2024年07月31日

海に向かって咲く鬼百合【熱帯化する日本】


海に向かって咲く鬼百合【熱帯化する日本】

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海に向き鬼百合咲きて今日も暮る
鬼百合や畑に働く人のあり
朝涼し海に向かいて走るかな
夏の海燕あまたの飛びて来る
釣り上げぬ魚大きく夏の川

今日も暑い、朝から30度ある。でも35度にはならないが蒸し暑い。福島県でも浜通リは海があるから涼しとなるがそれでも暑い。だから鬼百合がふさわしいとなる。
広大な海があり鬼百合が咲く、ただそこは津波で消失した村の跡なのである。
ともかく今自転車で海の方に走って来た。でも家に来たらすでにまた蒸し暑いのである。ただ昨日のように35度にはならないからいい、今年の夏は相当にばてる。今まで7キロやせたことないからである。一日一食くしか食べない、だから体力も落ちたのである。

こんな時外で働くと熱中症になる。またクーラーに一日していると体に悪い、やはり汗を出すことが体温調節にいいのである。
ただ天気予報では12時頃弱い雨とあり涼しくなるかもしれない
でもこの辺では雨が小雨であり連続して強く降らないのである。
降ったとしてもすぐや雨なのである、何かシンガポールの向かいのジョホールバルで従軍看護婦だった姉はしきりにスコールのことを言っていた、必ず一日一回雨が降る。それが涼しとなる
だから日本は熱帯化していおるとなる




2024年07月30日

危険な仕事で高齢者が事故で死ぬ―登山でも死ぬ 【高齢者の事故が増えているー危険があっても無理している?】


危険な仕事で高齢者が事故で死ぬ―登山でも死ぬ

【高齢者の事故が増えているー危険があっても無理している?】

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労災の分類には、高い場所からの「墜落・転落」というものがあるのですが、これも高齢になるほど増えていきます。加齢によりバランス感覚が衰えることや、紹介した例では電気を取り替え作業中ということで、視力の衰えにより足元がよく見えず無理な姿勢をとろうとしてしまったことも考えられます。

他にも持病による影響も無視できません。特に男性で中年期以降に増えてくる「睡眠時無呼吸症候群」は日中の集中力の低下や、眠気につながります。すると機械などへの「はさまれ・まきこまれ」事故や交通事故のリスクとなります。


30日午前10時ごろ、東京都千代田区麹町5丁目にある建物の解体工事現場で、約2トンの鉄筋が落下し20代の男性作業員に直撃した。東京消防庁によると、男性は意識不明の状態で病院に搬送された。

滋賀県野洲市の廃棄物収集会社で26日にプレス機に挟まれて死亡した女性は、滋賀県警守山署の調べで29日、同社アルバイトの女性(84)=同市=と分かった。同署によると、死因は首を挟まれたことによる上位頸髄(けいずい)損傷だったという。

同僚とヒノキを伐採していたら、倒木の下敷きに…69歳の会社員男性が病院に搬送されたが死亡
 29日午後2時頃、宮崎県小林市須木鳥田町の山林で、伐採作業中だった会社員男性(69)(宮崎県西都市)が倒木の下敷きとなった。男性は搬送先の病院で死亡が確認された。

富士山の8合目で75歳男性が死亡しました。7月の山開き以降、富士山で死亡した登山者としては6人目です。

長野県警は30日、八ケ岳連峰北横岳(2480メートル)の2300メートル付近で、埼玉県川口市本町1丁目の会社員釼持明さん(75)が死亡したと発表した。下山中に転倒し、岩場に頭部を強打したとみられる

工事現場は事故になる確率が高い、まずビルなど建てるとき高いからその高いことで危険になってくる。つまり事故になる確率が高くなる。まら工事現場では上から物が落ちてきやすいのである。
鳶職の人は慣れているのと私は高い所でも怖くないという人もいるから驚く、高いこと自体恐怖を覚えるからである。

滋賀県野洲市の廃棄物収集会社で26日にプレス機に挟まれて死亡した女性は、滋賀県警守山署の調べで29日、同社アルバイトの女性(84)=同市=と分かった。

なぜ84才で働いていたのだろうか?何か働かざるをえない事情があったのか?84才で草むしりに来た人がいた。そもそもそんな歳では働かないだろう。ただ高齢者がまともに年金がもらえない事情がある。だからこんな歳まで働いていたとなるのか。
とにかくどんな仕事でも簡単なようでも危険がある。だからアルバイトとして気軽に雇われるのが問題なのである。労災も出ないからである。ただ今人手不足だから雇う方も安全を図るよりも働かせるとなるからアルバイトは気軽にやるのも問題だがやらざるを得ない事情もある。

長野県警は30日、八ケ岳連峰北横岳(2480メートル)の2300メートル付近で、埼玉県川口市本町1丁目の会社員釼持明さん(75)が死亡したと発表した

75才で登山していたのか、でも実際山小屋には70歳以上とか年配の人が多いのである。退職して暇な人が登山しているのである。
でも登山は体力を消耗するから危険である。だから登山で死ぬ人は結構多いと見た。75才で登山となれば相当にきつい危険になる

何か高齢化社会の問題がこういうところにも起きてくる。 75歳でも登山をするという時元気な人は元気だからである。また登山には魅力があるからいくらそのそんな歳になっても山に登りたいという人はいるからである

いずれにしろ結構事故で死ぬ人は多い特に高齢者の事故が増えているというとき年金だけでは暮らすことができないから働かざるを得なくなって危険な場所でも働いているからそうなっている
やはり60、70以上になると体力とかも落ちてくるし機敏性にも欠けてくる。運動神経も鈍ってくる。ただこれは個人差がある。全部そうでないし体力でも機敏性でも衰えない人いる。
統計的一般論になるとどうしても70才以上とか84才でも働くのは酷だとなる。ただアルバイトでも補助的仕事ならいいのだが
危険な仕事をさせられることが問題なのである。

草むしりとか畑仕事をして60、70以上とか老人が熱中症で死んでいる。90才とかで家の中でも死んでいる。老人はこの暑さで熱中症になりやすいのである。
クーラーでも私が不調になったの狭い部屋で換気もせず密閉して乾燥した結果喉と鼻とかが不調になった。これが広い部屋とか他でも大きな建物だとそんなに乾燥しないかもしれない、時々換気しないと密閉した部屋では良くなかったのである。

この暑さは災害級だというとき何らか対策が必要になる。ただなんとかまんして暑さを過ぎるのを待つというのが一般的である
でも外で仕事することは危険になる。近くで用水路の仕事していた人は67才だけど熱中症で死んだというときそれだけこの暑さでは命の危険になる。

東北は西より温度が低いので助かっているが今日は外が35度とか外に出ると危険になる。買い物は自転車でもすぐ近くだから助かっている。意外と毎日買い物がありこれが一仕事なのである




posted by 天華 at 15:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2024年07月29日

真夏の田舎の風景−白鷺の詩【芙蓉、ひまわり、月見草、、、空家化した知人の庭】


真夏の田舎の風景−白鷺の詩【芙蓉、ひまわり、月見草、、、空家化した知人の庭】

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最近死んだ知人の家である、大きな岩が玄関にあるがその奥の庭にはまるで城の石垣を組んだような庭がある
空家となったが親戚に譲る約束がある、でもその人は福島市に住んでいる
だからこの家に住むのかどうかはわからない、とにかく残したのは岩の立派な庭となるかもしれない
それは一代で20代で作ったのだからそのころ高度成長真っ盛りでありトラックで二倍の荷物を運んで稼いだという
そいう時代があったのである。



雨しとと岸辺に白鷺月見草
空家の庭芙蓉の咲きて岩一つ
岩残し主の死ぬや芙蓉かな
向日葵と芙蓉や広き農家の庭
農作業畑に人や芙蓉かな
白と赤芙蓉の映えて夕陽かな


真夏の白鷺

涼やかに流れのひびき
岸辺に白鷺の静かにいる
ただ一心に餌を狙っている
雨しとと草叢の月見草が映え
次の日も白鷺は餌を狙い川にいる
その純白の白さは映える
何かそこには一点の汚点無き如く
そは軽やかに飛び軽やかに飛び去る
そしてまたいつも川にいる
その細い足を流れる水に浸して
跳ねる鮎を素早く捕らえる嘴
そは決して田園を汚すことはない
静々と音もなく細い足で優雅に歩み
また空高く飛翔して飛び移る


今日も異常に暑い、夜まで暑い。体の調子をクーラーで悪くしたので使わない。でもクーラーを使うほかない句点締め切った部屋ではなく戸を開けて広くして使えば乾燥しないからいいかもしれない、こう暑いとクーラーなしではいられない。
夜まで暑いからである。
でもこれだけ暑いということは夏を一段と感じるとはなる、ゴッホの絵のように燃え上がる夏である。ただ自転車で外に出ると紫外線が危険であり汗びっしょりになる。

自転車で遠くに行けないのが不便である。この辺は海の方にも行けるし山の方に行けるが暑くて山の方には行けない。山だと涼しながれがあり気持ちいいからである。車だと行けるがないから行けないのである。
芙蓉は秋の季語だけど夏に咲く、これは大きな花だから目立つ
丁度ひまわりとと一緒に農家の庭に咲いていた



文明と文化の相違 【現代文明は精神なき文明で世界共通―現代文明こそ奇怪なもの】


文明と文化の相違

【現代文明は精神なき文明で世界共通―現代文明こそ奇怪なもの】

19世紀ドイツの思想家は文明と文化をはっきりと区別して、文明は機械、技術、物質的要素にかかわるものであり、文化は価値観や理想、高度に知的・芸術的・道徳的な社会の質にかかわるものだとした。この区別のしかたは、ドイツ思想界には根付いたが、それ以外の場所では受け入れられなかった。…… 

