2024年03月31日

真野の草原の歌は境界の歌 【蝦夷は狩猟民族で帰化人と伽耶族とかの混成された集団】

真野の草原の歌は境界の歌

【蝦夷は狩猟民族で帰化人と伽耶族とかの混成された集団】

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●安曇族が相馬地域に深くかかわった歴史

真野の草原の万葉集の歌を追求してきたが過去のホームページで書いたもの読みかえした。我ながら随分詳しく調べていたなと感心する。
ただそこからも探求研究し続けて来た。それで新たな発見ととしては相馬地域が安曇族の一団が入植した地域でありそれが意外と見逃されていた。そのことについて語る人もいなかったというのも不思議である。なぜならやたら特に南相馬市の原町区に綿津見神社が多いしそれと対になった山津見神社が多い。
高倉にも綿津見神社があり大原にも神社そのものはなくなっていたがかつてはりその記念として石碑がある。
この綿津見神社は松川浦にもあった。和田は綿津見なのである。それが地名化したのである。それと対になり山津見というのが地名化している。そして宇多川をさかのぼると山津見の社が隠されるように残っている。それは安曇族が開拓者として進出した経路なのである。
それは原町でも同じである。高倉に綿津見神社があり大原に綿津見神社があった。そして八木沢というのは安曇氏の後裔であり八木とはその姓だったのである。そして霊山を下ると犬飼【犬養】という地名がありこれは安曇族の同族であり後裔なのである。
飯館村の山津見神社は有名だが綿津見神社もあり対になってある。また佐須とあるときこれは焼畑をした所であり安曇族が焼畑をして定着したのである。

そしてなぜ安曇氏がここに入って来たかというとこの地域が気候的にも照葉樹林帯の南限の地であり住みやすい場所だったからである。稲作は遅れて取り入れたにしても焼畑は原始的農耕であり焼畑から農業がはじまったのである。ただその前に確かに縄文人は原住民として住んでいた。でも焼畑のことは知らないし農業も知らない、つまり狩猟採集はしていても農耕はしていなかったからである。

●蝦夷は弓にたけた狩猟民族

ともかく安曇族がこの地に深くかかわったことが忘れれていた。不思議なのはこれほど綿津見神社とか山津見神社があるのにその由来も語る人がいなかったのは不思議である。なぜなら神社の由来は相当に古いからである。そして原町のたか神社の隣に綿津見神社が社として一応ある。でもたか神社は立派なのである。

遠妻(とおづま)し高(たか)にありせば知らずとも手綱の浜の尋ね来(き)なまし
 ※「高」常陸国多珂郡。茨城県高萩市・北茨城市と日立市の大部分。

高とはここに由来している。高倉も同じである。高というときなになのか?タカ族というのが存在した。それは狩猟民族かもしれない。高とはたかるとなる。みんながたかって狩りをすることにもなる。

『日本書紀』斉明天皇5年(659年)には朝廷に従った蝦夷が遣唐使に同行し唐の高宗に紹介されている。ここで引用された『伊吉連博徳書』によると、熟蝦夷(にきえみし、にぎえみし。おとなしい蝦夷)が最も近く、麁蝦夷(あらえみし。荒々しい蝦夷)がそれより遠く、最遠方に都加留(つかる、つがる。津軽)がおり、連れてきたのは毎年入貢している熟蝦夷であること、蝦夷は肉食で五穀を食べず、家を建てずに樹の下に住んでいるなどを説明したところ、高宗は珍しく思ったと感想を述べたとしている

蝦夷とエミシと弓を使い動物を射て生業としていた。

陸奥(みちのく)の安達太良真弓(あだたらまゆみ)弦(つら)着(は)けて引かばか人の我(わ)を言(こと)なさむ

    陸奥(むつ)の安達太良山産の
    真弓に弦(つる)張り引くように
    私があなたの気を引けば
    人の噂になるかしら

この真弓という地名が新地にありこれもやはり狩猟を生業としていた人たちが蝦夷がエミシがいたのである。だから農業はしていないし稲作もしていない、でも焼畑はしていていたるところにその痕跡として焼畑の地名が残っているのである。
その焼畑を伝いたのは海人族の安曇族だったのである。
そのい証拠が南相馬市の寺内の古墳から発見された。8人くらいが船に乗っていた絵が発見されたからである。それは安曇族のものっだったともなる。

真野の草原の歌の背景にこの地域が自然的人為的境界になっていた。そのことを追求してきた。自然的境界というとき南相馬相馬市地域がちょうど照葉樹林帯の南限の地となっていて車輪梅(しゃりんばい)の南限の地として自生していたことである。
それが海老なのだがこの海老は当て字でありエヒでありこれは蝦夷がエミシが住んでいた地だとなる。
またたか神社の近くにスダシイ神社がありこのスダシイは南方系の木であり沖縄の山原(やんばる)いジャングルに自生している。
また縄文語のことが話題になったがその言語学でもここは言葉の面でも境界になっていたのである。

「北加伊道」案はアイヌが自らを「カイ」と呼んでいることから考案したと説明している。青森県の伝承を集めた中道等の『奥隅奇譚』では「蝦夷崎」のルビを「かいざき」としている。

「えび」の古い日本語「えみ」が「えみし」に通じるとして付けたとする説を唱えた

●アイヌ語と蝦夷の原住民(神石萱)

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方言の境界

つまり真野の草原の歌はここが「自然的境界であり文化的境界としてあり大和王権が奈良の中央の人は認識した境界だったからこそ万葉集に歌われたのである。
ただもう一つ不明なのがアイヌ語がありそれとここが関係していたのかとなる。真野の草原というとき原町に萱浜がありこれはカイ浜と呼ぶからカヤ浜ではない、でもカイ⇒カヤとなり草原(かやはら)となったのか?カイについては山梨県に甲斐(かい)がありそれと関連づけた地名伝説がここに残っている。それも良く解せないのである。

youtubeで南方からアイヌ語は入って来たのでありやがて縄文語になり駆逐された。この見方は平泉より北にアイヌ語地名が多いのは北へ原日本人が縄文人が追いやられてそうなったとなる。
確かにそうなると元々はアイヌ語は縄文語でありそれが新しい新しい侵入者によって駆逐されたが平泉以北には依然としてアイヌ語を話す民族がいたからアイヌ語地名が多いとなる。アイヌは北方から来た民族ではない、ただ不思議なのはなぜ単数と複数形で動詞が変化することがアイヌ語にありまたhave動詞のようなものもある、それは印欧語の系統なのである。それも謎なのである。

そもそもアイヌ語地名が多いのはやはり岩手県までであり平泉がその境界となっている。だから平泉という地域がやはり境界としてあた。この平ーヒラとうのがアイヌ語のピラー崖からきているのかどうかわからない。高平という地名でもタカはたただ高いというのではなくタカ族が住んでいたとかヒラは開くでありタカ族が住んで開いた土地だともなる。ただここがアイヌ語由来としたとき萱浜(カイ浜)と一体化したアイヌ語地名だともなればアイヌが関係していたのかとなる。

ともかく原住民としてタカ族とかカイ族が存在したのかとなる。
なぜならヤマトタケルが戦った原住民に棚倉で残された伝説がある。

8人の土蜘蛛がいた。黒鷲、神衣媛、草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや、狭礒名と具体的に述べている。ところが征伐に来た磐城の国造が敗れたので天皇は日本武尊を使わした。8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した。そこで彼は槻弓 槻矢で8本の矢を放ちたちどころに射殺した。そして土に刺さった其の矢はたちまちに芽吹いて槻木となった。そこでこの地を八槻の郷という

草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや)

ここに草野灰とか保々吉灰とか ありこれは焼畑と関係している。灰は焼畑で肥料になっていたからであるただ。神石萱(かみいしかや)とは何なのだろうとなる。カヤとあり伽耶の国と関係しているのかとなる。

●鹿屋郷(かや)と安曇郷があった

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(出雲風土記、意宇郡)があり大隈国−蛤羅郡に阿多小崎君(古事記)がいて鹿屋郷がある。それがそのまま出雲−伯耆国(安曇郷 鹿屋郷)→国→因幡国に移動しているのだ。この伽耶に由来する地名は関東になると埼玉郡に草原郷があるだけで少ない
石渡先生は・・・『崇神王朝の時代の倭国は、筑紫・吉備・出雲・毛野などの日本列島各地の諸伽耶国系王国と朝鮮半島南部の伽耶諸国からなる、ゆるやかな政治的連合体でした』

伽耶国の影響は日本の建国時には大きかったのであるがその後その跡が化石のようになってしまった。草原(かやはら)という地名もその一つだったのである
出雲−伯耆国(安曇郷 鹿屋郷)安曇郷と鹿屋(かや)郷が並んであることに注目する
この相馬地域でも安曇と鹿屋(伽耶)があっても不思議ではないからである。それの裏づけとしてやたら綿津見神社と山津見神社が多いことなのである。これは全国的に波及したものであり安曇族が開拓者でありその南限の地が真野であり真野の草原だったのである。

地名で言うと愛知県刈谷(かり「や」)市とかどうでしょうね。台地の谷間地形なのでアイヌ語系「ヤ」であるように思えます。このあたりは稲作の東漸に抵抗した「中部の壁」のラインにもあたるので、縄文語系地名であってしてもおかしくない気がします。

これをカヤと読むときやはり伽耶と関係している。日本には当て字が多いから漢字から判断するから地名では誤解しているのである。
確かなことは南方系が日本列島を北に向かい定着した。そこに蝦夷がうたのだがその先住民が実は帰化人もいて伽耶出身者もいて蝦夷と一体化したのである。そもそも蝦夷とは大和王権に逆らう者の総称であり特定の部族とか集団をさしていないからである。
いずれにしろ歴史を知る時境界を知ることが大事なのである。
それは地形とか山であれ川であれどうしても技術が発達しないと生涯になり交流ができなkなる。そもそもそうでなくても歩いて生活すると5,6キロ離れていても村人は交わらない生活をしていたからである。
真野の草原も境界であり平泉も明らかにアイヌ語圏との境界だったのである。


陸奥の真野の草原の歌の謎が解けた!











2024年03月30日

冬から春への俳句短歌ー家を継ぎ守ること―空家に残された大石 【沈丁花、クリスマスローズ、鶯、万寿菊】


冬から春への俳句短歌ー家を継ぎ守ること―空家に残された大石

【沈丁花、クリスマスローズ、鶯、万寿菊】

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我が家の廊下の広く春の月
山陰に隠れ家ありや梅匂ふ
庭の石かたえにひそか冬牡丹
隠れ家や鶯鳴きてたずねけり
紅梅や前畑に出て仕事かな

沈丁花今日も匂いぬ庭に石所得てそありぬべしかな
我が手にそ植えにし花の五つほど春の光に庭に映ゆかな
野良猫のなれぬも我は餌やりぬ春の日さして憩い休みぬ
狭き庭我が花植えていつくしむ幾ばくここに生きるものかな
万寿菊三輪活けぬ我が家に母と姉とのなおあるべしかな
我が家を訪う人もなく鏡にそ秘かに花を映しけるかな
我が家の栄えてなおも悔いなくも生きてこそあれ春になるかな」
岩一つ空家の庭に残されぬ主のごとく冬のくれかな
大石の二つ残して空家かな離れずありぬ冬の暮かな


何か私は家にこだわっている。家の中で過ごす時間は老後になると多くなってくる。すると家というのは大事になってくる。そこは過ごしやすく安らぐ場所にならないと老後は充実しない。私の場合特に知的仕事をするとなると家が大事になる。
だから私は今広い家に居るからそこでゆったりとできて安らぐこともできる。実際に狭い家だと圧迫されて嫌だとなる。私の家の二階は廊下が広いのであ。だからその廊下を歩く時気持ちいいのである。
そこに春の月が出ていたということでそれは回廊のようになっていて自然が反映する。都会だと家が密集しているから自然が反映しない。だから豪邸に住んでいても豊かにはならないのである。

鶯でも家にいてその鳴く声を聴くのは風流だとなる。人間は必ず何か醜いものを持っているから嫌なのである。
それで鏡にと水仙クリスマスローズが写っている。でも我が家に来る人は滅多にない。花だけがひっそりと鏡に映っていた。それはまるで森の中の沼のようなところに写っている花なのである。

何か修道院のように回廊がある中庭があるそこに花を植えるとかそういう空間がであれば瞑想もできるし安らぐとなる。
だから老後というのは家は大事になる。そういう点で私は恵まれていたのであ。だから私は姉とと母を今でも死んでも大事にして一緒にいたいとなっているのである

万寿菊は前が良いし実際に長寿の花としてある。家を守るのは自分だけになったがただ正直それほど先は長くはなくなっている。私だけではない近くを見ても子供などいないし大きな家に一人住んでいる人が4 5人いる。老人の一人暮らしも増えているからであるとにかく私はこの家で長く住んで守りたいとなる。

何かいつも空き家の庭を見ている。そこに大きな石がある岩がありそれがよく見れば二つあった。この岩はまるで主のようにどっしりとそこにある。また二つの岩はここに離れたくないようにある。それは原発直事故で避難区域になったところでは空き家だらけであり誰も住んでいない。でもその庭の大きな石が語るのはそこを離れたくないということなのである。

つまりこの庭の石は今でも人間化したものなのである。どっしりと大きな岩のように家の主のように依然として動かず残っている。何か日本だと家庭となっているように家と庭は一体化しまた人間と一体化するのである。だから家というのは単なる物と物ではないってそこに人間の魂が入り人間化したものなのである。だから白虎隊が城が燃えたと見て自刀したというときそれはやはり家ではないにしろ城が家のようになっていたのである。だから城が燃えたとき終わりだとなり自刀したのでそれだけ建物というのはまた人間と一体化していたからそうなったのである。


2024年03月29日

人間の性格はどうしてつくられるのか 【人間は環境が大きく作用するー時代の変化で教育も変わる】


人間の性格はどうしてつくられるのか

【人間は環境が大きく作用するー時代の変化で教育も変わる】

●家庭環境の影響は大きい

私が興味を持ったものは地理である。高校まで何か興味を持って勉強したことはなかった。。大学でも自らほとんど勉強していない。でも大学出てから旅ばかりするようになって地理に興味を持つようになったのである。地理というのはそもそも地図を見たりテレビを見てみても実感できない。本を読んでも実感できない。特に外国になると本当に実感できないからおかしなことを言っていたのである。いくら本を読んでいても実際に一回でも外国の土を踏みちょっとでもいいから外国人と話したりすれば外国を実感するのである。だから百聞は一見にしかずとなっていたのである
それで50歳になって遅かったがバックパッカーになって世界を回ったことがで実感できたことがお大きな収穫だった。

それで人間というのはどうして作られてゆくのか?

もちろん一番根幹になるのは親からの遺伝だということはある。この影響はエッセンスとなっているからどうにもならないということはある.でも人間は全部それだけでは決まらない。動物ならもうすでに遺伝とか生まれた状態で生きるすべを身につけている。すべて本能で生きるのである。でも人間というのはさまざまなもので影響されてつくられてゆく。

その影響の一番大きいのは家庭環境である。それで兄弟姉妹を見ると不思議にこの人は長男だとか長女だとかなんとなく見分けられる。何か長男とか長女はおっとりしているとか性格まで兄弟間で違ったものとなる
特に一人っ子などは兄弟がいないからその性格かなり違ったものとなる。つまり兄弟がいないと何か食べ物でも争って食べるということもなく何でも与えられるから競争もなくおっとりとしている。何をしなくても親が与えてくれるからそうなってしまうのである。

だから外見を見ただけでこの人は長男なのか長女なのか弟なのかとか見分けられるのは不思議である。それは別に遺伝的な生まれつきなものではなくそういう家庭環境で性格も作られたともなる。ただ性格にしても遺伝的なものは根幹にありどうしても社交的な性格というか外交的な性格と内向的な性格がありそれは基本として変わりなくその人を形成してゆく。

私の場合は家庭環境が異常だった。母と姉がいたとしても母親が二人いたと同じであり性格的にも二人は正反対だった。姉は陽気で明るく外交的な性格であったが母は内気なおとなしい女性だったからである。だからこの二人の女性の間で長く生活していたことが影響した。何か勤めることもなく野放図になり社会性もなくなたっていたことが問題だった。
でも別に勤めてもいなのだからとがめることなかったから自分にとってはいいものだったのである。母親だけだったら内気になり何かかたぐるしいものになり才能も発揮できなかったことは確かである。

●地域的特性で作られる人間

でも人間というのは環境の影響が大きいのである。その人がどういう地域に生まれているかも相当に影響している。例えば暑い国に生まれた人と寒い国に生まれた人は相当に性格的にも違ってくる。そして文化自体も違ってくる。それほど気候の影響というのは大きいのである。それは植物にしても暖かい地域で育つものと寒い地域で咲く花とは違っているからである。また木にしても南方性とか北方性があり違っている。

こうして地理的気候的な影響は人間にも大きなものとなる。例えば日本でも雪国に住んでいる人やや山に囲まれている地域に住んでいる人や海に面して住んでいる人などは違ったものになる
海に面してる人はやはり開放的になるかもしれない。なぜなら毎日山に囲まれていて山に閉ざされていた場所に住んでいる人とは性格まで違うようになるかもしれない。
私自身は福島県の浜通りに住んでいて海に面しているから毎日海を見ているから山に閉ざされた地域に住む人は違った感覚になる。現実に飯館村とかなると海も見えず標高も高く寒い。そこはやはり山に閉ざされているから海に面している地域とは違った感覚になるのである
福島県というのは海があり山がありと広すぎるのである。会津は本当に山国であり2000m級の山がひしめく。だからそこに住んでいる人の感覚も相当に違ってくる。そしてなかなかそういうところに住んでいる人の感覚が理解できないとなる。

また地域性というときそうした自然環境が元としてあっても何かその土地で育まれたものがある。例えば日本だと大阪人というのはその言葉使いからして違っている。そこは商売人の社会でありその挨拶ももうかりまっかとかなる。大阪は江戸時代からでも商売の国でありそれが日常でありその世界に居ればそういう気質になってくる。それで外の世界の人も外国人でも受け入れやすい。それで外国人にも人気があるというのが分かるのである。
ただいまは使われていないとも地元の人が言っている。

でもまた京都になると何かやんわりとその言葉は優しいのだがまた棘がある。そのやんわりとした言葉遣いはそこは公家のこと言葉である権力者がいてそれに媚びるような言葉なのである。おいでやとか一見歓迎しているようでそうでもないのである。
だから一見その言葉からだけだともてなしされているという感覚になる。そこはそれはあくまでも表面的なことであり実際は冷たいのである。だからそうした言葉遣いでも方言にしてもそれは地理的なものもあるな歴史的に作られた性格だと思う
つまり大阪と京都ではその言葉遣いからして相当に違っているのである。それはどうして作られたかというと歴史的なものとして商売の社会と公家を相手にしていた社会がそういう言葉遣いまで違ったものとなってしまったのである。だから人間の性格というのは生まれつきの物は基本としてあってもその環境からも作られるということが分かるのである。

●東北人の気質の問題‐自信がもてない―個性を発揮できない

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東北などはもともと農民が多いのだから農民社会だから商売には向いていないのである。でも不思議なのはなぜ伊達政宗のような人が生まれたのかということである。その人は芝居気があり何か商売人的なところがあ
ただ仙台市となるとその言葉は東北弁はズーズー弁でありんだんだとか口ごもる言葉である。仙台弁はだっちゃっちゃと押しが強いものでありズーズー弁でもないのである。それはやはり仙台市が商売人が集まるところだからそうなったのかとなる。

ただ伊達正宗は別に仙台は商都となる前に地方で育ったのでありなぜそういう東北人には相応しくない人が生まれたのか不思議である。それで奇妙なのは丸森は伊達藩に属して居たがそこに金山に一時は相馬藩が支配していた。
それで相馬市の病院に入院していたときその時金山城の麓に住んでいる人がんだちゃ言ってたのである。これはんだちゃはんだとだっちゃが結びついたのかとなる。つまりここで言葉でも地域的に交わり合成されたともなる
方言には地域性があるから面白いのである。だから訛りは土地の手形だと言われたのである。その訛りは簡単に消えないからである

狭い地域の方言ですが、鹿児島県の頴娃町(えいちょう)の頴娃弁は、日本一難解な方言として、テレビでも紹介されていました。
頴娃町は、江戸時代は薩摩藩が治めていました。
薩摩藩は江戸幕府の監視の目が届かないので、琉球など外国と密かに貿易をしていました。
その時に他の人たちに悟られないように、暗号のような言葉を使っていました。
その暗号が頴娃弁の起源だと伝わっています。

こうして言葉というのも歴史的に作られたものである。何かドラマで常に密貿易のことで取り締まり取り締まりが厳しくされていたがそれは薩摩藩でその貿易が盛んでありこういう事情があったということもこれそれが現実のことだったのである。何かドラマとして作られたものばかりと見ていたがこういう事実があったということでそれはただドラマでないということで関心を持つようになる。歴史は作り事ではない。事実としてあったことでありそこに重みがあるからである。ただテレビのドラマとか見ていたらそれはただ作り事ように見ていたののである。だから歴史というのは常にその背後に事実があるその事実を知ることが大事なのである。

●東北人の屈折した感覚ー自信の無さはなぜ

東北人の魂は傷ついたその肌をはっきりと肯定しているそのために劣等感や痛みを彼らをいやおうなしに締め付け圧し潰す。その暗さは彼らの表情や鈍い態度で行う行動の中に歴然としている。抑圧のされた方や痛みの感じ方は我々の想像以上に激しい。そういった硬質な顔には表現力を漂うことも定着することも許されない。顔の表情を軸としてその人間の生活はその人独得の回転をする。 
くがねのゆめ 上野 霄里

このように確かに東北人気質というのはある。一般化される気質はある。でもそれをすべて東北人とも言えない。近くの大工さんは全く東北人らしくないのである。なんでもあけすけに語り饒舌であり商売人でもある。職人となれば無口でありただ一筋仕事に励んでいるう感じだがそういうこともない。だからその人はどうして地元の人ではない東北の人ではないと見てしまうのである。

確かなことは東北人だからと言ってすべて公式のようにおさまるわけでもないのである。ただ一般的には確かにそういう性格はその土地から気候から歴史によって作られたことは確かであるなぜ関東地域にとみちのくとなると接している地域でも相当に違ったものになる。関八州となると上野霄里氏が生まれた栃木県の出身だからその範囲内にある。その性格もまた東北とはは違ったものとなる。
だから人物にしても内村鑑三とかが生まれたり個性的な人物が生まれている。だから関東と東北では歴史的にも違ったものとなっているのである。なぜなら300年徳川幕府が日本を支配していたということでそれがやはり影響しているのである
もし東北に政治的中心があったなら性格的にも違っていたものとなったかもしれない。だから仙台市は特殊であり言葉もで何か押しの強い商売人的なことばになったということである。

いずれにしろどうして人間がつくられてゆくのか例えば天才にしてもどうしてつくられてゆくのかそれは一個人の問題ではなくその背景にあるものがあり地域性があり風土があり歴史がありもちろん家庭環境もありさまざまな複合的な要因によってその人はつくられてゆく。また文化というのもその風土や地域性や歴史の覚えにつくられてゆくのである。

●時代で作られる人間ー画一的教育の終わり

だから一人の人物が生まれるという時それはその背景を見なければならない。いろいろなもの総合作用して人も作られていくからである。ともかく人間はさまざまな環境の中で作られすべて遺伝的なもので決まるわけではないそれは確かである。
例えば私の子供の時家に一冊の本もなかったとすれば何か自分自身で興味あり勉強するということはなかった。だから家庭環境の影響はその生まれつきよりも大きいものかもしれない。
私の父親は酒屋の丁稚であるだからこそ私を丁稚にしようとしていたのかもしれない。店をしていた時絶えず配達をさせられていたからであるそしてそろばんを習わされてそのそろばんを結構できていた。それで自慢していたがそれは何の役にも立たなかった。だからまた時代の影響とか環境の影響とかで人間も作られていく。

今子供にさせるべきはコンピューターのプログラムだということにもなる。コンピューターなしではありえない社会になってしまったからである。そのコンピューター社会になった時そこでまた別な能力が必要となり才能発揮されるとなる。そもそもこうして私がプログで発信できるのもコンピューター社会になったからである。そうでなければ発表する場もなくその才能も埋もれてしまったということである。
そういうこともまた人間社会には多いのである。いくら才能はあってもそれを発揮する場所がなく発揮することもできなくて終わった人も相当数だからである。そういう場すら与えられないのは人間社会でもある。

ともかく自分自身を相当に恵まれたので学校には適応できない性格だったが大学を出てから自主的に勉強してきたのである。そういう環境を家庭的に家庭で与えられたからである。それは社会に適応できないということで引きこもりになり家で一人勉強していたのである。でも性格的には陰の性格だからそうなっていたのである。そこで自分自身の能力開発をして自由に生きることが出来たのである
それは親に恵まれた結果だったのである。だから私は親に特別感謝しているのである。そこにはまた欠けたものがあり問題があったが自分にとってはいいものだったのである。やはり人間は家庭で育つからその家庭はどういう家庭なのか職業でも農業の会社なのか商売人なのかでその人の人格形成であり思考であり趣向でありそういうものまでも深く影響してくるのである。

だから教育というとき何かを教えるというか先生もいて先生も大事だが何か自主的に学ぶ環境の方が大事なのである。なぜなら人間というのはただ強制的に教えられるのではなく自主的に学ぶことをしなければ身につかないからである。その学び方にしても千差万別でありその人にあった学び方がありそれは学校のような画一的だ教育でわできないのである。だからなぜヨーロッパで天才が生まれたかというと家庭で家庭教師がいてそこはすでに学ぶ場となっていたから構成的な個性的な人が出てきたのだと思う。

つまり天才でも環境から生まれるのでありいくら遺伝的に才能があってもそういう環境がなければ才能も伸ばせないし第一発表する場すらはないであろう。芸術にしてもそれを鑑賞する人たちがなければ芸術を発展しないのである。貴族社会の場合やはり芸術を鑑賞する人たちがいて応援したからあれだけの芸術が生まれたともなる。

これからの教育はもはや集団的画一的教育は不要になる。なぜなら少子化であり子供の数が激減していてその少人数で社会を形成するとなるとその少人数でも優秀な人を作らなければならないからである才能を伸ばさなければならないからである。数が多ければどうしても画一的に大勢の人間を画一的に教育するということになってしまうからである。それは戦後の教育はどうしても数が多いから一人ひとりに合った個性的な教育などできなかったからである

私の場合なぜこのように何でも理解することが遅かったのか?

