原発事故の責任問題−責任から逃れられない人間
【原発からの距離に比例して補償金の額が決められた】
原町区は確かに一時強制避難させられた、でも鹿島区と比べると多いと思う
●原発は地元の人たちが反対すれば作れなかった
原発事故でいろいろなことが問題になった。その問題になったことで原発事故の責任は誰にあるのだろうか?それが明確にされなかった。その責任は東電にもあり政府にもあり国民にもあった。
また原発を誘致した地元の人にも福島県にも南相馬市にもまた浪江にも双葉にも大熊にもあった。なぜなら原発というのは地元が認めなければ建てられないからである。
それは結局政府の力で国の力で強制的に作られたというふうにも見えた。でが新潟県の巻町でもまたは今回地震の地震の被害があった能登の石川県の志賀原発でもそこは地元が許可した。それでも珠洲市では反対して作られなかったのである。だから地元の人が反対すれば作れなかったともなる。それで珠洲市では助かったとしているのである。
だから責任というときそこに住む地元の人も深く関係して責任がとらされていたのである。でもそれを地元の住民が自覚していたかとなるとなかなかそうでもなかった。この辺ではむしろ原発を積極的に誘致したのである。それは経済的に発展しない場所であり南相馬市でも相馬市と前の原町市ではそれなりの人口規模があり働く場所もあった。でも浪江とか双葉大熊で働く場所がなく出稼ぎにも行っていた。それで地元で働きたいとなり地元に住んで働きたいとなり原発は積極的に誘致された。
そして確かに原発で働いたことで生活も豊かになった人も相当にいる。原発で働くと3倍の給料が得たとかあるからである。だから飯館村の人も原発で働いていたのである。それだけ原発というのはとてつもなく金の出る金のなる木だったからである。それがわかったのはその補償金の額の大きさであった。除染だけでも6兆円とかの金が湯水のように注ぎ込まれたのである。それで相双リテックとか除染を事業で幹部が何億というお金をもらい山分けしさとかされる。だから原発事故以後その使われた金の大きさにに驚いたのである
●金の多寡で責任が問われた
一番地元で金が入ったのは漁業関係者であり特に船主は巨額の金が入った。それは別に事故前補償金をすでにもらっていたのである。漁業権というのは大きな権利であり漁業者の許可がなければ原発は作れなかったからである。それで原発御殿は建ったとか周りの人が羨ましがっていたのである。
というのは港に住んでいてもみんなが漁業に携わっているわけではない。漁業者はやはりの農業と同じく少数者になっていた。とてもその漁業権というのは大きな権利だったのである。だからこそ政府でも東電でも補償を手厚くしていたわけである。
でも原発事故で問われたのはその責任が誰にあるのか?
そのことが厳しく問われたのである。ただその責任にしても明確ではない。それは政府にもあり東電にもあり地元の人にもありまた国民自体にもありマスコミにもあり県のの行政にもありとその責任の範囲は広いからである。でも漁業権持ってっていたところが事故前でも補償金をもらっていたからその責任も重く問われることになった。
つまり責任と権利とは一体だったのである。権利を持つことはそれと責任が一体であり大きな権利を持つとなるとその責任も大きなものになっていたのである。また権利とか権力でもそれを持つものはもともと責任は大きなものであった。
それで江戸時代でも侍が偉いとして上に立つ者として指導するものとしてあったからその責任は侍にあった。下々の者は責任を問われるということはない社会でもあった。
でもそういう社会は階級社会であり差別社会だともなる。一般庶民は何ら権利も権力ももっていないからである。でも逆に責任はもたされず責任があるのは侍だとなっていた。それで侍はその責任を果たすために切腹をさせられたのである。それで庶民は切腹などさしたくないそんな責任を負いたくないとして侍になりたくなかったのである。さすがに切腹のことを考えたらそんな責任を持ちたくないというのは理解できる。
●民主主義時代の責任はだれがとるのか?