ハンチントンの「文明の衝突」における「文明」中心の見方とトインビー史観

●文明の前に各地に風土に根ざした文化があった

文明とは広範囲な総合体として形成されたものである。でも文化となればそうして広範囲なものでなくても部族のような単位でアフリカを見ればそれなりの文化は必ずある。文化は風土が違いば違った文化になるのである。その土地から取れるものも違ったものになる。だからculture はculutivate【耕す】からきている。
その土地を耕して産物を得る、その土地は風土の影響を必ず受ける、だからワインでも同じものではない、その土地の影響を受けて違ったものに成りその土地の名がつけれたりする
その土地と切り離されずあるのが農業だからである。その風土と土地に見合ったものとして特産物ができるからである。
つまり人間が存在してから文化はあった。狩猟でも狩猟採集文化があり縄文土器があり縄文文化があった。でも文明となるとそれはまた別なものである

だから最初に文化があって文明へと発展した。文化と風土は切り離せず一体のものとしてある。エジプト文明が謎であるが人間が動物を神とすることは部族の先祖を神とすることはどこの国でも最初にあり共通しているから異様なものでもあない。
トーテム信仰はどこにでもある。熊族とか犬族とかあ鷲族とかあったからそれは人類の歴史として共通しているのである。
外国の文化でも文明でもそれを特殊なものとしてではなく人間にとって共通なもの普遍的な物として見るとわかりやすい
エジプト文明も最初にトーテム信仰がありただそれから高度なピラミッドが作られた。トーテム信仰とピラミッドのような高度な技術があり政治的には神権政治になった。
それが合体しているかエジプト文明は理解しにくいのである。

ピラミッドが現代の建造物と違っているのは宗教的建造物でありそれはキリスト教の大聖堂とも似ている。そこには深い精神性があり宗教的建造物なのである。それな仏教の大仏とか精神性がありその象徴として造られた、単なる王の墓とは違うのである。
中国の始皇帝の墓は山のように巨大なものとなり地下にまで宮殿を作った。それは巨大な権力を誇示するものであり精神性がないのである。

●精神性無き現代文明

それを言うとき現代の建築物にも精神性はない。ニューヨークの摩天楼を見上げて何か精神性を感じるだろうか?
ただ高い巨大だと言うだけではないか、また効率的で合理的でありそれはビジネス社会、経済だけを追求して作られたものであり精神性はないのである。

文明は機械、技術、物質的要素にかかわるものであり、

それが文明となるがでもエジプト文明でもその基礎に文化ありその上の高度な総合体として文明が築かれた。そこには物量だけではない精神性があった。それは文明というとき仏教文明がありイスラム文明がありキリスト教文明がある。それは精神性がありその精神から作られたものなのである。現代の文明の建造物にはそうした精神性が感じられないのである。何かそれは世界的に共通している。大都市になるとビルが立ち並び同じ景観となっているからである。だから精神性欠如の文明となり共通している

mission and meaningがない現代を書いたがそれは今やどこの国にもないのである。マテアリズムになり精神性なき荒野と化している。宗教でもカルト化して現代の経済第一主義でありむしろ強烈なマテアリズム拝金主義と化している団体である。精神性は全くないのである。ただ頭数を集め大衆化してナチス化する
ナチスがなぜ生まれたのか、その原因は現代文明にあったとなるかる宗教もまたその文明を温床として生まれた病理的現象である。文明は今やその根になるルーツの文化がない、確かに科学文明になるがそこに精神なき物質文明である。

だからエジプト文明が異様でも奇怪でもなく現代文明こそ奇怪なもなのである。だから当然カルト宗教から奇怪な怪物が生まれる。その教祖こそトーテム信仰より奇怪だともなるのである。
文化は風土に根ざすから多様である。その文化を基にした文明も多様であった。でも現代文明は一様化して精神なきものとなったのである。だから精神を回復するには風土に根ざした文化を再び発見することでありそれがルネサンスになる。
それで天才が大都会から生まれず小都市国家で生まれた。それは風土と結びつき連関する共同体があって基盤があって生まれたとなる。

国家にmissin and meaaning が必要? 
【人生でも最後に問われるものもmissin and meaaning 】




2024年07月28日

国家にmissin and meaaning が必要? 【人生でも最後に問われるものもmissin and meaaning 】


国家にmissin and meaaning が必要?

【人生でも最後に問われるものもmissin and meaaning 】

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伊藤貫×ジェイソン・モーガン
「何故、アメリカ文明からアングロサクソンとキリスト教的な価値観が消えたのか?

●利益優先になるのが現実社会

伊藤貫氏がしきりに国家にmissin and meaaning が必要だという、それがアメリカにない、マテリアリズム、物質主義であり刹那主義であり拝金主義しかないと批判する。プラグマテズムもそうである。実利主義である。
それは中国であれ日本であれ同じである。中国だと儒教を学ぶ人がいない、そのために外国で学んだという人がいる。そもそも中国では儒教を教える人もいない、中国はもともと実利主義であり拝金主義でありアメリカと似ているのである。

今どこでも国家がmissin and meaaning を追求するだろうか?
個々人ではまだ追求するが国家で追求するだろうか?
プラトンが哲人政治を理想だとするがそれは実現不可能な理想論である。むしろ民主主義になると大衆が力を持つ、数が力となるからである。そして大衆理解するには実利主義えありプラグマテズムだとなる。それは誰でも理解するからである。
発達障害の人でも利にさといのである。それは理屈など関係なく
本能的に理解する。だから大衆民主主義は全体主義になりファシズムになりやすい。ヒットラーは選挙で合法的に生まれたからである。

●政治もカルト宗教も実利主義

要するに人間は実利主義になるのが普通である。日々の生活でも常に金の計算をしているからである。ただ人間の矛盾は実利主義と意味とか使命とか求めること相反することで悩むとなる
たとえばカルト教団は宗教だったらmissin and meaaning を求めるのが基本にある。でも大衆宗教に成れば実利主義になる。創価などは異常なほど実利主義であり権力志向である。御利益を求めて狂気のように題目をあげて集団で祈る。カルト教団は実利主義であり同じ傾向がある。これが矛盾になるのだけでを大衆にmissin and meaaning を説いても通じないだろう、ただ御利益を説けばすぐに理解して通じるのである。

でも宗教となればmissin and meaaning を追求している、でも大衆ではそいうものは必要ないのである
国家にしても大衆国家になれば実利主義でありそんなもの邪魔なだけになる。そこに矛盾を感じないのは大衆は考えないからである
金になる儲かるとか説けば人が集まるからである。
だからなぜ宗教を看板にしているのわからないとなる。
一番必要としないものは実はその毎日拝んでいる宗教なのである。

●利益を上げることがまず求めらる現実社会

でもこの矛盾はあらゆるところにあり個々人でもある。。何か会社に勤めても絶えず利益を上げることを要求される。それは客にとって良いものでないにしろ必ずまずは利益を上げることが優先される。そもそも会社自体が実利主義であり利益を上げることが会社の目的だからだ。

だからこの問題は人間の普遍的な問題である人間はそもそもみんな実利主義であり利益を求めて活動しているからである。ただその実利主義だからとしてそれがすべては悪いものとはならない。ただ必ず実利主義を求めて行くと矛盾してくるものが人間である。それは例えば医者で本当はこの人に薬はいらないのだが金を得るためにはあえていらない薬でも患者に出す。別にそういうことはあらゆる人に起こるである。どうしても利益優先になるのは現実社会では否定できないからである

ただ大衆はそうだとしてもやはり一部の人はmission and meaningを求めているのである。人間だけはmission and meaningを求める動物だったら毎日腹を満たせばいいというだけだからである。でも現実は人間でも大勢は対して動物と変わりないのである。
mission and meaningを求めるのは一部の人であり大多数は実利主義であり日々の暮らしで精一杯なのである。だからギリシャの哲学者でもそれは貴族であり奴隷はただ毎日貴族に使われているだけだった。そこで高等なミッションとかミーニングとかそういうものは関係なかったのである。つまりギリシャでもそういうことを考えたのは暇がスコーレがありそのために日々の労働に使われることなく考えることが出来たのである

●老人になると問われる人生の意味

ただ不思議なのはかならず実は老人になるとその人の成果が問われるこの人は何のために生きてきたのか何のために働いてきたのか問われその人は自分が働いてきたことしたことについて語らない。ということは何かやましいことをしていたのでありそれで語らないのである

なぜなら普通の人でも大工さんなどはその人はほかの人と違って庭師でも壁塗りでもできるから私はこれこれこういうことができるとして異常なほど私にその価値を認めた認めてもらいたくてか主張する。大概はどんな人でも老人になると自分のしてきたことを語りそれで自分というものを認めてもらいたい承認欲求は必ずある
では人生の成果として金ですべてを測られるのだろうか

10億円の金を稼いだ人は10億円の価値がある1億円稼いだ人は1億円の価値であり5000万稼いだ人は5000万の価値であり・・・100万円しか稼げない稼げず残さなかったそれだけの価値しかないとかされるだろうか。もちろん金があったほうがいいなければいいと言っているのではない
でも人生の最後にその人の価値が何だったのだろうかと見るとき何になるのかということである
それが mission and meaningになるのである

●あとからmission and meaningを問うことの問題

例えば国家にして太平洋戦争で日本は300万人も死んだというときそれは一体何のためだったのだろうかとなる。それは今でも明確には分からないのである。。そこで問われているのはやはりmission and meaningなのである。だから欧米からの植民地解放のための戦いだということでそのmission and meaningを与えているのである
でもそれだけなのかそれは後付けでそうそう言っているのかもしれない。なぜなら300万人も死んだというときもはや死者は何も語らないしでもその市が国家にとって個々人にとっても無駄死にだったとは言えないからである。
だからなんらかの価値あるものとして意義づけをしなければならないからである。でもその人たちが果たして自分のmission and meaningを理解して地獄の戦場で戦い死んでいったかどうかは疑問であるなぜならナチスのようなものもあってそれはファシズムでありそこに何かしらmission and meaningあっあったとは思えないからである。

ともかく人間で確かにmission and meaningを自覚して働いている人がいるのすべてはただ目の前の利益を求めて日々生活しているのが普通である。だから国家がそれをもてといってもその国民が果たして理解するのかとなる
ただ国家には強制する力があるからそこにmission and meaningないとしても戦場へ送ることができた。私の家族の一人は現実に突然に赤紙一枚が来て従軍看護婦として地獄の戦場に送られたのであるそこで何かmission and meaningを自覚するも何もそんな時間もなく教えられることもなく四年間もそこで地獄の中で過ごす他なかったのである。
だから国家はmission and meaningを自覚させて納得させれば別だがただ強制されて何のために戦い死んだのも分からない
死んだ後にその人たちはなんのために死ななければならなかったと今になってmission and meaningが深刻にに問われるようになったのである。