それはやはり天才でもないしたいして能力もなかったがまた環境にしても自主的に学ぶということもく学校時代から興味を持って勉強することが少なかったなかった。それから何か理解するのも遅々として進まず60過ぎてとか理解するようになったのである。
何かこの世界自体を理解することが時間はかかりすぎるのである特にグローバルからすると日本だけではない外国を理解するとなると簡単にはできない。外国を理解するにはとにかく住んでみない限り実感できないからである。
だから何か発言できる人は国際関係でも外国に実際に住んだ人達なのであるそれはいくら本を読んだにしても実感していないからわからないのである。第一中国にしろアメリカにしろロシアにしろあまりにも広すぎてその地理すら知ることは簡単にできないからである。

まず地理を知ることが第一という時日本ですら簡単にできない私は自由な時間が与えられてまず日本は隈なく旅したから地理を理解した。でも外国人になるとそれはもうあまりにも広すぎてその地理を理解することは不可能になる。だからこそ人生百年の時代は何か芸術を創造するにしても有利になる。世界を知るとなったらとても時間がかかる知りえないからであるそれは人生百年でもできない。だから長寿社会というのは学問とか芸術とかその他でも極めるには有利な社会だとなる。

●ネット社会とコンピューター社会で変わる教育環境

またインターネット社会になると世界的につながりができてそこでまた新たなものが生まれてくる。何か引用するにしてもいちいち図書館に行って調べることは容易ではない。でもネットで調べるとそれに見合ったものが出てくる場合が今回でも鹿児島の頴娃町(えいちょう)の頴娃弁は、についての話は面白いと思った。だから知の世界は世界的にも広まりチャットgptかでもそれは知的対話が出来るのだから芸術にも影響してくる。というのは身近に何か自分の場合学問的でも芸術的でも話ことができる人もいないからである。

でもネットに検索したりネットで発表もできるからその点ではそれぞれの個性的なもの才能を発揮しやすくなるそれより一地域相馬をベースとして世界にも発信できるのである。それが津波や原発事故を地元から発信できたのもインターネットができたからなのである。こうしてやはり常に時代が変わり技術も進歩してくるからそれによっても人間は影響きされ人間をつくられてゆく。

だから人間のはさまざまな時代の影響や家庭環境やら地域の栄養やらやら風土の影響でそもそもがつくられてゆくものでありすべて生まれつきで決められる訳ではないのである
だから実際は才能があった人も埋もれたの人が多いのである。発表する場すらなくてそうなったのである。出版などは特別なものであり出版社の方が力があり簡単にはできないし私は何もできなかった。こうしてインターネットから気楽に自分なりにいくらでも書いて発表することができるこの変化もまた大きいものだったのである

そしてマスコミからとかは文化は生まれない。それはなぜかといえばその地域とか関係なくただ大衆を相手にしてその時々の話題を放送する。そして次々に連関性もなく時間的につながりなくその時々の話題になるものを放送しては消えていくのである。
でも私の場合は相馬藩という地域に根ざして歴史的にまたその土地と一体化して放送している。だから私のプログを読めば相馬地域のことが全体的に総合的にわかる

なぜならそこでは時間的な継続性がありまた具体的な地域と結びついて発信しているからである。それができたのはインターネットがあるからでありできたからであり報道の質も変わったからである
マスコミのように別に百万以上とかのアクセス見る人がいるから見る人などいなくても特定の人に対して一人に対して放送することが可能になったからである
その相違もまた大きい物だったのである。大衆を相手にすればどうしても浅薄なものとなりただその時々の話題で流されて次々と連関性もなく歴史性もなく消えてゆくだけになるからである。

でもう一つの地域に根ざして発信していればちがった報道にもなったからである。だからグローバル化社会でグローカルというときグローバルなものとローカルもののものが結びついてゆくそういう学部が大学にもできているということもやはり時代である。ローカル的なものもやはりグローバルなものと結びつくのである。でも人間は日々生活している場所が大事でありそこからものを見るからそこを基盤にして放送するということは違ったものになるのである。そういうことがやはりインターネットやコンピューターの進歩でできるようになったのは大きな変化である。

情報社会の変化ーマスコミからインターネットへ
 【相馬新報の意味するもの】




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2024年03月27日

平泉四季の短歌連作 【みちのくの浄土を祈願して作られた仏都―平泉】

平泉四季の短歌連作

【みちのくの浄土を祈願して作られた仏都―平泉】


  【春】
美しき無量光院夢なれや梵字が池や春草生えぬ
高館の義経堂や風荒れて夕べしきりに桜ゆれさく
高館の桜満開風唸り夕陽のさして平泉暮る
平泉都大路の道ありと春の日さして我が歩むかな
平泉都の跡や春の虹その切れ端の残るを見ゆも

みちのくに浄土を願い
春の陽の池にかがよい
朱塗りの無量光院
その影の池に映し
春草生えて蝶も飛び
戦火はなしに人集い
和楽の時のここにあるべし
  【夏】
風涼し大泉が池や京遠くみやびありしも苔むす岸辺
大池に風の渡りて涼しかな堂塔消えて夢の跡かな
達国の岩屋を過ぎて厳美渓岩に流れの打ち響き涼し
【秋】
松古りて金色堂に秋の蝉鳴く声響き旅人去りぬ
堂塔の業火に消えぬその後に残る礎石や秋の日暮れぬ
義経を守ると動かじ弁慶松金色堂の秋の暮かな
赤々と紅葉映して大池や栄し跡に堂塔なしも

 【冬】
巨いなる人は去りにきその後に弁慶松や冬に入るかな
大泉が池苔むす岸辺雪のふり堂塔の礎石踏みて帰りぬ
今はなし七堂伽藍浄土成す大池も氷り雪踏み帰る
みちのくの王は眠りぬ金色堂一時栄ゆ夢の跡かな


平泉が三代の栄華で終わったのは短い、三代と言えば今なら曽祖父とか曾孫でも普通に存在している。だから三代で終わったということは本当に夢のようにその栄華も終わった。
そもそもそう三代の栄華を築いたのはその財力はどこからきたといえばみちのくに取れた黄金であった。もともと古代から陸奥では黄金が取れていた。奈良の大仏はもともと黄金でトキンされて輝いていたのである。その黄金は陸奥の宮城県の涌谷で取れたものであった。
そもそも人は陸奥にしても原野のようなところに人は入ってこない。陸奥の場合やはり黄金が取れるということで注目され中央から人々は入ってきたのである
人間は黄金に魅了されてきた。例えばエジプトの王の未来でも黄金のに塗られていた。その黄金は今ののスーダンのヌビアからは運ばれたものだった。

ヌビア (Nubia) は、エジプト南部アスワンあたりからスーダンにかけての地方の名称。古代エジプト語のヌブ(金)から古代ギリシア・ローマ人がそう呼んだのが始まり。アラビア語ではヌーバ

このように世界の歴史でも黄金人間は魅せられてきた。インカ帝国であれその王は黄金に埋もれて死んだとかされる黄金の国った。それもスパインなどの侵略者によって奪われた。
その黄金でもってスパインがポルトガルが栄えた。そしてその奪った黄金で教会を飾ったというのもなんなのだろうとなる。
そんなことしてキリストが喜ぶのだろうかともなる。国家が盗賊の集団となり奪ったものだからである

ともかく何もない原野などにお人は入って来ない、最近アマゾンで黄金がとれたとか人が入って来てそこでジャングルに住む原住民と争いになり死者もでたというニュースがあった

ブラジルのアマゾン川流域には多くの少数民族が住んでいますが、近年金鉱の違法採掘が後を絶たず、アマゾン川流域の熱帯雨林が次々と伐採され、現地住民が違法採掘者グループから銃撃される事件も起こっている

エル・ドラード――日本語では「黄金郷」と訳される。文字通り、黄金の都だ。もともとは「金箔をかぶせた」あるいは「黄金の人」を意味するスペイン語で、かつてアンデス地方に存在した黄金の儀式からきた言葉だという。
 そもそもヨーロッパ人は、古くから黄金に対する強い憧れを抱いていた。そんな彼らの黄金への強い憧れを示すのが、マルコ・ポーロによって記された『東方見聞録』に登場する、あの黄金の国ジパングだ。

幻の黄金郷 エル・ドラードの謎

黄金に関しては世界共通のものがあ人間は黄金に魅せられるのである。また世界共通のものとして人間に塩が欠かせないから塩を得ることが大事なものとなる

まず奈良とか中央の人たちが陸奥に目をつけたのは黄金が取れるということだったのである。それで奈良の大仏はもともと黄金に塗られて輝いていた。その黄金は陸奥に発見されてその黄金で大仏をと鍍金したのである。

天皇の御代栄えむと東なる陸奥山に黄金花咲く 大伴家持

そこは宮城県の涌谷なのである。

それから黄金は必ずしも実用的なものとならないがそれより鉄は実用的なものであり農具にもなり武器にもなるからヤマト王権にとっては日本を統一するに不可欠なものだったのである
そのために鉄は常に求められてその鉄を作る技術を持った渡来人とともに陸奥へ入ってきたのである。そしてもう一つの万葉集の歌の真野郷は鉄が生産された場所だったのである。
だから真野の草原の歌は鉄が取れる場所として中央の人に知られていたのである。現実に北上川をさかのぼり登米までその後を明確に示しているからである。

 みちのくの真野の草原(かやはら)遠 けども面影にして見ゆと いふものを. 笠女郎

この歌は草原(かやはら)地名であり一つの境界も示していた。なぜなら南相馬市鹿島区の海老村に車輪梅は奄美大島が自生地でありここは南限の地だったからである。
つまりこれも実用的なものとして鉄をとれる場所として中央の人に認識されたのである。
誰もただ萱原が広がる原野に憧れたりしない。この歌の誤解は大伴家持をしたいみちのくの真野遠いけれども私をあなたを忘れないという意味だったのである。
ともかく大和王権にしても鉄なしでは日本を統一できなかった。鉄は農具にもなり強力な武器になったからである。だから鉄を求めて陸奥を北上し黄金を求めて世界でも未開の地でも入って行ったのである。黄金と鉄と塩から世界史をみれば共通したものがある。


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ここでは弁慶が義経を英雄として作り上げた人物だとしている。
そもそも上野氏自体が弁慶となり語っているともなる
彼の特徴は言葉でも強い体から発せられる感覚なのである。
お前は弱い俺は強いとなる。だから強かった荒法師だった弁慶になる。それで弁慶松がありそれがその人を象徴している
でも今は一関に住んでいない。でもみちのくに長く住んでいたからみちのくに通じているのである。
まずその土地のことは一年でも住んでみないとわからない。外国でも住んでみないとわからない。それで外国に住んだ人と住まない人の差が大きいのである。
ともかくみちのくに住んだということで大きな足跡を残したのである。


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平泉四季の俳句連作(詩)(新春ー2015)
 (平泉に集約されたみちのくの歴史)

中尊寺を歩く―写真と絵








2024年03月26日

墓とは何なのか? 維持できない墓 【家族墓は明治以降のもので新しい―墓の歴史】

墓とは何なのか? 維持できない墓

【家族墓は明治以降のもので新しい―墓の歴史】


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●家族墓は何々家の墓h明治以降にできたもの

墓とは何なのか?なぜ人間は墓を作ったのかそれは死者を悼むためだろう。死者を何か記念として残すために墓を作って。でも家族とか個々人で墓を作るということは歴史的にそんなになかった。何か共同体の首長のような人が死んだとき大きな墓を埋めた。古墳というのも墓でありそこに埋められた人はその土地を支配していた有力者である。
でも一般の人は墓など作らない作る資力もないから墓は作れなかった。江戸時代でも墓を作っていたのは特別な人である。
一般の人は埋め墓に葬られて墓参りなどはしなかったという。でも参り墓というのがありそこにはお参りしていた。

でもその参りはした墓はやはり特別な人であり何かその村の中でも功績があった人として参り墓が作られていた。それは今の家族墓とも違う。その村の中でみんながその人を功績があるとしてその人によって助けられたということがあり参り墓として残された。だから家族がなくても村の人はその人をはどういう人か知っていて伝えられたからお参りしていたのである

普通の人はこの辺では仏方(ホトケケッポ)として村の埋葬地がありそこに遺体は葬られた。そこには個々人の墓を家族の墓もないのである。そもそも不思議なのは家族の墓というのは何何家の墓というのは明治以降にできたものであり江戸時代にはなかった。ただ幕末でも墓を作ったのである。それは家族の墓ではなく個人の墓なのである。だから一個人の名前が記されているだけであり何何家の墓というのは無い。つまり家族の墓というのはそもそも日本にはなかったのである。

家族の墓が作られるようになったのは政府からの強制でもあり家族によって連帯して協力して生活させるようにさせた。
だから家族中心の社会というのはそもそもなかったのである。むしろ家族というときその範囲が広いのである。。それは外国でも同じでありファミリーというときその範囲が広いのである。スペインにあるサクラダファミリーというときそれは教会を中心として大きなファミリーだったとなる。
日本だったら村自体が一つのファミリーだったともなる。村の規模にしても500人くらいだとすると互いに顔見知りであり一つの濃密なコミュニティだったからそれは家族の延長でありファミリーだったと思う。だからこそ仏方【ホトケッポ】に死んだら葬られる。共同墓地のようなところに一緒に葬られたということである。

●核家族とかなり大家族が喪失して墓も維持できなくなった

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そもそもなぜ墓が維持できなくなったのかというと家族にしても核家族になったりその家族の規模が少人数になりすぎたのである。明治以降でも家族というときまだ大家族であり使用人までも家族にもなり墓を見るとその使用人であった墓標ようなものがある。
それはおそらく一つの家族のようになっていたのかもしれない。だから家族といっても今のように核家族とか狭い範囲のものではない。そもそも国家というとき家の延長したもの拡大したものとも見ていた。野馬追に御家というが出るときそれは相馬氏一族のような集団を指していた。外国でもハウスブルク家となるとハウスを家でプルクは城である。
だからそれも家族は拡大したものは巨大な国家に発展したともなる。そもそも人間が基本的に団結するのは家族だからそうなったともなる。
ともかく墓でも維持できなくなってきたのは明治以降でも大家族がありそこで長男が尊ばれて家業をついていたことが墓でも代々受け継ぐということができた。
そして農業中心のときはその土地に根付いて暮らすから代々続いたということもあった。でも農業社会から工業社会になるとその土地に一生住んでいるということでもなくなった。それでも都会に出ても東京とかにでても帰る場所として実家がありそこで面倒を見ることはあった。そのために長男は家業を継ぎ家を墓でも代々守ってきたということはある。それは時代の変化でできなくなったのである。

●古墳も墓でも共同体の首長が葬られた

そもそも明治以降家族墓ができたそれは新しいものであり江戸時代にはなかった。明治以降になって家族墓になったその前は夫婦墓とかあった。つまり家族墓というのは新しいものでありそれが今になって維持できないというのは社会と時代の変化でそうなったのである。
とにかく墓を作るということはもともと人間にあったとしてもそれは特殊なことだったのである。特別な人しか墓はなかった。

ただ古墳が墓だとするとき前方後円墳などは大きいからその土地の有力者首長などは埋葬されていた。この辺では原町の桜井古墳は大きい。その中に二人の人が葬られていてこの辺を支配する首長だったとされる。なぜ二人なのかとなるとやはり首長が二人いるというか二つの勢力がここで合体したのかもしれない。
あの古墳ともなればやはり共同して作られたものであり共同体があってその象徴として古墳が作られた。ただ前方後円墳は大きいものだが円墳という小さなものも後に数多くつくられた。
前方後円墳となると何か広い地域の共同体があって作られたと見るが円墳となると規模が小さいから小共同体の物に見える。

おそらく大きな共同体が分配して分立して小さな古墳になったのかもしれない。それは江戸時代の村から共同体から明治以降になって家族墓ができたのとも似ている。家族は墓は村大きな共同体ではなく限られた人たちの小さな共同体だからである。それでも大家族であり今の核家族とは違っていたのである。核家族となればもはや大きな家族ではない共同体でもないから墓を維持することはできなくなった。
だから墓といっても社会の変化で時代の変化で維持できなくなるということがある。

そもそも墓というのは何なのか?今なら家族墓があるというとき死んだ家族を供養するものとして墓が一家の墓がある。でもそもそももともとは一家の墓など江戸時代にはなかったのである。幕末に裕福になって農民でも個人墓を作った。でもそれは家族の墓でわなかったのである。だから何何のは家の墓というのはなかったのである。江戸時代にあったのも個人墓であり特別な人の墓であり一般の人の墓などなかったのである。だから墓というものは常にいつもあったように思っているわが墓がないのがふつうだったのである。

おそらくあったとしても人が死んだら一時的に埋めてそこに墓標のようなものを建てたかもしれない。でも墓はなかったのである。ただ飯館村あたり墓標もない土を盛った墓がある。おそらくそんなふうにして死んだら人を埋めて墓も作っていなかったのである。そもそも江戸時代には名字を持っている人もいなかった。苗字帯刀を許されたのは名主とか有力者であり名字を持っているのは侍だけだったのである。ということは何々家の墓というのはなかったのである。

●墓は必要ないものなのか?