民主主義時代になると責任はどうなったのか?いったい誰が責任を持つのか?その指導者を選ぶのは誰なのかとなると投票で決めるとなれば国民一人一人にあるとなる。でも戦前は女性は投票権がないから責任もないとなる。
民主主義では全員が一票という投票権を持っているのだから一人一人が責任があるとなる。でも実際は投票するにしても国政選挙では100万分の1とか10万分の一の責任しかない。すると投票するにしてもほとんど責任を感じない。どうせ一票など何の力もないと思っているからである。だから票にしてもまとまったものが得られられなければ何の力もない。
だからこそ実際選挙は様々な団体の票によって大方は決まっていて国民全体の半分くらいしか投票には行かないとなる。
でも宗教団体とかはまとまった票がありそれで創価などは力を持つのである。創価とは利権団体であり票でもって団結して権力を得ようとするからである。でも金にしてみればまとまった票得られるから頼りにするのである。一票などはほとんど何の力もないのである。だから責任も感じないのである。
いずれにしろ原発事故ではいろいろと考えさせられた。その大きな問題として誰が一体責任があったのかということである。その結果として地元の人は責任を取らされた。南相馬市だったら小高区は一時避難区域になりその後も人が流出して衰退して回復していない。浪江とか双葉とか大熊でも回復していない。だから誰に責任があるという前に人間というのは必ず責任を取らされるようにできているのである。
●責任から逃れられない人間
つまり人間は責任を逃れることができないということである。権利があり権力がありそれを言えたとしてもそこには必ず責任のつきまとっているのである。そして人間は責任から逃れることができないのである。いくら逃れようとしても逃れられない。だからもし江戸時代のような侍が指導者になっていた時代なら原発事故のような事故を起こしたらその幹部は切腹させられた。これだけの事故を起こして東電の幹部は刑務所に入るわけでもない罰せられないのである。
もちろん政府にも責任があったがその人たちも罰せられることはない。そこには実は検察庁とか警察とか自衛隊から海上保安庁の人も東電に天下りしていたのである。でもそういう人たちは何の責任を取ることはなかったのである。その人たちは飾りだとしてもやはり大きな責任があった。だから侍のように切腹をとれともなる。
たとえば太平洋戦争でも300万人も死んだのにその責任が誰なのか責任を取る人がいない。その責任は政府の政府にもありまたマスコミにもあった。なぜなら朝日新聞は一番戦争を煽ったとされているからである。もちろん政府自身にも責任があり国民にもあったとなる。国民も実は戦争を望んで熱狂していたとまで言われるからである。
でもその結果は重大な責任もたらしていてその結果が300万人も死んだということになる。つまり300万死んでその戦争の責任をとらされてそうなったのである。だからその責任も空恐ろしいものだったとなる。
それで天皇陛下が広島を訪れてその責任を問われた時たじたじになっていた。そんな重大な責任を天皇が負えるのかとなったからである。でも天皇が最高指導者になればその責任も問われるのである。そしたらそんな重大な責任を持つ天皇に就きたいとなるだろうか?