これは必ず歴史で後で振り返るときmission and meaningは深刻に問われるのである。それは老人になった時あなたは何のために生きてきたのかmission and meaning必ずと問われるのと似ているのである。でもそもそも普通の戦争でなくても普通の平和な時代でもいったいmission and meaningを追求して生きて来たい人はどれだけいるのかとなる。
ただ目の前の利益を求めて生きてきたのは普通普通の人ではないか。それでもその最後に問われるのはmission and meaningなのである

●最初からmission and meaningを求め生きる

だから最初に神の国を求めなさいというとき利益ではなく利益を度外視してまずは神の国を求めなさいということでありそれに付随してパンは与えられるとしている。
でも普通の人達はほとんどまずは利益を上げなければ生きても生きてゆくことはできない。パンを与えパンを得なければ生きていけないから利益優先になるのでただそれでも人生の最後に問われるのはmission and meaningなるのである

だから最初から本当は神の国を問われるのは求めなさいというときそれが老人になり死んでもそれは継続して神の国に入るということになる
でもそうして生きる人はほとんど居ない
それだけまずは利益だとなり実利主義になるのである。それは国家でも同じである何か高邁な理想のために戦争したとしたとかあるのかとなる。ほとんどないかもしれない。それだけ人間は本末転倒になっているのである。ただそうは言っても必ず最後に死んだ後にしろ歴史でも問われるのはmission and meaningなのである。

2024年07月27日

エジプト文明は接続可能社会(SDGs)の見本−エジプト文明の詩 【文明は進歩したのではなく変化しただけ】


エジプト文明は接続可能社会(SDGs)の見本−エジプト文明の詩

【文明は進歩したのではなく変化しただけ】

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エジプト文明3000年

その国土を貫く悠久の長大な大河ナイル
滔々と流れて上王国下王国と結ぶ
ナイルの賜物として育まれし国
その岸辺の広大な肥沃な土地の麦畑
営々と繰り返される暮らしは
黄泉の国まで変わらず続くものとなる
その平和の日は長く培われしもの
ピラミッドは不朽の如く不動
その明確な輪郭は砂漠に映える
ヒエログリフに記されし歴代の王
ナイル川の岸辺の神殿の廃墟
月光に照らされて石に刻まるヒエログリフ
そは何を語るや船はしばしより過ぎる
エジプト文明の成果の古代神殿
その石の太ぶとし丸みを帯びた柱
千歳の木のごとく年輪を刻む
昔森ありてその木をイメージする
悠久にして平和の日は長しも
営々として続く平和の営み
それは黄泉の国まで継続される
王女の如くナイルの岸辺紫の蓮の花が咲き
その岸辺に赤々と太陽は沈む
ラーの神を信仰せしその民の営み
王の神像は頑なに口を閉ざして黙しぬ
その口は開かぬ如く黙し見つめる
平穏なる沈黙の日々の継続
かしこはるか来たりぬ外国人の旅人
一つの彫像と化して列せられ帰れず
ミイラと化してピラミッドに閉ざされぬ
赤々とナイルの西の岸辺に夕日は映えて沈む
悠久の3000年の古都に沈む



●エジプト文明が異常なのか現代文明が異常なのか?

エジプト文明とは何か?何か現在では理解しがたいものがある。でも奇妙なのはエジプト文明と比べて現代文明を見るとき見えてくるものがある。エジプト文明は自然と人間が合体してアイデンティティ化した文明である。アニミズム文明ともなるがそれが異様に見えるのだが奇妙に思うのは現代文明こそ何か異様なのである。文明というのはいうのはもしかしたら別に時間は過ぎて進歩したというのではなくただ変化したものかもしれない。
そして文明に優劣がないかもしれない。ただ異なった違った文明であり遅れた文明とは言えない。これなぜならエジプト文明というときかなりの高度な文明でありその建造物を見れば現在でつくれないとまでなる。ピラミッドは正三角形ではないし古代の黄金の比で作られている
だから現代の幾何学からすれば神秘的なものとなるのである

現在の大都会やなどを見たときそれはなんなのだろうとなそれそれこそが何か奇怪なものに見えてしまう。というのは1000万の大都市となるとその規模があまりにも大きすぎるのである。そしてその都市も自然から遊離したものであり何か異様なもの感じてしまう
何か別の惑星に来た感じにもなるのである。だから現代文明とは何なのかとなれば果たしてそれが進歩したものなのかどうかわからない。確かに技術的には進歩している。でもそれが総合的に文明を見たとき何かそこには統一されたもろもうなくただ雑然として広がる混沌としたものでありそこに整然としたものは感じられない。

●エジプト文明は自然とアイデンテイ化したもの

エジプト文明というときそれは全体を見れば一つの調和したものとして作られていたのである。なぜ人間と動物が一体化したりしているのは異様に見えるがそれは自然と人間がまた一体化している象徴なのである。現在になれば人間と機械が一体化するロボット化することにもなるからである。エジプト文明では動物は神秘的な存在であり神聖な存在として一体化したのである。そうして自然とアイデンティティ化することは別に異様なことでもなくまさに自然なことなのである。

むしろ現代人間というのは自然から遊離して何とアイデンティティ化しているのかとなるからである。エジプト文明が理解できないと言う時まさに現代文明は自然から遊離しているからこそ理解できなくなるである。田舎に住んでいれば依然として人間は自然とアイデンティティがする。それで私は山であれ石であれ動物でもやはりエジプトと文明のようにアイデンティティ化した詩を書いてきたのである。だからエジプト文明異様なものとしてはなく通じるものとして理解する

エジプト文明は太陽神ラーを信仰したというときそれは日本の初代天皇の卑弥呼が天照大神でありやはり太陽信仰だから通じるものがある
過去の文明は自然と密着して自然と一体化してアイデンティティ化するから共通するものがある。むしろ現代文明こそアイデンティティ化ができないからこそ混沌として雑然として統一がなく人々はつながりがなくアトム化してそれはナチス化したというのも分かるなぜナチスが生まれたかといえばピカ⁻トが言うように無数のアトム化した人間がつながりがなくそのつながりを求めてハイルヒトラーになりナチスにが生まれたとしている。それは現代でもカルト宗教団体のそれと酷似しているのである

それこそ現代文明が生んだ異常なものだった。なぜそのようなものが生まれたからとなると現代文明の病理現象として生まれたものであり宗教とは一切関係ない。なぜなら自然と遊離して創価などでも団地の宗教と言われたように地方から来た人はそこで人と人との繋がりが持てなくて集まったと言う事である。これ本来の宗教など何もないのである。だから奇妙なことに現代文明こそ奇怪であり理解できないものなのである。
だからのですのようなカルト宗教が生まれたと言うとその温床が現在の文明にありそれは育んだ宗教だともなる。それは日本だけではない世界的現象として起きて起きているというとき大都市化は世界で起きているのが現代だからである。その奇怪な文明のために何千万も死んだというとき現代文明が温床になって起きたことであり戦争の原因が現代文明そのものにあったからである。
異様な社会から異様な人間が生まれるのである。

●現代の文明こそ異様であり接続可能社会ではない

肉体はは消え去るが
肉体は以前にあったほかのものは残る
昔から存した神々はピラミッドにとどまる
同じように高貴にして栄誉あるものは
ピラミッドに葬られた
家を建てた人々はいない彼らはどうなったのか

つまり文明を知るというとき現在の文明だけではない過去にも文明がありそれは必ずしも遅れたものではなく別の文明でありそれで比較して現代の文明と見れば見えるものがある。そこに歴史を勉強する意義がある。エジプト文明が理解できないのはそれが遅れた文明ではなく違った文明でありその相違はなぜ起きたかということを知らなければならない。現在の人間こそ自然から遊離して異様化してしまったからである。

ここ200年の文明を見たときあまりにも凄まじい変化はありエジプト3000の継続した文明とはまるで違ったものとなったのである
エジプト文明は沈黙の文明だという時現在の文明は騒音騒擾の文明でありそこに恒久性というのはない。あらゆるものが目まぐるしく変わるのである。エジプト文明は3000年あったとしてもほとんど変らなかったかもしれない。今は十年単位で急速に変ってしまうのであるくれるそれは別に必ずしも進歩したというものでもないただ変化しただけだと思う
何が進歩なのかそれが分かりにくいからである。確かに技術の進歩は急速にあったけれどもそれで社会全体が進歩したのではなくただ変化したというだけである。ということは人間ははそもそも進歩というものはなく変化しているだけだとなる

エジプト文明は求めたのは恒久性であり不変性であり定着性であり静穏な生活の継続でありれが黄泉の国来世でも続くとしていたのである。それは現在の騒音と騒擾で絶えず変化する文明と対比すると別な文明なのである。現代文明というのは何か継続性がない継続を求めないのである。

持続可能な開発目標(SDGs)とは、すべての人々にとってよりよい、より持続可能な未来を築くための青写真です。貧困や不平等、気候変動、環境劣化、繁栄、平和と公正など、私たちが直面するグローバルな諸課題の解決を目指します。

最近このことがしきりに言われるけどそれこそエジプト文明にあり習うべきだともなる。つまり文明とは必ずしも進歩するとかではなくただ変化して来ただけだとなる。それは技術だけではない全体のバランスから見た時そうなる。技術の発達はまた福島原発事故のように環境を汚染して破壊する。そして肝心の空気や水や土や木まで汚染されて住民は住めなくなったのである。それはまさに持続可能な社会の破壊だったのである。

だからこそ現代文明というのはここ200年くらいで世界のエネルギーを使いそれが温暖化になったとも言われるしそれほど200年くらいで世界にある資源を使い尽くす接続可能な社会ではなくなっていたのである
その進歩は凄まじいのである。グローバル化して中国でも20年くらいですさまじく発展して先進国に追いついたようにその進歩は急速なのででもその結果として膨大なエネルギーを使い環境汚染があり接続可能な社会とはなっていないのである。