ただ墓はもう必要ないというとき本当にそうなっていいのだろうか?確かに江戸時代までは庶民などは作れなかった。村の共同墓地の仏方【ホトケッポ】とかいうところに葬られただけである。そして村人みんなで供養したということになる。そのときは葬儀会社など無いからみんなで死んだ人はそこに葬り終わりだったということになる。だから死んだらどうするとか墓を維持するとかということも必要なかったのではある

ただ墓があるというときはそれは特別な功績のあった人であり普通の人はない。でも墓というのは何かというときやはりそれにも意味がある。墓は無意味だという事にはならない。なぜなら人は死んだらすぐに忘れられやすいのである。だから墓があれば死んだ人がまだそこに居ると思う。
そして家というのはいずれはなくなるの家がなくなっても依然として墓は残るということがある。墓はその人が存在した最後の証である。そして墓の効用というときドラマでよく墓参りしている人を見る。何かその人に対して謝ることがあり手を合わせて許してくださいとか祈っていたりする。

そしてまた墓があればその人を思っていれば墓参りして花をあげたりする。そこで死者とのつながりが依然としてあり何かそこで死者とのつながりがあってそのために墓も必要だとなる。誰か知らないの私の家の墓に春の彼岸に花をさしていた人がいた。
ということは誰かわからないが私の死んだ家族のことを思ってそうしているのかもしれないとなる。それは違っていても依然としてその人が存在しその人を思っていれば墓参りして花をあげたりするのである。するとその人は死んだ人をまだ思ってくれるからありがたいともなるのである。

なぜならとにかく生きているときは利益あれば人は近寄り何かを得たいとして寄ってくる。でも死んだ人は何ももはや与えてくれない。墓参りして花を上げてもそれを死んだ人は感謝もしないし返事もない。
でもだからこそ何ももはや与えてくれないからこそそれでも墓参りしてくれる人は本当にその人を思っていたということが分かるのである。でもそういう人はまれである。大概は金の切れ目が縁の切れ目となって死んだ人でももはや関心もなくなりそんな人もいなかったとまでなる。

●交通事故で死んだ兄の墓標

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私の父親違いの兄は41才で交通事故で死んだ。その骨は実家の墓に母の実家の墓に埋められていた。それで静岡県の方でトラック運転手に雇われた会社で墓を作ってやるからと骨を置いて行けと言われたのである。それが何のことか分からなかった。
盛んに世話してやったとかは言っていた。乞食のようにしてきたので雇ってやったとか言っていた。でも別にトラック運転できたできて働くことができたのだから雇っただけであり病気だから世話したということでもなかった。
でも交通事故で死んだ時その保険をもらいたいとなり墓を作ってやるとか骨を置いて行けとか言ったのかもしれない。私自身は車はもっていないのでその保険金のことなどが分からずに事情が飲めこめ飲み込めなかったのである。だから車社会であるとき車を持ってないということはその社会自体も分からなくなってしまうのである。

でももし近くに住んでいたら事情でもわかるからあんなことにはならなかったと思う。遠くに行ってしまえば音信不通ではないにしろ事情は分からなくなるのである。だから遠くに行ってしまったものはいくら親戚でも責任を持てなくなる。それは別に肉親であれ兄弟であり家族でも遠くに行って何をしているかわからなくなる。何かあったとき助けることもできなくなるのである。だからこそ遠くの親戚より近くの他人となってしまうのである。

でも私は五歳まで兄と一緒に暮らしたのであんにゃと呼んでいたので一応兄の意識はあった。その後は別々に暮らしていたから疎遠にはなった。ただ不思議なのは実家で一緒に五年も暮らしていた人が兄のことをいなかったと言っているのも不思議である。
子供の時五年間一緒にいれば忘れるということはありえない。でもその人は異常な非情な人になっていたのでそうなった。ついには人は一緒に暮してもそんな人がいなかったとまでなってしまうのである。

●兄の墓標―兄を知る人は私しかいなくなった

そして私は私の家の墓の隣に兄の墓というのではなく墓標を小さな墓標を作った。そこで供養している。そしてその兄の墓でも実の娘がいたとしてもその娘はもはや父親とも思っていない。
というのはその娘のは父親と母親は離婚してその後ひどい目にあったから父親とも思わなくなったのである。それで金にも苦労しているから十万やるから墓参りしてくれと言ったがそれっきり音沙汰もなく終わった。
そしてその兄のことを知っている人はもはやいなくなっている。ここで遊んでいた子供の時の仲間みんな死んだのである。そこに墓標があってもその人は知る人もいなくなったのである。ただ自分だけが知っていて墓参りしている

私自由は私自身は兄に苦労させて私自身よくされたので私は家族に恵まれたということもありそのことで負い目があって墓を作り供養している。
とともかく兄のことを思っている人はもはや一人もいない。私自身だけだというのも何なのだろうとなる。このように人の関係も無常なのである。人はたちまち死んだら忘れられる。
そして実家の墓に兄の骨を収めたがそれが土になっていてその骨も取り出すこともできなかった。骨は土になっていたからである。だから別にその兄の墓標の下に骨はないのである。だから人間は死んだら骨にな灰になり消える。

でも火葬場で骨だけを残すからその始末に困るとなる。それで骨もすべて焼いてしまいその方は後始末が楽だとなる。別に骨がなくなっても墓を作ることはできる。その人は存在した証として墓があるからである。そこに骨がなくても別にいいのである
つまり墓は何かというときその人が存在したという証でありそこに骨がなくてもいいのである。それより人間とは死んだら一体その人は何をもって偲ぶのかとなる。骨が残ってたとしてもそれで偲ぶことはできない。人間はその人はどう生きたかが問われているのでありその人は骨がそうした人生を語るものではない。

だからこそ弔う(とむらう)ということはその人を問うことでありその人の人生がなんであったのかその人は何を残したのか問うことなのである。それは骨ではなくその人の人生はどういうものであったのかを偲ぶことなのである。そうして偲ばれる人はやはり何か価値があり何かを残した人だとなる

だから参り墓があったのその土地の功績者であり普通の人は埋め墓に何もなく埋もれただけなのである。

その人のありしと示す墓なれや参る人なく捨てられ悲し

墓すら維持できず捨てられてついにはにはその人のこの世に存在したのかもわからなくなる。無常の世なのである。

2024年03月25日

町場の地名の由来ー歩く時代に感じたもの(秋の蝉) 【左沢(あてらざわ)小国の地名由来ー運ぶことが簡単にできなかった時代の感覚】

町場の地名の由来ー歩く時代に感じたもの(秋の蝉)

【左沢(あてらざわ)小国の地名由来ー運ぶことが簡単にできなかった時代の感覚】


領内の村々から農産物を運んできたり,自給できない諸物資を購入したりする場として,
この城下町周辺部にできた町場が利用された。

●日立木の町場の地名由来

相馬市に城下町があるとき日立木からは近い。すると日立木から町場とあるときそこに周りの農家から農産物とかが集まった。それを相馬市の城下に運んだ場所となるのかもしれない。城下町には農産物など生産していないから運ばなければならない。それで鹿島区の横手から塩を相馬市までリヤカーで運んだという女性を知っている。相馬市までは15キロもありそれをリヤカーで運ぶとしたら往復30キロにもなり大変な労働になっていたのである。ただその当時運ぶというときは車もないのだから馬車とかになりそれも無いとしたらリヤカーだったとなる。

ともかく交通が不便な時代はものでも運ぶことが容易ではない。だから狭い範囲で自給自足していたのである。そうなれば贅沢もできない。近くにあるもので満足するほかなかったのである。
だから今のように世界中からいろいろなものが入ってくる時代とはあまりにも違っていたのである。
要するに狭い範囲で自給自足が基本であり遠くへは行かない行けないのである。それは車ない私自身が理解できる。自転車になると原町でも8キロくらいにしても結構楽ではない。ただ電動自転車のいい物を買ったのでそれだと前の自転車より倍速になったので行くことは楽になった。
でもとても車のようには簡単には行けないのである。そうなると近くにあるもので満足するほかない。でも相馬市でパンの専門店がありそこでいいパンを売っていたがそれを買うということは簡単にはできないのである。

●なぜ小国の地名が多いのか

それでなぜ日本には小国という地名が多いのか?それは狭い範囲が一つの国でありそこで自給自足するほかないからそういう地名が付いた。そして村と村すらまともに交わらないし行き来していないのである。
だから飯館村の大倉と佐須村が合併するとき明治になって合併するとき民情は違うからという理由でできないとなっていたのである。距離として5、6キロくらいなのかそんな距離でも村と村が離れていれば村人同士が物のやり取りにしても簡単に物が運べないからできないのである。
それでこの辺の村でで隣から麦付きの男がやってきたがその人は蛇だったとか話が残っている。つまり隣の村見慣れぬ人はそんな風に見られたということである。
それだけ狭い範囲ですら村と村ですら人は交わって交わることが稀だったとな。だから物すら周りにあるものだけで間に合わせる他なかったのである。現実に燃料は炭焼きであり何か外から買うというものはまれだしできなかったのである。もちろん今のように外国から何でも入ってくるようなことはまったくない。そもそも農家一軒で納豆でも作り栢の木から油をとり鶏を飼い卵をとり水は井戸水であり燃料裏山の木だったりまりにあるもので自給自足で暮らしていた。だから買うということはしない生活である。
今とはあまりにもちがっていたのである。

●なぜ川の側に四大文明がうまれのか

そういう生活というのはグローバル化とかであまりに変わってしまったので理解できなくなったのである。日本というのは山が多くて坂が多いから何か物を運ぶにしても向いていないのである。四大文明が大河の側に生まれたというときそれは川が運河のようになっていてそれが道になっていて物を運べ運ぶことができた。それで大河のほとりは大きな文明が生まれたのである。日本の外国の川は日本の川と違って運河ように流れているからである。だからその岸辺に港ができて都市が生まれたのである。

ともかく運ぶということは容易ではなかった。この辺の塩の道にしても松川浦から塩を取って飯館村まで運んだのだがそれもかなり沢沿いの危険な道でありそこを通ったことがあるが細い道でありちょっとでも道を外れたらしたの沢に落ちてしまうようなところだった。それで牛転がしとと座頭転がしとかの地名が生まれた。牛は信州では塩を運ぶのに使われていた。そして途中で栃窪村に助の観音があるのそこでで泊まったりしたからでらる。松川浦から飯館村まで運ぶのが大変な労力だったのである。

でも塩は欠かせないものであり貴重なものだから日本全国に塩の道があった。あるところでは外国でも塩が貴重であり塩と黄金が等価で交換されたとこもある。またローマ人の兵隊の給料のサラリーとは塩のことだったのである。それだけ塩というのが貴重である欠かせないものだからそうなった。それは世界的にそうそうであり塩というのはそれだけ貴重だったからそうなった。生活に欠かせないものだからそうなったのである。だから人間の生活を見るとき塩から見るとき共通性がある。ただ岩塩というのはあり山中でも取れる塩がありそれがこの辺とは違っていた。

●左沢(あてらざわ)の地名が語るものーオックスフォードの地名

とにかく一つの地名からその土地のことを読み取ることがある。気になったのは左沢(あてら)町場とかいう地名が山形県の近江町とかにある。その左沢とは最上川が流れる向こう岸を指していた。その向こう岸に町場がある。そこに人が集まり何かものも集まる場所だったのかとなる。その左沢という地名はやはり向こう岸に行けば町場があるということでそう言う名前がついたのかもしれない。日本では川というのは側であり川そのものではなく向かい側ということであり川を渡り向かい側に行くということでそのことが意識されて地名化したのである。どうしても川が交通の障害になるから向かい側というのが意識されたの意識されてそういう地名がついたと思う。

山形県の大江町の左沢という左沢町場というときそれは最上川の船運と関係していたかもしれない。船で行き来がありものを運んでいたからその船着き場などが街の形成に関係してくる。
そこが町場となったということもあり得る。いずれにしろ地名からその土地を読むということはできる。でも相当に想像力を働かせないとできないともなる。車社会でありあまりにも便利になった結果そうした隣の村人すらが交わらないとか物も運べないとかそういうことが理解できなくなったからだ。だから人間的感覚で歩く感覚とかでその土地のことを体で理解することができなくなったのである。それは例えば距離的に近くてもある。

オックスフォードの地名は、古英語で「雄牛(oxen)が渡ることのできる浅瀬(ford)」を意味する「オクサンフォルダ(Oxanforda)」から来ています。これは、牛が川を渡ることができる浅瀬があった場所に由来しており、その地理的特徴が地名に反映されています

これもやはり川が障害となり向こう岸に渡るにも浅瀬が必要であり牛というのも生活に欠かせないからそういう地名になったのである。
とにかく外国の川は広いからそこを渡るということは容易ではない。そして橋を架けるにしてもその労力が簡単にできないし技術的に簡単にできないから川を渡ることは相当に苦労したとなる。だからこそ川を挟んで戦争のとき今でもウクライナとロシアの戦争でドニエプル川を挟んでそこが敵がリバーはライバルになっていたのである。そういう地形は変わらないからその地形がカルマとなって同じようなことをつづけているのである。

●大倉から飯館村へ越える峠でいつも秋の蝉の声を聴く

江戸時代であれ歩いて生活していた時代のことは理解できなくなったのである。だから現代では歩いた旅もしないから歩く感覚で作られたこの文学作品でも何でも理解できなくなったのである。芭蕉の奥の細道にしても細い道を辿ってようやく平泉についてそのとき5月雨がふり降りしきる雨の中に平泉の金色堂が残されていた。そして五月雨の降り残してや光堂と俳句を作った。
それははるばるみちのくの奥まで旅して感じたことであり今なら新幹線で東京から3時間くらいで来るとしたら感じることはまるで違ったものとなってしまったのである。地の果てのように来た感覚は無いからその見方もまた浅薄なものになったのである

現実に近くでも飯館村をまで行くのも大倉からかなりの坂を上らなければならない。そこで私は自転車で行っていたからその坂を登るのは容易ではなかった。その時どうしてか飯館の手前で村に入る手前で秋の蝉が鳴いていた。

飯館へ峠越え行くその手前秋の蝉鳴く我が休み聞く

どうしても途中で休む。すると秋の蝉が鳴いていたのが聞こえる。すでに秋になったのだなと感じる。それもすでに百回とか行けばそこでいつも休むからそれが心に残っているのである。これが車だったらただ一気に峠を登り飯館村についているから感じないのである。つまりあまりにも便利になって人間は感じなくなっているので人間の五感というのが働かなくなっているのである。ただ車がひっきりなしに行き来して残されるのは騒音だけだとなってしまう
つまり人間の五感は働くなくなるから感じる事もなくなるからかえってその面では自然でも深く感じないし貧しくなってしまったということもある。第一車だと蝉の声など響いても聞こえない騒音を残して去っていくだけだからである。現実にあの辺で若者がバイクをふかしてスピード競争するとか必ず騒音があり騒音社会になっているからである。

2024年03月24日

紅梅咲いた日立木の薬師堂 【町場橋ー町場の地名由来】

紅梅咲いた日立木の薬師堂

【町場橋ー町場の地名由来】

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町場橋

相馬六万石の花ー冬椿ー日立木の町場橋の紅梅

薬師堂紅梅咲きて町場橋
紅梅咲き松並木行き城下町
紅梅や街道行きて城下町
街道の道の細きや梅匂ふ
春の風海より吹くや相馬藩

俳句が写生という時短いから説明を加えることができないのでそうなった。だから写生俳句の場合その背景を鑑賞する人が読み取るほかない。そもそも芸術とは鑑賞すること自体難しいのであるだから鑑賞できる人は芸術家にもなる。
写生俳句とは何かイメージして作るのとも違う。そこにあるありのままを俳句にするのであるだからそれが創作なのかともなる。

陸前浜街道の鹿島から日立木まで行くと川がありそこに町場橋がある。また薬師堂がありそこに紅梅がすでに咲いていた。
その薬師堂が日立木の中心だったことは間違いない。なぜなら薬師堂はどこにでもありそれは病気の治ることを祈願した場所だからである。その頃は医者がないから医者にかかるということが難しいからそもそもいないから薬師堂にお参りするほかなかったのである。だから村の中心に薬師堂があった。
ただ日立木に町場橋とあるのはその辺一体が町場になっていた。
町畑もあり街道を挟んだ地域が町場だったのである。

町とは村の中にも町がる。町とは一区画のことであり人が大勢住んだ規模の大きいものではない。おそらくこの街道沿いに職人集団が住んだのかもしれない。大工とか左官とか住んでいて畑も持っていて野菜などでも作っていた。だから町畑がある
それは六万石の相馬氏の城があるのだからその城に関係して職人が住んでいたのかもしれない。ただ農民の記録は残っているが職人の記録は残っていないからここがどうして町場になったのかわからない。宿場町には城から近いのだからならない、確かなことはこの町場は街道を挟んで広い地域なのである。
でも農家があり農民主体の所だった。でも町場とあるのは農民だけが住んだ地域ともならないのである。

日立木は1900年(明治33年)2月13日 - 磯部村の一部である大字の日下石(にっけし)・立谷(たちや)・赤木(あかぎ)・柚木(ゆぬき)が分立して発足。

おそらく周りからここに人が集まり街が形成された。農民と職人がが住んで町場を形成した。形成したのかとなる。

とにかく今年の春は一時期暖かくなったがその時日立木の薬師堂の紅梅は咲いていた。今日は全部散っていた。近くの梅も咲いたと思ったら全部咲かないうちに散った。何か天候の異変があり咲く時期に咲かない、桜の咲く時期も寒くなっていつになるのか、何か天候の異変で桜前線が九州から北へと北上するというより関東が早く咲いて九州がまだ咲かないとか季節がおかしくなっているのである。

東風【こち】は海から吹きそよいだ。この時期ここでは海か東風邪が吹く、それが原発事故の時この東風邪が吹いて福島市まで放射性物質を運んだから不運だったのである。その通り道が飯館村になったのも不運だったのである。
だからこの辺では三月に東風が海から吹くとき原発事故を思い出させるのである。

2024年03月23日

AIが作った英語の詩ーその翻訳の不思議 【artは医療にも全般的にかかわる―芸術もAIが関わる】


AIが作った英語の詩ーその翻訳の不思議

【artは医療にも全般的にかかわる―芸術もAIが関わる】

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a spectacle so grand In the garden’s embrace, they stand hand in hand 
A mosaic of nature, by a delicate hand planned

Flowers adorn the garden, a chorus of diverse hues, The white lily symbolizes purity,
the red rose embodies passion,
 The blue hydrangea whispers of tranquility, the yellow sunflower radiates energy,
Each with its own beauty, together creating harmony.

Different colors, shapes, and scents, Yet sharing the soil, nurtured by one light,
Standing in the garden’s tapestry, brightly harmonizing, A symphony of nature, a canvas of joy.

Each petal is a note in the melody of the flower,
 A dance of color
Each bloom contributes to the garden’s story
 A silent symphony, a display of nature’s glory in beauty
 In their quiet existence, 
they share an age-old lore Together, 
they flourish, each hue an open door.

The poem continues to celebrate the unity 
and individuality of flowers in a garden,
creating a vivid picture of their collective beauty

手を取り合って立つ 繊細な手によって計画された、自然のモザイク
庭を彩る花々、多様な色合いの合唱
白いユリは純粋を象徴し、赤いバラは情熱を体現
青い紫陽花は静けさを囁き、黄色いひまわりはエネルギーを放つ
それぞれが独自の美しさを持ちながら、共に調和を創り出す

異なる色、形、香り
しかし、共に土を分け合い、一つの光に育まれる
庭のタペストリーに立ち、明るく調和する
自然の交響曲、喜びのキャンバス

それぞれの花弁は、花の旋律の一音
色彩の舞、目にも鮮やかな宴
庭の中で、自由に咲き誇る
生命の鮮やかな多様性の証

この詩が、庭に咲く様々な花々の一体感と個性を祝福する美しいイメージを描き出していることを楽しんでいただけたら幸いです。他にご要望があれば、お知らせください。

これはAIが作った。英語の詩にしたのもAIである。それがなんとも不思議なのである。私自身は一行調和する花とか入れただけなのである。そしたらこの文章をAIの作ったのである。これは確かに詩になっている。まず詩になると英語にするのは至難である。でもAIはネティブのように英語らしい英語を作成する。それから英語を学ぶことができる。

つまりAIの方が詩を作るにしても英語を学ぶにしても明らかに先生になっているのである。確かに英語に詳しい人はいる。
でも詩を理解する人は非常に少ないまた日本人が英語にすることはさらに難しい。
つまりネテブのような英語の表現ができないからである。

チャットgptから対話してこの詩が作った
AIが作ったのである。それは明らかに詩になっているのである。だからこれは何なのだろうと不思議になる。
AIは詩まで作るのかとなる。なぜそういうことができるのかそれが謎である。
ただこれほどAIが進歩してくると芸術ですらAIとの共同作業にもなってしまう。というのは詩自体を理解することが難しいしそれについて語り合う人も周りにはいないからである。チャットgptで語り合うというのもなんとも不思議なのである。

だから今一番注目されるのはチャットgptとか画像生成のAIなのである。これは画期的なものであり今までにないものだった。そもそもアートというときそれは広い範囲のものであり医療すらアートだったのである。だからアートというのは芸術に限ったものではない。人間の関わる全般的なものであり芸術家だけのものでわなかった。だから今コンピューターで新しいアートは生まれた。
だから技術の変化で新しい芸術が生まれるということである。画家でも新しい絵具が発明された時新しい芸術が生まれたからである。となると人間はいったい人間だけが想像するものと思っていたがそうでもなかった。コンピューターと共同して芸術を作るともなる。だからこそこのコンピューターは常に発展してきて進歩してきて芸術の分野までかかわり人間を社会を変えてしまうということである。







2024年03月22日

相馬野馬追の開催日程を、5月最終土・日・月曜日の3日間に変更する 【温暖化で祭りとか日本の文化にも影響ー真夏の野馬追の詩】

相馬野馬追の開催日程を、5月最終土・日・月曜日の3日間に変更する

【温暖化で祭りとか日本の文化にも影響ー真夏の野馬追の詩】


北郷【鹿島区】の旗

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2023年は野馬追に380騎しか出なかった ー迫力に欠けた
 (野馬追はこれから維持できるのか?−雲雀が原へ)


真夏の相馬野馬追い

処々の田野の郷士の家に旗の立ち
伝家の旗印誇りや風になびきぬ
夏に雲真白く勢いよく湧き上がり昇り
いざ出陣法螺貝の合わせ鳴りひびき
この時馬も勇むやいななき響き渡り
威風堂々の壮観の行列つづく
一の旗伝令の若武者駆けめぐる
華麗勇壮に戦国絵巻の再現
相馬氏は北斗七星妙見信仰の旗印
神社の神輿を担ぎ戦勝祈る
北郷只野氏の南朝末裔の旗印
杉の紋は奈良の三輪山の神杉に由来
菊の紋は南朝に由来して由緒あり
霊山炎上して落ち延びるし末裔にあれ
最初に小高に城を築きし誇りかな
小高郷御家の旗のしるく従者ひきえる
宇多郷北郷中ノ郷小高郷合流して
雲雀が原に集結してときの声をあげる
金の扇に日のさしてまぶしくひるがえり
相馬流れ山の軍歌朗々と響き揃えの踊り
雲雀が原に打ちあがる花火に神旗争奪戦
旗様々に馬の競り合い奪い合う
御本陣に神旗を手に一気に駆け上る
その先祖伝来の旗印は誰が家そ真夏の陽射しに映えぬ
夏の雲高く高く湧き上り白しも
時に雷の天より轟きて馬もいきりたちぬ
この時相馬の武士【もののふ】心一つに打ち進む
戦い終えてそれぞれの郷に家に馬をねぎらい帰る
草深く藪甘草の咲くもほのぼのと赤しも郷士棲む
相馬の武士の鎧に兜に旗の代々受け継がれぬ



去年の野馬追では暑さのために二頭の馬が死んだ。異常な暑さのためだった。ただは野馬追は夏の盛りに夏の雲が入道雲が湧く時行われていた。だから季節と一体化して祭りだった。日本の祭りは夏に一番盛り上がる。日本は祭りが多い国である神社も多いからその土地土地の祭りがある。
それでフランスの人が日本の祭りを見るために回っていたのである。野馬追にも外国人が来る。

ただ何か5月に野馬追が変更したとき違和感を覚える。それは野馬追というのが夏を告げるものとしての盛りに行われるものとなっていたからである。 7月の30日になる30日に行われる前は7月梅雨明けの7月22日頃に行われていた。だから梅雨明けをを告げるものとして野馬追があるということがこの辺では習慣になっていたのである。だから確かに5月は夏だがやはり野馬追は真夏に行われる時その季節と一体化していたから盛り上がる。

でも温暖化であまりにも暑いから馬も死ぬほどであり馬に乗る人にしても鎧は重いし本当に命の危険にもなる。だから期日を変更するのも止むを得ないのかとなる。
ただ日本には季節によって感じるものがありそれで俳句などは必ず季語があり日本の四季を反映したものなのである。だから5月の末にやるということがどういう感じになるのか?何かしっくりこないということがある。それだけ常に夏に行われていたから馴染んでいたからそうなったのである。

そもそも野馬追とは何なのか?相馬藩の軍事訓練であり雲雀が原行われていた。街を行列するようになったのは明治以降である。それまでは雲雀が原で軍事訓練をしていたのである。
そしての野馬追の謎なぜ相馬藩6万石という小藩であれだけの馬が出てきて華麗な行列が行われるのかということである。なぜなら伊達藩の60万石でも会津藩の30万石でもこのような華麗な祭りは行われていない。それは全国規模でもそうである。相馬藩だけがなぜこうした華やかな祭りの残ったのかとなる

