にそって阿武隈荘のつく、その途中にある石

私は石に興味を持っている。丸森はいろいろな石があり有名である。でも丸森でも相当に広いからその石を知ることが難しい。でもその石を紹介しているサイトがある。でもそもそも人間は一つの石でも全体の中にありその一つの石だけを認識するということはなかなかない。
そして記憶というのは一部分を記憶するのではなく全体から部分を記憶する。石一つだけを取り出して記憶しているのではない。人間の感覚は全体を意識し部分を見る。一つの石だけを抽出して見るということはそれは科学者ならありえるがその一つの石の成分を調べる。
でも科学者にしても地質学者にしてその一つの石でもその土地の全体のその土地の成り立ちからその一つの石も生まれているからそれを一つの部分としてだけはだけと見ることはできないのである。

言葉にしても一つの単語でもそこに様々な意味があり文脈の中でその単語も生きてくる。ただ外国語になると英語でも一つの単語の意味が日本語とは違っていてそれを理解するのは難しい。
stationaryはstationから派生した言葉である。その感覚は日本とは違っている。立っているが語源だとしている。日本だとstationはすぐに鉄道の駅をイメージする。

停車場; 駅; ステーション; 駅舎; 位置; 発着所; 地位; 観測点; 身分; 本部; 放送局; 根拠地; 基準点; 観測所; 端末; 基点; 駅頭; 持ち場; 観測地点; 警備区域; 局; 場所

a lowly station in life 低い身分.

[station oneself で] (…の)位置につく,立つ.
He stationed himself behind a tree. 彼は木陰に立った.

above |one|'|s| station
身分[立場]をわきまえずに;身の程知らず

stationの応用範囲がこのように広いのである。文房具がstationaryなのも日本語的にはありえない。ただ漢字一つをとってもまた中国語と日本語では解釈が違う。そもそも言葉の不思議は言葉の前に神が創造した事物があり世界がある。それを言葉にするとき無理があった。それで言葉にできないという光景でも事物でもあった。それはアメリカのグランドキャニオンなどはその前に立ったらとても言葉にできないものを感じた。アメリカの広大な世界を言葉にすることができない。それはホイットマンの詩でも言葉にしても言葉で表せないものは感じるのである。

ただ日本などでは歴史が長いからその自然でも事物でも言語化できたとなる。なぜ日本では俳句などの短い文章で表現したのか。それはグランドキャニオンなどとか大平原などとか大草原とか砂漠とかと違った何かコンパクトな風景でありそれで最も短い詩の俳句が生まれたのである。
ただその感覚でアメリカとか中国とか大陸に行って俳句を作ろうとしたら何かそぐわないものとなるの。例えば言葉にできないものがある。あまりに巨大な物は宇宙とかなると言葉にできない。それは言葉を超えたものとしてあるからである。だからいくら言葉で表現しようとしてもこの世界を表現できることは無い。
いずれにしろ詩は言葉の芸術だから言葉と格闘するそれで英語でも訳すときやはり何か言葉が違うと違ったように感じるのである。
だからそもそも詩は訳せないとなっているのである。でも別な言葉で表現するとそれまた表現の幅が広がる。そこに語学を勉強する価値があるのである。でも思うことはそもそもが芸術でもそれを理解しないものは言葉にいくら通じていても理解しない。俳句のことなど知らない人が訳せるとも思えないのである。

つまり言葉の前にその人の感じることがなければ表現も何もないということである。だから理系でも世界的グローバル化するとき外国人と共同で研究するときそれが英語になる。でも科学者でないものがそもそも英語を使う前に科学のことに通じていなければ互いに話し合い理解を深めることは不可能なのである。言葉はできればすべてがわかるということではないのである
別に英語など話している人がどういくらでもある。でもその人たちが俳句や詩をを作ったり芸術家になるわけでもない。だから言葉の前にそもそも芸術的感覚を持たない人は美でもなんでも感じないということである





2023年12月15日

田舎に咲く冬薔薇【詩】−【田舎の冬の景色ー冬椿、冬の暮、枯野、白菊】


田舎に咲く冬薔薇【詩】−【田舎の冬の景色ー冬椿、冬の暮、枯野、白菊】

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ここには四五軒の家しかない

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クリック拡大で大きく見える、でもmicrosoft edgeでは拡大できない、firefoxでは拡大できる

四五軒や地蔵堂一つ冬の暮
四五軒や地蔵堂一つ冬椿
野は枯れて沖に一艘船の行く後に船なき北の海かも
我が母の遺影に捧ぐ白菊や塵もつかずに映えるべしかな



yellowrose.jpg



田舎に咲く冬薔薇

大地は枯野となり休みに入る
山々も眠りに入り平穏である
いつも通る道の塀越しに
黄色の薔薇が映える
静けさの充ちて光がさす
何か清楚な妻のように、、、
日々私はこの道を通る
そこに人影もなくただ花を見る
田舎ではこうしてささいなものでも
ゆるやかな時の流れにその美を現わす
何気ないものにも見るべきものがある
ただ人は忙しくそれを見ない
平凡な田舎に事物は輝いている
自ずと光輝は添えられている
冬の太陽はひっそりと輝き
その光は薔薇にさしぬ
ここに薔薇の美しさがひそかに映える
我が家の庭にも赤い薔薇の咲きぬ
散らず残り咲いた一輪も遂に散った
そをいつくしみ神の優しい掌が受けとめる
田舎の時の流れは悠長にして
大地に木は深く根を張る
人は今常に追われ生活している
喧噪の中に埋没する
その美しきものを見逃がしている
最も身近にあるもの見ない
それ故に花は咲いても悲しむ
私をもっと静かに深く見てくださいと・・・


毎日同じ道を通っている。遠くへの旅は十五年くらいしてない。ただ近場を回っているだけである。それでも何か見るべきものがあった。何かを感じたり見たりする時人間というのは時間がかかる。この時間は省略できないのである。だから車社会になった時途中のものを飛ばして観ていない。爆音とともに過ぎ去ってゆくからである。

でももし毎日昔のように歩いていたら必ずその道に何かを見ている。また学校だったら歩いて通ったのだから道草をして遊んでいたのである。それが現代にはなくなった。小学校にすら車で親が送り迎えしているということもある。
車というのはそれだけとにかく便利なのである。それを感じたのは足が悪くて歩けなくなった人が息子の車に乗せられて病院などに行くのを見たときである。ただ車社会となるときそこで失われたものもある。それが意外と気づいていないのである。でも車を持たない人は自転車の人は必ず道を走っても花など咲いていればそれを見ているのであるそれより歩くことしか移動できない時代だったらさらにその歩いて歩く道の花であれ何か見ていたのである。

だからなぜシャッター通りができたのかそれは車社会になったとき車で移動するようになったからである。つまり車というのは実は一番社会を変えてしまったものだと思う。それは政治を変えるより根本的なところで人間社会を変えてしまったのである。その影響はあまりにも大きいものだったのである。もちろん車社会が全て悪いというものではない。ただそこで失われたもの変えられたものがあったということ意外と車を持っている人にわ気づかないのである

それもあるが人間はそもそもありふれたもの常に目前にあるもの感じない。私は毎日その道を通って塀越しにに咲いている黄色の薔薇を見ていた。それは何も変わったことではない。でも日々そこを通っているとそのバラが心に写りとどまりその美を感じる。特別変わったことでもないがやはり毎日通っていることで意識するまでもなく心に映されていたのである。
つまり人間というのは何かを感じる時時間が必要なのである。だから旅で感じるものがあってもそこは一回限りであり時間がないからなかなか深く感じられないのである。何回もそこに行けば感じることがあるが一回限りでわはなかなか深くは感じることができない。

でもいつも住んでる場所と変わり映えもなくつまらないともなる。ただ日本人が時間軸に生きるという時大陸では広大な広さがあるから移動すれば必ず変わった風景に出会う。人種もまた違ってくるのである。だから大陸では空間軸に生きるということもわかる。日本は島国でありなかなかそうして移動して生きるということはあまりない。アメリカなども広大であり常に住む所を移動しているというのも分かる。それはやはり遊牧民的生活なのである。。だからその感覚は日本には無い。日本ではこうして移動しにくいから閉塞感をもつのである。第一大陸では民族自体が移動してそれが戦争になる。陸続きになればそうなりやすいのである。
日本人は狭い場所で時間軸で生きているというとき一番変化するのは季節である。四季があることでそれが変化になっているのであるだからこそ俳句が生まれたのである。季語なくして俳句はあり得ないからである。

老人になると何かあまり移動しなくなる。移動することが億劫になるのである。だから定着して周りの者ものでも花でも何でも深く見るということになる。それは別に周りのものだけでなく芸術で深く鑑賞するということに向いてくるのである。そもそも芸術というのは簡単に鑑賞もできないし理解もできない。だからそもそも芸術を鑑賞できる批評できる人はその人もまた芸術家だとなってしまう。

現在は何か物事を深く考えるとか深く見るということが欠けている。なんでも表面的に見て深くみないのである。それは車社会になったとき途中にあるものを飛ばしてみないとように時間でも絶えず追われていてじっくりと見るということができないのである。人間は何をするにも必ず時間がかかりその時間を省くことはできない。空間だと土地を飛ばして途中を飛ばして外国までも行ける。でも時間を縮めたり飛ばしたり元に戻ったりできないのである。だから旅をしても一回ぐらいだと外国は相当に変わっているから何かそこで深く感じる事もできないのである。やはりそこに感じるにはどうしても時間がかかるからである。