だから侍は責任を問われて切腹させられたから庶民は侍にはなりたくないとなっていたことも分かるのである。
●原発の距離に比例して責任が問われた
ともかく原発事故以後も今度は補償金問題がありそれでもめた。一回目の賠償金がありその次に追加賠償があった。その賠償金で原発事故周辺はもめた。不思議なのは原発の距離に比例してその補償金の額が決められた。南相馬市なら小高区が一番高いのは避難区域になったからである。
だからその額が大きいのは当然だとなる。でもなぜその賠償金で不満になったのか。それは南相馬市でも鹿島区は原町区に比べれば三分の一だったのである。原町区などは別に放射線の被害が放射線量が高いというわけでもなかった。ただ30キロくらいで賠償金が決められたから決められたに過ぎない。鹿島区は30キロから外れたから原町区の1/3になったのである。そこで奇妙なことは距離に比例して補償金の額も決められ高かったのである
だから追加賠償では小高では一人240万とか非難したり介護したりした人がいればさらに高くなり一人300万にもなったとされている。原町区は一人50万とかであ鹿島区は16万だったのである。だからそこに不満が生まれた。でもそれを抗議しても変わることはなかった。確かなことは原発のある所からの距離によって補償金が決められたからである。また避難区域になったところは特別であり小高区はそのために特別高くなったのである。その理由は理解できる。
でも責任問題を考えれば原発事故の責任は不思議なのは距離に比例して責任があったとなる。双葉とか大熊とかはすぐ近くなのだから一番危険でありそれで廃墟化して双葉などは十年間くらい誰も住まなかったのである。
でも責任問題を追求して行くとそれは双葉町などは原発と共に栄えるとかいう横断幕を町に貼っていた。だから積極的に原発を受け入れて豊かになろうとしていたのである。浪江でもそうだし小高でも近いからそうである。今度は小高に東北電力の原発が建つ予定だった。それも工事が開始されるようになっていたのである。とても事故が起きて中止されたのである。
だからそれを考えると空恐ろしいものだったとも思う。小高に原発が建つということ私自身を知らなかったのである。意外とそれで騒ぐ人がいなかったのも不思議である。報道関係でも地元の新聞でもテレビでもその危険性を伝えたということもなかった。そもそも原発の危険性を指摘する報道関係はあまりなかったのそれで事故が起きたとき朝日新聞をはじめすべての新聞社がの幹部は中国に招待されていたのである。
だからマスコミにも責任はあったとなる。なぜならまたこれも報道というのは誰もできない。テレビだったら六局しか報道する権利を与えていないからまた責任も重く問われるのである。でも今のようにインターネットで誰でも放送できるようになれば今度はやはりインターネットでも報道すれば責任が問われるようになる。
ただyotubeでもプログでもその視聴者が極端に少ないからその責任もその視聴者に比例しているのかともなる。ただ前とは違って誰でも報道できるとなるとやはり報道する人に責任が生まれてくるのである。
●権利と権力と責任は一体
ともかく民主主義とはみんな平等になり責任も平等になる。でももし一つの箱に真っ赤な色を入れれば真っ赤になっている。それでもその一つの箱大きな箱に入れてしまえば水で薄めてしまえばその責任もまた同じように薄められてしまうとなる。
投票しても百万分の一か十万分の一くらいしか責任はないのである。でももし十票分投票できるとなると責任は増大するのである。
民主主義の問題は誰もが責任を取らないということになりやすい投票しても一票など何100万の一ともなればそんなものに何の責任もないとなるからである。また赤信号みんなで渡れば怖くないというのも現代である。結局それがナチスになったのでありカルト教団でもただひたすら数を集めてそれで社会に働き掛けて権力を得ようとする。それが理屈に合ってるとか正義とかでなくても票を集めればそれが力となり正義にもなる。
その結果としてナチスが社会を設計して莫大な死者が生まれたのであ。だから民主主義でも大衆社会になりそれがただ数は正義となるとき空恐ろしいものとなるのである。誰もそこでは責任等自覚できないからである。烏合の衆となり大衆がは社会を支配してしまうとなるその人たちは何か責任等自覚しをしないからである。でも必ず人間も人間社会でも責任を取らされるようにできているのである。責任から逃れることができないのである。
だからむしろ責任を負わないなら権利も権力も与えるべきではないとなる。でも現実はただ権利と権力を要求してそこにつきまとっている。権利と責任は一体としてある。必ず責任を取らされる。 300万人死んだ戦争でもそうだった。戦争はどうして起きたのかよく分からないにしてもその結果として300万人が死んだという責任を取らされたのである。
また原発事故の結果として故郷に住めなくなったり街がゴーストタウンになったり廃墟化した。そうなったのは誰の責任なのか。その責任は地元の人にもあり東電にもあり政府にもあり国民にもあった。また天下りした高級官僚にもあった。でもその結果として一番責任を取らされたのはそこ原発の近くに住んだ人達だったのである。でもそれも積極的に誘致したのだからやはり責任があった。それでもなぜまた責任がそれほど自覚されないのか。
●補償金が少なかったらどうなっていたのか?