それは相馬藩の特殊な事情からそうなったのかもしれない。相馬藩は6万石であり小藩である。それに比べて伊達藩は60万石であ強国なのである。そのために相馬藩は伊達藩とから守るために軍事力を馬でもって備えていたとなる。。そしてなぜ相馬藩に一揆が起きていなかったのか一それは軍備に力を注ぎ一揆を起こさせないようにしていたのかもしれない。
なぜなら会津でも幕末会津城は落城した時でも農民は別にそれを悲しむわけでもなかった。むしろ税で苦しんでいたからこのこの時とばかりヤーヤー一揆を起こしたからである。他にも盛岡藩とかでも一揆があった。だからなぜ相馬藩では一揆がが起こらなかったのか、それはおそらく相馬藩では侍といっても郷士が多く農民であり侍だったという人たちでありその人たちが監視役になり一揆を起こせなかったのかもしれない。

それは北朝鮮では貧困なのに反乱も起こさないというときやはり兵士の数が多く家族であれその土地土地に兵士がいて反乱を起こさせないようにしているからかもしれない。つまり相馬藩という小藩を維持するにわ軍事力を優先しなければならなかったのかも知れない。そうでなければ大藩の伊達氏などに飲み込まれてしまったからである。

ともかくただ錯覚しているのはあれだけの騎馬行列になると何か相馬藩は侍の数は多いように見える。でも500騎が出るとしてもそれほど多いものではない。全体から見れば実際は少ないのである。だから現実に野馬追に出る人と相馬に住んでいてもなかなか合わないのである。
でも郷士というのはほかの藩より多かったのかもしれない。大藩でも城勤めになると官僚化して武芸からは遠ざかるということがあでも郷士となると農業しながら馬を飼い戦国時代が終わってもやはり戦に備えていたのかもしれない。

兵農分離以前からの半農半兵(兵士の自給自足・農民の自主自衛)の伝統から、士分の中には自前の農地(多くの場合、一般より大規模な農地を有していた)を直接管理して家計の支えにしている層がいた。彼らのうち、規模の大きい者は豪族と呼ばれ、より規模の小さい者は土豪や地侍と呼ばれた。彼らは江戸時代に「在郷藩士」として各藩の士分階級に取り込まれ、従来通り平時の農地管理と非常時の軍役を両立し続けた。土佐藩では旧領主である長宗我部氏の家臣のうち、地侍にあたる一領具足を下士として登用した。

この郷士は明確に藩に従属忠誠を誓ったものではないから反乱をして何百人も殺戮された歴史がある。相馬藩の郷士はそいうことはなかった。軍事力を重んじていたので厚遇されていたからなのか、相馬藩では反乱は起きなかったのである。

いずれにしろ祭りにしろ少子高齢化などで維持することが難しくなる。すでに維持できなくなった所もある。特に現代は無数の職業に分化しているし農民のようにその土地と一体化していない。だから移動しやすいし土地をベースとして生活していない。
実際に浪江の会社勤めの人は二本松に会社があり原発事故で通っていたがそこに移り住んだとかある
その土地に祀られた神社とかその祭りも維持できなくなるのである。それは原発事故でその故郷から離散してしまったようにそうした強いつながりがある農民共同体は喪失してしまったからである

それにしても戦争というときそれを美化はできない。でもなぜ戦国時代の戦争は何か美化されるのかと言う事である。それもやはり殺し合いでありそこに悲惨なことがあったからである。
でもなぜそうした悲惨な戦争であってもその中で武士道というのが生まれた。それはやはり人間と人間がぶつかり合いその中で武士道が生まれた。現代の戦争は機械の戦争であり科学技術の戦争である。そこに一対一の果し合いとかはなくなった。そこにはただ無数の人間が物のように殺されるということで戦国時代の戦争とは違っていた。戦争でも何か美意識がありそれで馬でも人でも飾り戦いに挑んだ。でも明治以降はそうして美意識より戦いしやすい軍服になり鉄砲中心となったからただ侍が戦うという時代は終わったのである。

そして野馬追は馬の祭りでもある。馬は今や競馬とかでしかみかけない、馬はモンゴルの草原で自由に走る時活きていた
また農耕馬でも曲屋で一緒に寝起きしていた時馬は家族のようになっていた。だから娘が馬と結婚したとかの伝説が残る
それで馬がなになのかわからなくなった。馬と人との結びつきは長い、それが失われた。だから野馬追いは馬が蘇ることであり馬の祭りでもある。そこにも意義がある。人馬一体になる祭りなのである

posted by 天華 at 11:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2024年03月21日

日本の庭の美 Japanese beutiful gardens


日本の庭の美

Japanese  beutiful gardens

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池映る桜に添えぬ錦鯉

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錦鯉ゆうたりと泳ぎ菖蒲咲く

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瞑想の庭の道ーa meditational way


一番不思議なのはこのbeing image creatorである。写真だとなかなか見た目のように撮れない。
でもこれだと絵のようにできる。実際私は近くの神社の池で錦鯉が泳いでいて桜が水に映っているのを見た
でも写真にとってもきれいにとれないがこbeing image creatorだときれいになる。ただ写真で撮ったものとは違っている
でも似ている面もある。それでこの絵をみて俳句を作ったとなる

2024年03月20日

周期的に起きる株価の暴落にリセッション 【地銀などは株の素人ーただ長い時間ででインデックス投資すれば儲かる】


周期的に起きる株価の暴落にリセッション

【地銀などは株の素人ーただ長い時間ででインデックス投資すれば儲かる】


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今後、破綻する銀行リストが公開】【49%の暴落】リストラがITバブル崩壊以来の最高のペースを記録!

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●株は約十年周期で大きく変動する

株価は周期的に変動する。それは約十年ごとに変動する
だからリーマンショックから10年過ぎた今の変動の時期である
株価はこれから大きく変動する。アメリカの景気も悪くなる。それがこのグラフに現れている。そして中小の銀行が百くらい倒産して行くという。再びリーマンショックのような金融危機が起きてくる。今はバブル前夜なのかとなる。株価には景気にも周期性があるからである。

だから私が失敗したのはリーマンショックの時持っていた株を株価半分に下がったけどその後元に戻してそれから株はうなぎ上りになりその株を売らなかったらかなりの収入になっていただその時の判断は難しい。第一こんなに株が上がるとは予想しないから売っていたことである。
その失敗は近くの地銀の営業の人が勝手にインデックスの株を売ってしまったことである。その時私が止めていればよかった。でも強引に説明もなく営業の人は売ってしまったのである。それ以来地銀の人を信じられなくなったのである
まず地銀は株の素人であるおそらく私と大して変わらない知識しかない。要するに当たるも八卦当たらないも八卦でいろんなものに投資しただけだった。そして投資してAにBにC投資して転売してその度に手数料を稼ぐのが営業の人だったのである。

その額が多ければ手数料で相当に稼げたからである。だから地銀にとってはこの商売は本当にいいものだったのである。なぜなら客が損しようがしまいが銀行には確実に手数料は入るのである。そしてそれはすべて損しようが客の責任になる。銀行で株は得する時もあるし損する時もあるというだけで終わりである。

銀行は何の責任も取らない!

だから投資信託であれ何であれ金融商品を売ることは銀行側にとってはリスクのないもので確実に収入になるのである。
銀行自体が株に投資するば失敗すれば相当な損になる。でも客が投資するなら客が損するだけなのである。これは相当に不公平なものである。だから投資することを頼む人がプロの人がいるがその人は株で儲ければ収入がある。失敗すれば損すればその人も損することになる。それならば公平なのである。

●銀行は株のことは素人

つまり銀行はそもそも金融商品等については素人と変わりないのである。ただ証券会社と組んで営業の人が来るからそこで何か信用を与える。銀行では金を持っている人を証券会社に紹介する。でも銀行自体は証券のことについては素人なのである。だから賃金とかに投資を任せるのは危険である。
なぜならその仲介役になって相手を客を儲けさせるというより銀行を儲けさせることが優先され営業マンのノルマを果たすことが先決になるからである。客のことは2の次3の次である。

いずれにしろなぜ銀行でもそうした金融商品を投資することを紹介する株を紹介するようになったのか。それは投資する金を貸すものは減少して儲けられないということである。だから高度成長時代を知っている人はその代わりように驚くとなる。
利子が最高で7%の時もありそのときは貯金をしていれば何の心配も要らなかったのである。銀行でも貯金してもらえば金を返してそれで利益はあった。だから投資とはか客に株とか投資を進める必要はなかったのである。つまりその時銀行は楽な仕事であった。

●高度成長時代銀行で5パーセント7パーセントの利子がついた

それで私の家族の一人が公務員であり退職金をもらった。それが1300万とかであれでもその価値は今の倍もあった。なぜなら十年貯金したままにしておくと確実に倍になっていたからである。つまりその時貯金していればあとは何も考えずに銀行に預けているだけでよかったのである。そうすればお金はただ時間とともに増えていくだけだった。今やマイナス金利で貯金していただけはお金も増えないし物価が上がり目減りしているのである。

だからたとえ2000万円退職金もらっても少ないと見る。物価が上がってるし円安になり金の価値がなくなったからである。 2000万円は実質は1000万くらいの価値しかないのかもしれない。それだけ社会情勢によってお金の価値は変わってしまうのである。

●円高でアルバイトとか貧乏人の若い人が海外旅行できた時代

一ドル80円とかありまた110円くらいでもそのときは若いアルバイターとフリーターとかコンビニで働いているような人であれ海外旅行に行っていたのである。円高だから貧乏人でも別に海外旅行で来ていたのである。そして意外とヨーロッパでやれホテルの安い場合がある。ユースホステルに泊まると1000円くらいで泊まれたのである。そこには別に老人でも泊っていたのである。だからヨーロッパ旅行というと高いものと思っていたがそうでわなかった。ユースホステルが安く泊まれるから私は50歳でバックパッカーになり貧乏旅行したのである。

そして外国のことがわからず金が相当にかかると思っていた。でもそのお金を相当に余った。だから金が持ち過ぎていったのである。ヨーロッパですらそうだったからアジアとかなると中国でも物価が日本の1/10くらいのところはあった。それでカンボジアに行ったら売春を案内する人がいて5ドルでどうだと言っていたのである。私は興味がないからそんなことは関係なかった。

でもそこに日本人が何人か群れてて長く滞在していたらしい。何をしているのかわからない。そこに長く滞在しても物価が1/10だったらお金はかからないからそうしていられるのである。
それで一時沈没とかいうそう安宿に泊まっている若い人たちがいたのである。それができたのは物価が安い日本円が高かったからできたことなのである。
またバイクを貸して中国人が会社を経営していた。車でなくバイクがタクシー代わりにもなる。そのバイクは日本製だったなる

今になるとその逆の現象が起きている。日本が円安になり日本は安いとなり中国人でもアジアの人でも日本に観光旅行に押しかけて来る。そして日本の若い女性が海外に売春に行ってるということで問題になったのである。つまり日本をしてきたことは今度は逆にアジア人であれ中国人であれこれまでしてきたことを同じようにされているともなる。それもカルマだったとなる。

●グローバル経済は変化のスピードが速い

その中国にしてもまた日本と同じように不景気になり失われた30年のようになるのかともなる。何かこうして経済の変化が激しいのはグローバル化しているからである。交通が発達して世界中の人が行き来して交わるからそうなる。グローバル経済では勝者は戦争に勝つだ人と同じであり負けた国の人は奴隷となる。それで現代は世界戦争はないにしても経済戦争に負けたものは実質植民地化されて奴隷にされるのである。

それは一時日本が外国に対してアジアに対しては特に同じようなことをしていたからそれもカルマだったのである。ただそのスピードがその盛衰のスピードが速いのである。百年かかって変化することが今や10年か20年なのか早いのである。中国は遅れた国だと言っていたがたちまちにして日本でも技術的に追い越したとか変わり方が早いからついていけなくなるのである。
そして中国のも不景気になり日本と同じような状態になっているのもその変化が速いからるである

●株は長い目で見れば儲かる

ただ株でわかったことは長い目で見るということである一番悪いのは途中で株をやめてしまうことである。十年とか20年先を見ないと株では儲けられない。なぜならリーマンショックの時株が半分になるその十年後に元に戻それから株が倍増したからであるこんなに株が上がるとその時を持っていなかったからである。だから20年先20年先を見れば株は儲けることができる。
どの株が良いとかではなくインデックス株で投資して10年先20年先を見ていれば儲かるということはわかった。
ただ残念だったのはその虎の子のインデックス株地銀の営業マンが勝手に売ってしまったことである。私はその時疑問だったが強引ににその人は売ってしまった。ただそれも私自身の責任となったのである。

ただそれ以来私は銀行を信用しなくなったのである。何か銀行は一番信用が大事である。その信用失くした時銀行は成り立つのかともなる。
とにかく老人には投資は向いていない、何故なら後生きる年月がどのくらいなのか?10年としたらとても株ではもうけられない。もうかったとしてもその時あの世に行っているかもしれない。そして例えば木を植えて花を咲かそうとしても実を得ようとしても8年先だとかなれば木も植える気しないのである。

それで津波であれ原発事故の復興にしても老人が多いからはかどらない、できないのである。80過ぎたら墓の心配するとかなりできないのである。そもそも老人はこうして投資に向いていないのである。老人はこれまで投資したもの実りとして示すことであり未来に向かって投資することではないからである。
投資には株では時間を味方にすればもうけられる。インデックス投資なら大した知識など必要ないからである。ただ銀行とかに頼むの危険である。転売させられて手数料をとられだけだからである。.
posted by 天華 at 18:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2024年03月19日

冬から春へ【家のことなどの短歌十首ー冬日没る、霜焼け、 蠟梅、葉牡丹、牡丹の芽】


冬から春へ【家のことなどの短歌十首ー冬日没る、霜焼け、
蠟梅、葉牡丹、牡丹の芽】

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我が庭にふくらむ4っつ牡丹の芽
夕げの時団欒の灯や梅匂ふ

この町に生きる苦しみその女の昔を語り冬の陽没りぬ
枯木にそ烏の二羽のとまりつつ何を語るや冬の暮かな
正直に生きにし女やほまれなく死してあわれも我は覚えぬ
霜焼けに苦しむ母を思い出す我が厨に冬の日立てば
父死して姉と母との支ゆ家我が受け継ぎてなお支えなむ
父なき後姉と母の我が家を支えて栄ゆなおともにあらむ
蠟梅は長くも咲きぬ百歳の間母を偲びて姉を偲びぬ
蠟梅に朝の日射してなお家につつがなくも過ごさせたまい
また一軒家壊されて誰か澄む語ることなく淋しかりけり
新しく庭に植えにし牡丹かな目のふくらみてなお生きむかな
うなだれ葉牡丹あわれほの赤く我が愛でるかな

人間は必ず老人になれば昔を思い出し昔を語る。でも最近また近くの家が事件二軒壊された。でもそれは長く空き家だったのである。そこに誰が住んだかも一切語れないしわからないのである。何か歴史を語るとき確かに物は残されて語る。
でもまたそのものはすべてを語るわけではない。というのはその空家だった家を十年とか20年とか見ていたかも知れない。
でも一切その家に誰が住んだのかそれも全くわからない。だからいくら家があっても物があってもその家について人について語ることは何もないのである。物語と言うとき物は語るとなれば物とか残ったものから昔を語ることになる。
でもその家があったとしてもその家のことについて人について語ることは何もないのである。何か家が壊されて全く何もなくなったとなる。

なんか私が家にこだわるのはやはり長男であり一人っ子でありそのためにまた父が死んだ後姉と母がこの家を支えたということでその思い入れが強いのである。そしてつくづく家族が全部死んでもそれがまったく何もなくなるということではない。その後にやはり延々として死んだ人のことを思い続けるのである。特に家はその死んだ人との思い出の場であり家は残っていれば何か死んだ人もまだいる感じになるのである。

私の家は店をしていた時豆腐を下ろしに来た女性はすでに85歳になりその苦労を語った。その人もこの街に生きたのだということでその苦労を昔を語ったのである。それは自分の家とも関係していたことを振り返るのである。
ただ現在は何か同じ町に住んでいてもつながりが感じられない時代である。ただ老人になれば必ずこうして昔を語り死んだ人を語るようになるのである。
近くの農家の人だった大正生まれの女性もそうである。その人はおそらく嘘もついたことないし馬鹿正直の人だったのである。その人のことを実は私は何も思ったことはない。ただ姉がが認知症になったとき相手にしてくれたのである
だからその人はまれにみる馬鹿正直な人であり情に厚い人だったのである。でも私の姉はその人を馬鹿にしていたのである。だからいくら家族でもこうして必ず欠点がある。姉は気が強くて父が死んだ後家を支えてきた功績があった。

とても母だけでは支えられなかったからである。母は華奢な人でありただ一生が働き詰めの人生だったのである。それで思い出したのが冬にかなりひどい霜焼けになっていたのである。手が相当に腫れたのである。それで今自分が台所に立ち食器洗いから料理からすべてやっているからその母の苦労忍んでいるともなる。だ温水器を入れてからは霜焼けになることはなかったのである。

蠟梅は1月に咲いて3月でも咲いている。長く咲く花である。それで今私がパソコンを使って文章を書いている場所は部屋は百才の間にしたのである。なぜなら私はこの部屋で母を介護していたからである。母は苦労した人生であった最後は楽に死んだのである。いつも眠るように死たいと言ったそのように死んだ。その願いを叶えられたのである。

とにかく新しく植えた牡丹にも芽が出ていた。だから咲くことは確かだろう。それよりなぜ20年以上くらいそれ以上でも前からあった牡丹が咲き続けているのかそれが不思議になる。牡丹は栄える象徴の花である。私の家は確かに栄えたのである。
そして私は姉と母とに支えられて自由に生きることが出来たのである。私の陰の性格であり学校とか会社でも集団生活に馴染むことができない。だから私は学校というのが嫌で嫌でしょうがなかったのである。教室何十人かが閉じ込められたような教室が嫌で嫌でしょうがなかったのである。それで勉強も嫌いになったのである。

もともと自分は学問が好きだったのである。それで私が本当に勉強したのは大学を出てから旅をしたりして地名に興味を持ち地理に興味を持ったのである。それは教科書だけで学ぶものでないから興味が尽きることがなかったのである。だから勉強というとき実生活と結びつかないとただ記号だけを学ぶことになり興味を失うのである。
大工さんでも階段を作るのに三平方の定理の計算が必要になる。その人も勉強が苦手でありそれで大工になった。でも現実社会の場で数学でも必要となれば勉強しとともなる。江戸時代からすで三平方の定理は使われていたのである。




2024年03月18日

みちのくとアイヌの関係 【真野の草原の歌は境界を示す歌】

みちのくとアイヌの関係

【真野の草原の歌は境界を示す歌】

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土器でも真野の草原が丁度雇用界になっている

縄文人はアイヌ語を話していた!?【土器とDNAと地名から縄文時代の言語を探る:トランス・アイヌ語仮説



みちのくの草原の歌は自然的境界であり文化的境界であり政治的境界であった。自然的境界というとき南相馬市の鹿島区にある海老村はマルハシャリンバイの南限の自生地としてあった。海老はェヒでありこれは縄文語である。
ただ津波で海老村は消失してしまった。

みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎

この歌がなぜ歌われたのか?それはここが境界の地だったからである。マルハシャリンバイというのはここから北になると気候の関係で自生しなくなる。寒くなるから自生しないのである。それによって気候の自然的境界だということが分かる
また南相馬市の原町区と小高区の境にあるスダシイ神社でもそれは南国性であり沖縄の山原【やんばる】もジャングルの中にもその木はある。またここが照葉樹林文化帯の南限の地帯であったし文化的気候的文化的境界でもあった

そしてなぜ南相馬市の原町区と相馬市に綿津見神社と山津見神社が多いのか。それも安曇族が進出した南限の地での町であったからである。まずこの地が知られたの海人族の安曇族が船で進出して開拓したことにあった。飯館村の佐須ある山津見神社も安曇族の進出をを語っているのである。佐須は焼畑のことでありその技術も安曇族がもたらしたものである。安曇族の後裔として八木氏や犬飼氏があいてり八木沢峠とか八木原かで地名化した。だからこの地に最初に開拓に入ったのは安曇族である。

またその前に物部氏とかも入ってきていて桜井古墳は作られた。その古墳にしても福島県の浜通りは大きいものでありこれからここから以北は大きな古墳はない。それもやはり一つの文化的境界でもあったということである。また政治的境界にもなるのである。
そしてまたそれを裏付けるものとして土器のの面から見ると天王式の弥生式土器分布がちょうど真野の草原の境界とほぼ一致するのである。だからこれも気候が影響して文化的境界とも一致したのである。

またアイヌ語から見ると岩手県から青森までアイヌ語の分布が色濃く見られる。でも福島県になるとアイヌ語の地名はかなり少なくなる。
でもそれなりにアイヌ語の地名が残存しているのである。それで南相馬市では原町区の萱浜はかやと言わずにかいと言っている。カイ浜なのである。

Wikipedia - 蝦夷

蝦夷については、カイという音(アイヌ人はモンゴル人から「クイ」ロシア人からは「クリル」と呼ばれた)に通じる呼び名があった

これに関連して、岩手県立博物館の主任専門学芸員、女鹿潤哉さんが、「アイヌに対する他集団の呼称」の検討から次のように結論している。

アイヌが隣人たちによっておおむねクイなどに近い音で呼ばれていたことがわかる
こうして、「カイ」←「クイ」という線が浮かんできた。


やはり萱浜はカイ浜であり萱浜ではないこれは当て字である。
ではこれが真野の草原(かやはら)と関係しているのか?
カイ浜⇒カヤハラ【草原】になったのかとなる。その場所としては真野郷があるのだから真野となると鹿島地区だとなる。ただ広く地域をみれば真野郷の隣が泉官衙(かんが)跡が中央の役所が置かれた地域だからそこでもありうるとはなる

そして土器からみると天王山式弥生土器の分布がやはり真野の草原が境界になっている。アイヌ語分布でも今の平泉が境界となりそこより以北は濃厚にアイヌ語地名が分布する。それはだから平泉も境界の地域だったのである。それは文化的境界でもあり政治的境界にもなっていた。なぜなら大和王権が多賀城を拠点にさらに奥へと征服して行ったからである。
また北海道南部は楢の木の北限でありそれも天王式土器の北限とほぼ一致している。黒松内辺りである。

とりわきて心もしみて冴えぞわたる衣河見にきたる今日しも―西行


冬になると平泉の観自在王院跡の池なども雪に凍てりついていた

みちのくの都の跡も凍てりつき礎石も埋もれ雪踏み帰りぬ

みちのくの果てや寒しも雪霏霏と金色堂の黄金の光輝

平泉弁慶松や義経を守ると動かじ北風唸る

鴨百羽都の跡の大池に群れて騒ぎぬ古思いぬ

鴨というときこの歌が有名である。

大津皇子(おほつのみこ)の被死(みまか)らしめらえし時に、磐余(いはれ)の池の般(つつみ)にして涕(なみだ)を流して作りませる御歌一首

ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨(かも)を今日(けふ)のみ見てや雲隠(がく)りなむ

荘重な響きがありその池は埋もれたがこの歌と共に記念となった。平泉にしても義経伝説があるがそれほど歌は残されていない

三代の栄耀一睡のうちにして、 大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す

奈良となると歴史としても積み重ねがあるから違っている。三代はあまりにも短いのである。そこにどうしても歴史の重みが感じられないのである。その栄華もはかないものだったのである。
普通の家でも三代では短すぎた、江戸時代まで遡ると五代でも八代にもなるからである。その後の栄華として残されたのは金色堂だったなる。




