自動化したスーパーのレジの問題ーIT化AI化ロボット化の問題
【故意の犯罪と無意識の犯罪−宗教と法律の問題】
●故意と故意でない犯罪の区別
菊池スーパーの自動化したことでそこで支払いをした2回も金を支払わずに出てしまった。自分ではその意識はなかった。だから一回目は咎められたし2回目はただそれを指摘されて払っただけである。それは最初からミスとして店の人は見ていた。でも最初は故意に盗んだともみられた。ただただその後は同じ私と同じような間違いをしていることがあり注意の貼り紙も出た。
ここで問題になったのは犯罪とは何なのか?
例えば,猟師が猟をしているときに,動物が動いたと思って発砲したら人間であったという場合,人を殺すという故意があり,殺人罪に問う事はできません。
故意がないというと,犯罪に当たる事は認識していたのに許されると思ったというようにイメージされるかもしれませんが,それは故意があるとされます。
故意がないとは,犯罪に当たる事実を認識していない状態なのです。
東京デフェンダー事務所
「故意」とは、結果が発生することを認識していながら、あえてその行為をすることをいいます。
「過失」とは、結果の発生を予見し、かつその発生を防止する注意義務を負っていたにもかかわらず、注意義務を怠って結果を発生させてしまうことをいいます。
故意は意図的・意識的であるのに対して、過失は不注意によるものである点が異なります
法律ではこのことは故意でないかが問題になる。故意とはその人が悪いと認識して行うことである。何か盗むにしてもそれは悪いと認識されるでもあえて盗むことになる。それは故意だとなる。ただその見分け方が難しい。
それで私は自動化したレジで2回も金を払わずにスーパーを出てしまったのである。それで品物を支払った領収書の代わりにもなるレシートを自動化したレジから出てくるのだがそれを見守っている店員がいる。それでミスするのでその定員が立っているゴミ箱にそのレシートを入れていたのである
今回は定員が立っている人に直接そのレシートを渡した。そうすれば間違いはないのである。つまりそこにどうしても機械だけではない人間も必要だったのである。機械だけだとごまかされてしまう。だから人間社会というのはあらゆるものを機械化はコンピューターかでもできないのである。
●犯罪とは罪とは何なのか?
そもそも犯罪とは何なのか?
故意ではなく自ら意志をもってするのではなく無意識的に犯罪を犯すことがある。それを自分も経験している。コンビニでパンを二つを金も払わずに無意識的にポケットに入れていたのである
それを見ていた人がいてあなたは盗んだとひどく責められたのである。なぜそうなったかといえばその時私は様々なことで介護であれ自分の病気であれ苦しんでいて盗む意志も何もなくもう無意識的にポケットに入れていたのである。
でもそれも外から見れば確かに盗んだことなのである。でも故意ではなかった。だからそれは犯罪にはならないとなってしまう。
だから故意と犯罪と無意識的な犯罪があるそれ故意でないものは犯罪でないとしているのである。ただ結果から見ればその人が盗んだと明確に分かるのだからどうしても犯罪者と見られるのである。
また過失というのもありそれもまた犯罪ともならない。ただ不注意であるからそれなりの責任は問われる。でも不思議なのは故意の犯罪というのは普通にあるのではないか。例えば今銀行が株であれ投資信託であれそれは必ずしも顧客にとって儲かるものでもない銀行員はノルマを果たすべく故意に売り付ける。手数料を得るためにそうしている。それは実は分かっていて故意に売りつけるという面がある。
でもその罪はとわれないし犯罪とも見られないのである。だから犯罪とはなになのかとなってしまう。そうしたことは別に会社ぐるみでも行われているし利益を上げるために行われている。だがその会社を罰するということはできない。それを取り縛ることは簡単にできないのである
ただ政府が罰則を与えることはある。でもゆうちょ銀行でも普通の銀行でもそうした詐欺的な金融商品を売っても罰せられることはない。個人の小さな犯罪は盗むとかは100円を盗んでも厳しく罰せられるのである。おそらくわかりやすいから罰しやすいいからである。そこに常に社会の大きな問題があり社会自体が罰せられるべきともなってしまう。政府自体が犯罪を犯してもそれはあまりにも大きなものであり何が犯罪なのかわかりにくくなるからである。
だから犯罪というのは大きな犯罪は目に見えなくなり罰せられることもなくな特にグローバル化した経済では実際はそこで不正が行われていても極めて少数の人が暴利を貪っていてもそれは犯罪になることはない。だから大盗は見逃され小悪党は常に厳しく罰せられているのはこの世の中である。だから大悪人でも大善人にもされているのがこの世である。