とにかく大都会になると煩雑になる人でごった返しして何か感じることも難しくなる。返って田舎だと一見平凡に見えてもそこに詩にしたように美が自ずと映えるのである。その時その家の庭に人も常にいない。田舎では人が見えないのである。では見ていないかというと見ているから困るのである。ただ田舎の人がいいとはならない。むしろそこに人がいないような状態がその花をより美しく映えさせているのである。
でもそこに人が出てくるとき何か幻滅したものにもなる。それだけ人間自体が醜いからだともなる。それで人間の暮らしを神が隠したというときまさに田舎とか村では人は隠されている。都会ではビルであれ人であれむき出しになって雑踏になって雑居になって群衆でうめられてそこに花でも映えにくいのである。だからむしろ静かな閑散とした田舎の方で花でも事物でも時間の中でその美容表すのである。



参考としてのdeepleでの英訳

Winter roses bloom in the countryside

The earth has become a withering field and is at rest
The mountains have gone to sleep and are at peace
Over the wall of the road I always pass
A yellow rose shines through the wall of the road we always walk
Tranquility fills the air and light shines through
Like some chaste wife..,
Every day I pass this way
I see no one there, just the flowers
In the countryside, even something as small as this
In the countryside, even the smallest thing reveals its beauty in the gentle flow of time
There is something to see in the ordinary things
But people are too busy to see it
Things shine in the ordinary countryside
The luster is naturally added
The winter sun shines quietly
Its light shines on the rose
Here the beauty of the rose is secretly reflected
A red rose blooms in my garden
The one rose that remained in bloom has finally fallen
God's tender hands catch it in His mercy
In the countryside, time passes in a leisurely manner
Trees spread their roots deep in the earth
People live their lives in constant pursuit
Missing the beauty of it all
We do not see what is closest to us
That's why flowers bloom and yet grieve
I ask you to look at me more quietly and deeply...

幽霊化する老人-老人の心境の不思議 【死者は威厳があるが生きている老人は邪魔物】

幽霊化する老人-老人の心境の不思議

【死者は威厳があるが生きている老人は邪魔物】

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老人を若い人はなかなか理解できない。また老人自体がどういうものかそれは老人になってみないとわからない。若い人と老人の差は天と地のようにある。老人の特徴は70以上にもなれば常に死を感じることである。それも常に目の前に死あるという感じになる。そして老人はこの世とあの世の中間に居るような存在になる。すでにこの世にいても半分はあの世にいるという感覚にもなる。なぜならこの世とはすでに去っていく場でありもはや生きる場でもなくなっている。

それでつくづくliveはlieve【去る】場所なのである。つまり生きることは去ることなのである。だから最後はさよならだけが人生だと言うのも分かる。人はただあってもそれは一時のことでありただ別れるだけだというふうになってしまう。だからこの世は一的にいる場所でありまもなく去っていなくなるだけである。

それで老人がどういうふうになってしまうのか。老人とは生きながら幽霊のようになってしまうこともある。この幽霊というのは死んだ人が化けて出てくるとか言うが実際は幽霊のようになるのは生きている人間でありそれが老人なのである。
例えば認知症になると何かこの世に生きているのだがこの世を幽霊のようにさまよっているという感覚にもなる。それは確かに記憶障害であり病気なのだが老人全般に起こりうることなのである。なぜなら老人というのは昔経験したことが現実であり覚えている。でも今経験したり人であってもそれもそれも記憶できないとか不確実なものとなりまるで夢遊病者のようにさまよっているという感覚になる。

つまりもはや現実を認識できなくなっているということもある。だから何か幽霊のようにも見えることがある。ただ認知症でなくても普通の人でも老人は幽霊化するように思える。何か近くの人でも85ぐらいになっている。その人も一人自分の家に居るが何か幽霊のようにしてとどまっているというふうにも見える。おそらくいくら年取っても社会の中で役割があり仕事をしているような人は幽霊のようには見えない。 90歳まで医者として働いていた人はそんな風には見えない。それは依然として社会に役割があるからである。また家族の中でも家事をしていればそこに役割があり無用化されないから何か幽霊のようには見えない。幽霊のように見えるのは会社を退職したり何もしないで社会に役割がないそういう人たちが幽霊のように見えることがある。

ただ一般的に老人は生と死の境にありその中ですでに生きたまま幽霊のようになってしまう傾向はある。不思議なのは死者が幽霊になるというがそういうことはないと思う。なぜならいったん人が死ぬと死者は返って威厳があり死者はもはや邪魔ものともされない。死者を敬われるのである。だから死というものは全て悪いものではない。ただ何も用もなく夢遊病者のようにさまよい邪魔者扱いされる老人とはまるで違っているのである。中国でも老人が増えて息子にまだ生きているのかと言われ自殺したろう人もいる。日本でも百歳頃まで生きて息子に娘に長生きしてごめんなと言っている老人もいる。老人は生きることに肩身が狭くなっているのである。

でも死者は違うのである。死者は決して邪魔者はならない決して迷惑をかけないからである。それが幽霊のように生きて邪魔者扱いされる老人とはまるで違ったものなのである。
なぜそうなるのか不思議だとなる。だから死がそんなに悪いものとも思えないのである。むしろ生に執着して老人となり幽霊のように生きていることがかえって辛いものともなる。だから早く死ねばいいというわけではないが何か高齢化社会になると社会でも無用になり邪魔者扱いされる人が増えてくる。そうならば死んだ方がましだと思う。死んだなら人は邪魔者扱いしない敬われる威厳のある存在となるのである。

いづれにしろ老人の心境はすでにこの世から半分は離脱したような状態になっている。この世からまもなく消えるのだからこの世のことをいろいろ執着しても無駄だと思うようになる。そしてむしろあの世のは近くなり半分はあの世に行ってしまっているのかもしれない。そして認知症の人は死んだ人と延々と語り続けているということがある。ところが普通の人でも老人にとって親しい人は死んだ人なのである。だから自分自身で60年以上居た家族と死んでも毎日語りかけているのである。老人とはそうなりやすいのである。もはや新しい関係を人間関係を作ることが難しいのである。そして認知症になるともう新しい人覚えることもできなくなってしまうのである。

ただこの幽霊化現象は別に老人にだけ起きていることでもない。すでに若い人でも現代人は幽霊のようになっているという人もいる思想家にいる。ピカ‐トなどはそうである。大衆化した人間はそこで人間としての存在も消失して何か幽霊のようになっているという。確かに東京とかの大都会で人と出会ってもそれはまるで幽霊と出会ったような感覚にもなる。人間の存在が喪失してそうなったともなる。だから幽霊化現象は老人だけに起きているともならない。確かなことは人間の実存感がなくなると幽霊のようになってしまうということである。だから認知症のようになると夢遊病者のようにさまようとなる。その数も高齢者になると多いから大問題になるのである。

ただし死者になると一転して周りでも貶めることもできない敬れる存在となるのも不思議だとなる。だから死が悪いとも思えないのである。むしろ生きている生きていて貶められて邪魔者扱いされるこそいいものではないのである。だからと言って死を勧めるわけではない。つまり生きているものと死者とはそれだけ大きな相違があるということである。生きている間はあらゆる人が貶めしたりされるから別に老人だけの話ではない。

でも一旦死ねば死者は威厳があり誰でも敬われるという存在になりうるのである。ただそれがすべての人には人がそうなるともならないが生きている者と死者とは相当に大きな差がある。だから原始社会では死んだ人は誰でも神のように崇められたということもわかる。それだけ死というのは人間にとっても不可解であり崇拝の対象にもなったということも分かるのである。

2023年12月13日

東電の追加賠償のこと 【死んだ人の賠償は実印も戸籍抄本も必要ー日本は効率化出来ない国】

東電の追加賠償のこと

【死んだ人の賠償は実印も戸籍抄本も必要ー日本は効率化出来ない国】

東電の追加賠償で書類の書き方を聞きに言った。そこで実印が必要になっていた。私個人の場合は戸籍もハンコも要らなかった。でも今回面倒なのは死んだ母親の賠償である。それで実印とか戸籍抄本とか必要になった。
ハンコにしても中国から買った1万くらいのいいハンコだと思ったのは意外とそうではなかった。ハンコ屋の人が言うには石のハンコは返って欠けやすいと言っていた。そういうものなのかとも思った。面倒なのは実印にするためにハンコを登録することになる。そのために役所に行かざるを得ない。でもなぜ日本はいまだにハンコとか戸籍抄本にこだわるのかそれがわからない
かじそ加治将一氏が常に批判しているのも分かる。なぜそんな効率の悪いことを依然として続けているのかわからない。そもそも中国ですらハンコなど使っていない。中国の方が先にit化したのである。後進国では固定電話を使う前に携帯電話とかスマホに変わったのである。

なぜ日本がバブル崩壊して失われた30年となったのか。ジャパンアズナンバーワンとか言われたのはなぜこんなに世界から遅れた国になったのかまた貧困化してしまったのか?。その理由の一つに意外と日本人がハンコとか戸籍とかにこだわり事務すら効率的にできないということであった。でもどうしてもなぜ江戸時代から駕籠を使って人を運んでいたような時代から突然明治になって外国の技術を取り入れて必死になってヨーロッパに追いつこうとしていた。だからその急激な変わり方に世界も驚いたし日本人でも明治時代は高く評価されている。