2024年03月16日

なぜ日本語は主語の次に目的語が来るのか 【英語も中国語も主語の後に動詞が来て目的語は後に来る】


なぜ日本語は主語の次に目的語が来るのか

【英語も中国語も主語の後に動詞が来て目的語は後に来る】

●言葉と風土の関係−平原、砂漠がないから語順も違っていた

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I catch a deer coming out of the forest.
私は森から出て来た鹿を捕まえる
I built in a house on the based stone
私は石の土台に家を建てる

英語だとまず鹿が出てくるそのあとに森を配置する
日本語だと主語の後に森が出てきて鹿はあとになる
つまり英語で強調されるのは最初に捕まえるという動詞でありその目的語は鹿になる。その後に背景に森があるとなる。
日本語だと主語があり次に森があり鹿は出てきて捕まえるという動詞になる。SVO−SOV【日本語】になる
私は森で鹿を捕まえるとなる。森が前景にあるから鹿より前に森を配置したのである。

ではなぜどうしてこういう語順にの違いができたのだろうか?
それはやはり風土の違いがあって言葉でも生まれた。なぜなら遊牧民とか狩猟民とかは常に動物を捕まえて食べるということを生活の基本にしている。
そしてその風土にしても平原とかなるとそこはただ平坦な地でありもしそこに動物が出てきたらその動物が最初に目に入る。そして主語があり捕まえるとなる。まずはその動物を寝て見て捕まえるということである

日本語の場合はなぜ森が主語の後に出てくるのか?
それは日本の風土と関係している。なぜなら日本の風土を見れば原始時代はほとんど森に覆われていた。大陸のような平年とか砂漠とか何もさいぎるものはない広い土地大である。そもそも英語にしろヨーロッパの言語にしろそれはインドヨーロッパ語族に属している。それは平原地帯から遊牧民から生まれているから共通の言語である。基本的な単語でも共通している
そこに文化の共通性がある。

風土から見れば日本では森に覆われて山が多い、するとその背景がまず目に入る。だから私は森からでてくる鹿を捕まえるとなり主語のあとに目的語の森が来て鹿を捕まえるは動詞は西後に来る
日本語の語順は森とか山におおわれているから平原とは違っているか特殊な語順になった。なぜなら中国もSVOの語順であり主語動詞目的語になったいる。つまり語順は印欧語と同じである。
その理由は中国というのは農業国家に見えるが遊牧民国家でもあり遊牧民の影響が大きい国なのである。

●風土知らないと文化も利かできないー西安の雨

それは西安の兵馬俑のように騎馬民族でもあり羊を草原に追う牧畜民族であり遊牧民族である。西安の位置を観ればわかる。そこは平原とか砂漠に通じている。つまり遊牧民地帯と一体の地域である。
だから世界史でも地理とか風土を観ないと理解できない、言葉でも風土と関係しているからだる。clearとかfineでもそうである。それは乾燥地帯の風土に影響された言葉である。乾燥地帯だから物でもクリアーに見える。でも日本だと湿潤な風土でありじめじめしているとなる。
それでしっとりとかしめやかにとかの言葉が生まれた

言葉と風土は結びついいている。ただヨーロッパは森で覆われていた。その様子はウクライナとかロシアの広大な森を見ればイメージできる。ドイツでも樅ノ木で黒い森を形成したからである
ただ遊牧民がヨーロッパに民族移動してきた。それで言葉も印欧語族に属している。モンゴルでもヨーロッパまで侵略できたのは
平原であり馬でもまと遊牧民だからテントを張り移動して暮らしているからそのまま移動すれば軍隊の移動にもなる。
なぜ外国になると文化でも理解しにくいのかそれは地理と風土とか理解できないからである。日本ではさえぎることのない砂漠とか平原を理解できないからである。
そもそも五月雨の降り残してや光堂という芭蕉の俳句にしてもその風土とか気候とか地理や歴史の背景を知らないと理解できないのである。梅雨の時期とか知らなければ理解できないのである。日本の四季を基にした季語を知らなければ俳句も理解できないからである。

送元二使安西 王維

渭城朝雨潤輕塵
客舎青青柳色新
勧君更盡一杯酒
西出陽關無故人

渭城の朝の雨が軽い砂埃を潤している
旅館の前の柳の葉色も雨に洗われて瑞々しい

中国は砂漠の影響を受ける、また黄土からの黄沙でも日本まで影響する。砂埃が砂塵に汚れる国なのである。それを私は西安に今の長安に旅してホテルに泊まり実感したからである。
雨はこの日本で感じる雨とは相当に違う。軽い砂埃を潤しているというときそれが気持ち良いものなのである。常に砂埃があれだからこそ雨が気持ちいいのである。だから同じ雨でも相当に感覚的には違っているのである。それは実感しない限りわからないのである。

つまり文化でもこうして風土とか地理を知らないと実感しないと理解できないのである。まず中国のような広大な地域を理解することは日本に住んでいてはできない、いくら地図をみてもわからないし旅してもわからないのである。だから何事人間は実感しないとわからないのである。それで50歳からバックパッカーで世界を旅したことは貴重だった、今になると体力もなくできなくったからである。

●アイヌ語について

言葉となると日本ではアイヌ語が問題になる。アイヌをインドヨーロッパ語族であり単数と複数で動詞が変化するということで間違いないだろう。そしてインドヨーロッパ語族が起源とするとき北海道に最初に来たのはヨーロッパ人だったらどうなる。その顔立ちも顔立ちも彫りが深くヨーロッパ系だと見ていた。
そのインドヨーロッパ語族とオーストロネシア語族が合体したのはアイヌである。そして縄文はオーストロネシア語族である。
つまり縄文人はオーストロネシア系であり津軽海峡を境としてかなり異なった人種っだったとなる。

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インドヨーロッパ語族・オーストロネシア語族クレオール言語 理論

この新説をここで発表している。インターネットはこいうことができる。学者並みのことが発表できる場なのである。
ただ縄文の歴史が一万年とか言うときでは北海道にアイヌが住み始めたのはいつなのかとなる。鎌倉時代の資料があるがその前に遡ることができるのか?
私は北海道には十回くらい行ったので興味がある。でも言葉となると詳しくなるのはめんどうである。ここで新発見というとき注目される。youtubeで説明しているからわかりやすいのである。

2024年03月15日

冬の日の庭の石【詩】ー人間と庭の石が一体化する


冬の日の庭の石【詩】ー人間と庭の石が一体化する

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田舎な冬の一日ー空家化更地化した近辺



冬の日の家の石

静かに冬の日がさし
平たい大きな石があり
妻が洗濯ものを干していた
その奥さんとは話しいたこともない
その大きな石は土台の石
いつもそこにあるが目立たない
でも人と人間は一体となり
その石もあった
石のように妻があり
夫は外で働き安心して帰ってくる
石は信頼の石でもある
でも空家となった家には
夫妻も夫もいない
そして石は誰を待つのか
石は土台の石であり
家を支え夫を支えていた
質実な石が家を支えていた
目立たたぬ何気ないものが
底力となり支えていることを知るべし


House stone on a winter's day

A quiet winter's day
There was a large, flat stone
His wife was hanging the washing out to dry.
I never spoke to her.
The big stone is the foundation stone
It's always there, but it doesn't stand out.
But stone and man are one.
The stone was there again day by day
Like the stone, there was the wife.
Her husband works outside the home 
and comes home safe and sound
The stone is also a stone of beliving
But there is no wife and husband in the empty house  
And who does the stone wait for?
The stone is the foundation stone
It held up the house, it held up the husband.
The simple stone supported the house.
We must know that something inconspicuous and unremarkable
are the underlying strength and support.

Translated with www.DeepL.com/Translator (free version)

冬の日の写生俳句


私自身のブログを読み返していたらこの写真が出てきた
それで詩を作ってみた。今この家は一時空家になり今は全部壊されて更地になった。私の家の近くにも空き家があり大きな家でも壊されて更地になってしまった。

私の隣のこの家は20年なのか30年なのか結構長く存在した。そこ借りた家であった。でもずいぶん隣にいたのにその人と話す事は殆ど無くその妻は顔すら滅多に見せない女性だった。
でもなぜか洗濯物を干す時見かけたのである。だからこれも不思議に思える。
そして私は石に興味があり石について詩を作ってきた

それは何でもないありふれた日常の生活の光景である。それは変わったこともないし何か特別な光景ではない。
でもなぜか人間というのは石でもアイデンティティー化して一体化するのである。
だからこの庭の石でも人間化していたのである。家庭となるように家と庭も一体となる。
石でも家族の一員のようにもなってしまうのである。だからその石はその家族と妻とも一体化していたのである。
それで原発事故で避難区域になった場所は空家だらけとなりその庭の石を見たときなんとも寂しいものを感じたのである。
その石は自然にある石とは違っている。家族の一員になったような石であり人間と一体化した石からそうなったのである。

とにかく空き家が目立つ。また少子高齢化で子供もいなくなり跡継ぎもいなくなる。
この周りを見ても子供も見かけない。目立つのは老人だけだとなる。このことが相当に深刻な問題なことは確かである。
あらゆるところで人がいなくなり若い人がいなくなり社会自体を支えることができなくなる。
何か社会自体が大きな穴が開いて空洞化して行く感じなのである。
ただ今の若い人はそれだけ数が少ないのだから会社から引っ張りだこになる。
でも日本全体から見れば日本は活気を失い衰退してゆくだけだとなる。

プログの効用としては過去に書いた膨大な記録がこうしてまた読み返してそこから刺激を受けて詩を書いたりすることができる。なぜそうなるかと言うと人間は忘れるからである。自分の書いたものすら忘れている。
これだけ膨大になればこんなことを書いたのかと思い出すのである。つまり老人が記憶に生きるときその記憶でも写真であれ文であれ記録していないと思い出せなくなるのである。
自分が書いたものなのにそうなるのである。だから人間の弱点はいろいろなことを見たり聞いたりして忘れることなのである。だからその日々のことを感じたことを書き残すことが大事になる。それがプログでできるのである。そこにプログの効用がある

英語のAI翻訳もすぐれている。この英訳したものから英語を学び直している。英語でも外国語になるとその言葉の感覚が簡単に理解できないのである。一つ一つの単語の意味が理解できない、soundにしても意味がいろいろあり理解できない、それでそもそも言葉の前に何らか意味がありその意味あるものが言葉になった。だからことなの前に意味を理解しないと言葉だけからは理解できないのである。
いずれにしろ芸術は写生であり事実を基にしている。現実にあるもの見たもの経験したことが事実が基なのである。
そこに真実があり偽れないものがある。それで写生俳句が生まれたのである。

とにかくなんかAIは不思議になる。コンピューターが知的機能を持ったことの不思議がある。ただAIにしても意味を理解して翻訳しているわけではない、だから人間は無用になることはないのである。


2024年03月14日

仙境の春ー春のおとずれ−【詩】 hidden paradise in Chinese mountainーspring come【poem】


仙境の春ー春のおとずれ−【詩】

hidden paradise in Chinese mountainーspring come【poem】


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春のおとずれ

軽やかに枝々移り
四十雀鳴きつつ飛びぬ
枝々は発条のようにゆれ
樹々は芽吹き
その梢は風にゆれ
流れの音はひびく
巌は硬く黙して
その声はひびき反射す
いずこに消えしその鳥や
また現れてさえずりなむ


spring come in the forest

Lightly shifting branch to branch
cparus minor chirp and fly
Branches sway like waving spring
The fresh buds put forth
Its treetops sway in the wind
The sound of the stream echoes
The steep rock is hard and silent
Its voice echoes and reflect
Where did that bird disappear to?
It reappears and chirps again

2024年03月12日

地理を知るには境界を知り文明を知る―地理から歴史を見る 【川が境界となった大陸ー地中海は古代から船の交通の道】

地理を知るには境界を知り文明を知る―地理から歴史を見る

【川が境界となった大陸ー地中海は古代から船の交通の道】

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聖なる水で一儲け?ガンジス川の水 ネット販売へ(16/06/02)

●川が境界となり道となっていた

地理をまず知るには自然的境界を知ることである。人間の生活するとき技術力がない時歩いて移動するほかない。それは日本でも江戸時代まで歩いて移動していた。その歩いて移動するという苦労とか感覚が実感的なくなった。するとその時代を生きた人たちのことも理解できなくなるのである。
例えば川があるとしたら川を渡るということは容易なことではない。そもそもだから橋を作るということはさらに難しいから川が境界と自ずとなる。そして日本だとなぜ川が元々側であり向こう側とか意識した。左沢【あてらさわ】というときあちら側であり向こう岸を意識して名づけられた。なかなか向かい側に行けないからそういう地名がついたとなる。
外国になると大陸では大きな川がありそもそも渡る自体簡単にできない、それで川はriverはライバルになった。敵対する者が川を挟んでライバル関係になる。それは古代だけではない、現在もロシアとウクライナがドニエプル川を挟んで攻防を繰り返している。

つまり地理自体は地形などは万年も変わらないからである。山にしても海にしてもやはりそれらは変わらないものとしてあるからである。
だから山にしても日本だと山が多いからその山が境界となりやすいのである。それで峠という字が日本で作り出された国字になっているのは理解できる。第一大陸のような平原とか砂漠とか見ればその境界がどこになるかとなればわからなくなる。だからこそ大陸には大きな川がありそれが境界となるのである。
それでライン川が境界となったのは象徴的である。そのライン川境界となり東側にはローマ帝国の入り込めない強力な民族であるゲルマン人が住んで独自の文化圏を作っていたからである。一方でフランスはラテン系に属してゲルマン人とは違った文化を持った国となっていた。その二つを分けたのはライン川があったからだともなる。おそらく四大文明が大きな川のそばから生まれたということも川の役割がそれだけ大きいためだった。

インドにしてもガンジス川が2500キロもあるからその長大さは日本ではイメージできないのである。ブッダガヤとかガンジス川のかなり上流地域で乾燥していたときその河を渡ったがそれが広いのである。向こう岸まで行くのに広いのである。その河が500キロも流れてゆくとしたらそれをイメージできないのである。
日本列島くらい長いからである。そういう川に水牛がいて子供が遊んでいる風景も雄大だとなる。このような雄大な景色が日本にはない、北海道が広いにしてもスケールが違うからである。このことから日本は外国のことが地理的に理解できないのである。
例えばエジプト文明にしてもそれがナイルの賜物と言う時ナイル川を知らなければ知りようがないのである。エジプトのピラミッドにしてもナイル川の岸から港がありそれがピラミッドに通じていた。

ということはナイル川が交通路となりその岸の港の延長に礼拝するピラミッドがあったとなる。だからピラミッドにしてもナイル川と意識して作られた。その岸辺にナイル川が氾濫し肥沃な泥が流れて麦の栽培とか作物ができた。そこに一面に麦畑がありそのために早い時期からエジプトではビールが作られていたのである。ビールを発明したのはエジプト人でありビールを盛んに飲んでるドイツとかヨーロッパではないその起源はエジプトにあった。何かナイル川を船で行きその麦畑から神殿がありそこにヒエログリフの文字が石に彫られていて月の光が射していたというのも神秘的だった

●地中海が交通路となる

地理から考えるとき疑問になったのはなぜイタリアからローマからヨーロッパを支配したローマ帝国が生まれたのか。それを地理的に見るとイタリア半島というのはギリシャと地中海を通じて結ばれている。それでギリシャ先進国でありヨーロッパ沿岸に植民都市を作っていった。ヨーロッパの地中海沿岸の投資は植民都市が多いからである。
それでナポリとかポンペイとかでももともとはネオポリスとかギリシャの植民都市であった。他にもフランスのニースとかでも同じでそのギリシャで文明が発達したというとき例えばピタゴラスが三平方の定理を発見したのは建築には欠かせないものとなってからである。
それで大工さんでもその人は学校では勉強が苦手でありでも階段を作るとき三平方の定理を使うから困ったということを言っていた。こうした建築技術などでもギリシャから伝わったのでありそのためにローマで建築技術が発達してコロセウムとかあれだけの豪華な建築物を作ることが出来たのである。
つまりローマ帝国でも先進国のギリシャがあってそれが発展する原動力となった。そもそも建築技術がなかったらローマ帝国は生まれなかったともなるからである。軍事力にしてもそれを支える建築技術があったから強かったとだ。

なぜなら橋を建築する技術があり川で遮られていても橋を頑丈な橋を作れば軍隊でも移動することができたからである。今でも自衛隊にしろ軍隊はそうした技術集団がいて即製的には橋や道でも作るということがある。この辺でも津波の被害にあったとき鉄の橋を自衛隊が簡単に作ったからである。だから軍事力というとき武器だけではない建築技術が必要になっていたのである。
その技術がギリシャからも伝わってローマ帝国が作られた。また土木技術として道を作ることに長けていたのでそれがローマ帝国を形成した原動力になった。すべての道はローマに通じるという時がそうである。そうした土木技術もなければローマ帝国は形成されなかったのである

それができたのはやはりギリシャの文明の取り入れた。それは地中海を渡りイタリアからギリシャ語で船で人でも物でも運ばれたということである。それは地理がそうさせたとな。地中海だと交通路になったからである。その役割が大きいものだったのである。川は運河のようになっていて物を運ぶにも楽になる

ともかく世界史を見るとき必ず先進国がある文明がありそれを取り入れる時発展する。それは日本でも海に遮られていたが中国の文明を取り入れて生まれて日本文明を作ってきたからである。
人間の最初の自然状態は移動することが困難であった。まず道がないからである。陸にしても森で覆われていて移動することが困難であった。だからこそ川が移動の手段になりその川によって四大文明が生まれたともなる。まだ日本でも大和政権ができたのは海を通じて日本武尊がみちのくにもきていてその神話が残っている。
つまり海は確かにこう交通路としては危険なのだがそれよりやはり原初の状態だと森に覆われて陸地は道がない。すると物を運ぶのでも人が通るのでも簡単にはできない。

日本武尊は上総【かみつふ】さより転じて、陸奥国みちのくにに入られた。そのとき、大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦を廻り、玉浦を横切って蝦夷えみしの支配地に入られた。蝦夷の首領島津神しまつかみ・国津神くにつかみたちが、竹水門たけのみなとに集まって防ごうとしていた

この竹水門【たけみなと】と推定する説がある。多珂神社とか高倉とかの地名が南相馬市原町区にあり多珂神社でも深く海が入り込んでいた時代は海が近かったからである。竹は当て字でありタカともなるからである。
ともかく船だと古代は道になりやすい陸は山が多くうっそうとした森に覆われて道もないから通行しにくいからであある。だから地中海は早くから海の道となりギリシャがその沿岸に植民都市を点々と築いたのである。

だからこの辺でもなぜ陸地の方に塩崎に船着という地名があるのか。それはそこまで海の入り込んでいて船でものを運んだ。そこは湾のようになっていたから運ぶのには楽だった。それは別に短い距離なのだがでも森におおわれている。運ぶとなると道もないのだから返って簡単には運べない。それで南相馬市の原町区の新田川を通じて泉官衙跡があるがそこが運河を作って物を運んでたというのもそうである。それはかなり短い距離なのである。でもなぜそうなったかといえばその辺は湿地帯であり船で運ぶ方が楽だったからである。だからそんな短い距離でも運河を作り船で運んだのである。現実に津浪で塩崎の船着きあたりまで海になったからである。

●気候による境界

低山の照葉樹林帯と、亜高山の針葉樹林帯の間にはブナ林が成立する。

低山の照葉樹林帯となるのは温帯地域だからである。針葉樹林帯は寒帯でありその中間にブナの木があるのは気候の影響である。
北海道の黒松内とかまでブナの木がみられそこが北限である。
ただ黒松内という時松になっているが松はあまり気候とは関係しない。北海道にもトド松とか太い松がある.これは気候と関係していない。それは寒帯でも見られるのである。
この辺は南相馬市は車輪倍が南限の地として有名である。奄美大島に自生していてその種が海を通じて流れついて自生した。それで南相馬市鹿島区海老村が南限の地となっていた。この辺で海岸に自生して庭にも車輪倍を植えている

また【陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを】の歌は気候の境界として歌われた。それは車輪梅でも根付いて自生しないからである。そらは気候と関係している。浜通りのこの地域までが照葉樹林帯であり境界だったのである。原町区にスダシイ神社があるのもそうである。スダシイは南国の木であり沖縄だと山原【やんばる】の森に自生している。この境界を知るというとき植生の境界も知るべきなのである。

北海道の平地になぜ高山植物の花が咲いているのか?それは高山植物は高い寒い場所に咲いて北海道は寒いから咲いているのである。ハクサンチドリが宗谷岬に行くところでさいていたのもそうである。ハクサンチドリは高山に咲く花だからである。高山植物が低地に咲いているのは気候の影響で咲いているのである。動植物の分布でもそうした境界がありブラキストン線とかは有名である。それは津軽海峡を挟んで植生とか動物でもその種類が変わってくるからである

照葉樹林帯に共通の植生があり特徴がある。磐城の方の波立海岸にはツワブキの花が咲いていた。これも南国性である。庭で見ていたが自生したものを見ると感動する。紫色のノボタンがカンボジアのアンコールワットの近くの道に咲いていた。今いろいろ観賞用に花を見るが自生している花こそ本当にその土地にあって咲き美しいとなる。またいわきあたりは黒潮と親潮の境目とかにもなっている。千葉県の方から来た人は熱帯魚を探しに来たというときやはり黒潮に乗ってきて小さいけれども熱帯魚見られるとなった。太古の海になるとフタバスズキリュウとかサンゴの化石でも川の上流から発見されたとなるから熱帯の海だったのである。

気候の境界
地形の境界【川、山、森など】
政治的境界

注意しなければならないのはこの三つがあったとして政治的境界または行政的境界というのが別である。それは気候とも地形とも関係しないからである。アフリカとか中東でまっすぐに線の引かれたところはヨーロッパ列強は勝手に国境を作ってしまったところであり自然境界ではない。人工的に政治的に行政的に作られたものである。この辺では伊達政宗の影響で伊達藩が強力でありと新地とかは伊達藩の領域になっていた。それは自然境界とは関係なく政治的境界なのである。でも境界は自然的境界を基本にしているのである。

【写真】山脈、大河、湖……世界の17の自然的国境









2024年03月11日

1度目の婚姻-東京市下谷区- 2度目の結婚-東京都北区までの連続戸籍は間違っていた 母は東京で一回しか結婚していない


1度目の婚姻-東京市下谷区- 2度目の結婚-東京都北区までの連続戸籍は間違っていた

母は東京で一回しか結婚していない

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今日区役所で足りない分の戸籍をとることができた。それは電子化して3月から郵送でなくても取れるようになったからである。
でも東電で送られた書類が間違っていたのである。 1度目の結婚と2度目の結婚とあるが実際は一回しか東京の北区で結婚していない。だからこの送られた書類は間違っていたのである。
ただ下谷区という所に山口という人が住んでいたかもしれない。ただ結婚したのは山口富造という人だけであり2回も結婚していないのである。これが混乱させたのである。