3,000 years of Egyptian civilization

The Nile, the eternally long and mighty river that runs through the land
Flowing torrentially, it connects the Upper Kingdom with the Lower Kingdom
A country nurtured by the gift of the Nile
The wheat fields of the vast fertile lands along its banks
The life that is lived over and over again
Will continue unchanged until the land of Hades
The days of its peace are long nurtured
The pyramids are as immortal as they are immovable
Its clear outlines are reflected in the desert
The kings of the past written in hieroglyphics
The ruins of a temple on the banks of the Nile
Hieroglyphs carved in stone by moonlight
What do they tell us? Ships often pass by
Ancient temple of the fruits of Egyptian civilization
Its pillars of stone, thick and rounded
like a tree of a thousand years old, carved with annual rings
There was once a forest and I imagine its trees
The days of peace are long and everlasting
The work of peace that has been going on for ages
It will continue until Hades
Like a princess, a purple lotus blooms on the banks of the Nile
And the red sun sets on its shores
The work of the people who worship the God of Ra
The image of the king's god stubbornly shut his mouth and remained silent
His mouth is silent and stares as if it will not open
The days of peaceful silence continue
Here, far away, the foreign traveler does not come
turned into a statue, lined up and unable to return
mummified, shut up in a pyramid
The red sunset on the western shore of the Nile
the sun sets on the ancient city of 3000 years of eternity

Translated with DeepL.com (free version)

2024年07月26日

34度の暑さ【涼しさ、合歓の花、夏の月・・・】


34度の暑さ【涼しさ、合歓の花、夏の月・・・】

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涼しさや水面を飛ぶ朝燕
涼風の二方から吹く大き家
三種類の揚羽飛び来る家に見る
夕風に枝揺れ咲きぬ合歓の花
夕燕あまた飛びにき夏の暮
広き間に我が眠れるや夏の月

群成して鮎の上るやゆうたりと鯉は泳ぎぬ橋の下かな

34度だから動かなくても暑い、クーラーで体の調子悪くしたからクーラーしなかったから暑い、でも自然の風は心地よい、窓と玄関を開けるとわずかでも風が入ってくる。
なぜこれほど暑いのかやはりアサファルトの道路は暑くなる
もし土の道だったら打ち水とかで冷房の効果がある。
とにかく都会だと田舎だとさらに暑くなる、人混みでも厚くなる。その点田舎は暑さでもなんとかしのげる。

涼風の 曲がりくねって きたりけり 一茶

クーラーなどないから江戸の長屋だとこんな風になる。
でもそうした風でも自然の風であり気持ちいいともなる。

外に出れないから家にいる、でも黄揚羽と黒揚羽とアオスジアゲハが飛んでくる
アオスジアゲハは珍しとなる

福島県の浜通りだと海風が吹くから福島市や会津と違い涼しいとなる
ただこの暑さも今日が峠らしい、天気予報ではそうなる
ともかこう暑いと涼しい所に移住したいとなるのも分っる
世界では現実に金持ちが涼しい高原地帯とかに移住している
東北はまだ西の暑さよりはいい、35度以上になると家にいても老人は熱中症になる。クーラーで体に悪いから困る。
ただなんとか暑さの峠はこの辺では越したかもしれないから助かる

ともかく松原があった時はそこで涼んでいたが今はないから海の方で休めないのである。それで家にいるほかないのである。


2024年07月25日

身分制社会とは何だったのか―現代は能力主義社会 【生まれた家の身分ですべて決まる社会ーそれでも能力ある人がのしあがる】


身分制社会とは何だったのか―現代は能力主義社会

【生まれた家の身分ですべて決まる社会ーそれでも能力ある人がのしあがる】

跡継ぎがいないとき、優秀な人を婿養子にしたり、夫婦ごと養子にして「家」を継がせることは、当たり前のことであった。上級武士が優秀な下級武士を、下級武士が百姓身分のものを養子として家を継がせることもあった。幕末の優秀な幕臣の多くが前者の例であり、後者の例としては伊藤博文の両親がそう。

江戸期の社会〜身分制度と農村

●身分制社会でも能力は重んじられた

いくら身分生社会でも現実に社会を生きる時その人の能力が問題になる。能力のないものに家の後を継がせても結局うまくいかない。何か身分制というとき医者の子供は医者になるというとき議員の息子が世襲制になり地盤を受け継ぐ。それは自民党に多い。その息子が政治家に向いているというわけでもないし優秀でもないから国民にとってはいいものではない。
医者でも開業医だとどうしても子供にその後を継がせたいたいとなり必ずしも医者に向いてるということもないし能力もあるとはるとは限らない。でも一応医者になるには国家試験がありそれをそれに受からないかに限り医者にはなれないのだからただ跡を受け継ぐというはできない

つまり人間はどうしてもその人の能力差がありいくら身分だからといって能力のないものに後を継がせればその家は衰退してしまう。だからこそいくらその家の息子でも能力もない人がいてまたは放蕩息子などもいてあとを継がせられない。それで必然的に養子が必要となった。
つまりいくら身分制社会であっても能力主義となり必然だとなる。そうしなければ家が没落してしまうからである。

1835年に下級武士の子供として生まれた福沢諭吉は、幼少期に父親を亡くし、とても貧しい生活を送っていました。
幼いころから、優秀でも身分のせいで評価されなかった父親を悔やんでおり、身分制度からの解放を目指していました。

天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず

江戸時代の身分制社会で能力が活かされないことで不満があった。この身分制社会厳しいものであり別に能力がなくても侍は侍であり生まれつきで決まっていたからである
身分制社会とはすべて生まれつきで決まる社会である。どの家に生まれたかでその家の格でその人の価値も決まる
そういう社会は今理解するのは難しい。ただそうした身分制社会では結婚するにも侍は侍同士であり町人でも同じ職種の人が大工なら大工が集まって住み結婚同じ職種の人と結婚するのはふつうである。職人と農民はやはり別であり農民は農民同士で結婚する。それは良い点としては同じ職業だから気心もわかるということである。
今なら結婚相手などさまざまであり相手の職業のことなどもなかなか理解できないから返って結婚しても上手くいかないということがある。
やはり侍同士結婚して職人の子は職人と結婚して商人の子は商人と結婚するとそもそも相手のことをわかるから理解しやすいとなる。だから身分制社会でもすべてが悪いものとして働くとは限らない。いい面を見れば社会は安定していたとなる。
明治以降は侍の階級はなくなり身分性がなくなったときどうして自立して生活するとかとりの侍は困ったのである。
それで武士の商法とかになり失敗したとなる。

●能力主義の典型はアメリカ

能力主義というときそれを最も顕著なのが社会がアメリカ社会である。アメリカはヨーロッパは貴族社会がありやはり身分性があった。アメリカには貴族社会はない階級もない。その大統領さえリンカーンでも丸太小屋に住んでいたからだ。アメリカではそうした生まれつきとかでは決まらない。自らの能力のと実力で決まるのである。だから能力のある人は抜きん出てアメリカンドリーム達成することになる。

ただその能力競争熾烈なものであり一旦敗れれば今では今でもアメリカではホームレスが多いというときその落差が大きいのである。ただ能力があればその巨額の富を得ることができそれは移民だとして能力があれば成功してアメリカンドリーム達成することができるのである。
ただどうしても財産を受け継ぎ豊かになる人が増えたというときそこに身分制の様なものが生まれる。巨額の遺産を受け継ぐことは能力と関係しないからである。

日本でも江戸時代から明治になったとき身分制社会はなくなった。能力主義になりその身を立てるためには学問は必要だとして学問のすすめが福沢諭吉によって出されてみんな読んだのである。
また明治維新というのは下級武士が上級武士を倒して階級制をなくした戦いでもあた。でもなぜ下級武士がそれができたのかとなればやはり下級武士は身分が低く生活の農民とかとたいして変わらなかったからである。だから侍全体が明治維新を成したとはいえない。つまり侍は侍身分は身分の上下があり下のものは不満があった。だからその不満があり下の者が明治維新で成り上がってきたのである。だから一つの階級闘争でもあったと見れる。

●野馬追で身分制が現実に再現して適応される

何か身分制社会というと具体的に分からなくなったがこの辺では相馬野馬追がありその時明らかに身分制社会が再現される
なぜなら野馬追に出る人は江戸時代侍であった人であり家に鎧兜が伝えられ旗印が伝えられていて出ることができる。だから勝手にだれでも参加するお祭りではない。侍であった家からしか野馬追には出ることはできない。それで今明治以降に藩というのはなくなったとしても依然として相馬地域で殿様は代々参加して殿様は依然として生きている場なのである。

何か祭りというときこうしてただ馬の祭りではなく江戸時代の身分性が明確に再現されて現実社会に今も応用されている。。そういう祭りは少ないのではないか?野馬追という時その御行列は侍でないものはただその侍を見上げるだけだとなシタ二―シタ二―となる。だから何か二階から見たら失礼になるとか身分制が復活するのである。それは歴史の保存として継続としてなされるから変えることはできない
そして侍というとき何なのかとなるとき馬に乗る人だとなる

なぜなら足軽とかは馬を持たないで足で歩く移動する人だからである。足軽の生活も侍とは違い相当にみじめなものだった。
だから馬に乗る人と足軽の差は大きいものだった。上野に御徒町(おかちまち)とあるとき歩く人たちが住んでいた町だとなる。そこに明確な差別があった。住む地域まで身分で分かれていたからである。
野馬追でも馬に乗った侍を見ると威圧される。それだけ馬は戦場で強力なものとなった。馬が集団で攻めてくることは恐怖だとなっていた。相馬氏が大藩の伊達に征服されなかったのは強力な騎馬軍団があったからだとなる

とにかく他の祭りは青森のねぶた祭りなどは誰でも衣装を借りて自由に参加してハネトになることができる。でも野馬追の場合はもともと侍の出てないと参加できないのである。だから将来的にどうしても野馬追に出る人は少なくなり縮小して行くのは避けられないのである。だから神旗争奪戦で前よりずいぶん少なくなったと見たからである