ではなぜ日本人がこんなに世界から遅れを取ってしまったのか。おそらく別に高度成長時代にハンコとかと戸籍を使っていてもそれを批判する人もいなかった。まだITが発達していなかったからである。パソコン無い時代だったからである。でも日本人は明治時代のように外国のものをいち早く取り入れて我が物にする傾向はなる。それはなぜITでわはできなかったのか。それは謎にもなる。そのために日本はいまだにハンコとか戸籍にこだわり事務手続きも遅くなり無駄なことに金と時間を費やしているというのも分かる。ハンコなど中国で生まれたものだが中国自身がハンコなど使っていなからである。

東電の追加賠償は今生きている個人の場合は楽だった。でも事故の時死んだ人にも賠償されるから私の場合母親が生きていたからその分ももらえる。でも手続きが面倒になったのである。
ハンコでも半分がかけて新しいものにしなければならなかった。そこでまた費用と手間がかかるのである。戸籍抄本は母の相続の時取っていたがそれもなくなっていた。それでまた役所に行ってとらざるをえない。それも結構金がかかる。その金は役所に戸籍係に入るとなる。ハンコであれそれでまだ商売している人がいて戸籍抄本でも役所で係がいてそれでそこが収入にもなっているのである。役所に戸籍抄本で金を払うということはそれが無駄だという時役所なら他に金を使うことがいくらでもあるからである。特に福祉関係はいくらでも金を使う係なのである。だからそこでは厳しく金を出さないのである。でも戸籍係をなくして福祉関係の方に人を回してそこに予算も増やせば住民は助かるとなるのである。

ともかく東電の追加賠償は同じ南相馬市でも30キロから外れると鹿島区などは16万である。原町区はその3倍はもらう。その差も大きいのである。それで鹿島区の公民館で賠償金のことで原町であれ小高であれ共闘することをことで集まったがそれもできない。保証金の差はそれぞれに大きいし原町区と小高区は共同できるが鹿島区はできないとなった。何かそれは他でも区切られて分断されて協力させないで東電に政府に訴えることもできなくなさせる政略だったともされるのもわかる。現実のそうなっているからである。賠償金の差で分断されて協力できなくなたからである。

いずれにしろ今年も終わりに近づいた。それでこれまで書いてきた膨大なプログの記事を保存したりまとめるのに苦労している。とにかく保存しておかないとすべて消えるのが怖いのである。ただ整理するにしても膨大な量になっているから簡単にはできないのである。でもitの技術がないと何をするにしてもこの世界は面倒なのである。それが確かにitの不便なところでありいくら便利でも何か必ず面倒なことがある。だから基礎的な簡単なプログラムでも書けるということがitになじむことなのであるでも老人にはもはやその時間もなくできないとなったのである

脱ハンコどう思う? 印鑑に罪なし、役所のムダに着目を

写真がクリックして拡大して見れない 【MicrosoftEdgeでは見れないがFireFoxなどで見れる】


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2023年12月12日

母の命日―死者と何なのかー死者を語るは生者なり 【母に献げる短歌に詩ー冬紅葉、師走、冬の暮】

母の命日―死者と何なのかー死者を語るは生者なり

【母に献げる短歌に詩ー冬紅葉、師走、冬の暮】

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小林トミ子


六年過ぎ母の命日冬紅葉

細身なる母は百歳生きにしを大正生まれや師走が命日
我が家に嫁ぎてあわれ尽くしけり母の命日師走なるかな
百歳を苦しくもあれ涙して生きし母かな我が弔いぬ
それぞれに生きにし人や何語るただ虚しく忘れざるべし
人は死しなにか語らむ虚しくも消えしにあらじ残すものあり
人の生ただ虚しく消えなむや後の力となるべく生きよ
人は死し何を残すや空家なれ傷みて残る冬の暮かな
一輪の冬の薔薇あわれなお散らずここに留めむ我が見守りぬ
時は移り世は変わるとも忘れざれ死者も共にしなお生きむかな
我が家に残り守れるは一人かな死者を担いて勤め果たさむ
我が兄の死すも悲しも参る人我のみなりや墓を知るべし



私はこの家に嫁ぎ40年
この家とこの地とともにあった
私は哀しくも苦しくもこの家に生きぬ
私を忘れないでほしい
私の心はここにある
私の思いはここにある
私はここを離れない
私の心はここにありて
その裔を見守りぬ
死者はただ消えるにあらじ
死者は強くも生者に迫る
死者は貫く一本の木なれや
曲がれることなく真すぐなり
冷徹に死者は生者を見つめる
人は死者に偽ることならじ
人よ死者の霊前に身を正せ
死者は汝と共になお生きむ
死者は汝をなお励ますものなれ
生前もかくあり死後もかくあれ
死者は生者とともに生き続ける者なり

今日は母の命日だった。それで玄関の冬紅葉を遺影に捧げた。。母の一生は苦労の一生でもあった。幼児の時だけは恵まれていた。でも親が事業に失敗して母親が病気になって後妻が入って継母になりいじめられたとかいいことがなかった
母は細身であり体力がなかったが百歳まで生きた。血管が丈夫なことが原因だったらしい。
ただ良く百歳まで生きたと思う、どうしても百歳生きるということがイメージできないからである。

ここで私が問題にしているのは死者とは何かということであ死者とは何も語らないしこちらから語りかけても返事もない。では死者とは全く存在しないのだろうか。そうでもなくやはり存在し続けるということはある。ただ死者自身は何も語らないから何か返事もないから存在しているのかどうかも分からない。
だから死者が生きているというとき生者が死者を語るとき生きているとなる。また生者が死者に供養したりいろいろと語りかける。返事がなくても語りかける。

でもそれそれで独り言にもなるにもなる。それでも死者が全く存在しないということにもならないのである。だから死者が何かというとき本当に謎だとなる。
でも死者は簡単に死んですべてが消えてしまうというものでもない。死者は依然として残された生者と生きようとしているのである。死者をまた生前もそうであったが今生きている人励ますということもある。
私はこうして苦労して生きた。私をだから見習いと死者は暗黙のうちに諭している。ただ死者にもいろいろあるからそれぞれどう対処するかは違ったものとなる。

ともかく母が死んでから六年過ぎた。六年はまだ長いとも言えない。でも死者はどうしても忘れられ忘れ。でも死者を忘れないというときその人はやはり強く死者を思っているとなる。そこにいろいろな事情があって死者を想う度合いは違っているのである。私の家族は特殊な事情で特別家族を持っているのである。それは子供の時から60年とか一緒に暮らしたことが影響していたのである。
だから母であれ姉のことは忘れられないのである。結局人間の生きる時間は限られている。そこで誰とともにその時間を過ごすかということが問題になる。その過ごす時間は実は貴重なものだった。それは死んで見れば分かるのである。一緒に居る時間は失われたからである。その時間をもはや取り戻すことはできないのである

死者がどこにいるかと言うとやはり家というのは家族と一緒に暮らした家というのに愛着がある。特に女性の場合はそうなる。嫁というのは女と家となっているからである。嫁げばその嫁いだ先の家の女となっているからである。
そして心というときここでありその生きた土地がその心を土地と深く結びついているのである。だから心とここのことなのであるそれでこの辺で原発事故で避難した人々はその家からその土地から離れたとき心まで失ってしまうのかともなる。
先祖の霊はその土地にその家に土地にとどまるともなるからである。だから別の土地に移動するとその心も失われるとなってしまう。

ただ死んだ人はたとえ家族がいなくなってもその土地にとどまり霊魂がさまよっているかもしれないのである。それはその土地に生きたということでそこに愛着があり離れたくないということはある。死んだらそんなこと関係ないというがやはり人間はそこに永久生活していればそうなってしまうのである。だから農業社会だったら先祖は里の山に葬られ春になると山から降りてきて一緒に田植えしたりする。その土地と死者が深く結びついていることを示しているのである

ともかく母が師走に死んだというときふさわしものだった。なぜなら働き詰めの忙しい人生だったからである。そこで欠けていたのは余裕がなく花などいらないと言って怒っていたことである。
そこに人間として欠けたものがあり不幸があったとなる。それは継母などに育てられて貧乏で働き詰めでそういう余裕がなかったということである。ただ女性でも別に花に興味がないという人もいる。だから別に恵まれていてもそういう人もいるのいる。

でも母の場合はやはり恵まれていない結果として何か楽しむということはただ働き詰めの一生だったのである。それが自分にとっては嫌なものだった。そういう環境に置かれたということで同情はしているのである。おそらく私の母はもしかしたら恵まれた環境にあれば短歌などを作っていたと思う。私は短歌などを作っているがそれはやはり母からの資質が伝わったのだと思う。
だから才能でもやはり遺伝的なことがあることは確かである。要するに才能でも環境に恵まれなければ発揮できないということになる。母の場合はただ働き詰めでやれそういう余裕がなく花はいらないとか言って死んだのも悲しいとなる。ただそれは母の責任ではなくそういう環境に生きざるを得なかったという事で同情しているのある。