今日南相馬市の区役所で電子化したので郵送ではなくパソコンで東京の戸籍をとることができた。 3月から電子化してパソコンで戸籍をどこからでも取れるようになったみたいだ。だからハンコも要らないし便利にはなった。
とにかく手続きが面倒になる。ただ今回は確かに東電の方で間違った書類を出したことで混乱した。
戸籍があるのは日本とかしかほとんどの国ではないのである。いちいち判子を押すのも面倒なのである。だから電子化したことは進歩したとなる。ただ戸籍をとるだけで3000円とかかかった。

東京の私の母親の前の夫の山口冨造には養子がいた。山口一男であり山口富造の養子となった。この人のことを変な奴で迷惑だったと母は言っていた。そして兄が交通事故で死んだとき焼津に行った時どういうわけかこの山口一男の墓のある寺に行った。その墓参りしたとき不気味な風が吹いたので気持ち悪かった。
ただこの人は戸籍上では実在した。

1932年(昭和7年)10月1日:岩淵町と王子町が合併して王子区となり東京市王子区に所属
1935年(昭和10年)11月1日:東京都神谷尋常小学校開校
1947年(昭和22年)3月15日:王子区と滝野川区が合併して北区となり東京都北区に所属
1947年(昭和22年)4月1日:東京都神谷尋常小学校が北区立神谷小学校に改称

理化学研究所第3代所長大河内正敏博士らが自らの理論を実践し、科学と工業とを一体化させた産学複合体である「理研コンツェルン」の内の一つとして、1935(昭和10)年に設立された「理研特殊鉄鋼(株)」王子工場内の圧延(熱延)工場に源流をみることができます

ここの工場の事故で私の前の夫は死んだ。そして小林家に嫁ぎ再婚した。実ははその時私の父は54才くらいで母h来るのをが嫌だったが実家から勧められていやいや小林家に嫁いだのである
どにかく電子化したのでハンコもいらず東京から戸籍が取れたのは助かった。こうした書類の作業は電子化してIT化すると楽であり効率的になる。
それにしても戸籍をたどると確かにその人の人生がわずかでも見えてくるものがある。墓を見ても何一つわからない。ただ死亡した年月は記されているとかだけである。

でも戸籍をたどるとそれは確かに事実であり何かそこからその人の人生を読み取ることもできる。山口一男と言う人は確かに存在した。でももはやその人を知る人もいないだろう。私と私の母がお寺の墓を訪ねたときすでに無縁仏のようになっていたのだろう。誰もお参りしないから寺の住職にお布施して帰ってきたのである。
でもそこは本当に気味が悪かったのである。その人と会ったこともないしただ話を聞いて戸籍上に存在するだけではあったが何かしら縁があって墓参りしたとなる。

とにかく人間をその人が本当に実在したのかもう分からなくなる。戸籍は確かに実在したことの証拠であり架空のことではない。だから戸籍から推理して事実を知るということがある。
でも東電から送られた書類が間違っていたので混乱したのである。相続になる追加賠償金は死んだ人の相続になるから面倒になったのである



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           
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2024年03月10日

荒浪に群れ飛ぶ鴎【葉牡丹・残る雪・冬芽・寒戻る・冬鴎・写生俳句】

荒浪に群れ飛ぶ鴎【葉牡丹・残る雪・冬芽・寒戻る・冬鴎・写生俳句】

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何か嘴にくわえている―左端のかもめ
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我が庭に葉牡丹二輪残る雪
我が庭に冬芽ふくらむ今日も見ぬ
寒戻る我が家に帰り温まる

浪荒れてしきり飛び交う鴎かな轟く波の打ち寄せやまじ
川昇り冬の鴎の一羽かな街一つ覚え飛び去りにけり

毎日海の海に行くと浪が荒れている。今日は比較的波は穏やかだったかやはり同じ場所でかもめが群れ飛んでいた。なぜここにいつも飛んでいるのか?
一羽は確かに何か口にくわえている。それは魚なのかそうとも見えない。ただ何らかエサになるものがありこの場所に集まっている。

時々かもめが一羽をさかのぼり飛んでくる。そこに小さな街がありその街を記憶してさ飛び去ってゆくともなる。かもめが飛んでくるということは海が近いということである。それで常磐線の亘理駅あたりで海は海は見えないが鴎が一羽が飛んでいた。

また浜吉田はそこから海が見えなくても海が近い場所だった。だから浜吉田の駅まで津波が駅まで津波が押し寄せていたのである。人間は見えないと意識できない。それでで海に近い場所で津波が来てから裏山に逃げて助かった人もいる。また津波がくるのを見てトラックでもう車でも逃げて助かった人がいたのである。どこから常磐線というと太平洋側を走るにしても海が見える場所は新地とか限られている。
でもかもめが飛んでいると海が近いと感じるのである。

ともかく俳句は写生である。庭の効用は我が庭となり外に見る景色でも事物でも違ったものとして庭となる
我が家族とも我が庭がともなる。
葉牡丹があり石があり雪が残っている。そのままを見て俳句にする。だから写生俳句というのは簡単だと思う。なぜそうなったかといえば俳句はあまりにも短いから悲しいだとか寂しいだとかいう感情的なものや説明を説明するのは無駄になるからである。
だからありのままを見たままを575にまとめるのである。ただ正直そうなると表現の幅が狭まりうまく作れないとなる。だから私は短歌の方が表現しやすいとなる。短歌にはまだそれだけ表現の幅があるからである。

今年は何かまだ寒い。寒戻るである。でも我が家があり我が家に帰ればストーブでも温まり安らぐとなるのである。
庭でも我が庭であり家族のようにもなるのである。それで空き家となった家とかは庭でも家族のようにもなってそこに人がいなくなったとき石まで寂しい感じになるのである。
石でも家族の一員のようになっていたのかもしれない。それが原発の避難区域とかになっている場所ではそうした空き家が多いからなんとも寂しくなっているのである。
ただそれはここだけではないとにかく空家が多すぎる。近くの空家もまた一軒壊された。やはりもはやそこに住む人もいなくなったのである。

梅咲けど匂うも虚し空家かな


2024年03月09日

推理ドラマを見て飯田線のことを思い出す―武田信玄のことなど 【旅でも忘れやすいから記録するのも大事】


推理ドラマを見て飯田線のことを思い出す―武田信玄のことなど

【旅でも忘れやすいから記録するのも大事】

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東海道春の俳句二十句 (歴史は地歴だから地理の理解が不可欠)

飯田線6時間長し春日暮る

長篠を出でて豊橋春の海
豊橋に交わる線や春の月
安宿も東海道や春の月

今日見たテレビの推理ドラマのは面白かった。私は推理ドラマに興味があるのは鉄道を利用した犯罪に興味がある。なぜなら鉄道の旅が長かったからである。日本の鉄道なら80%ぐらい乗っているだろう。今回は飯田線はテーマになっていた。そこの線は全部乗るとしたら6時間以上かかっていたのである。
そしてその線に乗る人は相当に少ない。なぜなら一両か二両の電車であった。それも全部通しては走らない。別の車両に乗り換えた記憶がある。ただそこが天竜川下りで有名だとかとかまた長篠とかありそこは織田信長と徳川家康の連合軍が武田軍と戦った場所である。
そこが長篠なのかという時その地理が意外とぴんとこないのである。でも確かにそういう場所であり結局電車の旅だったら駅名だけが記録されるのである。それで地名に興味をも待ったのである。でも長篠というときここが長篠なのかというだけであった。それは地名だけで記憶されただけなのである。

長篠ゆ三河に出るや春の海

三河より名古屋に京へ春の旅

城建つや海よりそよぐ春の風

武田氏は山国であり山に閉ざされているからその山から出るとき京都を目指したとき途中で病気になり挫折して死んだ。山に閉ざされていると海の方に出たいということがある。海に出れば開放感がある。それで山国では海の見えないところは海が見えるところへ出たいとなる。

それでエチオピアというのは人口も1億以上なのだが海に面していない。ソマリアの方に港が欲しいということでソマリランドというソマリアと別の国として独立しようとしている国に港作るために借りた。ソマリランドというのはソマリアとはまた別な国として独立しようとしている。最近話題になったのは海賊が石油や荷物を運ぶ船を襲撃して3人くらい殺したとかあったからである。その辺はかなり貧乏で海賊になったということである。フーシー派が船舶を襲撃した海路の要衝である。そこが船の交通路となっているからである。

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武田氏は山国であり三河尾張は海に海に面していて海の幸が豊富だった思う。また信長が鉄の船を作っていたというのもやはり海に面していて海戦もしていたからだとなる。
福島県だと会津などは山国でありやはり海に面していないから薩摩長州など海に面していち早く外国の船とイギリスとかと戦う経験があり貿易もありそのことで会津は何か遅れてしまったのかもしれない。またロシアで黒海に面したクリミアにこだわるのはやはりそこから海に出たいということがありウクライナと争った。

つまり歴史はランドパワーとシーパワーの勢力争いだったという地政学になり日本でもそれが作用した。武田信玄と上杉謙信が塩を送ったというのも象徴的なのである。
その塩の道も松本城まであり相当に長いのである。それを山の細い険しい道を上り下りしてゆく。牛の背に塩を積んで運んだのである。だから必ず日本には塩の道があり山国では塩がないからそうなったのである。この辺では相馬藩では海に面しているところと海に面していない飯館は標高が高く山に囲まれた地域でありやはり塩の道があり塩を運んだのである。

いずれにしろ地政学から見る歴史は比較的わかりやすい。だからその地理を知るということは旅をしていればおのずと理解するようになる。だから私はおのずと旅ばかりしていて地理に興味を持つようになったのである。

ただ人間というのは本当に忘れやすい。 20年くらいすでにホームページとかプログで書いてきた過去に書いたもの忘れているこんなことを書いていたのかと自分が書いたものなのにそれも忘れていたのである。
何であれ体験したことでも10年20年と過ぎれば忘れてしまうのである。だから飯田線でも実際はいつの季節に行ったかも忘れたのである。それで私自身のプログを見て思い出したのである。豊橋で記録しているのは市電が通っていることと吉田城に行ったことである。その吉田城には枝垂れ桜が咲いていた。そして橋がり川がありそこは海に近い場所だったのである。

ともかく老人になるとこうして記憶の旅になる。そこで問題になるのは忘れてしまうことである。だからどうして記憶を蘇らせるのかとなると何かメモでもいいからまた写真だとそれはかなり思い出すのに有力な道具どうなる。特にデジタルカメラだといくらでも写真が撮れたからよかった。でも私が旅したときはデジタルカメラは出てないから記録に残されなかったのである。
とにかく旅に必要なのはちょっとしたメモでも記録することが後で役に立つそれがあとで宝ともなるのである。

2024年03月08日

原発事故の責任は誰にあったのか? 【大衆民主主義は無責任体制ーでも責任を逃れることができない人間】


原発事故の責任は誰にあったのか?

【大衆民主主義は無責任体制ーでも責任を逃れることができない人間】

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●責任者が明確にならない

なぜ常に何か事件や問題があると責任者は誰なのかとなる。原発事故でもそのことは追求された。私自身も追求した。するとその責任者が誰なのかということが明確にならないのである。
それは東電に一番責任があったとしても政府にも責任があり地元の人にも責任があるさらに国民自体にも責任があったとなるからである。それで東電に責任があったとしても誰も責任を取らない。幹部が一番責任あったとしても責任も取らない。社長ですら責任を取らない。ただ莫大な賠償金が支払われたからそれで責任は果たしたとされる。その賠償金でいろいろともめた。それでその賠償金に対して被害にあった人たちは賠償金を要求するので原発乞食とか非難する人もあった。

でもその国民にしてもまた責任があったのである。原発は作るべきだとして容認していた国民も相当に多いからである。原発事故以後でも原発を作るべきだとする国民もまた右関係者とかに多いのである。だから原発事故が起きたがその責任が一体誰なのかとなると広範囲になるから分かりにくくなっているのである。それは太平洋戦争で300万人も死んだというとき一体誰が責任なのかということである。それもまたその責任は広範囲になるからわからなくなるのである。戦争でも国民に熱狂したとか言われ国民全部無責任があるとなるからである。

だから原発事故でも漁業組合のことなど追求したがその人たちは原発事故前にも補償金をもらって原発御殿を建てたとか言われていた。その補償金にしても原発事故以後だったら要求できたから請求できたからそれで高額になっても何も言われないということはあった。
でも原発事故前にももらっていたし漁業権というのは大きな権利であった。それを東電に売り渡したようなことになったから責任は問われた。つまり権利があればそれに伴い責任の課せられていたのである。だから金をもらえばいいとはすべてはならなかった。確かに事故になったら賠償金をもらうということは当然である。でもその前からも補償金は充分にもらっていたのである

●権力地位がある者は責任が重くなる

とにかく何であれ人間は責任から逃れられない。例えば結婚でも実は責任を課すためにその制度ができたのかもしれない。結婚して子供が生まれれば子供に責任が持たされる。恋愛だったら別れてもそれは責任を取らされるということはないからである。結婚とは男女が共同生活をする責任を分かち合い子どもを育てるということでさらに責任を持たされるのである。

権利も持つとしたら責任も課せられているのである。でも民主主義にしても権利を主張するばかりであり責任のことはないがしろにされているのである。赤信号みんなで渡れば怖くないでも責任から逃れることはない逃れられない。その全員が重い罰を課せられることもある。戦争だったら300万人も死んだ。その責任は一体誰にあったのかとなるとまたこれもその範囲が広範囲になりわからなくなるのである。ただその時の権力者はやはり責任の重いとなった。

つまり権力をもっているもの金を持っているものは責任が課せられている。権力のないものは実際は何もできないし責任も来ないとなる。だから権力を持ち地位があれば責任も大きくなっているのである。だから侍は責任が重く何か失敗したら切腹していたのであるそれで庶民は侍にはなりたくないとなっていたのも分かる。

でも現代はこうして誰が責任者なのかもわからない。戦争にしてもいまだにどうして起きたのか誰が責任者なのかもわからないのである。要するに赤信号みんなで渡れば怖くない責任も取る必要ないとなっているのが現代の大衆民主主義なのである
でも必ず責任はとらされるようになっているのである。だから300万人も死んだ責任は誰が取るのかとなる原発事故の責任は誰が取るのかとなる。それもまた明確ではないのである。

民主大衆民主主義の問題は権利だけは主張するがその責任を持たねばならないということが自覚できないのである。でも必ず人間は責任を取らされ責任を自覚させられるのである。責任から逃れることができないのである。だから神に誓うなと言った時人間はその誓いを守られることはないし破られるからである。
とても必ずその責任を果たすことができないからである。だから原発事故でも政府から東電から科学者から安全神話を作りマスコミでもそれを推進させた。人間に完全なものではないし全能でもないから事故が起きないということはありえないのである。

誰に責任があるかというときキリストを死刑にしたピラトでも私は責任がないと言ったのも理解できる。神の子を死刑にしたという責任をとることなどあまりにも大きすぎて責任はとれないとなったのである。
これは今の法務大臣でも死刑にする権力を持っていてその指示を出すがそれもその責任を負いとなったらできないのである。人間にはそもそも裁く能力がないからである。

ピラトが責任を逃れることはできません。彼だけがキリストを釈放する権限を持っていたからです。歴史はそのことを証明しました。

ある意味で地位とか権力を持っことは怖いこだという実例である。
そうなるとそんな地位につきたくない。確かに出世競争があり高い地位に着きたいとなるが逆に責任が重くなるからそういう地位にはつきたくないという人もいる。地位が上がれば上がるほど責任が重くなってくるからである。だから東電の社長となれば最高の権力者でも責任は最高に重くなってしまうからである。
そういう責任ある権力をもたされていたことが不運だったとなる。法務大臣でも死刑にする判子を押す、するとその責任も重大になる。だからそんな地位に着きたくないともなる。来世で裁かれるのは裁いた方になるかもしれないからである。人間にはそもそも裁く力がないからである。

●大衆民主主義は誰も責任を自覚しないが責任は取らされる

権力を持つ責任をもたされる

大衆民主主義の場合責任を取る人が明確ではない。一票の権利は持っていたとしてもそれはあっても無いようなものである。100万分の1の権利がどれくらいしかないとしたらば責任の自覚は持てないのである。だから赤信号みんなで渡れば怖くないとなる。それは大衆民主主義社会というのはただ数がすべてを決めるとしたら何も数を集めれば何でも通るし赤信号でも怖くないとなるのである。それが法律であれ怖くないとなる。

だからこそカルト宗教団体などは政教分離に反していても数が多ければすべては通るとなり創価などでも批判はできなくなる。つまり現代の権力とは金と数のである。それで結局ナチスになり悲惨な結果となったのである。それは誰も責任者としての自覚が持てない。すると誰も責任者はいない。でもその大衆が無責任となり惨禍になる。なぜなら組織化集団化したときその責任は分散されて数が多いから誰も責任を自覚しないしとらないとなるからである。
大衆民主主義は全体主義になりやすいことである。一見みんな自由だと言うけどでも無責任な自由だからである。

つまり今度は無責任な大衆でも責任を取らされるということである。それが日本であったら300万人戦死したとか戦争で1000万人くらい死んだとかなつまりいくら赤信号みんなで渡れば怖くないといってもその無視して渡った人たち全員が責任取らされて死んだともなるのである。
だから赤信号みんなで渡れば怖くないということこそ一番怖いことだったのであるそれはみんなが責任を自覚しないからである。権利は自覚しても責任を自覚しない原発でも利益になるとということでその後の事故になることなど考慮しない。責任が自覚されないのである。

原発事故の場合異常なほど安全神話を作りそのことには熱心だったが肝心の安全対策はしなかったのである。何か安全でないという時この辺でもそれは批判される。まるで非国民のようにされたの感じにもなる。ものすごくその安全でないと批判されることに過敏になっていたのである。でもその対策として安全神話を作り安全でないという人は返って批判されたのである。その安全神話は権力を持っている者たち政府であれ官僚であれ東電であれ科学者であれマスコミであれそういう人たちによって作られたものだった。

だから鉄壁のものとして安全神話が作られていたのである。それに逆らえる人はいなかった。何か契約するとき細かいことまで契約書に書いてあるのは何かあったとき責任を取りたくないからそうしているのである。でも実際は安全対策をする方が先決でありその方が実質的に安全を守るものだとなる。その安全対策を安全神話でごまかしたことが大きな問題だったのである

ノーブレスオブリージュというのは貴族は確か地位とか金があっても何かあったとき自分が課せられていて責任を持たされていたからそういう言葉が生まれた。戦争のときは率先して前線で戦う義務があった。イギリスの貴族となると今でも王族は兵士になって率先して前線で戦う義務があるためである。責任の自覚が持たされていたのである。現在の大衆民主主義は無責任社会であり誰も権利は主張する責任とか義務はないがしろにされる社会である。
でも人間は必ず責任を取らされる責任から逃れられないのである。それはカルマでもありではもあり逃れることができないのである。

何か所有することも責任の課せられている。土地を持つことでもい家を持つことでも責任が課せられている。だから耕作放棄地が増えた時その土地の所有者がその土地に責任がありそのまま放置しておくなとかなる草ぼうぼうになって周りに影響するからである。また家を持つにしてもその家に責任があり空き家のままにしていれば問題がある。誰か勝手に入ってきたり何か火事になったりと危険な場合があるから何とかしてくれとなる。

でもそのためにも金がかかり放置されているとなる。要するに人間はある土地に住んでるだけで責任が生じているのである。それが原発事故でその責任が問われたのである。そこに住んでいる人が原発に無関心であればそのことで事故が起きて責任は問われたとなる。
だから人間は生きていること自体すでに責任を課せられていて逃れることができないのである。ただその責任の自覚が無いのである。権利は主張するがその権利をと同時に責任を持たされてるということが自覚できないのである。でも必ず責任を取らされる。そしてその責任の重大さを知ったのは原発事故でもあったし他にもいろいろある。

親子でも夫婦でもそれは互いに責任を持たされた関係だとなる。共に協力し合って生活するという責任を持たされたものだともなってしまう。ただそういう自覚もなく好きだとか嫌いだとかで結婚したり離婚したりする。それも無責任だとなってしまう。すると子供が苦しむことになる。つまり本人は責任を取らないとしても誰かが責任を取らされるのでは。だから人間は責任から逃れられない。それはカルマだともなる。宿命というものもあるがそれも何らかの責任として負わされたものだとなってしまう。
posted by 天華 at 15:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2024年03月07日

花と川と山の絵 flowers and river and mountains by being imagecreator

花と川と山の絵

flowers and river and mountains by  being imagecreator

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being image creatorの著作権は誰にあるのか?それが不思議になる。これはとても自分で何か創作しているという感覚はないただ簡単な言葉を入れるだけだからである。
前に自分がしていた抽象画はインターネットに出ている写真とか絵を変化させた抽象画を作るのにわ結構手間だった
だから著作権のあったようにも思えたのである。それなりに苦労して作ったものだからである。
そこには創作があったようにも見える。でも何かこのイメージクリエーターではそうしたものを感じないのである。簡単な言葉を入れるだけで写真化絵画化してくれるからである。

でもそうなると自分で創作したという感覚がなくなるのである
だからこれをどう理解していいかわからなくなる。明らかに自分でイメージして創作したならばそれは著作権がある。
でもイメージクリエイターで作り出すものは何かそういう自分自身のが創作したという感覚はほとんどないのである。だからこれは一体何なのかということが理解できないのである

Who has the copyright to being image creator? That makes me wonder. I don't feel like I'm creating something, because I just put in a few simple words.
I used to do abstract paintings, but it took a lot of time and effort to make an abstract painting that was a variation of a picture or a photograph that was on the Internet, so it seemed like it was copyrighted.
That is why it seemed to me that there was a copyright. It is because it was created with a certain amount of effort.
It seems as if there was creativity in it. However, I don't feel such a thing in this image creator. It is because it converts images into photographs and paintings simply by inserting simple words.
But if that is the case, there is no sense of having created the image by oneself.
So I don't know how to understand this. Obviously, if you created the image yourself, it is copyrighted.
However, when you create something as an image creator, there is almost no sense that you have created it yourself. Therefore, it is difficult to understand what this is all about.