●只野氏でも史実でも今の社会で上下関係を強要はできない

いずれにしろ確かにこの辺で只野氏の姓の人が多い、それは南北朝時代に霊山が戦いで炎上して逃れた落武者の末裔がこの地に住んだからである。だからその謂れが明確である。
でもそれでその只野氏というのが今の社会で重んじられて従わねばならないと主張するのは時代錯誤になる。今時そんな江戸時代の身分のことを通用させることなどできない、誰も従うことはない、ただこの地域では野馬追があるのでそれが全部出ないにしろ成り立つともなる。
第一徳川幕府250年続いたとしても徳川家が残っているのか現実社会ではもはや何の力もない、ただ天皇家だけは残っているとなる、でも天皇には姓はないのである。なぜなら只野氏一族となれば只野の姓になれば限られた者となるからである。その他の人は排除されるからである。

今の社会の只野一族に従いとか通用しない、その人の価値はもはや身分では決められないからである。結局明治以降は能力主義であり身分では価値は決められない。
だから現実社会で医者とかは一番尊敬されているのである。
また技術者でも実業家でも尊敬される。いくら由緒ある家柄だとしても尊敬されない。能力で競う社会であり身分では決められない、だからその人がどういう能力を発揮して生きてきたのかが問われる、別に由緒ある家に生まれたとしても必ずしも家の跡を継げるとは限らない、やはり能力で選別されるのが現代なのである。

●野馬追いは侍は一心同体になっても庶民はならない


その先祖伝来の旗印がなびく
誰が家の者や殿より誉れを得む
相馬の武者の誇らしきかな
大の旗や心も大なれ
相馬藩一心同体になる時や

相馬野馬追いー雲雀が原の神旗争奪戦【詩】

ここで一心同体としたがそれは侍の人達が一心同体になることは確かである
では一般庶民は馬に乗る侍を見上げているだけだとなる
庶民とは一体にならない、庶民は御行列の前にひれ伏しているだけだともなる。やはり参加できないからそうなってしまうのである。



posted by 天華 at 18:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2024年07月24日

暑さのためクーラーを一日してこの症状がでた 【喉や鼻の粘膜が乾燥し、炎症を起こしやすくなるため】


暑さのためクーラーを一日してこの症状がでた

【喉や鼻の粘膜が乾燥し、炎症を起こしやすくなるため】

エアコンは空気中の湿度を奪うため、室内は非常に乾燥します。
これにより、喉や鼻の粘膜が乾燥し、炎症を起こしやすくなるため、風邪のような症状やアレルギー反応が起こりやすくなります。
夏の不調はエアコン病かも?原因と症状から解決策まで徹底ガイド

エアコン「カビ風」に要注意「呼吸器疾患も」 水分&ほこりで発生 簡単対策は?

呼吸器疾患になるというのも怖いかもしれない、咳がでたこともある。
クーラーはやはりいろいろと問題がある。でも暑いと33度とかなると動かなくても汗がでる。でもやはり何らか体に悪いことは確かである


喉が痛くなるとか舌が乾くとか鼻の調子が悪い、その原因はクーラーにあった。何か鼻の中乾燥した感じになったからである
もともと私は蓄膿症で手術にしているから悪くなりやすい、でも一週間ほど気温が下がりクーラーを使わなくなったら回復した
原因はやはりクーラーにあったとなる。ただ正直クーラーなしでは暑くてどうにもならなかった。ただ明らかに乾燥した結果鼻の中も乾燥して舌が渇き口も渇きのどが痛くなったと思う。

何かこうして病気でも原因が分かればその対策方法はわかる。ただこれも素人判断すると危険にはなる。でもやはりこれだけ暑いのだからその暑さが影響したことは素人でもわかる。ただクーラーが影響したということには気付かなかった。

今日は曇っているが最高温度は33度になるかなやはり暑い蒸し暑いでもここで一日クーラー使うとまた調子が悪くなる。だからなるべくクーラーは使わない方がいいようである。体温調節にしてもそうなのである。汗をかいたり涼しい風にあたったりして調節するのは自然なのである。自然の風とクーラーの風は違っている自然の風はなんとも心地よいのである。夜でも少しでも外の風が入ってくると気持ちいいのである。

ただ正直これだけ暑くなるとクーラー無しではいられない。それが大きな問題なのである。でも私の不調の原因がクーラーだったとなればやはりクーラーはなるべく使わない方が良いとなる。

とにかく老人は気候の変化とか暑さ寒さに弱くなるのである。だから老人は熱中症になりやすい。でも暑いからといって気軽にクーラーを使うのも問題である。やはりクーラーは自然の風ではない。そこに大きな問題があったのである。人工的に機械で作る風でありそれはやはり人間の体にも良くないのである。つまりなんでも本当はあらゆるものが機械とか便利な道具で解決することもないのである。

いずれにせよやはり病気であれなんであれその原因がわかると意外と安心する。でも原因が素人で分からないことも多い。それで前に大失敗した。インターネットで調べてそれで自己判断して医者に行かなかったがもし医者に行かなかったら手遅れで死んでいたともなっていたのである。

だからインターネットとかで自己判断するのも危険なのである
ただ今回は何かその原因がわかりやすいものだとみた。私の症状にマッチしていたからであるそれで医者に行こうとしたらなんとかクーラーを使わないで耐えてそのあとこれから涼しくなる期間があるからそれで回復させようと思った。ただ正直今回の暑さで体重が7キロとか減っているから結構な負担だったのである

いずれにしろ異常気象でありこれがすでに何年なのか続いているだから夏はこんなに普通に暑くなるのかとがすると何らかこの夏に対策しておく必要がある。クーラーはその対策になるものだがクーラー自体がやはり問題だとなると暑さ対策としてはいいものでもなかったのである

2024年07月23日

今なぜ老人が孤立化しやすいのか? 【共同体の喪失で個々ばらばらになった―会社人間は退職して居場所がなくなる】


今なぜ老人が孤立化しやすいのか?

【共同体の喪失で個々ばらばらになった―会社人間は退職して居場所がなくなる】

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【高齢者20人に1人!】「孤立死」しない生き方とは?

●老人の問題はすでに若い時から始まっている

ここで話していたのは団地とかに住んでいた人である。その団地でも老人が増えて孤立している孤独死も増えそれはなぜなのかといえばその団地にしろそれぞれを見れば別々の会社で働いていたし隣が何をして働いているのも分からないということがある。
つまり老人の孤立化とか孤独死の問題は別に老人になったから突然起きることではないのである。つまり老人の問題は必ずこれまで生きてきたことがかかわりその上にさまざまな問題が生まれる。

つまり人間の問題というのはこれまで突然何か過去と関係なく起きることはない。だからカルマというとき必ず過去にしてきた行為と関係しているのではそのカルマが60歳以降に苦しみとなって現れるのである
カルマというのは誰でもどんな家でも過去に積み重ねたものはありそれが結果として現れる。はだから老人になるとその人の人生の総決算のようなことが起きてくる。

だからみんな老人は老人特有の問題として見ているが実は老人の問題はすでに若い時から始まっているのである。なぜなら老人になってからその人は突然に何か違った人間になどならないのである。その人の一生で積み重ねたものがありそれが結果として現れるのである。だから老人の問題を老人のとしてだけ切り取って見ることはできないのである。
つもり人間の問題は子供時代であれ若い時であれ老人になるまで連続したものであり老人は老人でその一生からから切り離されては存在しないのである
だからその人生を会社に尽くして会社で価値を作り上げた人が退職したからといって新たな価値を作ることは容易ではない

でも退職するとその今まで築いてきた会社での価値はなくなりどうしたら何をもってその人の価値となるかである
だから私は何何の会社に勤めていて部長だったとかようのは当然になる。でも地域になればそんなことは関係なくなるから価値として認められないから問題になるのである。

●団地とかでは個々別々会社で働き繋がりがなかった

そもそも団地とかなるとそれぞれの人は同じ団地に住んでいても仕事はみんな違っていて会社も違っていてその団地とはただ寝起きする場所に過ぎないとなっている。だから一つの団地があってもそこで何か協同性を追求することは難しいということは老人退職したり老人になった時もまた同じように共同することが難しくなるのである

もし江戸時代のような村だったら村は家族のようなものである生産共同体であり村で共同で仕事していたから別に老人になってもその村の中で役割があり老人は尊敬されていた。
そして死ぬとご先祖様となり山に葬られて田植えの時はまた山から下りて田植えを手伝うとか言われる。
つまりそういう共同体でわ死んだ後でも死者はその共同体の中で生きているのでだから老人は別にそういう共同体で生きていれば孤立しなかったとも思う

それと比べると団地の中に老いてゆくということは村の中で老いてゆく人生とはまるで違ったものになる。会社から退職したらもともに住んでいても何か共同して働いていたわけではないしそこでここバラバラになってしまうということである
団地とかはそこで何か共同して共同して働く場所でもない。だから当然会社から退職するとその団地の人と協働するにしてもできないとなるのである。

そして人間を友を求めてるがそんな友などそもそもできない
なぜなら会社と違って共同することがないしではなんでもって友とになるかとなれば趣味とかになる。それもさまざまであり付き合うにしても人は色々であり気にくわないとかいろいろ付き合うにしても問題は生じるから簡単ではない
そもそも友などは老人になってできない。友ができやすいのはやはり若い時なのその時はやはり人は未来に向かっているからその時同じ志があり友になりやすい。老人になってから友となるのが難しい。その生きた一生でもみんな違っているし仕事もみんな違う。だから相手のことをなかなか理解できなくなる

何か私は会社でこういうことで働いて部長だったと言っても相手はそのことを価値として認めない
それは会社で働いていた時の価値だからである。だから一旦会社を退職したりするとその価値は失われてしまうのである。
いずれにしろ老人になると家族内で私は何何をしてきたから認められた人必ずこれまでしてきたことを延々とと語るのである
それは承認欲求であり自分の価値認めてもらいたいということである。その価値でも多様だからなかなか第三者から認められることが難しい。村という共同体で暮らしていれば別に今日どうして同じ仕事をしているのだから相手のこともわかっているしいちいちその人がどんなことをしているかなど問うこともないのである