ともかく家事でも一人で切り盛りすることは結構大変である。だから常に何か家事に追わいる。またプログを書くにしても時間はかかる。それで常に何か追われている。年の暮れ師走になって特にそうである。だからどうしても食事の用意などが面倒だから簡単にすましてしまう。現代ではそういうことがしやすい。昔だったら本当に家事に追われていたと思う。洗濯機炊飯器も電器製品がなかったとした家事自体が大変な労働になっていた。その家事家事をしてまた農家で私の家でも店をしていたからどれだけ忙しいかったかということを私自身が実感したのである。
何か死者を供養することは残された者の務めである。死者を回顧してこうしてかいているのもそうである。だから人が死んでも終わるわけではない、人間の生は継続されるのである。

ただ何とかプログが書けているのは欠けているのはやはりそれだけ家事の手間が省かれたからできるのである。そうでなければとてもプログに毎日書くということもできなかった。それでさくらのプログに不具合ができているし新しくプログを作ることはできなくなった。それでsslにHTTPSにしなければならないのにできなかった。これも時間がかかるからである。
なぜ私がこのインタビューにパソコンができたかというと引きこもりで時間があったからに尽きる。ともかく何するにも時間がかかる。その時間がなくなってくるのである。だから他に移るにしてもワードプレスをやろうとしてもめんどうになる。つまりそのためには時間がかかるからである。その手間が大変なのである。








2023年12月11日

戦争はなぜ起きるのか 【内村鑑三の非戦論から時代を見る】

戦争はなぜ起きるのか

【内村鑑三の非戦論から時代を見る】

●戦争は指導者層の対立であり国民は戦争を望まない

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もし日本とロシアとは衝突するに至るならばそれは日本にあって平和を唱える吾人とロシアにあて同一の平和を唱える文豪とルイストルストイ、美術家フェレスチャギン等と衝突するのではない、
それは日本の海軍大臣山本権兵衛とロシアの極東総督アレキシーフ大将とが衝突するのである。
また日本の陸軍大臣寺内中将とロシアの陸軍大臣クロパトキンが衝突するのである。
また日本の児玉文部大臣とロシアの教務大臣ボべドノステフォが衝突するのである。
すなわち日本にあって剣を帯びる者がロシアにあって剣を帯びる者と衝突するのである。
また日本にあっても忠君愛国道徳と世界併合主義を唱える者とロシアにあった同一の主義道徳を唱える者が衝突するのである。。すなわち名は日露の衝突であれ実は両国の帝国主義の衝突である。
そうしてこの衝突のために最も多く迷惑を感ずるものは平和を追求してやまざる両国の領民である。

なぜ戦争が起きるのか。ここで内村鑑三は言っているのはその国民が戦争を起こすのではない。その国の指導者が指導者同士が対立して戦争になる。その国民は別に戦争は望んでいないということがある。だから戦争の原因はその国の支配階級にある。だからロシアでもウクライナとの戦争はある時その原因は両方の大統領プーチンとゼレンスキー大統領とは争っているのかとなる。ウクライナのとロシアの民衆は必ずしも戦争を望んでいない。戦争で死にたくないとロシアでも逃れる人は相当いる。
またアラブ人のガザに住んでいる人たちも必ずしもハマスを支持しているわけではない。イスラエルのユダヤ人にしてもすべてネタニヤフ首相を指示しているわけではない。ユダヤ人でも戦争に反対している人がいるのである。

だから一体戦争になる原因が何なのかというときそこに住んでいる住民とか国民は必ずしも戦争を望まない。平和的にそうしたい暮らしたいというのが普通なのである。おそらくガザの住民にしても不満はあるにしてもすべてがハマス指示しているわけではなかった。だからハマスの残虐なテロ批判する人もいたのである。その結果はガザの惨状になったからである。それはあまりにも残酷な光景だった。確かにイスラエルには報復する自衛する権利はあった。でもそれがやりすぎだったということで批判がもある。つまりイスラエルの国民にしてみればガザの住人にしてもすべてが敵対してどちらかが倒れるまで戦うということは望んでいない。その指導者たちがそう望んでいるだけである。それが戦争の実態である。

だから本当の責任はアラブ側にすればパレスパレスチナ側にすればハマスにありイスラエル側にすれば過激派のネタニヤフ首相にもあるとなる。住民にしてもこれほどの被害がある戦争などしたくないとなっているからだ。そもそもどうして戦争が起きるのかまた起きたのか。それは必ずしも双方の国民が望んだというのではなく指導者がその時の支配者が望んだことであり双方の国民は平和であるほうが良いのである。そもそも明治時代頃アメリカは内戦はあったが外部へ戦争はしていなかった.
れで日本でもアメリカをよく見ていたのである。それが今やアメリカは最大の軍事力の国であり帝国主義の国にもなったのである。明治時代には軍事力もないしでも経済が活発でありアメリカという国をよく見ていたのである。それはあまりにも大きく変質してしまったのである。

とにかく戦争は必ずしも国民が望んで起こすことではない起こすわけではない。時の指導者たちが対立して戦争になる.だからこそ双方の国民で戦争に反対する人たちが必ずいるわけであるそうなれば両方の戦争を反対する人たちが立ち上がり共同するということは戦争をやめさせるということにもなる。でも指導者たちはそれを望まない。どうしても勝ちたいとなり領土拡大したいとなりやめることができないのである。

●剣を持つものは剣で滅びる

ともかく内村鑑三は日清戦争は賛成していた。でも日露戦争になると反対していたのである。でも日本では日露戦争は勝ったとして評価する人が多いのである。でもその日露戦争に勝ったということがおごりとなって後の太平洋戦争にも結びついたとなる。ただ日露戦争に関してはあまり今でも批判はしない。でも太平洋戦争になるとその被害も300万人も死んだとか原爆を落とされたとか無残な敗北となったので評価する人はいるにしても少ない。未だその戦争の原因が何なのか何のためにそれだけの犠牲を払ったのかも国民的にその評価が決められていないし。要するに何のための戦争だったのかそれが明確になっていないのである。

戦争というのは必ずしも国民同士の戦争ではない。別に国民同士は国が違っても友達にもなれる。むしろ戦争などしないで友達でありたいと思っている人が多いだろう。それは中国人であれロシア人であれ同じなのである。でもなぜ戦争になるのか。本当は互いに友達になり平和になり経済的に互いに利するようにするのがいい関係なのである。だからその国民はそうした平和を望んでいるのである。でもその上の指導者たちはそれを望まない。

そして国民同士を憎しみを持ち殺し合いをさせるとまでなる。それがあたかも国民の意志だともされてしまうのである。 剣を持つ者は指導者であり剣を持たない者はその国の民衆であり国民である。
でもその剣を持った指導者が国民に剣で戦いとなるのである。剣を持つ者は剣で滅びるというときその剣を持っている者とは必ずしもその双方の国民ではない。指導者が国民に剣を持たせるのである。剣を持って持たせて戦わせるのである。だから軍事力を持つこと自体が危険にもなってしまう。双方の国民は戦いたくはない。でも指導者たちによって戦わさせられるのである。

なぜなら剣を持つ限りそれは必ず利用されるからである。だから核兵器にしても必ずいつか利用される。武器を蓄えること自体戦争に備えているのでありそれが必ず使われる。だからいくら軍事力があっても平和を唱えても武器を捨てなければ必ずまたその武器は使われるのである。ハマスにしても地下の迷路に武器を蓄えていた。だからこそその武器は大量殺戮のために使われたのである。 イスラエルにしても軍事国家であり国を守るためにわ軍事力なくしてありえないとなっている。そして戦争になれば武器を使い人命が膨大に失われ国土は荒廃する。それをそこに住む人たちは国民が望んでいることではないのである。

でも何か国民が戦争望んでいるように見させるのでは実際はその住民でも国民でも戦争は望んでいないのである。だから誤解しやすいのはガザの住民がすべてハマス支持ではない。またイスラエルにしてもすべてがネタニヤフ首相の強硬派ではない。アラブ人であれ共存平和的共存を望んでいたのである。だから悪いのはハマスであり強硬派のネタニヤフとかなる。それら双方そのそこに住む住民がガザの住民でもハマスに対して抵抗することも必要だったのである。でも結局力こそ正義でありそれが武器であり軍事力となってしまっている。だからこそ剣を持つ者は剣で滅びるということをキリストが言ったのである双方とも剣を捨てない限り平和はないということである。

●幕臣の内村鑑三は薩長の藩閥政治を批判していた

明治時代の山口県出身の総理4人。
(伊藤博文、山縣有朋、桂太郎、寺内正毅)
鹿児島県(薩摩)からも3人が明治時代に総理大臣になっています。
(黒田清隆・松方正義・山本山本權兵衞)
鹿児島県は明治だけでその後、総理大臣は出ていません。
その後の山口県出身の総理大臣は
昭和の始めに1人(田中義一)
昭和(戦後)に2人(岸信介・佐藤栄作)
平成に1人(安倍晋三)
岸信介・佐藤栄作は兄弟です。岸信介の孫は安倍晋三です