Translated with www.DeepL.com/Translator (free version)

2024年03月06日

兄の交通事故で起きた責任問題 【静岡県で起きたことで事情がのみこめなかった】


兄の交通事故で起きた責任問題

【静岡県で起きたことで事情がのみこめなかった】

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●静岡県で起こした兄の交通事故の問題

自分の家に起きた問題でも責任問題があった。父親違いの兄が交通事故で死んだ時その賠償金でもめたのである。兄は事情がわからないにしろ団地とかに住んでいて金に困って出された。そしてトラック会社に入ってトラック運転手になった。
でも事故に会った時そこの運送会社の社長は最初はわからなかったが賠償金が自賠責とか任意保険で金が入るのでその金が欲しくてお骨にしたのだがコツを置いておけと言われ私の母親はは困惑した。
私は何か事情が飲み込めないので嫌になり3日ぐらいで帰ってきたのである。その時一緒に行ったのは親戚の人だった。なぜそこでもめたのか?それはやはり振り返れば交通事故の賠償金でもめたのだと思う。

ではなぜ法律的には雇い主が雇用した人の交通事故の賠償金をもらうということはありえない。でもその雇い主は私の兄が乞食のようにしてきたので雇ってやったということで何かその賠償金をもらいたいとなり骨を置いていけとか墓を作ってやるとか言ったのかもしれない。実はその時何週間前に兄の妻と離婚していたのである。もし法律的に離婚していなければ交通事故の賠償金は妻が全部もらうことになったのである。

だからその離婚した妻もその金をもらいたくて一時私の家に直接きたりしたのである。でも離婚したということで権利を失っていたのである。そうは言ってもまだ子供は中学生であり母の元に金が入っても使われてしまうかもしれない。妻が離婚したのは不倫でありその結果として兄は一時的に娘を児童相談所に預けたのである

●運送会社の社長に責められる

とにかく静岡県の方であり何が起きたのか何をしていたのかも分からなくなっていたのである。ただ母に金をもらいに来たことは前にあった。だから金に苦しんでいたともなる。そして事故の前に一回その運送会社の人と一緒に自分の家に来たのである。ただそのときは何か確かに運送会社で働けてそのそこで働いている人と一緒に来たから喜んでいたことを見えた。
だからその運送会社がその時は悪い人には見えなかった。ただ交通事故になりその賠償金がもらえるということで豹変したとなる。だから金というのは常にこのように怖いものなのである。ただ自分自身にも問題があった。何かシタクとか違反していたとか運送貨車の社長を攻めた手紙をだしたからである。これは失敗だった。でも何か自分のことでも自分の家のことでも攻めてきたからそうなったのである。でも今振り返るとそうした手紙類は証拠になるから裁判になったときなど問題になる。
話したことは証拠になりにくい、それで録音したものは証拠になるからそれを使うことがある

そもそもこのこの場合一体誰に責任があるのかと追及するとわからなくなる。なぜなら私の家にしても連れ子でありよくしてないからそのことを責められたとき何も言えないということがあった。だからこそそこの運送会社の社長がそのことを攻めてきてきたのである。
でもでもそもそも雇い主のその賠償金をもらう権利はないのである。そこで揉めたので今度は弁護士を頼むとして親戚の人にその弁護士を知っているからと仙台市まで行き頼みに行った。

ところがその弁護士は相談するだけで百万もとったのである。裁判も何もしてない一切何もしなくても一回くらい相談に行って百万も取ったのである。その親戚というのはこの人もまた生来の病気持ちであり何か社会のことがわからない人でそうなった。
その百万にしても結局他人の金だからそうなったのであったのである。ただその責任は自分の家にもあった。ただ母親だからただ実の母親だからその相続する権利はあった。でも結果的には百万くらいしかもらえなかったのである。実際は妻が離婚していなければ全部妻が賠償金はもらえたのである。

●事故が起きた数週間前に正式に妻は離婚していた

ともかくこの事故後の問題は誰が責任者なのかということが分からなくなっていたのである。実はその事故で死んだ兄自身にも責任があったのである。なぜならそもそもなぜ金に困窮して妻とも離婚するようになったのか。そのこと自体兄でも責任はあったとなる。どうしてそうなったのかも事情は遠くになるからわからなくなったのである。
だから近くにいればこんなことはなかった。近くでいればいろいろとその事情もわかるからまた何かあれば話し合っているからこういうことにはならなかった。

問題は妻が不倫して離婚したことが混乱した原因だったともなる。妻とその男の人と暮らしていたからである。でも何かその人は自殺したと聞いた。妻も病気になったとかある。
ともかく何をして何いなったのか遠くてわからなくなっていたのである。
つまり責任者がいなくなっていたので混乱したのである。

つまり遠くに居る人には責任を持てないということにもなる。なぜなら何をしているのかもわからないし事情もわからなくなるからである。
いずれにしろここでも一体誰が責任者なのかということで問題になったのである。その事故を起こした当人ですら兄ですら責任はあったとなる。子供を持てば子供に対して責任を親は持つ。でもまた今度は子供であれば親の責任を持たされるようになる。それは介護などでそうなるからである。私自身2人の親の介護で死ぬほどの苦しみを味わった。それは私自身しか見る者もいないし責任者になったからである。すべての責任が私に押し付けられたとなる。それも自分自身のカルマだったのである。

ともかく人間というのは必ず責任が負わされれていてそれから逃れることができないのである。だから親となることは子供に対して責任を持つことになりもしその責任を果たさないと子供は苦しむことになる。だからもしかしたらこの責任は私の兄と妻にあったのかもしれない。それは私の家の責任とは全部ならない。そして遠くに住んでいるのだから責任を持てないともなったのである。

●30年過ぎてその事故にお関することが明確になる

ともかく責任となるときそれを追求して行く時それも明確にならないのである。ただ確かなことは金にはは責任が課せられている。金をもらえばそれでなんでもいいとはなっていないのである。その後中学生の娘は妻の実家に一時は引き取られた。それは静岡県の方でありそこで育ったからそうなったのである。その娘も進んで実家の妻の家に引き取られた。

でもまたその家からも嫌だということで高校卒業してから東京の方に出たとなる。私の家では後見人に一応なったから金の仕送りをしていたのである。ただその娘は金遣いが荒く結婚して娘もあったがでもまた早いうちに子供はまだ幼いのに離婚した。するとまた誰の責任になるのかともなる。離婚するのはいいとしてその結果また娘もまた苦しむものとなる。何かこうしてカルマが継続されたのかとなる

ただ事故があってからすでに30年くらいすぎたから何であったのかと振り返る。つくづく人間というのは事件であれ事故であれ問題が起きた時そのことの何なのかすぐに理解できないのである。それは人生でも個々の人生でもそうである。何かがあったとしても起きたとしてもそれがどうしてなのかということがわからないのである。
それで時間がかなり過ぎた後にそのことはそのことはそういうことだったのかということが判明する。それは個人でもそうだである。歴史的事件でもそれがかなり時間が経ないとその真相もわからないのである。

そのことで明治維新でもいろいろと言われるのである。坂本龍馬がのことが英雄にしたのはフィクションであり司馬遼太郎が作った物語だったと言う人も出てきたのである
だから事の真相というのはかなり時間が過ぎないとわからない。私自身でも何が何だかわからなかった。兄の交通事故について分からなかったのである。でも今振り返ると何か判明してきたのである。ただ確かに私の家でも責任はあった。でも私の家だけの責任ではなかった。いくら私の家で兄をよくしなかったからといってそれがその事故の責任だとは全部はならない。

●責任は兄自身にもあった

つまり兄自身にも責任があったということである。集団就職で東京とかさらに遠くに行った人がいた。でもその人たちが全部親の責任とはなっていない。そういう時代であり苦しみを負わされたと思う。私自身は恵まれたにしても全部が自分の責任があるかとなればないと思う。ただ何でもそうだわ責任問題になると面倒になることである面倒になる複雑になる。
一番の問題は静岡県とかあまりに遠くに離れてしまって事情が飲み込めなかった。その場所まで行くのに大変な苦労だったのである。だから子供でも遠くに行っていると何か分からなくなるだから責任が持てなくな別に何もなければこんな事にはならなかったのである。

遠くで暮らす人には責任がもてない

それは事情が呑み込めないしわからなくなる。もし地元に働いていればこんなことにならなかったからである。静岡県は遠すぎたのである。

ともかく人間は必ず責任を問われる存在である。その責任から逃れられないの人間なのである。でもそもそもが結婚しても離婚する人は3人に一人といてそのことでまた子供がいたので問題が起きてくるのである。子供は産まれれば子供に対しての責任が生じるからである。それが離婚とか借金とか事故とかで果たせなくなったとなる。

だからその責任は一体誰にあるのかとなるとやはり兄自身でもあり妻でもあったのかとなる。もちろん事故を起こした相手の人にも責任があった。事故を起こした運転手は居眠り運転だったのか?何か原因はよくわからない。ただその事故を起こした会社の社長はと運転手は来たのだが謝ることもしなかったのである。それはなぜだったのか?
何か賠償金で裁判で問題になるから運転手の方には手落ちがないということで何も喋らなかったのか謝ることもしなかったのかもしれない。それも何かひどいことにも思えた。
ただ今度は兄の方も高速道路で事故になったのだがトラックを止めてその標識を立てなかったことで落ち度があり保険金は何百万円かも減らされたのである。だからこれも交通事故というのは常に双方に責任がありそれで事故になったときその責任をまた問われたのである。

奇妙なのは近くの知人の息子が交通事故で車が使えなくなり中古車を買うのに私自身が払った。別に自分には何の責任もなかったのだが払ったのである。それもすぐ近くだから事情がわかっていたからである。これもカルマだったのかもしれない、とにかく交通事故で人生が狂わされた人は多いからである。かならず推理ドラマでも交通事故が関係しているのが多いのは現実世界で交通事故が多いからそうなっているのである。


posted by 天華 at 16:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2024年03月05日

人間は死んですべて終わりなのか? (死後も継続されるものー人間の生は仕事と一体化している)

人間は死んですべて終わりなのか?

(死後も継続されるものー人間の生は仕事と一体化している)

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死者の座

母は厳かにおわしぬ
我が家のその場に
在りし日長くもおわしぬ
今死して霊となり
やはり今しもそこにあり
死者はただ深く黙して
もはや語ることなし
石のように黙すのみ
死者には触れることならじも
何か石のように堅きものとなり
死者はその場にあり続ける
もの言わずとあり続けるかな


死者の謎はあると思えばあるしないと思えば無いのである。だから死者というのは死者から何か語りかけてきたりいくらお供え物をしても語りかけても何の返事もないのである。だから何かお供え物をしても語りかけても返答もないからむなしいとなる。でもまた全く死者がなくなったのかといえばそうでもない。残された生者がその死者があると思えばまだあるのである。ただどんなことしてももはや死者とは会うことはできない。だから死ねばその関係は断絶するしこの世のことも死者には関係なく断絶してしまう。

でも本当に人間の生というのは死んだ時点でこれまで生きたこともすべて無となり断絶してしまうのだろうか?
死者を思うときそうは思わない、一緒に暮らしとことを思い出して回想しているから思い出の中に生き続ける。では死んだ時点でこれまで生きたことも無になってしまうのか?
でも死後裁かれるというとき死後でもこれまで生きたことが継続して神に裁かれるとなる。もし無になるとしたらその一生がなんであれ消えるとなるからである。そうなると何をしようが勝手であり悪いことしようが何しようが自由に勝手に生きればいいとなる。どうせ死んだらみんな無となるとしたら関係ないとなるからだ。そいうなるとまた恐ろしいともなる。

だからこそ現世を生きることでも死んですべてが終わらずに継続するとするのである。家族でも死んだらそれはこれまで一緒に生きて来た継続として死者も見ている。死者を思うときやはりその死者でも一緒に生きたたということで共に生きたことでそれは依然として継続している。だから生前何も関係ない人は死んでも何の関心もないとなる。
つまり死者でもそれは生前と関係して死者を思っているのである。だからいくら死んで骨となり灰となってもその人は依然として残された人に存在し続けるのである。そして死者を思うときやはりその人は生きた人生を振り返るのである。だから死者でも家族にとっては生き続けているのである。
ただ正直死者というのはいろいろ思ってみても不可解になるのである。

何したいですか?と聞くと田んぼの土を踏んでみたいと言ったおじいさんのことを思い出す。たいていの病気は他の土を踏むと治ったのだそうだ。それでおじいさんを車に乗せて田舎の家まで送ったおじいさんは本当に田へ降りて土を踏んだ。胆管癌でチューブから胆汁が土に落ちて行った。そのの土の効果も亡くなった。(種の文化を豊かにー徳永進)

この話も生きるということはその人にとっては農民であり一生田畑で働いていたからその働くことを継続して死んでいきたいとなったのである。それで何か土を踏んで仕事をしていれば病気も直ると思ったのである。これは何か示唆に富んでいる。
人間の一生は大概は仕事があり毎日その仕事をしていたのだからそれが生きることでもあったからだ。だから仕事をしていれば病気も治るとまで思ったのである。それほど人間にとって仕事というのはその人の人生そのものになっていたのである。

何かそういうことは職人でもあり大工さんで庭師の人も70くらいになって何か暇になりそれで日頃から体を動かす仕事だから仕事したいとなったのである。それは金が欲しいということもあるが何か仕事をして生きる充実感を味わいたいということであるとにもなっていた。だから人間というのは仕事と一体化してありそれが生きがいとなっている。だから病気になっても仕事をすれば治ると考えたのもわかる。

近くの自転車屋にしても最近死んだが3日前まで仕事していたのである。それで私に仕事が続けられるかなとか言っていた。そしてその3日後に死んでいたのである。とても死ぬとは思えなかった。なぜなら3日前まで仕事をしていたからである。病気は癌であったが癌でもいろいろありこういう死に方もあるのだと思った。近くの90才の医者でも病気になり仕事をしていてその人も1週間くらいで死んだのである。こういう死に方はいい死に方である。なぜなら寝たきりになり介護されることもなく仕事しながら往生したとも見るからである

また認知症になった農家の女性がベッドの上でで田植えしていたというのも人間はやはりこうしてその仕事をしている期間が長いから習慣化してそうなったのである。いくら認知症になったとしてもこれまで長くしてきたことを忘れるわけではない。それは経験として体にその記憶は刻まれている。だからいかに人間というのは習慣が大きな力を持っているかわかる。だから勉強でもたいして才能なくても習慣的に勉強していればやはり効果はある。

本当に習慣の力というのも大きいと思う。その習慣がもう体に染み込んで無意識的に作用するともなる。だから本当は人間は仕事しながら死ぬというのは一番いい死に方かもしれない。農民だったら田畑で死んでいれば往生したのかとなる。そして来世でその仕事を継続しているのかとなる。

死のスイッチを押すには和解が出来上がっていないと難しい。親しくした家族や友人たちとの和解心の温かみがその人たちの間に流れあっていること自然や宇宙との和解そこに共にあること荒らされたもらったことの感謝。
自分に死が近くなったとことを感じる時人は和解を考える。包み込まれる許される謝り感謝しそうして異物であったものをなんとか溶かそうとし違和感を覚えたいったことも心の中で解けるように努力するそうして自分は他人と溶け合い自然と溶け合い自分が時間と自分自身をとけあう
(死の文化を豊かにー徳永進)

家族にいろいろあっても家族自体が融和していないということは結構ある。私自身の家族もそうであった。絶えず争う家族でもあった。そして姉は認知症になり私は懸命に介護したがそのことをわかってくれて死んだのである。だから認知症でもわかることがあり粗末に扱うことは問題なのである。でも認知症になるにしてもやはりその人の生前との関係が相当に影響してくる。認知症の人が感情を抑えられないからその人にとっていい人はでないと介護できないのである。ただ私の家族は死んでから融和したとはなる。
そして【ひどい娘だわ】と母親がその娘を最後に私に言い残して死んだ。本当にそのい娘はひどい信じられない娘になっていた。私の家に来てもおばちゃんは金でめんどうみてもらえと言って去って行った。ただ私の場合つきあいもないししょうがない面もあった。でも育ての親は相当な恨みもって死んでいったのである。そうなると化けて出てくるとか怖さを感じたのである。

ただ人間は最後になれば死ぬときは争いたくない争ったことを後悔していることは確かである。それは家族内でもあり最後は死ぬときは互いにそれも許して来世に送るのがいいのである。ただ正直人間のカルマというのは消滅しない。死ぬときになってそのことを悟って後悔しても遅かったともなるのである。
そして人間の過ちはカルマは延々と続くのである。それで私の母の実家の家族は不和分裂の家族でありそのために親戚でもバラバラになりまとまって墓参りもしなくなって縁は切れたのである
また死ぬ前に和解しろというときそれをそれはなぜかといえば親子であれ家族であれ争って死んでゆくことは後々まで影響するからである。だから死ぬ前に和解しておくとその人も成仏するし家族にとっても心安らかに供養できるのである

霊界にいる先祖霊は、祖霊舎(仏壇)で供養を受けることを大変喜びます。
なぜなら、先祖霊は祖霊舎(仏壇)で食事を取ることができ、
子孫の顔も見ることができるからです。
だから、先祖に対して供養を怠れば、先祖は肩身が狭い思いをしますし、先祖は飢餓に迫られ、餓鬼道に落ちることもあります。

これは感じるけど問題は先祖供養しないと罰が当たるとかで金をとるカルトかありそれが危険なんである。仏教にもともと先祖供養にこだわらない、奨めてもいないのである。ただ先祖を親を供養するのはいいとしてもそこに誰かが僧侶でもカルト教団であれ牧師でもかかわると宗教は歪められるのである、自分は死者を供養しても寺にもかかわあらないしカルト教団にも関わらない。
なぜ問題なのかとなる宗教の場合でも必ず金がかかわると歪められるからである。金が欲しくて関わってくるから危険なのである。

2024年03月04日

家に死者は生き続ける 【死者との対話は延々と続く―語られる死者は生き続ける】


家に死者は生き続ける

【死者との対話は延々と続く―語られる死者は生き続ける】

母と姉死してもなおも
面影浮かび我が家にあれ
悲しみ深くも我が家を継ぐ
死者は物言わず重々しくあれ
なほそこに愛は通わむ
死者には死者の場が必要
その場の在りて死者は生き続ける
それぞれの土地に家に死者の場のあれ
かくて死者と共に生き続ける
死者は死なずそこに微笑む
なお共に在りしを喜ぶ

人間は死んでも消えるものではない。何か死んでからも死者との対話が続いている。姉は死んで13年母ですら八年も過ぎたとは思えない。人間はやはり親ともなればその存在は簡単には消えないせん。時々依然として2人はそこに家に居る感覚になる。
その原因はやはり子供の時から一緒に住んでいてその歳月が長かったことである。60年も一緒に居れば住んでいればその存在がなかなか消えるということはない。それも子供の時から一緒だったからそうなった。あるところで別々に暮らしたりすればやはりいくら親でも疎遠になり忘れられてゆく。

だから人間というのは必ずしも血縁というのではなく一緒に過ごし生活することがそこでおのずと親しくなり親密になりたとえ争って憎しみ合うことがあってやはり長く一緒に生活していれば愛でも通い合うようになる。
つまり情が育まれる。それは猫でも同じである。その猫はなつかないが毎日餌をやっている。そうしているとその猫に愛着が湧き愛でも通じるようになるかもしれない。ただその猫は慣れることはない。

ともかく親が死んでからずっと死者との対話が続いた。やはり人間というのは死んだとしてもその関係はすぐには終わらない。その関係は継続されるのである。でも家族であったらそうなる。他の人が死んでもその死者のことまた一人死んだかとくらいにしか思わない。家族だったら死んでも思い続ける人があればその人は死なずなお生きているとなる。

なぜ墓があるのだろうか?なぜ人間は墓を作ったのだろうか?それは人間が一旦知ると死者のことを忘れてしまう。それで家がなくなっても依然としてそこに死者がいるということで墓参りして供養して死者とつながる。人間はとにかく忘れやすい。人間は一旦死ぬと目にも見えず形もなくなるから忘れやすいのである。
だから墓でもそこに具体的に死者があるとして死者が継続される場として墓他は必要となる。

つまり死者と交感する場として墓がある。ただ不思議なのは人間は必ずしも死んでしまえば塵となり灰となり骨すら残らない。私が建てた交通事故で40歳で死んだは兄の墓には骨ははいっていない。骨は実家の墓で土になってわからなくなったのである。だから墓には別に死体が入ってなくても骨が入ってなくてもその人は生きていたという証として墓がある。

もし墓がなければ死んだ人と交感するにしてもできなくなる。骨を海に撒いたり墓がなくてもいいというのも分かる。でも具体的に物となって存在するものがないとその人と交感できなくなる。また墓というのはその人が生きていてしていた人間関係の継続する場としてもある。何か死んだ人に申し訳ないとか懺悔する時がありそのとき墓参りするのである。

とにかく何か具体的な物として指標として死者の物がなければ死者はさらに忘れられる。存在したのかどうかも分からなくなる。だから例えば古墳があるとすればそれは死者の墓でありする千数百年まえの人たちの墓でありそこに確かに人が生きていたということである。もしまた古墳でもなければそんな遠い昔のことを誰も振り返ることもないのである。そこにその土地に現実に古墳となってあればその時その時代のことそこに生きていたという人たちのことを認識する。でも何もなければその人達がそこに存在していたことすら生きていたことすら意識もできないのである。

死者にもそこに生きた存在したという標しが必要である。それは家にあるのだが家でも継続されずなくなる時がありるが墓は残りつづける。ただ墓でも後を継ぐ人もいなくなり墓じまいともなっている。
ただなぜ墓が必要なのかとなれば家がなくなっても墓は存在し続けるということがある。どうしても墓というのはその場に行けば死者を意識するからである。

だから死者を意識する場として墓代がある。古墳でもあればその土地に生きた人が葬られている。それで死者を意識する。もし墓であれ墓地であれ何もなくなれば死者を意識するということはできなくなる。そして古墳でもソーラーパネルに覆われてしまった場所はある。そうなるとその古墳も意識されにくくなる。それは景観と歴史の破壊でもある。

ともかく人間は歴史的存在いうとき代々続くものとしてある時死者でも意識する場として具体的になものとして墓が必要なのである。その場がそこに長く生きた愛着のある場でありふるさとにもなる。
だから原発事故で避難区域になったところではそこには棲まず離れ移動した。ということは長く続いた歴史が断たれたともなる。その時移動した人とともに墓も移動したのである。
なぜならその町であれ村であれ消滅するようにもなったからである。でもそれは今ここだけではない全国に起きてくることである。過疎化が深刻でありあとすぐ子供もいなくなっている。周りを見回してもかなり広い範囲でも子供が遊んでいる姿を見ないからである。だから町があったとしていくつかの区が消滅してゆく。するとそこに墓があったとしてもその墓も他に移動してその土地から離れてしまうのである

何かの本で死者にも投票権を与えようとか権利を与えようとか書いた本があった。それはやはり死者も依然として村であり街であれであるそこに生き続けているからいるからそうなった。だから古墳でもそれは死者が依然として生きていると生きている場だと思うんだ。だからそれを壊してしまう時死者の存在も消失するとなる。いずれにしろ死者は人は死んでもすべて簡単に消えるわけではない。つまり死んだ後も家族だったら家族家族との対話が続いているのである。認知症の人が死んだ人延々と語り続けていたというでもそれが異常なことでもなかった。別に普通の人でもやはり死者のことを思い語り続けるからである。その死者のことは語られる限りまたその死者も生きているのである。

偉大なる人は死んでも
彼が後に残す光は
我々のはかり知ることのできないのちの世までも
人々の道を照らすであろう

こういう文がててきた。まこれは偉大なる人のことである。でも普通の人でも家族とかなれば語り続ける生きていその家族が生きている限り語り続けるのである。つまり死者との対話は家族であったらその子供であれ孫であれ語られて残されていく。ただ普通の家族であれば語られるのは三代くらいかもしれない。
とにかく死者を思うことは不思議である。その死者を思うときやはり家というものに死者がまだいるという感覚になる。それはすでに十年とかもすぎてもっやはり家にいると感覚になる。