●孤立化孤独死は大きく見れば現代文明の問題でもあった

ともかく孤立かとか孤独死とかが問題になるやはり社会の変化によるあまりにも社会が分化して互いにつながりがなくなったということはその根底にある。それでピカードはそうしたアトム化した社会ナチスが生まれたと説いた
またカルト教団で創価などはが団地の宗教と言われたのはそれも地方から出てきた人が仲間もなく拠り所がなくて生まれた宗教でありそれがナチス化するということでもあった。
だからそもそも老人の孤立化とか孤独死とかはそうした現代文明社会の中で必然的に起きたということにもなるだからだから対処療法としていろいろあるにして根本的には解決しないということである

それは田舎でも同じなのである何か田舎だとみんな農民だと見ている今は全然違う。全体の占める農民の規模1割にも満たないのであるやはりみんな会社員になっているからだ。だから中でもやはり都会化して隣は何をする人ぞもなっている。今だにすぐ近くに居る人は何を仕事にしている人かも分からないのである。それは他から来た人にしてすでに30年なのか40年なのかいてもその人はこの町では働いていないらしくその人の顔も見たこともないのである

ただ田舎だとやはりもともと同じ場所に住んでいる人だから知っている人は多い。でも田舎でもやはり何を仕事にしているのか分からない人も多いのである。だから田舎で何か共同するということ老人が会社を退職すればやはり同じように孤立化してしまうのであるつまり現在というのは地域社会というのは無くなっているからであるだから老人の居場所は無くなっているのである
この問題はこうしてなかなか解決しにくいということである

2024年07月22日

戦争国家でもあったアメリカの犯罪は問われない 【アメリカが呪われ衰退するー伊藤貫氏のyoutubuより】

戦争国家でもあったアメリカの犯罪は問われない

【アメリカが呪われ衰退するー伊藤貫氏のyoutubuより】


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アメリカ文明のモラル崩壊と日本への警告(伊藤貫)

超大国が大規模かつ残虐な人権侵害をして幾多の罪もない人を殺害しても誰も責任を問われない、そのようなことでは、大国の都合でおびただしい虐殺が今後も果てしなく繰り返されるだろう。罪もない多数の犠牲者のことを考えると怒りしかない。

イラク戦争で奪われた莫大な人命の犠牲- 総括をしないのは人類の汚点

●外国はそこで生活しないと実感できない

アメリカとは何かそれを理解することは容易ではない一回だけアメリカに行ったがグランドキャニオンなどう見ればそれが別な惑星に来たのかとも見えたのである。あのような光景は日本ではありえないからである。アメリカは一つの州でも日本の国土の二倍あるとかとてつもない広さなのである。そこからして理解できなくなる。それはロシアでも中国でも地理的に理解する範囲を越えている。だからそこにどうしても誤解が生まれるのである。そんな広大な国に生活しているの生活している人々の実感が分からないからねだからいくら本を読んでる外国のことはわからないのであ

それで外国のことを知っているのその国に実際に住んだ人である。加治将一氏ど15年間住んでいた。。アメリカでビジネスしたからアメリカのことを肌で知っているとなる。伊藤貫氏もビジネスマンとして働き直接外国の要人と話しているから肌で知っている。あとは留学している人が発言しているのもそのためである。つまり外国は肌で知ることが大事でありいくら本を読んでもわからないのである。

最近伊藤貫氏のyoutubeを見て啓発された、何かわかりやすいのである。私は古典主義者だというときわかりにくいのだがここ200年間くらいの思想の本は価値がないとしている
つまり人間の価値判断とか基準にすべきなの釈迦とかソクラテスとかに遡りそれこそスタンダードであり学ぶべきというのが古典主義だとなる。ただこの辺になるとむずかしくなる。
アメリカ人にわそうした思想もなく哲学もなくただ唯一の価値は金しかないとしている。アメリカ大陸に渡ってきたヨーロッパ人はその広大な土地で財を築いた。また一獲千金よ夢見て来た人たちも居た。アメリカンドリームである。いずれにしろその広大な土地でアメリカは一から作られたとだだからそのような広大の土地では自ら守るために自警団を形成して銃をもって自分の牧場でも守ろうかなかった。それが西部劇でもあった。

おそらくアメリカのような広大な土地でそれが国として意識すること自体難しかった。だからそのような広大な国で一つのアイデンティティーを持つことは容易ではない。だからもともとそういう国だから今国をまとめるアイデンティティなどはアメリカにないとしている
ただ1950年くらいまではアメリカとしてのまとまりアイデンティティーがあったとされている。それもその辺まででありあとはアメリカとしての一つのアイデンティティーは失われた。

●アメリカは戦争国家であり人権無視

アメリカは西部開拓のよう西へ西へと進みすしてカリフォルニア海岸から東のアジアへと進んでいったのでアメリカの延長拡大はかるカリフォルニアで止まることはなかった。
だからアジアはも日本へも拡大して戦争となった。アメリカは戦争国家であり朝鮮半島の戦争からベトナム戦争からイラク戦争絶えず戦争をしていたのである。それも不必要な戦争であるベトナム戦争でもイラク戦争でも人権などまったく無視した戦争だったまた日本で原爆広島に落としたい人権などは全く無視したものである。だから人権を主張することなどできない国なのである。

アメリカは人権を言うの自分のしたことをみればそんなことはできない。だからアメリカは衰退するというとき分断するというときそれもカルマだったとなる。つまりアメリカはそうして無謀な殺戮国家であった。そのためにアメリカに対する怨念が世界中からある。それでアメリカは分断したり衰退したりして覇権国にはなれなくなる

そして伊藤貫氏が戦術核のことを言っていたがなるほどと思ったなぜなら戦術核使われるとアメリカは攻めることができないとして
アメリカは核を恐れるのかというと自ら日本に原爆落としたからである。それを戦術核であったかもしれない。だからそれがカルマとなってアメリカは一番核を恐れているのである
だから戦術核を恐れるのである。

●失われたアメリカのアイデンティティ

ともかくアメリカは何を国是としてアイデンティティと称するのかも分からなくなっているという。一握りの大富豪に政治も支配されているといそのために貧富の差が巨大化し中産階級は没落した。だから製造業のラストベルト言われるしたいからトランプ副大統領選にバンスを選んだのはそれは没落した中産階級中の代表者でもあったからである

こうした極端な格差社会になると国のまとまりもなくなる分断されて国自体の力失っていく何かあって国のためというよりごくわずかの大富豪のために尽くすだけなのかとなってしまうからである。もし命をかけるようなことがあればそれが金だけでは測れないものはあるからである。つまりアメリカは内部的に自壊してゆくということで その分断も深刻となり内戦にもなる

ローマ帝国で拡大したの内部から腐敗して東西に分裂したのである。つまり帝国主義は外に拡張して行く内部で腐敗して分裂して終わるのである。だからアメリカに追随していると日本もまたアメリカとともに沈没して行くということである。
実質的に日本はアメリカの属国である日本には何ら主体性がないとしている。アメリカに任せていればそれでいいとなってしまったのは戦後である。それが危険なことでアメリカと共に日本沈没して行くということになる。日本の自衛隊でも実はアメリカの指揮下にあり独立性はないとしている

でも中国と衝突すればアメリカは形勢が悪くなれば撤退して行くアメリカ人自身が血を流すということはない。トランプになればアメリカファーストで自国第一主義余計にそうなった
第一アメリカはもはや世界の警官になることなどできなくなっているし拒否するようになったからである。それより国内の分断とか国内問題を優先するようになるからである
だからアメリカ一辺倒の日本の外交は非常に危険な状態になっている。

今回のトランプの銃撃事件トランプ神に守られたとか国民の団結を求めたりしたのそれはあくまでも共和党の団結でありアメリカは一体になるような団結とは結びつかない。それでアメリカの分断は解決しないのでそこに根深い問題があり簡単には解決できないということである

不思議なのはなぜ明治時代内村鑑三なぜあれほどアメリカを嫌ったのかということでそれも明治時代である現在がらアメリカの悪い点一般の人でもしてその当時はアメリカといっても実際に行った人がまれだから分からなかったと思う。ただアメリカを肌で知り日本的なものがまだ残っていたからその対象でアメリカを見たからだとなる。
今現実にアメリカで生活した人も多いから生のも情報が伝えられるから違っている。伊藤貫氏にしてもアメリカ中心にヨーロッパでも生活したことが長い。それで深い知見を得たとなる
posted by 天華 at 10:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2024年07月21日

老人が尊敬されない価値がないとされる問題 【価値は積み上げて作るから老人になって価値を創ることが難しい】

老人が尊敬されない価値がないとされる問題
【価値は積み上げて作るから老人になって価値を創ることが難しい】

人としての生きがいの重要な柱である「人に認められたい」という欲求が満たされる機会がほとんどなくなってしまっている。「承認欲求」は人間の根源的な欲求の1つだ。子育てや仕事で認められ、感謝され、必要とされていた自分がいつの間にか、邪魔な存在になっている、と感じるとき、人は生きがいを失うのではないか。

日本の高齢者は、なぜこうも「不機嫌」なのか
会社にへばりつこうとすることと密接な連関

●「承認欲求」は誰にでもある

「承認欲求」は人間の根源的問題としてある。その承認欲求とは何なのかとなるとその人の価値を認めてもらいたいということである。人生を生きてきた老人は特にそうなる。
だから最後に必ず私は何何をしてきたとか何度も語ることになる。私の姉はシンガポールの方で従軍看護婦として四年間辛酸をなめたがそのこと認知症になっても忘れられず千回も聞かされたとなある。そのことだけは忘れられないし一番印象に残っているからこそ語り続けたのである

ということはそうして苦しんで日本のために戦ったということ認めてもらいたい価値があるものとして認めてもらいたいということだったのである。それも当然であるなぜならその苦しみは並大抵のものではなかったからである。また戦争で死んだ人は300万人もいるというときすごい人たちの価値がないとされたらそ霊は浮かばれることはない。