例えば逆に原発事故で手厚い補償金もらった人はそれでそれで良かったと言う人もいるのである。 1億円くらいもらった人もかなりいるからである。その金を持って外部に流出したともなる。そういうことを考えると逆に責任を自覚させるにはそんな補償金を払うこともなく復興しろいえばどうなるか。
そこで原発事故の被害者はなんでこんなに酷い目に遭うのだとしてその理由を追求するようになる。それは自分達にあったにしても政府や東電や厳しく追求することになったのである。でも補償金が手厚い結果としてそういうこともなかった。ただこの南相馬市でわ鹿島区であれ相馬市であれもっと補償金をもらいたいとなった。それで不満なのである。。
だから補償金等さほどもらえずに苦しんだらどうなるか?
政府であれ東電であれ天下りした官僚であれその人たちをなぜ起こりが向かっていたかもしれない。それが無かったのは補償金が手厚かったからだとなる。だから補償金っていうのは全て良いようには作用しなかったのである。よそからは原発乞食だとか言われるようにもなった。いくらでも補償金がもらえるとか見てそれは国民の税金だから国民はそう見たのである。ところがこのその国民で原発を作らせたので原発は反対ならやはり反対運動をするべきだからである。それは国民の責任にもなっていたのである。
だから責任というのは何でも問われて誰かがその責任を負わされるのである。地元の人が金が入ればいいとして原発を誘致しても事故になったら故郷に住めなくなったという責任を取らされたのである。ただまた補償金をもらったからそれでその責任をあまり自覚しないともなった。だから逆に補償金というのを少なくして苦しめば原発事故に対して根強く恨みを持ち反対して原発を作らせないようにしたとなる。それがこの辺では補償金が手厚くされてそれで原発に対して極端に恨みを持ちで反対するような人もあまり出なかったということである。
結局現在の責任とは金になる。それは今だけではなく江戸時代でも五両盗んだら打ち首になったとか金の額でその罰も重くなったりする。でも五両くらいで打ち首になるということは厳しいとなる。またドラマでも五両もらったから人を殺す事を頼まれて殺したとかあ金というのはこうして具体的な責任となっているから分かりやすいのである句句点
特に現代になれば責任は何かとなれば金になるの多寡でその責任が問われる。金を多く持てば持つほどやはりその人は金に比例して責任もあるとなる。
●なぜ遺産問題でもめたのか?
だから私が遺産が入った時なぜその遺産盗まれたりそのために攻められたりしたのか。額としても大きな額だったがそれを警察に言っても取り合わなかった。周りの人も自分を責めるだけだったのである。なぜそうなったのかというと金というのは必ずしも自分だけのものではない。だから遺産というときそれは必ずしもその人が働いて得た金でもない。だからその金は別に他人でも得る権利があるとまでなってしまう。
現実に盗んだ人は何の咎めもない咎められたのは自分だけだったのである。おそらく金というのはその人のの役割とか仕事があってそれ相当のものを得ていればそういうことはなかったろう。それはこの辺の原発事故の補償金問題でも金でもめたというときやはり正当に分配されなかったからそうなった。小高区は確かに避難区域になり荒廃したからそれなりのお金をもらっても当然だとなる。
ただ距離に比例して責任があったというとき原発から近いのだからやはり責任はあった。ただその責任はとらされて町は荒廃してしまったのである。そして小高に東北電力の原発たち工事を始める時だったということも大きな問題だったのである
ともかく現代社会の責任問題は金になる。金を多く持つ人はその金に比例して責任が課せられているとなる。だから東電に天下りした官僚などはやはりその金も返還するべきだとなる。でも全然そういうことは話題にもならないのである。そして現実に東電の幹部でも何か罰せられることがないしそれは検察でも天下りしているからできないのかとも見る。
何であれ人間は責任から逃れることができない。恋愛だから別れても別に責任はないが結婚して別れるとなると大変な労力が必要になる。そこで財産があればそれが責任として支払わなければならない。だから結婚というのもやはり責任を持たせるためにそういう制度ができたのかもしれない。何であれ責任は問われるのは人間社会だということである。