いずれにしろ明治時代と今は相当に違っている。でも基本的に変わらないこともある。常に指導者が上に立つ者は必ず腐敗してくる。明治時代でも内村鑑三は幕臣でありそれで薩摩や長州の藩閥政治を常に批判していたのである。その長州閥はいまだに自民党の中に継続して存在していたのである。なぜなら山口県から8人の首相が出ていて阿部派が力を持っていたからである。その阿部派が政治資金の裏金問題で追求されている。もはや自民党の岸田政権は維持できないともされている。つまりその腐敗の中心に安倍派があったということである。ただ政権を持っていた時は検察でも取り調べることもできなかったのかも知れない。

安倍首相が死んで政権から離れたとき検察もやりやすくなったのかもしれない。こっちだ時代というときそれが必ず継続したものがありその時代時代で途切れて終わるということでもない。
だからなぜ山口県の長州は首相をその後8人も出していたかということである。それはやはり明治が薩摩長州の権力を握り支配したからだとなる。つまりその原因が薩摩長州の藩閥政治にありそれが尾を引いて今日まであるとまでなる。ただ薩摩は西郷隆盛の西南戦争で明治政府と戦って賊軍となったことで違っていた。

ともかく時代を見るとき何があったのか。それはそこに生きた個人があって特にその時代を代表するような人がいてその時代がどういう時代だったのか知ることができる。その代表は内村鑑三だったともなる。だから内村鑑三の言い残したことは今にも生きているとなるのである。大概百年も過ぎたらその人の残した本でも読まれないその人自体がほとんど忘れられてしまうのである。だから残した言葉でも文章でも今に生きているということはそれがその人物はその時代の指標ともなっていたとなる。だからその指標となる人物からその時代を見るということがわかりやすいものとなるのである。世界情勢でもその当時のことがわかりにくくなるからである。

内村鑑三は盛んに日本だけの繁栄とか平和を願ってもダメだ。世界に関心を持ち世界の一端を担うことをしなければ日本の繁栄も平和もないと言っている。だから明治時代の方が世界的視野を持って日本を見ていたということである。ただ日本がそういう風に世界的視野を持てなくなったのはアメリカに負けてからそうなったのである。だから明治時代の方が国際的視野を持ち日本はどうあるべきか世界の一端を担うべきだと盛んに言っているのは明治という時代がそれだけ日本にとって世界に目を向けて世界を考えていたということになる。

それが江戸時代から明治になってそうなのだからそれだけの世界に目を向けるということがありえたということは不思議だとなる。それだけ世界に目を向けていたということが江戸時代の鎖国の時代から明治になって突然急に開国してそうなったことが驚きでありアジアでは全くそういうことがなかった。日本だけがそうして欧米に対してその文明を取り入れ追いつこうとして必死になっていたということである。でも今や日本はむしろ江戸時代の鎖国のようになっているかもしれない。それは太平洋戦争で無残にも負けてしまったことが原因しているのである。その影響はあまりにも大きかったのである。
posted by 天華 at 18:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年12月10日

海を見ていた工事に来た富山県の人と語る 【太平洋、日本海、瀬戸内海でもその相違は大きい】


海を見ていた工事に来た富山県の人と語る

【太平洋、日本海、瀬戸内海でもその相違は大きい】

●太平洋と日本海の相違

日本海には、暖流の対馬海流と冷たい海流のリマン海流が流れています1. 対馬海流は、黒潮の一部が対馬海峡から日本海に入り、日本列島の沿岸を北に向かって流れます。その一部は間宮海峡をこえて、さらに北に向かい、シベリア大陸の沿岸を流れます。ここで冷やされた海流が、やがてリマン海流として日本海を南に向かって流れます1.

日本海側にも対馬暖流が流れていますが、黒潮に比べると流量は約1/10、流速は約1/4しかありません。日本海が荒れるのは季節風の吹く冬の期間だけ。この穏やかな海を利用して開かれたのが、江戸時代終わりの「北前船」です

富山ナンバーのバイクがあり海を見ている人がいた。その人はすぐ近くの御刀神社の堀を治す人であり田んぼの区画整理でも仕事する人であった。それを毎朝海の方に向かって自転車で行くので見ていたのである。ただ富山ナンバーということは富山県でありちょっと珍しいと思って話しかけた。
その人は工事でも浪江とかなると倍の値段で請け負うという、つまりそれだけ依然として原発事故で避難区域になったとことは国から特別金がでているとなる。その額もまた大きいのである。

何か釣りのことを話して日本海の魚は小さいと言っていた。そうなのかと思った。日本海と太平洋の広さはあまりにも違っているからである。ただ日本海だと潮の流れが見えるという時やはり太平洋とは違って狭いから見えるのかと思った。ただ潮の流れというのは普通はわからないと思う。ただ与那国島まで船で行ったときそこから黒潮が流れているということを聞いたときここから太平洋のいわき市あたりまで流れてゆくのかと思った。

黒潮は南からの魚を運んでくる。でも親潮は北の魚を運んでくる。その潮目となるのはいわき市あたりなのである。親潮が運んでくるのは魚も大きく味がいいとなる。一般的に北の魚の方は大きくうまいことは確かである。南方の魚はそれほどうまいとは言えないからである。

その人はおそらく釣りをしている人なのだろう。だから魚のことから釣りのことを聞いた聞いてきたのである。釣りというのはなかなか自然に通じないと海の事でも魚の事でも知らないとできないのである。それは川の魚でも同じことなのである。だから釣りをしていた哲学者がいてそれを語る語り本を出している人もいる。それだけ釣りは自然と通じることでありそれで釣りに見せられると言うのも分かる。

●土地の人に聞くことが重要

ともかく海外行っても太平洋と日本海では相当に違っている。太平洋は日の太陽が昇るところであり日本海は太陽が沈む場所である。その違いは相当に大きい。いつも日が昇る太平洋を見ているのと陽が沈む日本海を見ているのでは感覚的に相当に違ってくる。まだ韓国から見ると日本海は東海となり日が昇るところなのである。その相違もまた大きいのである。つまり人間はそれぞれの住む場所で地理とか地形の影響必ず受けている。でもなかなかそれが分かりにくい。だから旅することが実感することであり重要なのである。そして何かちょっとしたことでも地元の人に聞くことが有効なのである。日本海の魚は小さいというときそうなのかなぜなのかとなる。それだけでも何かその土地のことを知ることになるのである。

それで失敗したのは私は旅をして地元の人もあまり話さないからその土地のことについてよくわからないままに去ってしまった事が公開される。その点柳田国男とかは土地の人と途中から話を聞くことがうまかった。それが学問の出発点となった。柳田国男は文献として残っているものよりその土地土地に伝えられたものを口碑として重要視して民俗学を起こしたからである。何でもやはり土地の人に話を聞いてそこから学問起こしたとなる。つまりその土地のことはちょっとしたことでもその土地の人から聞くことが重要なのである。必ずそこには土地の人しか分からないことがあり土地の人からその場に立って直接聞くことが重要なのである。ただそれは簡単にはできない。みんなそう何かを教えてくれるわけでもないからである。宮本常一もまた全国を回りそうして土地の人から直接話を聞いてその体験から民俗学を発展させた。

ともかく海でも瀬戸内海とか日本海とかありそれは太平洋とは相当に違った海なのである。潮の流れというとき瀬戸内海は確かに潮の流れがわかる。島々の間を確かに潮が流れている。だから何何水道というとき水の道だとなる。瀬戸内海で驚くのは大きな船が島々の間を航行していることである。だから大きな船が迫ってきた時驚いたのである。この辺では太平洋の沖にいつも二三艘の船が見えるだけだからである。大きな船がそれですぐ近くに迫って来て通って行った時驚いたのである。ただ大船渡市でも大きな船が出てゆくのを見たとき感動したのである。まさに大きな船が渡る市にふさわしとなる。つまりこの辺では大きな船を近くで見れないからそうなったのである

●海を知ることの難しさ

とにかく海を知るということは魚を知るということから海を知るということにもなる。今年は一匹の鮭も上って来なかった。それはこの辺だけではなく温暖化なのか海に異変があり鮭が昇って来なかったのである。北の方では昇って来たところがあっても南になると昇って来なかった。これも何かしら温暖化とかがあり海に異変が起きてそうなってしまったのである。ただ鮭はもともと北の魚でありだから海の温度が高くなればあその変化が受ける。それが原因になったということは推察できる。

ただ海のことを知ることは容易ではない。津波でもなぜこの辺で海老村は高い所にあったのに津波によって流されて消失してしまった。それは海の底と関係して津波が陸地の高いところでも関係なく押し寄せたためである。そのために崖のある高いところに津波の避難場所としてして指定していたのだがそのためにそこに逃げた30人が死んでしまったのである。だから津波のことは専門家でもわからなかったということである。別にそこに逃げなくてもすぐ近くに50mでも歩いて行けば安全地帯があったからでる。

いずれにしろその土地のことはその土地の人でないとちょっとしたことでもわからないのである。旅をすれば必ず道でもわからなくなる。その土地の人にとっては分かり切ったことでも旅する人には分からないのである。だから必ずちょっとしたことでも聞くことが土地の人に聞くことが大事になる。でもその土地の人でも道すら簡単には教えない。だから今はみんなスマホの地図を見ているのである。ただ確かなことはちょっとしたことでも土地の人から話を聞くときなるほどとわかることがある。でもそれは普通は簡単にはできない。だから私の場合は旅をしたとしてもそんなに土地の人と話しないから失敗したとなる。何か旅をするとすでにその土地の人に話を聞くというより風景でも変わっているからそれに見とれているだけになってしまうのである。

例えば相馬藩には飢饉の時1/3がいなくなり欠け地となった。そのために越中とかから富山県などから移民を募り土地を開墾させたのである。その子孫が三分の一もいる。このことは富山県とは歴史的に深い関係があるともなる。それは墓地を見れば一目瞭然なのである。なぜなら必ず南無阿弥陀仏と記された真宗の墓がありそれではっきりとその子孫がここに依然として多く生きているということがわかるからである。ただその人は工事に来ただけでありそういうことには関心がない。でもやはり富山県だということで関心をもったのである。何か別にその人が知識人でなくてもこならず土地の人はその土地について何かしら語ることがあるということである。それは必ず参考になるのである。
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2023年12月09日

お金の賢い減らし方―大江英樹の批評 【老人は共感する本ーただしある程度金の余裕がある人】


お金の賢い減らし方―大江英樹の批評

【老人は共感する本ーただしある程度金の余裕がある人】

●紙幣であれ貨幣であれ何なのか?