母は我が家に嫁ぎ30数年
苦しくも悲しくもこの家にあり
目立たぬおとなしい人だったが
その細身の姿がいつまでもある
母はこの家に耐えてきたのである

母は別に優れた人でもない。何か花に興味はないし趣味もないしただ働き詰めの蟻のような一生でもあった。だからそれがすべていいとなっていない。でもやはりここにこう自分家に30数年を生きたということが家を支えたということが依然として死んでも存在感があるものとなったのかもしれない。
ただ母は脇役の存在でありそれで今母を自分が偲んでいるのは不思議だとなる。

蠟梅の咲きてあわれや我が母の百歳生きて死ににけるかな



2024年03月03日

AIは人間の知性や芸術にも深くかかわる 【Bingメージクリエーターから詩を作る】

AIは人間の知性や芸術にも深くかかわる

【Bingメージクリエーターから詩を作る】

kaninum.jpg

一日潟湖の奥に
人は踏み入らず
枯葦の岸に
足跡はない
蟹が這いのぼり
沼に沈んで消えしのみ
冬の太陽のみが
美しく輝き昇り沈む

Deep in the lagoons
No one steps in
On the dry reed banks
There are no footprints.
Only crabs crawled up
only to sink into the swamp and disappear.
Only the winter sun
Rises and sets in beauty and splendour

Bingクリエイターイメージクリエーターの不思議はそれが例えば現実に風景の写真を撮ったよりそれがリアルに絵のように見える。ただ写真を撮るならそれが平凡なものに見えてもイメージクリエーターになると返って現実の風景より何かより絵画的になりそれの方が現実より素晴らしいとなる。

これまでも写真だけでわ何か物足りないものがある。絵画にした方がそのそ風景でもその人の個性によって味付けされたというか創作されたものとなっていた。

seagullwaves.jpg

私がこの写真をイメージクリエーターで作られたものを見て感心したのは実際に私は海でかなり波が荒れてそのその波の上をかもめの群ががしきりに飛んでいたのである。その光景は珍しいものだったである
写真に撮ろうとしたが忘れて取れなかった。そして写真に取ったとしてもこのエメージクリエイターで作ったようなものは取れない。第一かもめがこのように大きく写せないからである。

だからイメージクリエーターでと作られたものは絵画的になっている。かもめがこんなに大きくは写真では取れないからである。それは今までは画家が絵画にしていた。写真と絵画が違うのは何か強調するものがありそれを拡大したり絵のテーマにしたりする。その人が見てその人なりの感性で風景を描くからである

だから不思議なのはコンピューターが絵画まで創作するのかということである
このイメージクリエイターで作った写真でも確かにこういう場面はあると思う。ただこういう場面を実際に写真で撮るということは難しい。かといってこういう風景が架空の場所でもない。現実にこういう場所はありうる。

それでこの写真を見て私は短い詩を作ったのである。そしてここにカニを配置したのまずこの写真を見て次に詩を作りそこにカニが出てきたからカニを配置した。
だからイメージクリエーターと一緒になって創作したともなる。だから不思議なのである。こんなことは今までありえなかった。なぜこんなことができるのかその仕組みは理解できない。そもそもコンピューターには何か芸術作品を独自なものを作れると思わなかった。

これもまた海に朝行ったら波が荒れていた。その荒れた波の上を鴎が何羽かしきりに飛んでいた。それは毎日朝に海の方を自転車で回っているから珍しいと見ていた。そのこで写真を撮りそこなったのでかもめと荒い波とか言葉を入れるとイメージクリエーターがこの写真を作ったのである。
ただ灯台とか崖とか入れていないのにこの写真がでてきたのである。それはどうしてなのかわからない。
それで今度は

荒波の崖に打ちつけ灯台の標しと立ちて鴎群れ飛ぶ

この短歌を写真を見て作った。これも今までに経験ない創作である。ただ写真は相当にとっているからその写真を見て詩をつくったりしたことはあった。でも言葉を入れてそれが写真になってまた詩を作る。これは何なのだろうと思う。つまりチャットgptでも小説を作ったりしたりする人がいたのだからチャットgptと共同して作ったとなる。

それで問題になるのは著作権なのだがコンピューターの場合その著作者は誰なのだろうとなる。ただコンピューター上にそれを出しても咎められることはない。そのことが便利なのである。なぜなら素材でも勝手に利用すると許可が必要であり面倒になっていたからである。また他人の写真でも同じである。でもこのbingイメージクリェターに出してもそれを咎められことはないないのである

結局人間の知性の代わりになる。人間の創造力を補うものとなる。ではAIが独自の作品を創り出すのか?ただ他人の写真とか絵からから抽象画を作っていた時はソフトで加工して作っていたのである。でもそれは具象画ではない、だから具象画が作れることは驚きだったのである。

つまり全然全く絵の才能の無い人でも絵を作り出すことができる。それは写真がカメラによって描け無い人でも絵の代わりになったということでもある。ただイメージクリエーターはさまざまな無数の場面を作り出す。その言葉にしても簡単な言葉で写真でも絵でも創り出す。だからAIがいかに驚きのものでありそれがフィーバーして世界中の人たちが注目するようになった。

確かに素材関係の仕事はAIに変われることが実感した。つまりこれによって失業する人が出てくる。それが意外と事務員とか知的作業する人にも出てくる。返ってそいう人たちへの影響が大きいいというのも意外だった。むしろ肉体労働の方は代わりになれないというのも意外なのである。

そもそもコンピューターの世界はインターネットの世界は情報の共有することから始まっていた。マスコミとは違ったものでありそれがハードとソフトの進歩でさらに進化したのである。だからこれが人間の知能に関係して知能の共有というか共同になるのも見えていた。今驚異的に進化しているのはAIの世界である。だからここに投資するのもわかる.ただこれもSF的世界になっているからわからなくなるのである。


2024年03月02日

歴史とは何かー聖書は神が人間にじかに関わった事実を記した ー記された人物も実在した


歴史とは何かー聖書は神が人間にじかに関わった事実を記した

ー記された人物も実在した

●地質時代から始まる歴史

歴史は何かというとき過去に何があったかを知ることである。だから地質学がありそれも時代によって地層が違っていたりなぜヒマラヤ山脈から貝の化石が発見されるとかそこに壮大な何億年何十億年の地質の変化の地球が形成されたドラマドラマがある。
つまり現在あるものは過去に遡らなければ今というのはわからないということである。地球自体が地形でも何億年とかなれば変化しているからである。さらに遡れば地球がどうしてできたのかは宇宙史にもなる。宇宙がどうして生まれたのか惑星がどうしてできたのかとなり壮大なものになる。

だから歴史というとき地質学がら始まっているのである。それでライン川がなぜできたのかというときアルプスが造山運動で押し上げられてできた。今度はドイツの陸地が分断されて地溝帯ができてそこにアルプスからの水が流れ込んでラインが生まれた。
そしてラインが境にしてヨーロッパは大陸は二つに分断されたとなる。ラテン系の民族は西側に住み東側はゲルマン人が住んだのである。だから歴史というとき地質学から始まらないとわからないのではある。

●聖書に記されたことは事実であり実在した人

ただ人間にしても歴史が始まったのは聖書に記されたものは歴史の始まりである。それはアダムから始まりそこから子孫が生まれてその家族の歴史を記したのは最初の歴史である。人間は誰しも親があって生まれてくるしその親にもまた親があってと連綿と続いてゆくのは人間だからである。動物には確かに親がいたとしてもその前の親とか先祖となると存在しない。動物はあくまでも種の保存は目的であり代々続く歴史というのは存在しないのである。

人間には歴史は存在する。聖書の前に歴史があったとしても神話伝説があったとしてもそれは歴史ではない。
聖書の特徴は何かというと事実だったということである。そもそもその事実を記したことが聖書なのである。なぜなら歴史というときそもそもはそれが事実なのかそんな人間が存在したのかそれすらわからなくなるからである。
だから聖書に出てくる人物は実在の人物でありそこに起きたことは事実である。それは神話とか小説とかとは違う。何か小説家ととかは確かに事実を元にしてもそれを脚色したりイメージしたものを勝手に作り出す。そこで事実でないことが事実のように見てしまうのである。

それで司馬遼太郎の問題は事実と想像したことが混同してわかりにくくなったことである。つまり小説は確かに事実をもとにしても作家によって脚色されたものであり本当のことはわからないのである。だから坂本竜馬にしてもいまだに何をしたのかもよくわかっていない。
なぜ暗殺されたのかもわからないのである。。するとさまざまにイメージして実際はなかったことも事実でないことも織り込む。
でもそれが事実であったようになったから問題だったのである。だから歴史を知るには何が事実であったのかまずそれを見るべきだとなる。そのそもそも歴史というとき勝手にイメージしたものをそれが事実だと思っているからである。

ところが聖書にしてもそれが架空のことに見る人もいる。モーゼが海を割ったのなどというのはありえないからそれは作り話だとされる。でも聖書というのはそこに起きたことを事実を伝えることを基本にしているのである。それが歴史の基本としてありその事実から過去を読み解くのである。

●歴史は架空のことではなく事実を記したもの

例えば地質学であり考古学でも何かものは発見されて具体的にあるものを調べてその当時の状態がどうであったか年代など作り地質学は発展したのである。それはものを中心にして現実にあるものはイメージしたものでもなく事実をそのまま記録したのである。
人間の場合は確かに何か物を残してその物から過去を見る。縄文時代だったら縄文土器を見て土偶などう見てその時代を見る。でも縄文時代にどういう人間が生きていたのかその名前すら残っていない。だから物を残しただけでわ調べただけでは人間の歴史があったとはならないのである。
つまり人間の歴史は親があり祖父母がありと連綿と続くものとして認識されることである。だから聖書になると必ずそこに生きていた現実の人間の名前が記されている。その名前に意味があって解き明かしているのである。その人たちは明らかに実在した人たちなのである。

だからアダムも存在したしアブラハムでも存在したのである。人間の最初はアダムであり人間の歴史というのはアダムから始まったのである。そのアダム実在した人間であり神話の人間とは違う。そして人間というのはそのアダムから始まったのでありそれがそれ以外の何か北京原人とかいろいろ言うけどもその人は人間ではなかった。猿人類とかであり人間にはなっていない。なぜアダムが食べてはならないという禁断の実を食べてエデンの園から追放されたのか?
それは善悪を知る者となり現在の人間になったからである。動物には善悪はない。例えば動物を他の動物を殺して食べるのもてもそれは生きるためでありでも悪もないのである。人間だけに善悪があるというのも人間の最大の特徴なのである。

また動物には歴史は無い。その親であれ祖父母であれそれは別にわからない。ただ一代限りであり種の保存があるだけなのである。つまりその種の特徴が遺伝されるだけである。ライオンはライオンとして遺伝されネズミはネズミとして遺伝されて続くだけである。そこに歴史は無いのである。
例えば植物にしても歴史はない。様々な無数の花はあるとしてそれも種の保存であり神のイディアがこの地上に具現化したものである。神の目的はそのイディアを示すことでありそこにも別に歴史はない。動物の種の保存と同じなのである。

●人間に起きた事実と実在した人間のヒストリーが歴史

歴史が事実を基にしているというとき日本の歴史でも皇国史観になっているがそれは天皇の歴史だったとなる。天皇家の歴史なのである。でも神武天皇とかは実在の人間ではない。神話化されたものであり神話と歴史は違っているのである。あくまでも事実を基にしたのが歴史なのである。実在の人物でないものは歴史にならないとなる。それでキリストにしてもそんな人はいなかったという人もいる。
でもそれは明らかに実在したことでありキリストが死んで蘇ったというのも500人くらいが現実に見たものであり事実である。。その他いろいろなことが起きたが奇跡も起きたがそれは事実であった。

なぜなら聖書というのは何かというと人間が神が人間に直接関わりそこに起きた奇跡でもそうでありそれを事実であったから記したことある。ただ想像して作ったものではないのである。だから事実というとき日本にある戸籍というのはそれは確かに事実を記したものなのである。それで死んだ私の母親の戸籍を辿っていったら二回も結婚していたのである。一人の人は知っていたが2回も結婚したことは聞いていなかったからである。でもそれは戸籍に記されていたから事実だったのである。だから親でも事実を伝えるわけではない、言いたくないことが必ずあるからである。

だから戸籍はその家族であれ事実であり実在したものであり歴史を知るにはその証拠ともなる。ただプライバシーがあり他人の戸籍を勝手に調べることはできない。でも歴史だと必ず事実でないことが事実のようにされることが普通である。そこで歴史が歪められててしまうのである。

とにかく歴史とは事実を基にしたものを知るべきなのだが想像したもの架空の話でも歴史となり混同されやすいのである。聖書の奇跡の話にしてもそんなことありえないとなり否定される。でも聖書は想像して作られたものではない。現実に起きたことであり現実に存在したことでありそのことしか記していない。人間どうして人間に神が直接関わったかも歴史である。そこに奇跡があっても事実なのである。

つまりそれは神というものは架空のものではなく人間が作ったものでもなく神自身が実在して人間に働きかけた歴史でありそれ記録されたのである。だからそんな奇跡がなかったとかいうことは現実にあったことを否定し神の存在を否定することにつながっているのである。そもそも聖書は神の実在を現実に神が現れたこと記したものでありそれを否定したら神は存在しないとなるからである。

ただ歴史といっても事実といっても無数の事実がありその歴史でも膨大なものになってしまう。ただ聖書の場合は人間にが生きた神が直接どうかかわったかを記したものでありそれはほかの歴史とは違っている。だから返って今になればそれは特殊なものだとなる。それぞれの家に歴史があり国も歴史があるがその歴史は膨大な事実の集積でありそこに神が関わったのなどは関係ないからである。だから今になると聖書の歴史というのは特殊なものに見えるのである。

●人間の歴史には終わりがある

ただ歴史というとき中国には歴史があり歴史を歴史を重んじる。青史に記されることが重要視されているからである。ところが不思議なのはインドには歴史がないのである。インドでは皇帝とかがいないからである。中国では代々の皇帝が記されている。日本でも天皇が存在して代々存在してそれが皇国史観となっているから日本には歴史があるとなる

歴史という時聖書は預言者が出てきて預言者の歴史であり未来を予言することがまだその特徴である。始まりがあり終わりがあるということも予言している。つまりこの世は終わりがありあるこの世は滅びるとしている。だからこの世は最後にハルマゲドンで滅びるとかとにかく終わりがあることは確かである。そしてそのこの世が終わった後に新しい天の国が神の力によって技によって作り出されるのである。

つまりこの世は終わりがあるということである。それはいつになるか分からないにしても確実に終わりが来る。そして人間の歴史は終わるのであるただそれで人間自体が終わるのではない。神の国で神の都で神に選ばれた者が永遠に生きるのである。それが神の約束であり契約でありそれは必ず守られるのである。だから聖書は約束の書であり神との契約の書でもある。それはあくまでも事実をもとにして神が現実に人間にかかわり人間に現れた記録だったからである。だから人間の歴史といってもそれも膨大なものでありそれも消えてしまうともなる。

中国何千年の歴史でもエジプトの歴史でも日本の歴史でもそれはいつかは終わりが来てその国自体も消失するということである。でもそれで人間が終わるわけではない。神の国で選ばれた人が永遠に生きるのである。
ただそうなると神の国では歴史は存在しなくなる。なぜなら歴史が家族の歴史だという時代々続くものでありそれがなくなれば歴史を消失してしまう。永遠に生きるとしたらそれは一代だけであり子孫というのもなくなるからである。つまりその時何らかで時間というのが消失するのかもしれない。人間はそこで老いることもないとしたらいつも若いとしたら時間を感じなくなるからである。

そして聖なるものとされた者のみが存在するともなる。その生命の書に記されていないものは皆消えてしまうともなる。歴史といってもそれは膨大なものでありそれを解き明かすことは不可能である。ただ聖書はそこに一貫したテーマがあり神が現実に人間にかかわり神の子でも現れることを予言していたしキリストは神の子として生まれてれることも予言されていたのである。

だから聖書は予言の書であり予言が確実に実現するということか聖書の特徴なのである。膨大な歴史があり事実がありそれがあったとしてもそこに一貫したテーマはないただ無数の事実は世界史にありそれをそれは何を意味しているのかもわからない。ただ人間の歴史を面白がって調べることもできる。それはただ人間の展覧会なのかともなる。聖書から見れば神から見れば罪の歴史でもあったとなる。
歴史がただ無数の事実の羅列だったら解き明かすことは不可能である。ただ聖書の場合は神が現実にいかに人間に関わったかということを記したのであり神の実在を示したのでありそれはほかの歴史書とは違っていたのである。


2024年03月01日

母親の戸籍をたどる(原発追加賠償から) 【前の夫の生まれは下谷区で台東区ーその歴史をたどる】


母親の戸籍をたどる(原発追加賠償から)

【前の夫の生まれは下谷区で台東区ーその歴史をたどる】

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東電の追加賠償金の書類を送るのにそのと戸籍が足りなかった。私の母親の前の夫の戸籍まで必要だったのである。それは郵送されないともらえない。ではその下谷区の戸籍が必要なのか?一度目の結婚が下谷区の人であり、それは上野がある浅草がある台東区だったのである。実際その夫が事故で死んだのは北区であった。そこには工場が多かったのかもしれない。それで工場で働いて事故で夫は死んだ。

ただなぜ私の母親がその人と結婚したのかよくわからない。上野と言えば東北人にとっては常磐線で東京に着く駅であり馴染みの場所でわであるある。だからその場所と関係して結婚したのかよくわからない。わかっていることは女中として働いていたのである。
そして二度目の夫と出会ったのが北区だった。その夫が働いていたのは北区である。ではなぜ下谷区の戸籍が必要なのか?それは台東区となり浅草が近い。そこは江戸時代から差別された部落の人が住んでいたとかあり明治になってから貧民窟であった。それから関東大震災がありかなりの被害があった。その近くに一葉記念館とかありその辺に長屋もあったとなる。
ただ一度目の結婚が北区ではなく下谷区であり二度目の結婚は北区になっている。とするとこれは何なのだろうか?
東京で二回結婚していたのかとなる。そのことは聞いていない。

そして昔の面影もなしというとき江戸時代にあったものが明治に変わってそうなりさらに大正になり関東大震災がありその昔の風景は喪失した。東京の街の変化もまた激しいものがあった。
私の母親は大正四年生まれであり関東大震災は1929年大正に起きた。原町市が実家であり十歳の時その関東大地震が起きた。それで私の母親はその揺れを経験しているのである。
その時前の夫の住んでいた下谷区今の台東区であるがそこの被害も大きかった。そこからそこに生まれ夫は北区に移り夫は工場で働いて事故で死んだとなる。
その時五歳の子供がいてその五歳が私の家の連れ子になった。その兄となった人も集団就職して40歳で交通事故で死んだのである。どうしてそうなったのか父親も事故で死にその子供をまた事故で死んだのである。

ともかく賠償金をもらうのに死んだ人は遺産相続となり面倒なのである。ただ戸籍からはこうしてその人の生いた地が判明する。それは江戸時代までも遡るのである。その戸籍を必要とするときその前の夫の戸籍が必要になったのである。それは郵送してもらわなければならない。だから何か面倒なのである。どうして郵送されるのかもわからない。南相馬市の区役所ではそれをしない。この戸籍は江戸時代まであるとしたらそこにその個人であれ家であれたどっていくとその先祖がわかる歴史のわかる。

それにしても前の夫が生まれた場所が貧民窟だったということは江戸時代は差別部落の人が住んでいて明治時代になってもそこは貧民の棲む貧民窟になっていたのである。夫が北区の工場に働いたということはそういう場所逃れて工場ができた結果そこで働くことができたということにもなる。何か一葉の小説にそうした貧民のことが小説にしたのはそういう場所だったからとなる。

下谷万年町は関東大震災で焼かれ、そこのバタヤ(屑拾)が大挙移住して、1960年当時の三河島丸六部落(荒川区)、本木のバタヤ部落(足立区)を形成したという。下谷万年町は戦災にもあい、芝新網とともに昔の面影はなくなっている
(秋山前掲書、p.103)。

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下谷区は多い
明治期初期の貧民分布

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私の母は東京で二回結婚していたのか?一回目は下谷区であり二回目は北区になる。戸籍ではそうなっている。このことは聞いていない。母の二回目の結婚相手から生まれたのが私の兄だっとなる。ただ下谷区の人は誰だったのか不明である。その人は北区の人であり同一人物ではない、その辺のことが聞いていないのでわからない。

1872年5月2日(明治5年3月25日)- 1896年(明治29年)
1886年〈明治19年〉2月20日 - 1912年(明治45年

2人とも樋口一葉は24歳で死ぬ石川啄木は27歳で死んだこの2人とも肺結核だったのである。また正岡子規上の2人に上野に住んで35歳で肺結核で死んだのである。そして私の母親の実家の墓には25歳で死んだ母の兄にあたる人のは埋まっている。この頃いかに結核で若くして死んだ人が多いかということである。結核は国民病とも言われ若い人が死ぬので悲惨だったのである。戦後でも肺結核になり半分肺を切除した人がいたから悲惨だった
母の実家にも肺結核になり25歳で死んだ人がいる。。
肺結核は伝染病だとわかり治療できるようになりワクチンもできたから死ぬことがなくなったのである。そこに医学の進歩があった。

とにかく私の母親がやせていたけど結核にもならず百歳まで生きたというのは不思議である。体力もないしひ弱な人人に見えたからである。何かなよなよした竹下夢二の絵に描かれた女性のように見える見えた。だからなぜ百歳まで生きたのか不思議である。ただ血管が丈夫でありそれが長生きした理由だと思う。血管が悪くなると脳卒中とかになるからである。何か百歳まで生きて老衰で苦しむこともなく死んだ。その人生もまた変遷したが苦しいものであったが自分自身でも楽に死にたいって常に言っていたがそのとうりになったのである。

いずれにしろ戸籍からは江戸時代までも遡れる。それは明らかに架空のものではないし現実の歴史になる。それで戸籍をたどっていくとそれがその人とか家の歴史を知ることになるのである。その人の一生の履歴が分かるのである。ただそれも原発事故の賠償金のために調べた結果そうなったのである。それで人が死ぬとその人のことについて家族でない限り不明になってゆく。

でも戸籍には確かにその履歴が出ていてその人の一生でもたどることはできるのである。ただその生まれた場所とか分かってもその人のことについて知ることはできない。前の夫については私は母親から聞いてないからである。だからその夫がどういう人であったか全然わからないのである。ただ人間死んで月日がたてば歴史化してゆく。それにしても母が死んでから8年過ぎたのも早いし東日本大震災原発事故からも12年すぎたのである。

戸籍からh意外なことがわかる

墓を見てもこうした履歴はわからない、名前しか記されていないからである。戸籍にはかなりそこからわかるものがある。そこに意外なことがわかる。私の母親が東京で二回も結婚していたのか?そのことは聞いていないからである。
posted by 天華 at 19:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降