真野の草原の歌は境界の歌
【蝦夷は狩猟民族で帰化人と伽耶族とかの混成された集団】
●安曇族が相馬地域に深くかかわった歴史
真野の草原の万葉集の歌を追求してきたが過去のホームページで書いたもの読みかえした。我ながら随分詳しく調べていたなと感心する。
ただそこからも探求研究し続けて来た。それで新たな発見ととしては相馬地域が安曇族の一団が入植した地域でありそれが意外と見逃されていた。そのことについて語る人もいなかったというのも不思議である。なぜならやたら特に南相馬市の原町区に綿津見神社が多いしそれと対になった山津見神社が多い。
高倉にも綿津見神社があり大原にも神社そのものはなくなっていたがかつてはりその記念として石碑がある。
この綿津見神社は松川浦にもあった。和田は綿津見なのである。それが地名化したのである。それと対になり山津見というのが地名化している。そして宇多川をさかのぼると山津見の社が隠されるように残っている。それは安曇族が開拓者として進出した経路なのである。
それは原町でも同じである。高倉に綿津見神社があり大原に綿津見神社があった。そして八木沢というのは安曇氏の後裔であり八木とはその姓だったのである。そして霊山を下ると犬飼【犬養】という地名がありこれは安曇族の同族であり後裔なのである。
飯館村の山津見神社は有名だが綿津見神社もあり対になってある。また佐須とあるときこれは焼畑をした所であり安曇族が焼畑をして定着したのである。
そしてなぜ安曇氏がここに入って来たかというとこの地域が気候的にも照葉樹林帯の南限の地であり住みやすい場所だったからである。稲作は遅れて取り入れたにしても焼畑は原始的農耕であり焼畑から農業がはじまったのである。ただその前に確かに縄文人は原住民として住んでいた。でも焼畑のことは知らないし農業も知らない、つまり狩猟採集はしていても農耕はしていなかったからである。
●蝦夷は弓にたけた狩猟民族
ともかく安曇族がこの地に深くかかわったことが忘れれていた。不思議なのはこれほど綿津見神社とか山津見神社があるのにその由来も語る人がいなかったのは不思議である。なぜなら神社の由来は相当に古いからである。そして原町のたか神社の隣に綿津見神社が社として一応ある。でもたか神社は立派なのである。
遠妻(とおづま)し高(たか)にありせば知らずとも手綱の浜の尋ね来(き)なまし
※「高」常陸国多珂郡。茨城県高萩市・北茨城市と日立市の大部分。
高とはここに由来している。高倉も同じである。高というときなになのか?タカ族というのが存在した。それは狩猟民族かもしれない。高とはたかるとなる。みんながたかって狩りをすることにもなる。
『日本書紀』斉明天皇5年(659年)には朝廷に従った蝦夷が遣唐使に同行し唐の高宗に紹介されている。ここで引用された『伊吉連博徳書』によると、熟蝦夷(にきえみし、にぎえみし。おとなしい蝦夷)が最も近く、麁蝦夷(あらえみし。荒々しい蝦夷)がそれより遠く、最遠方に都加留(つかる、つがる。津軽)がおり、連れてきたのは毎年入貢している熟蝦夷であること、蝦夷は肉食で五穀を食べず、家を建てずに樹の下に住んでいるなどを説明したところ、高宗は珍しく思ったと感想を述べたとしている
蝦夷とエミシと弓を使い動物を射て生業としていた。
陸奥(みちのく)の安達太良真弓(あだたらまゆみ)弦(つら)着(は)けて引かばか人の我(わ)を言(こと)なさむ
陸奥(むつ)の安達太良山産の
真弓に弦(つる)張り引くように
私があなたの気を引けば
人の噂になるかしら
この真弓という地名が新地にありこれもやはり狩猟を生業としていた人たちが蝦夷がエミシがいたのである。だから農業はしていないし稲作もしていない、でも焼畑はしていていたるところにその痕跡として焼畑の地名が残っているのである。
その焼畑を伝いたのは海人族の安曇族だったのである。
そのい証拠が南相馬市の寺内の古墳から発見された。8人くらいが船に乗っていた絵が発見されたからである。それは安曇族のものっだったともなる。
真野の草原の歌の背景にこの地域が自然的人為的境界になっていた。そのことを追求してきた。自然的境界というとき南相馬相馬市地域がちょうど照葉樹林帯の南限の地となっていて車輪梅(しゃりんばい)の南限の地として自生していたことである。
それが海老なのだがこの海老は当て字でありエヒでありこれは蝦夷がエミシが住んでいた地だとなる。
またたか神社の近くにスダシイ神社がありこのスダシイは南方系の木であり沖縄の山原(やんばる)いジャングルに自生している。
また縄文語のことが話題になったがその言語学でもここは言葉の面でも境界になっていたのである。
「北加伊道」案はアイヌが自らを「カイ」と呼んでいることから考案したと説明している。青森県の伝承を集めた中道等の『奥隅奇譚』では「蝦夷崎」のルビを「かいざき」としている。
「えび」の古い日本語「えみ」が「えみし」に通じるとして付けたとする説を唱えた
●アイヌ語と蝦夷の原住民(神石萱)