この本は金を増やす本はいくらでも出ている。でも金を減らす本はほとんど見かけない。人間はいくら金があっても金を増やしたいと思う。また人間はいくら金があっても減らしたくないのである。それはケチというより人間の心理なのである。だから金を減らすということは大きな金があるにしろ多少のお金があるにしろしたくないのである。それで金がタンス預金などで回っていかないから経済が停滞する。だからお金を減らす減らし金をもっと世の中に回すべきだとしている。お金は天下の回りものだという時それも同じことである。

そもそも金というのは紙幣というのは何か分かりにくいのである.貨幣物々交換が面倒だから生まれたというのは違っていると言う。紙幣は借用証書用の借用証書だとも言う人もいる。金の解釈はさまざまにある。なぜ紙切れなのに価値があるのかとなればそれ自体すでに紙幣というのは本当に紙切れになることもあるし実際にそうなったこともある。
だから今盛んに預金封鎖が行われるとか紙幣が紙切れになるとか言われるのはそのためである。銀行に貯金してでも利子はなく増えない。物価は上がり金の価値は低下している。物の価値が上がるという時ただの紙切れの紙幣の価値は下がる。本当の価値は物にあり紙幣は実際紙切れなのだから紙切れになってしまう。ただ小判とか黄金だったらばc貨幣自体に価値があるのだから紙幣とは違ったものなのである。

それで株というのは紙幣と違っている。

通貨というものはすべからくバーチャルマネーだと言えます
これに対して株式の方が実はリアルマネーなのです
なぜなら株式を持っているということはその会社の一部を所有していることになるからです
通貨という信用をベースにした実体のないものではなく会社の設備や人材という財産の所有権をという目に見えるものを裏づけにしているからです
お金の賢い減らし方

これがただ金を持っているのと貯金しているのと株を持っているということの大きな相違だとなる。会社の株を持つということは株主になるということはその会社の財産権と設備とか人材とかお所有しているということにもなる。ただ金を持っているだけではない。

●資本主義は自己増殖社会−金が金を生む

だから何か株式投資というのはギャンブルだとか言うが実際は違っている。株式投資というのはその会社のことをよく理解していなければできない。でもそれが複雑であり素人でわかりにくいから証券会社とか銀行でもその会社を投資先を選んでもらっているだけである。でも本当は会社のことを理解してその会社の投資するということはその会社の経営者と同じだというのも分かる。でも様々な会社がありそれを理解することは難しいから証券会社とか銀行に頼んでしまうのである。

ともかく確かなことは資本主義社会が「資本が自己増殖する」社会だという時金でも常に金が金を生むということにならない限り成り立たない
だから高度成長時代は銀行に預けていれば利子が7%とか信じられない時代であった。その時銀行ではただ金を貸せばいいだけだったのである。いくらでも金を借りたいという人は会社があってそこから利子を取ればいいだけだったのである。その利子を貯金をしている人に回せばそれだけでよかったのである。でもそれがなくなると貯金しても利子がつかないということは何のために貯金しているかも分からないのである。

だからむしろある程度金ある人はそんなところにただ置いておいても金は有効に働かない。だから金を社会に回すということを言っているのだと思う.
ただかなにしてもそんなにただ減らすただ減らすだけで増えないとしたらいくら金があっても普通はそんなことをしない。それより今そんな金を持っている人は少なく70になっても汲汲として働かざるを得なくなっている。だからこの金を減らせというのはある程度余裕ある人に言っていることである。普通の人には人には関係ないかもしれない。ただタンス預金をしていても金は回らないことは確かである。

●お金は感謝のしるしにはなっていない

そしてお金は感謝のしるしだという時それを現実の経済活動ではそんなふうにはなっていない。誰もスーパーで物を買うにしてもただ値段を見ているだけでありそこにその野菜でありあれ果物であれ作った人など誰かも分からない。どんな苦労して作ったのかもわからないのだからどんな人が作ったのだからわからないのだから感謝のしようもないのであ。ただ値段だけを見ているだけである。ただ大工さんとか家の設備を作る人は直接家に来て対面的に関わるから感謝するということがあった。それは目に見えて目の前で仕事をしてくれた人がいたからである。でも物を買う場合そういうことはないのである。

そして感謝というとき例えば売る方にしても100のものを100で売れるより2000売れた方がいいとなる。例えば100円で買ってくれた人がいくら感謝してもそんなことは通じない。売る方にしてみれば200円もらった方がいいのであり感謝など必要ないともなるのである。第一貧乏人は果物でも高くなると買えないのである。もしあなたが貧乏だからあなたには安くしてあげますよとなれば買う人も感謝する。

でも現実社会ではそんなことは絶対にあり得ないのである。例えば金持ちには高い物でも売れる。でも別に金持ちはそれを買ったからとして感謝などしないのである。むしろ感謝してくれという方なのである。だから売る方では必ずありがとうと言っているのである。でももしかしたら金持ちには高くして貧乏人には安くしたりすればその貧乏人は作った人に感謝することは確かである。でも現実の市場経済活動ではそんなことは絶対にあり得ないのである。だから金は感謝のしるしだというのはほとんど成り立っていないのである

そもそも感謝といってもそれはあくまでも心であり直接に伝わることはない。そして現実の社会ではそんな感謝より具体的にその感謝を示すものを要求されるのである。それが金であり金を多くもらえば作る人は提供する人はそれが報酬だとなるのである。だから別に感謝などはよりは金の多寡で全ては決まってるのは現実社会である。ただ感謝するということが悪いことではない。ただ現実問題として経済活動でそういうことは通じないということであ。ただ著者が言っているのは金にある程度余裕があるのでそういうことを言っているのだと思う。

でも人間の心というのはこならず必ず具体的な行為となって現れる。例えば介護とかになると病人の世話で世話とかになると愛がないと簡単にできない。確かに病院では医者でも看護師でも体を診ているがそこに愛があるとはならない。だから看護師自身が家族のようにはなれないと言っているのである。家族なら確かに医療行為はできない愛はある。その愛が大事なのである。

その愛が病気とか介護になると必ず必要でありそれは欠かせないものなのである。例えば医療行為はできなくてもただ見守っているだけでも愛がそこにありそれは愛がない人にはできないのである。それを自分自身は家族もいなくなり痛いほど経験したからである。その人は私が手術する時ただそこに居るということさえ嫌っていた。は何もしなくてもいいのだがいることさえ見守ることさえ嫌がっていたのである。

その人には全く愛がなかったからである。私のところに来た人は介護に来た人は全て何の愛もなかったのである。ただ金がほしいというだけの人だったのである。ただそれは実際は恐ろしい事だったのである。つまり愛が人間愛がないとしたらもう関わるべきではないとなってしまう。つまり人間の本心というのはどこかで必ず現れてくるのである。それが恐ろしいことなのである。だからダンテの地獄篇でもまさに人間の本心が現れた世界でありそこが地獄なのである。その地獄を自分は経験したのである。それはまた自分と自分の家のカルマでもあったとなる。でも実際はこの世こそ地獄なのである。その地獄を経験したのである。

とにかく感謝するということは大事なことである。それは必ず何らかの行為となって現れることがある。何か金が払えないとしても物をもらったとき感謝すればそれをいつか何かその人に行為となって現れる。何か困ったときやはり今度は助けてくれる人になるかもしれない。だから私は感謝を否定しているのではない。ただ現実経済活動でそうした感謝ということが無視されているというだけである。

●思い出が最後に残る価値となるのわかる

この本で思い出が一番価値あるものとなるというときそれは老人にならないとわからないことである。そして思い出というときたとえばに人ならやはり時間に比例しているかもしれない。一緒に長く過ごした時間お共有した人が一番思い出の人となる。それが家族の思い出である。でも家族でもやがて子供たちは育ってゆくそして家を離れてゆく人も多い。すると共に過ごす時間がなくなる。そうなるとやはりいくら家族でも疎遠となってしまうので

私の場合は特殊な事情で子供の時から60歳までも一緒にいたから特別二人の親に以前死んでからも依然としてそれが思い出となり忘れることができないのである。その理由は長い時間共に過ごしたことでそれが思い出となりそうなったとなる。だから夫婦でも熟年離婚っていうのは相当に損であるなぜなら人間には限られた時間しか与えられていない。すると長い時間を共にした妻でも別れて60過ぎからまた誰かと近しくなりということが難しくなるのである。