つまり人間というのはどんな人でも私は価値がある承認欲求はある。豆腐屋をしていた人で私の私の家で店をしてた時関係していたから豆腐屋の苦労を語る。その価値を認めてもらいたいので人は何かしら承認欲求があり認めてもらいたいのであある。
お前は何の価値もないと言われたらショックである。特に老人はのショックは大きいのである。私の人生を何の価値もなかったのかとなるからである。
ということは私の人生をもう無意味だったとなるからである。それは社会的なものとしてありまた家族内での価値もある。また地域内のとしての価値もある。価値は多様なのである。
現在は職業の数も増えてその価値にしてもわからなくなる

その大工さんは異常なほど自分の仕事を認められたい実際にこれまで修練してきた技を示す、というのは大工だけではない、庭作りもできるし壁塗りとかもできるしそれだけいろいろなことができる人がいないからその価値を認めてもらいたい自分は他の人と違って価値ある人間だと訴えるのも分る。
それを金を払えばすむともならない。要するに大工は大工でもそれ以上のことができるのだから自分は価値ある人間として特別認めてもらいたいということなのである。人間は誰でも価値あるものとして認めてもらいたいのである。
ただ余りにも社会が複雑化して価値が多様化しているからなかなか認めるにしてもその価値がわからなくなっているのである。

●会社員の価値は退職すると消失するのが問題

今は大概会社員だとするときその人の価値は会社の中にある会社の中で作ることにはでもよそから見ればその会社のことは分からないし会社で価値あるとしてもほかの人にはその価値もわからない場合が。それが退職した時地域の中に入ってきた時明確になる私は会社で部長だったとかなんとか言って通用しないからである

そして今地域社会がなくなったとき居場所もなくなるということは誰も価値を認めてくれなくなるということになる。会社では尊敬されて価値あるものとして認められていて退職すればただの人間になってしまうのでそれが高齢化社会になったとき大きな問題となったのである

要するに誰も価値を認めてくれないいくら会社で部長であったとしても退職したらそんなものは他の人には関係なかったからである。では地域の中で価値ある人になりたいということは今はそうした地域社会も無いのだから難しいとなるのである。だからボランティアなどしても返って迷惑とか邪魔だとかされる。

とにかく人間をどんな人でも承認欲求がある。何であれ自分が価値ある人間として認めてもらいたいのでそれがない時活きる気力もなくなるかもしれない。私は何の価値もない人間だとされたら生きる気力もなくそれは相当深刻な問題なのである。
ただ老人と言う時60歳上からとか価値を創っていくことはかなり難しいその人なりの価値と人生の中で積み上げていくものであり一朝一夕に生まれたりしないからであであ
だから会社人間となれば会社でその人生を費やしたんだその中で価値があるに人間として認められていた問題は退職してからそういう価値を失うことであそれで退職してからその後の人生があり長くなったからそれが大きな問題となっているのである

●その人なりの価値は人生で積み上げてゆくもの

だから価値というのは人生の中で積み上げていくものであり簡単に作れるものではない。だから老人になった時承認欲求といういったいその人はどんな人生を送ったのかということが問題にな何積み上げてきたのか人生で何を習得したのかそれを見るようになるからである。老人になってからまったく新しい価値を作るということはなかなか難しくなる。
でも退職してからの人生も長くなるからそこが高齢化社会の問題になっているということである何の価値も認められずただ帰って無駄飯くらいとか若者から金を奪うとかそんな風にしか見られないということが老人の不幸だとなる

明確なことは一朝一夕に簡単に価値は作れない。だから会社で価値を作ってきた人が会社から退職して新たに価値を作るということは難しいのである。ただ会社に勤めていて趣味としてやるものがありそれが退職してから生かされることはある。
でも本質的には会社で価値を作ってきたものは会社から離れてしまったら無価値にもなってしまうのである。だからその人なりのライフワークを持つということもこれからは大事かもしれない。そのライフワークとは退職しても続くし死ぬまで続くということになるからである

そこでその人なりの価値を作るから会社とも関係ないとなるからである。会社だけで価値を追求した人は会社を退職したら何の価値もなくなるということでは困るからである。でも何でも人間は積み上げることであり一朝一夕には価値は作れない。だから若い人はこれから高齢化社会になるかな自分なりの価値を作っていくことを心がけていないと誰も認めてくれない価値のない老人とされてしまうだろう









2024年07月20日

近辺の夏の花【続】−陽の射した写真 【カンナ、鬼百合、藪甘草,ノウゼンカズラ】


近辺の夏の花【続】−陽の射した写真

【カンナ、鬼百合、藪甘草,ノウゼンカズラ】

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大東建託のアパートが15棟くらい建った。原発事故で避難区域から
移り住んだ人がおおいからそうなった

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黄と赤のカンナや映えて新住宅
四五輪の藪甘草や値を張る木
根を張る木カボチャのごろり街の中



午前中写真を撮ったが曇っていたので見栄えがしないから午後から晴れてきたからまた写真を撮りに行った。
写真は光に相当影響される。また角度を変えると違ったように見えるのである。だから身近なところだと何回も行くから写真を撮りやすいのである。定点観測が出来るからである。ただ今日陽射しが強く昼間には外に出れないしそれで困っている。

いずれにしろ現代は写真と映像に時代である。だからこそトランプが間一髪で助かった映像のインパクトが大きいものだった。
もし活字で説明していたらそんなにインパクトはなかったことになる。だからイラク戦争の時石油で泥まみれの海鳥の一枚の写真が世界中の人が見てイラクは酷いとなってしまったのである。現在はとにかく映像に作用左右されるのである。テレビのアナウンサーでも見栄えが良くないと採用されないのである
何か変だひろゆきは写真をアップで見たら白髪はあった
1976年昭和51年48歳である、いつのまにこんな年になったのかと思う。だから白髪があっても不思議ではないのである。
ただ映像にだまされることがあるので注意が必要である。
じぶんにしても七五才越えているのだからこんなに年になるのに驚くとなる。実際はあっとという間に人生は過ぎるのである。

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youtubeではこんなに白髪が見えなかったのである。だから写真のだまされることがある

近辺の夏の風景【藪甘草、鬼百合、カンナ、・・・】


近辺の夏の風景【藪甘草、鬼百合、カンナ、・・・】

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十数輪鬼百合咲くや畑仕事
赤と黄のカンナの咲くや交差点
街中に赤きカボチャのごろりかな

習わずに蜘蛛の糸張る巧みなり神の業なれ奇しきものかな
ノウゼンの百輪咲きてあまた散る街中にありし我が家なるかな
鮎跳ねて流れの岸に白鷺や燕飛び交い今日も暮れにき
藪甘草雨濡れ赤し草深き田舎に住むや野良仕事かな
藪甘草十数輪咲きその上に合歓の花かなほのかに咲きぬ
合歓の花ほのかに咲きて夕暮れぬ家居まばらに田舎静まる

川の土手の道を毎日行っている、特に暑いから夕暮れに行く
草深く藪甘草が咲くのは田舎的である。鬼百合も畑に咲いているがその畑の三分のニは耕作放棄地なのである。知っている人も70以上でありとなりの畑も80以上の人がやっていたがやめて。前の人は病気で死んでやめた。

ただまだ働いている人はいるがわずかである。それだけ畑自体維持することは手間である。趣味でやっても手間であり労力がかかる、暑い時畑で熱中症で死んだのは老人である。老人が暑いい時外で働くのは過酷である。この辺で用水路の工事で死んだ67才の人は熱中症だという、また暑くなった。私も体調を壊して7キロくらいやせた。やせるときはやせる。食欲がないからやせる
夏で困るのは遠くに自転車で行けないことである。陽射しとに弱くなったから熱中症になうからでれないのである。
それで近間しか行けないので気分転換できないのである。

カンナがスーパーのの交差点に咲いている。それが何かふさわしい、そこに車が通り活きているとなる。一方で草深く藪甘草が咲くのも田舎なのである。まあ一万くらいの街だとこんあふうになり花が映えるのである。街中のはたけにごろりと紅いカボチャが転がるのもそうである。

小蜘蛛は糸をはき蜘蛛の巣をつくるのも不思議である。どうして糸をそんな小さな体からでるのか不思議である。自然には謎が必ずある。


2024年07月19日

右の日本核武装論の疑問 【広島の原爆と福島の原発事故の被害から考える】


右の日本核武装論の疑問
【広島の原爆と福島の原発事故の被害から考える】
たいこく
●グローバリストは民主党―ナショナリストは共和党

右の人たちの意見に私は同調している。グローバリストでなくナショナリストだからそうなる。今回のアメリカの民主党と共和党の対立は時代が変わりその支持層も変わってしまった。一見民主党は労働者とかマイノリティの黒人とかの支持されていたと思ったが違っていた。グローバルリストだから金融業とかは中心の支持層に変わった。

共和党は逆に中西部のラストベルトとか言われる製造業の衰退で凋落した人たちに支持されているという。その象徴として副大統領の人がそのラストベルトの困窮した人たちを小説にしてしたのである。
でも確かに共和党はもともと富裕層はいたからエスタブリッシュメントが議員に7割とか存在している。でもその支持層は変化したから共和党自体も変わらざるを得ないとしている

だから今までの観念で見ていると誤まることになる。そしてこのグローバリストはアメリカの国などはどうなってもいいと思っているという。あくまでも自分たちの会社中心にして世界から利益を上げることを目的にしている。その手段としてアメリカもあり外国もあるとなる。それが民主党などというとき今までとは違った見方をしていないと日本でも失敗する。

なぜなら日本は今民主党寄りであるバイデン政権の後ろ盾として岸田政権がある。だからこそ今回の銃撃事件で犯人のクロックスという人が世界的投資会社のブラックロックと言う会社に関係していたということは重大な事実である。そしてそこにブラックロックとブラックロックの社長と岸田首相があっているのである。これは日本にとって危険なものとなる。トランプ政権になったら危険になる。

●右の人たちの核武装しろで国は守れるのか?