方言の境界
つまり真野の草原の歌はここが「自然的境界であり文化的境界としてあり大和王権が奈良の中央の人は認識した境界だったからこそ万葉集に歌われたのである。
ただもう一つ不明なのがアイヌ語がありそれとここが関係していたのかとなる。真野の草原というとき原町に萱浜がありこれはカイ浜と呼ぶからカヤ浜ではない、でもカイ⇒カヤとなり草原(かやはら)となったのか?カイについては山梨県に甲斐(かい)がありそれと関連づけた地名伝説がここに残っている。それも良く解せないのである。
youtubeで南方からアイヌ語は入って来たのでありやがて縄文語になり駆逐された。この見方は平泉より北にアイヌ語地名が多いのは北へ原日本人が縄文人が追いやられてそうなったとなる。
確かにそうなると元々はアイヌ語は縄文語でありそれが新しい新しい侵入者によって駆逐されたが平泉以北には依然としてアイヌ語を話す民族がいたからアイヌ語地名が多いとなる。アイヌは北方から来た民族ではない、ただ不思議なのはなぜ単数と複数形で動詞が変化することがアイヌ語にありまたhave動詞のようなものもある、それは印欧語の系統なのである。それも謎なのである。
そもそもアイヌ語地名が多いのはやはり岩手県までであり平泉がその境界となっている。だから平泉という地域がやはり境界としてあた。この平ーヒラとうのがアイヌ語のピラー崖からきているのかどうかわからない。高平という地名でもタカはたただ高いというのではなくタカ族が住んでいたとかヒラは開くでありタカ族が住んで開いた土地だともなる。ただここがアイヌ語由来としたとき萱浜(カイ浜)と一体化したアイヌ語地名だともなればアイヌが関係していたのかとなる。
ともかく原住民としてタカ族とかカイ族が存在したのかとなる。
なぜならヤマトタケルが戦った原住民に棚倉で残された伝説がある。
8人の土蜘蛛がいた。黒鷲、神衣媛、草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや)、狭礒名と具体的に述べている。ところが征伐に来た磐城の国造が敗れたので天皇は日本武尊を使わした。8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した。そこで彼は槻弓 槻矢で8本の矢を放ちたちどころに射殺した。そして土に刺さった其の矢はたちまちに芽吹いて槻木となった。そこでこの地を八槻の郷という
草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや)
ここに草野灰とか保々吉灰とか ありこれは焼畑と関係している。灰は焼畑で肥料になっていたからであるただ。神石萱(かみいしかや)とは何なのだろうとなる。カヤとあり伽耶の国と関係しているのかとなる。
●鹿屋郷(かや)と安曇郷があった
(出雲風土記、意宇郡)があり大隈国−蛤羅郡に阿多小崎君(古事記)がいて鹿屋郷がある。それがそのまま出雲−伯耆国(安曇郷 鹿屋郷)→国→因幡国に移動しているのだ。この伽耶に由来する地名は関東になると埼玉郡に草原郷があるだけで少ない
石渡先生は・・・『崇神王朝の時代の倭国は、筑紫・吉備・出雲・毛野などの日本列島各地の諸伽耶国系王国と朝鮮半島南部の伽耶諸国からなる、ゆるやかな政治的連合体でした』
伽耶国の影響は日本の建国時には大きかったのであるがその後その跡が化石のようになってしまった。草原(かやはら)という地名もその一つだったのである
出雲−伯耆国(安曇郷 鹿屋郷)安曇郷と鹿屋(かや)郷が並んであることに注目する
この相馬地域でも安曇と鹿屋(伽耶)があっても不思議ではないからである。それの裏づけとしてやたら綿津見神社と山津見神社が多いことなのである。これは全国的に波及したものであり安曇族が開拓者でありその南限の地が真野であり真野の草原だったのである。
地名で言うと愛知県刈谷(かり「や」)市とかどうでしょうね。台地の谷間地形なのでアイヌ語系「ヤ」であるように思えます。このあたりは稲作の東漸に抵抗した「中部の壁」のラインにもあたるので、縄文語系地名であってしてもおかしくない気がします。
これをカヤと読むときやはり伽耶と関係している。日本には当て字が多いから漢字から判断するから地名では誤解しているのである。
確かなことは南方系が日本列島を北に向かい定着した。そこに蝦夷がうたのだがその先住民が実は帰化人もいて伽耶出身者もいて蝦夷と一体化したのである。そもそも蝦夷とは大和王権に逆らう者の総称であり特定の部族とか集団をさしていないからである。
いずれにしろ歴史を知る時境界を知ることが大事なのである。
それは地形とか山であれ川であれどうしても技術が発達しないと生涯になり交流ができなkなる。そもそもそうでなくても歩いて生活すると5,6キロ離れていても村人は交わらない生活をしていたからである。
真野の草原も境界であり平泉も明らかにアイヌ語圏との境界だったのである。
陸奥の真野の草原の歌の謎が解けた!