その最大の理由は人間はそんなに時間は与えられていないということである誰かと一緒に過ごすにしてもそれは極めて限られた人であり多くの人と時間を共にするということはできないのであるできないからである。だから時間の価値というのはお金の価値よりも大きいものだったともなる。なぜならもう時間は取り戻せない。青春時代もう二度と帰ってこない老人は金があっても病気になったでしたら何もできなくなってしまうのである.そして人間は何かをするチャンスを常に逃してそのチャンスにもいろいろある。勉強するチャンスとか旅をするチャンスとか善行するチャンスとか金を得るチャンスとか恋愛するチャンスとか友情を作るチャンスとかさまざまなチャンスがありそれを逃しているのである。

だから留学などは金がかかるからしないしないとかしているとあとでできないってその留学の体験というのは相当に価値があるからである。つまりこの本でも言っているが体験会見することがもっとも価値あることなのである。その体験した思い出が価値あることだと老人には否が応でも分かるのである。なぜならもはや老人は体験ができなくなるからであるいくら金があっても過酷な外国旅行とか他の事でも登山とかそうしたことはできなくなる。ただ過去に体験したことを思い出すだけになってしまうのである。








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2023年12月08日

投資は人間にとって不可欠なもの 【投資先がなくなると資本主義は終る】

 投資は人間にとって不可欠なもの

【投資先がなくなると資本主義は終る】

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藤原肇ー紙の爆弾

(3)ポンツィ金融(ポンジ金融)

 最も危ない状態。期待所得により利払いすらできない状態。利払い分についても借入が必要で、借入残高が増大していく状態。
 つまり借入を増加させることでしか、元金と利子の支払いができない状態を示す。大雑把に言えば、営業利益が支払利息を下回るような状態である。



●投資は人間に不可欠なものとしてあった

投資というときそれは本来悪いものではない。株とかとか離れても人間は常に何かに投資している存在だからである。今日は人間は何するにしてもそれは投資になる。例えば勉強するにしてもそれは未来への投資なのである。本一冊を買うにしても金がかかるわやはり知識を得るための投資なのである。一番分かりやすいのは農業でありそれも投資なのである。なぜなら種をまくそして肥料をやってその種が成長して実りなる。でもそこには必ず人の手間と時間がかかる。

だから農家の後を継ぐ場合はその作物を育てるノウハウが伝授されるから楽になる。でも一から始めれば農業は簡単にできるものではない。とにかく人間と投資は不可分に結びついている。種をまくことは投資であり未来に実りがあるから種をまくのである。何もしなければ何も得ることもないのである。だから投資というのは人間にとって別に資本主義の株式とか関係なく人間が存在してから投資ということは必ずあったのである。

つまり人間のすることはなんでも未来への投資なのである。例えばパソコンなどその出始めにはおもちゃのようなものでもバカ高いものだった。それはしょっちゅうフリーズしてまともに使い物もない使えないものだったのである。でも一台40万とかバカ高いものだったのである。それをしていた人は使っていた人は特殊な人たちだった。でもそれは投資だったのである。未来への投資になっていた。そこでbbsとか文章で話をするということが実は画期的なことだったのである。つまり通信機能が付いているということが一番画期的なことだったのでだから私が通信機能付の富士通のワープロを買ったということがインターネットにのめり込む減塩になっていたのである。

たとえその時おもちゃのようなパソコンでもそれを高いとしても買ったことはやはり未来への投資だったのである。ただその時はそれがこのように世界的に発展するということは見えなかった。でも実際は地域間のパソコンでの通信とか国内での通信はすでに始まっていた。富士通のニフティーではそうした通信をシステム化していたのである。でもそれをしている人はまだまだ特殊な人だったのである。だからこれほどまでに世界的になりもはや必需品となったことが驚きだとなる。ただ最初のうちはそれをそのパソコンを買ったり通信をしていた人は投資していたのである。

●投資は必ず未来に向ってする

それは未来に向かっての投資だったのである。だから人間は必ず投資する存在だということである。投資とは未来に向かっての投資なのである。だから投資に向いているのは若い人だとなる。なぜなら若いということはすべてこれから人生を始めるということであり未来があり未来に向かって何かしら投資することになるからである。つまり種をまくということである。そのが種は実りとなるのが投資したものを収穫するということである。

写真でも写真を撮るにはいいカメラとレンズが不可欠である。だからそれも投資なのである。私はソニーのα6000を買った。このカメラが意外といいものだったのである。その後いろいろ出たが画質はさほどかわらないのである。レンズでも中古の二万くらいのでも映りがいいのである。だからこれは投資してもお得だったとなる。αシリーズはその後いろいろ出ても画質はたいしてかわらないというからだ。画質が最優先されるからこれに投資したことがお得だったとなる。だから何か買うということも投資なのである。その見返りは大きかったとなる。

例えば投資が始まったという時世界航海に出る船に投資するという時そこに投資する人たちは必ずリスクはある。なぜならその時船で後悔することは危険に満ちていたからである。だから船が沈没して帰ってこなければ何も得られないとなる。でも無事帰ってくれば莫大な利益が入りで配分されるとなる。だから投資というのにわ危険がともなっているので

資本主義には何か投資するということが基本的にある。社会主義になると何かみんな平等になるということはあっても投資ということがなければ経済がどうしても停滞する。でも共産主義国家でも中国でも体制は共産主義でも経済は資本主義なのである。だから常に投資ということはされてきた。外国でも投資してきたのである。それは将来中国が人口も多いし国土も広いし発展することが成長することが見込まれたから外国でも投資してきたのである。

●老人は投資に向かない理由

ともかく人間にとって投資とは不可欠なのである。常に何かに向かって投資する存在なのである。でも必ずしも投資したからといってそれがそれがすべて利益となって帰ってくるとはならない。投資したものは利益は得られずただ損だけになってしまうこともある。農業にしても種をまいてもいろいろな影響で天候などの影響で収穫されないこともある。だから農業にしてもリスクがある。でもまず種をまいて育てない限り収穫は得られないのである。つまり人間にとって何かに投資するということは不可欠なのである。資本主義とはそうして投資するということで成り立っている。でもなぜ今資本主義が行き詰まっているかとなると投資する先がなくなっている。

成熟社会となり投資する先が無い。インフラでも道路でもなんでも整備されればもはや投資することはなくなる。さまざまなものが整備されれば投資されるということがなくなる。だから投資先がないからオリンピックとか万博とかそんなものに投資しても無駄だとなる。それだけ投資する先がなくなっている。高度成長時代はいくらでも投資する先があり銀行でわ借りる人がいくらでもあり利子が7%とかついていた信じられない時代があったのである。その時貯金していれば貯金しているだけで金は増えていったのである。今や銀行に金を預けても手数料取られたりして増えることもない。だからなぜ銀行に金を預けているのかわからなくなる。銀行にしても金を貸す先がないのである。そこで資本主義自体が行き詰まり限界に来ているともされる

そして投資というときそれは必ず未来に向かっての投資なのである。だから投資という時若い人にわ向いている。でも老人になると未来がない。後は死ぬだけだとかなってしまう。すると投資するのも無駄となってしまうのである。老い先短いとかなるとかなり何か投資するということがむいていないのである。私の家は古い家なので隙間風が入ってきて冬は寒い。それで家を暖かくするには窓が重要だという時その窓を直そうとしても広い家なので金がかかる。
でももし若い人ならその家に長く住むのだから未来への投資として金をかかっても治そうとするだろう。でも老い先短い人だぞ家にしてもそんなに長くすまないとなり我慢して住むかともなる。つまり若い人の感覚と老人との間隔は相当に違っているのである。例えば老人の介護にしてもそれは子供が病気になって介護するのとは違う。なぜなら子供は未来があり病気になっても直れば長い人生を生きることになる。

ところが老人の介護はただ死ぬだけでありその間介護するということになる。そこに子供のように未来はないのである。だからそこに労力を費やしても未来は無いとなる。だから若い人が老人を介護するというのはそれが職業となるのは何か無駄に思えるのであ。老人を介護しても老人には病気でも治らない人が多いしただ死んでゆくだけだからである。老人が未来を考えて投資するということもしにくい。老い先短いのだから例えば種をまいても木を植えてもそれが成長するのに時間がかかりその木が成長して実がなるというまで待つこともできない。そのうちに死んでしまうということである。

でもこの辺で津波でまず松林が流されたがそこにまた松を植えた。その松は成長している。でもその松が大きくなるのは50年もかかるとなればとても老人はその成長した松を見ることはできないのである。だから老人には投資が向いていないのである。老人は投資これまで投資したもの成果として発表するのに向いている。例えば私自身が旅に費やしたとしてその旅のことを書けばそれも一つの成果である。これまで老人は経験したことをさまざまに語る。それも一つの成果であり実りである。でもこれから投資するということは老い先短いのだからできないとなってしまうのである。