どうしても権力者になればその権力によって悪を隠すことも出来るからである。だからこそ権力を持つということは一面怖いことにもなる。それでダビデは一人の女性に部下の妻にみとれてその部下を一番厳しい戦いの場に送って殺させてしまったともなる。それができたのは王となって権力を持ったからである。そうなればやりたい放題にもなるから権力を持つということは怖いことなのである。でも人々は権力を持ちたいとなっている。そうなれば自分の欲望なんでも叶えられてもしまうと思うからである。だから大きな犯罪でも王の権力が絶大であれば誰も止めることはできなくなるのである
●宗教から法律が生まれた―罪の問題
ともかく犯罪とか罪とは何なのかということである。宗教ではこのことを一番問題にする。法律はもととも関係していたのであるもともと法律が起きたのはモーゼの十戒とか宗教から起きたものだからである。だから宗教と法律は深い関係にある。それで最初の大学は神学部と法学部と医学部だったのである。ほかの学部はなかったのである。
そして神学部と法学部は通じるものがある。なぜなら宗教から法律でも生まれているからである。ただ宗教だと実際に司法によって警察によって犯罪者を捕まえるという拘束力はない。ただ内部から良心とかで規制するものなのである。
だから故意なのか故意でないのかというのも実は法律的問題でもあるが宗教的問題でもある。
『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。
つまり心の中でそう思っただけで罪を犯していると指摘したのであるキリストは指摘したのである。そうしたらこの世で罪を犯さない人は一人もいないとなるのである。人間はすべて罪人だとなってしまう。そして人間というのは別にそんなこと思っても罪だとか悪いことだと微塵も思わないのである。だから人間というのは何を思っても別に構わじゃないかまわないとなる。でも宗教的には心を重んじる時それは罪になってしまうのである
あいつが憎いから殺したいとか心で思っただけで故意になりそれは宗教的に犯罪になってしまう。でもただ思ったからそれで害になるのかと普通は思う。でもインドの思想家が誰かが殺したいと思ったときその思いが他者に伝わり結果的にその他者が殺人に至るということも言っている。
つまり思うということそれは人間の特徴でありそこからすでに犯罪という行為に通じる。それで思想を重んじるべきだと哲学で宗教でも哲学でも重視したのである。
とにかく法律の中に故意なのか故意でないのかそれが重要なテーマとしてある。それは宗教的に見ればまた哲学的に見ても人間の思想としての問題がある。常に人間のなかには思いがありそれが結果的に行動となり人間は人間社会は常に争いであり殺し合いの社会となっている。だからそもそもなぜ禅宗では座禅などして修行しているのだろうか?それは人間の思い想念を清めるために沈黙行しているともある。
つまり人間の心が一番大事なものとして見てその心を清めるために修行の為に坐禅するようになったのである。なぜならどうしても社会生活していると銀行という堅い職業でも何か嘘つきただ利益を追求するようになるからである
今のカルト宗教などもただひたすら御利益を求めるだけでありもともとあった心を清めると言うなどは全く無いのである。
むしろ俗的社会より俗的なのがカルト集団なのであり御利益のために異常なほどに熱狂的になりだからこそあれだけの人が集まったのである
●IT社会で問題なのは安全性をどうして確保するかである
いずれにしろコンピューターであれ機械の自動化であれでもそこに問題が起きてくる。現実にスーパー菊池のカードをなくしたが1万ほど損してしまった。その一万は返ってこないのである。そうしたらいくらこまめに毎日カードでポイントを稼いで金を貰うにしてもその1万を補うほどにはならない簡単にならない。
つまり安全性というのはそこでいかに大事なものかということがわかる。現実にカードで何百臆円なのか犯罪があり私自身もその犯罪に遭っているしそうしているのである。だからIT社会になっても一番の問題はこの安全性をいかに確保するかなのであるまずインターネットの中の犯罪というのはしている人もそれほど犯罪の意識もないかもしれない。ちょっとコンピューターを操作しているだけだという感覚にもなる。だから盗むとか何か犯罪の意識も希薄になっているのである。だから確かにインターネットは便利で安全性のに関しては大きな問題がある。
たとえばIT社会になってもコンピューターにAIでもモラルの意識善悪の意識とか良心とかは持たせられないのである。だからすべてAIの言うままに人間がなったら恐ろしいとなる。またロボットでも簡単に別に良心の呵責も感じなく人でも殺せる
もし戦国時代のように現実の生身の人間の血を出して苦しんで死ぬのを見たときやはり人間は良心の呵責を感じでもロボットには感じないのだから平気でいくらでも殺せるとなってしまうのである。そこに歯止めがなくなってくるのである。
つまりすべて機械化したりコンピューター化したりIT化したりAI化したりはできないということである。そこに感情的なものとか良心的なものとかは作れないからである。そこにこそまさに神の領域があるとなる。だからAIとかはでも万能になることはありえないのである