●投資先がなくなるとき資本主義は終る

いずれにしろ投資というとき株式だけではない常に人間には投資が必要なのである。その投資したものはまた必ずしも実りともならない。でもそもそも種を蒔かなければ投資しなければ何も得られないことは確かである。だから投資にはリスクが伴うのである。教育にしても投資なのである。それで子供の時そろばんを習ったがそれも投資だったが今や何の役にも立たない。そういうことは投資にはある。投資したものはすべて実りとなることをとはならないのである。そこに投資の難しさがある。いくら投資しても時代の変化で実りとなるとは限らない。でも意外なことが投資して実りになることもある。だから投資というのは別に株式だけではない不可欠なものとしてあった。

ただ株式となるとその投資でもいったい何に投資してそれが何をもたらすのかだ投資した金が増えるということしかない。グローバル化して経済が巨大化すればもはやそれを全部見通すことなど誰もできない。だから現代の投資は投機となり資本主義の限界が生じたとなる。投資するにしても何に投資したものが何なのかとかわからない。ただ金を投資して増えるということしかないから投機になる。 一種のギャンブルにもなる。でもクラウドファンディングとかなるとそれは何に投資するかはっきりしている。こういうものを作って作りますよとして金を集める。その金を早めに払った人は安くその品物を買えるのである。だから何に投資しているのか明確に見えるのである。だからそれは投機ではないのである。とても株式市場時になると巨大であり投機になってしまうのでは。

そして資本主義が終わるというとき投資先がなくなってしまったからだとなる。今世界的企業であるGAFAは何か必ずしもものを作り出しているわけでもない。でもbeingイメージクリエーターとか言葉を入れれば映像が作られる。それはコンピューターが画家になり芸術家になったということでもある。だからチャットgptでも今そこに投資されるという時それが新しい未来を作り出しているからである。

でもそれは今までのものを作り出すとかインフラを整備するとかとは違っている。でもそこが巨大な利益を生み出しているというのも現代なのである。そこは確かにただ遊びの空間ではない金を生み出しているのである。だから今一番儲けているのはGAFAでありそこに人は投資するのである。確かなことは人間社会に投資はなくなることはない。ただ投資先が必ず変わってくるのである.
だから意外なものは投資して大きな利益を生むということがある。ただそれが何なのか分からないということもある。だから投資には常にリスクはつきものなのである


posted by 天華 at 11:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年12月06日

みちのくの枯野の俳句十句【旅は遠回りでも時間をかけるべき】


みちのくの枯野の俳句十句【旅は遠回りでも時間をかけるべき】

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みちのくの争いの跡枯野かな
みちのくの枯野の駅やその名かな
みちのくに黄金出して枯野かな
みちのくの枯野に残る金色堂
みちのくの枯野に月や都跡
みちのくの枯野の沖に船一艘
みちのくに深く休みて枯野かな
みちのくの枯野に黙し石一つ
みちのくの枯野に眠りやすらかに
みちのくの消えにし人や枯野かな

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを 笠女郎

奈良時代からみちのくは辺境の地として奈良の人々に知られていた。それで真野の草原とは萱原のことではなく一つの地名だと私は考察した。このことはちょうどここが気候の分かれ目であり境目になっていたのである。だから南相馬市の鹿島区の海老村にマルハシャリンバイという奄美大島から種が流れ着いて自生している。その南限の地であり気候的にも暖かで自生する場所だったのである。また照葉樹林文化の南限の地でもあったのである

「天皇(すめろき)の御代栄(みよさか)えむと東(あづま)なる陸奥山(みちのくやま)に黄金花咲(くがねはなさ)く」

宮城県涌谷町だ。天平21(749)年に同町で日本で初めて金が産出し、奈良・東大寺の大仏の塗金用に献上。時の聖武天皇は大いに喜び、歌人の大伴家持(おおとものやかもち)が言祝(ことほ)いだ歌が万葉集に収められている。

これは宮城県涌谷町のことでありそこに天平という記された木簡が発見された。だからそこは明らかに歴史的に証明された場所だとなる。真野の草原の場合は石巻にも真野という地名があり萱原という地名もあるから二つの説がある。でも南相馬市鹿島区が有力なのである。

とにかくみちのくとは何か。それは奈良時代から既に知られていて道の奥となり辺境の地だった。みちのくといってもすでに奈良時代から歴史が始まっている。だから北海道などとは違ったものとなっている。そしてみちのくというとき平泉までがみちのくという感覚であり岩手県からさらに青森県になるとみちのくということにもならない。なぜなら江戸時代でも芭蕉は旅してみちのくというとき平泉までだったとなる。芭蕉が旅してきた結果みちのくという場所をイメージされ定着したのである。だから一人の詩人によってみちのくをイメージされるようになったから詩人の功績も大きいとなる。

なぜならみちのくというとき必ず芭蕉の奥の細道をイメージするからである。みちのくは今でも奥の細道という感覚は残っている。芭蕉は夏に来たがむしろみちのくを感じるのは秋から冬にもなる。枯野がふさわしいのである。でも東京になるともうそういうものは全く感じられない。でも江戸で枯野見ということが行われていた。枯野をわざわざ見に行ったのである。江戸の中心から離れて枯野を見に行ったのであう。だからまだまだ江戸の周りは自然があった。でもこの枯野見は今や東京でも電車に乗りかなり離れないと感じることはできなくなったのである。

旅をするときその行路が違っていると印象も違ってくる。東北新幹線とか東北線で来て平泉までくるのと石巻線で来るのは相当に違った感覚になる。みちのくはそこで広い感じるからである。。だからをすすめるのは石巻線を通って平泉に来ることである。
でもこの線は相当に不便である。かなり時間がかかってしまう。でも急いだ旅は最短距離を行った旅は印象として残らないということもある。現代そもそも旅が喪失したのである。東京から新幹線で2時間で仙台につきそれから30分くらいで一関に行って平泉に行く。そういう旅はは芭蕉の地の果てまで行くような感覚の旅をしたような感覚とはまるで違ったものになる。そんな感覚は全くないし芭蕉が感じたようなことも感じないのである。それはもはや旅ではないただ移動しているだけなので。だからそこで感じるものは浅薄なものとなってしまうのである。

要するに旅をすることはかえって回り道をしてゆっくりと目的地に着くことである。でもこうして時間をかけた旅は忙しい現代ではしにくい。私は時間だけはたっぷり与えられていたのでできたのである。つまり旅を充実するには金をかけて豪華なホテルで料理を楽しむことではない、時間をかけることでありその時間がないことが旅を浅薄なものとしている。もう車では旅はないただ移動しているだけなのである。でも自転車で旅しようとしたら大変な苦労があり時間もかかるのである。でもそれが記憶に残る旅となり回想するのである。

夏草や兵どもが夢の跡。 5月雨の降り残してや光堂とかは何かみちのく象徴したものとなった。ただ夏だったので感覚的には違っている。むしろみちのくにふさわしいのは彼のなのであ。彼ので彼のわびさびの世界がみちのくなのである。未知の国は西のような堺は無い。依然として彼の世界だと思うな。でも逆にそういう芭蕉があまりに文明化して都会化して安らぎがなくなったら未知の子は依然として彼らの世界であるときそこに安らぎを感じるのである。

まず東京のようなところに住んでいる人は感覚的にも以上カス以上化する。そこに何か自然から遊離したものとなりビルとビルのはざまで群衆と大衆の中に人は埋もれてしまうのである。だからそんなところによく人間が住めるものだと思う。そこで四季を感じることもなかなか出来ない。江戸時代だったらまだまだ周りは周りには自然がありだからこそ彼のみという風流があり得たのである

2023年12月05日

冬の俳句十句【師走、冬の雲、冬の山、冬薔薇、冬の暮、冬柳】

冬の俳句十句【師走、冬の雲、冬の山、冬薔薇、冬の暮、冬柳】


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盲人の手探り歩む冬の雲
暇人も何か追われる師走かな
目につきぬ杖つく人や師走かな
水清く流れひびきて冬の山
轟ける滝に吹き散る木の葉かな
咲き続く空家の庭や冬薔薇
なお散らぬ一輪惜しむ冬薔薇
我が庭の石に向き咲き冬薔薇
石一つ休めとここに冬の暮
山上に紙漉き沢や初冬かな
一里坂越えて来たらむ冬の暮
城下町六万石や冬柳

杖ついて歩く人が目につく。それだけ老人が多いということでもある。空き家の庭に人がいなくなってもそこに冬薔薇が咲いていた。そこはいつも通る場所だった。とにかく空き家が増えていることは確かである。何かもったいないとも思う。誰か利用している人が返って価値あるともなる。ただ放置されているていてもそれがただ寂れたという感じしかなくなるからである。

庭の冬薔薇がなお一輪咲いてまだ散っていない。それを一人で見守っている。この花が散ったら後は咲かない。相馬市の山上の方はなかなかいい場所だった。一里坂というのは今田辺りありどこか場所がわからない。だから一度そこを行ってみたい。意外と近くでも場所は分からなくなる。地図だけを見てもなかなかわからない。宇多川をさかのぼって滝平は滝平の滝がありいうも水が結構流れている。この辺では滝はあまりないので見物である。

相馬藩6万石は規模としては小さい相馬野馬追があるから何か大きな藩のように見えるのである。でも相馬市に行ってもそこが城下町なのかどうか外から来てもよくわからないだろう。それでも城下町だった事は確かなのである

冬は回想するのに向いている。回想して家に籠る。今日は特に曇っているから外に出にくい。冬籠りしてじっとしているのも老人には向いているのである。ただ師走ということでしは追われる感じになるのである