ただ日本の右の問題として右の人たちのグループに入るには必ず核武装しろとか原発を進めるとかそれに賛成しなければ入れないとしている。武田邦彦氏も右なのだが原発に反対しているからそういうグループに入れないとしている。私自身も右に同調するのだが核武装と原発には反対である。それは自分自身の住んでいる場所で原発事故の被害にあったからである。また日本にしても世界で初めて原爆の被害にあった国である。だから核というのに抵抗があり核武装に反対する人が多いのである。それは別に右左とかではないそういう歴史的経過があって抵抗があり反対するということである。
そういう歴史がありむしろ核廃棄を世界に訴える立場にある。それが核武装したらできないのである。

ではどうして日本を守れるのだとな中国がで攻撃してくる北朝鮮のミサイルで攻撃してくる。ロシアが北海道へ侵略してくるそれをどうして防ぐのだとなる。
だから日本はアメリカに頼りアメリカの基地があるから安心だとしている
でも実際はアメリカは日本いざとなったら助けないし自国に引き上げるのである。トランプ政権になれば余計にアメリカファーストなだから日本よりアメリカ中心に考えるから別に日本は捨ててもいいとなっているのである。だからこそ逆にまた日本は日本を守るために核武装しなければならないというのは右の人たちなのである。

でもそもそも確認をって核武装して日本は守れるのかということである。そこが疑問なのである。現実にロシアはあれだけの核があるのにクライナの戦争でその核兵器を利用できない。それはなぜなのか?一旦核を使用すると世界から猛反対を受ける
それで国際的にも孤立して味方する人がいなくなるのでつまりいくら核をもっていても使用できないということである
一旦使用したら世界では一斉にその国を敵視して叩くことになるからである。過去は抑止力として持つべきだとしてもそれは使用できないのである。だから核自体を持つことは割に合わないとなる。だから日本は本当に核武装して日本を守れるだろうかという疑問である。右の人が右の人たちに同調するとしても核武装とか原発に賛成しなければ右の人たちからは受け入れられないのである

問題は本当に日本が核武装して日本を守れるのだろうか?

右の人たちは核武装で守れるというけどもそれが疑問なのである。でもアメリカに頼らずアメリカは日本から基地から撤退する時どうなるかという深刻な問題があることは確かである。
でも必ずしもロシアとか中国が攻めてくるとは限らないし外交的にはインドが成長すれブリックスが拡大すればそれで守れるということもある。世界は多極構造になるというとき今までのロシアとか中国とかアメリカが中心になるわけではない。アメリカ自身が世界の大きな一局だとして見るようにもなっているからだ。そういう世界が変わったとき依然として日本が核武装して原発を推進するということは理解できないのである。

●剣(核)を取るものは剣(核)によって滅ぶ


いずれにしろ問題などはアメリカであれ中国であれロシアであれこの三大国が世界の平和を乱しているのである。でも中国でも経済が停滞して衰退するようにロシアでも国内問題がありいつ政権が崩壊するかもしれない。アメリカでも分断が大きくなり内戦になるというときやはりむしろ対外問題より国内問題で自滅して行くということもあそれは世界にとってはいいものだとおもなってしまう。つまり何らか世界情勢にも神の関与があるかもしれないいくら大国であってもすべて力で持って通るわけではない
だからこそいくら帝国主義が拡張拡大しても必ず衰退して終わっているからである。ロシア帝国主義アメリカや中華帝国主義アメリカ帝国主義はやはり衰退してゆく。ロシアでも中国でもアメリカでも分断されてゆくのであるくるそれが世界にとっては返って平和になり多極主義になりいい方向に向かうということである。

剣を取るものは剣によって滅ぶ

核を取る者は核で滅びるとなる。核武装して本当に国を守れるのかそれをよくよく考えてみれば守れないとなる。むしろそれが滅びの道を選んでいるのかもしれない。つまり一旦核を使用したら
世界からつまはじきにされる。だから核というのはいくら持っていても使用できない代物なのでそれを持つということは安全を守るためにもならないのであるむしろ危険度が増すということもありうる覚悟核を持たなければ安全でないと言うがむしろ危険にもなるのである。

そもそも国は本当に軍事力で守れるのかどうなる日本の場合少子高齢化であり国力はそれによって相当にそがれむしろ国内問題が優先でありそうして国力が弱体化するときこそ危険になっているのである。それが軍事力で国が守れるという事にはならないのである。それをほかの国でも同じである。

いずれにしろ国際情勢に神の関与はあるかもしれない。全ては人間の力で決められるのかとなる。力の強いものが必ず勝つとはならない。神は弱き者の味方であり小さい物の見方でもある。大国が必ずしも強いとはならないのである。だから大国は内政問題で分裂して弱体化して行くのである。それはロシアでも中国でもアメリカでも同じだということである。自らの国が大きいのはいいのだが収められないということである
posted by 天華 at 09:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2024年07月18日

トランプ銃撃事件の背景 【アメリカの権力構造ー司法警察を政治家が上であり命令できる】


トランプ銃撃事件の背景

【アメリカの権力構造ー司法警察を政治家が上であり命令できる】

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【及川幸久】これが、トランプ暗殺未遂事件の「核」です。
【昨日の講演より】

●トランプ銃撃は警護のミスなのか故意なのか?

今回のトランプの銃撃はなんだったのか.ユーチューブとかの解説でそれが見えてきた。屋根の上に狙撃手を警護する狙撃手が認識して狙っていた。また一般の人も屋根の上に変な人がいると警備の人にも伝えていた。だからなぜトランプが撃たれる前に警護の人が撃たなかったのか?

つまりトランプを撃つのを見逃していたとなる。

その背景として司法とかFBIとかシークレットサービスとかがバイデン側であり反トランプでありバイデンの指揮下にあったとなる。だから三権分立でもそれぞれが独立しているわけではない。その時の政治情勢で変わる。警察関係も自主性がなく政治に影響されれる。
だから民主党から共和党に変わり大統領に変わる時その三権分立でも司法でもその力関係は大統領が上でありそれい司法も従うのである

アメリカの場合だから大統領は変わるとその下の権力構造も変わり大きく変化する。日本のように誰が首相になっても対して変わりないとかにはならない。劇的に変化するのはその権力大統領は握り掌握して司法まで命令する立場になるから大統領選挙というのはそれだけ権力闘争でありそれに勝つ勝たないかは大きな変化になるのである

つまりアメリカの権力構造はどうなっているのかそれを知らないと理解できないということである。つまり警察関係は民主党バイデン大統領の味方でありその指示で動いていることである
だから屋根の上に変な奴がいること報告されて知っていたのに故意にみにがしたのかそこが問題になる

故意なのかミスなのかそれが問題だ!

法律では常に故意なのか意図的なのかまたミスなのかが問題になる。今回も警備の人達のミスで見逃したのかまた故意によって見逃したかが問題になる。
でも状況からすると故意に見逃したというのが有力になる。屋根に上がった人を狙撃手でも認識していたからである。

●アメリカは銃を手放さないから同じことを繰り返す

ともかくアメリカの問題は銃社会であり弾薬は自動販売機でも売っているという。これも信じられない話だが常に銃でも弾薬でもどこでも気軽に手に入るということである。
そのことが基本的にありこうした銃によるテロとか惨劇はなくなることがないのである。ではなぜ銃を自由を規制できないかとなるとアメリカの建国の歴史があり常にアメリカは政府を信用しないだから銃を持って政府転覆させるという権利すらある。
これは信じられないの現実に誰でも銃は持ってるしだから気軽にいつでも銃は使えるのである。
そして民兵組織もありそれは自警団であり自分の町でも州でも守るのは自警団の民兵組織でありその民兵組織が中央政府に反乱するということもある

だからアメリカは内戦になるというときみんな銃を持っているのだからすぐに武装できるからそうなる。武装闘争の準備ができているから内戦になると言っているのである。それが日本との違いである。日本では武装闘争で政権を倒すということはできないなぜなら銃など持っていないからである。
そもそも自由であれ人間が武器を持つということは危険である。なぜならドラマで子供が銃で遊んでいてそれが誤って人を打ったりする。何か今回でも20歳の幼い顔の青年がそういうふうに銃をもてあそんで大事件を起こしたのかとなる

だから銃を持つこと武器を持つことそれがそれ自体が危険なことなのである。それは核を持つことでもそうだりそうですそれはいつか使われるという恐怖がある。何かの調子で核が使われるという恐怖が常にある。例えば喧嘩して人間の場合そこに石があればその石で相手を殺すこともできるのである。その石が銃となり核ともなるのである。
つまり核が使われないというかそこに核がある限り何かの調子で核が使われるという危険性はなくならないのである。だからキリストは剣を持つ者は剣で滅びるといったのである各が核を持つものは核で滅びるとなるのである

●司法警察権力より政治権力が強い

いずれにしろ権力とは何なのか?それがなかなかわかりにくい。でも警察関係になると武装しているし力で持って権力を行使できる。だから誰しも警察を恐れているのである。それは直接的に暴力を行使できるし公権力をもっているからである。だから軍隊もそうであり警察で一番権力を持つものとしてありそれを行使できるものが権力者だとなる。

今回でもシークレットサービスは上の命令で屋根の上に上がったテロリストを打つことができたのに警備の人は撃たなかったということがなぜなのかとなる。シークレットサービスに命令するトップの人は司法のトップの人は民主党のバイデンはでありバイデンの命令を聞くからそこに陰謀論が生まれたのである。それは根も葉もない事ではない現実的に民主党はバイデンが司法を掌握しているからだとなる

だから権力とは何なのかそれがなかなか見えてこないだからこそからこそ常に陰謀論になるのである。その背後に闇があるそれは表に出てこない。それは江戸時代の時代劇でも必ず悪の背後に役人が関わっていてその人こそが権力者でありその人を捕まえなければ解決しないのである。
そして現代ではその闇なる権力者というのは複雑化しているから必ず陰謀論になってしまうのである

ただアメリカでは大統領選挙によって権力が譲渡され劇的に変わるということがある。つまりそれだけの権力政権が変わり大統領が変わるとき持つことになるからである。司法もその権力に従うのである。
だから権力とは何かということである。例えば原発でも国家権力が変わり警察権力が変わり反対するものは警察が取り締まるとまでなっていた。
つまり国家権力とは警察権力を握り強制できる暴力でもって強制できるのであるそこに国家権力と警察権力の怖さがある。司法にしろ日本でわ90%は有罪となるとき何かそこに強制的権力が働いているとなる

何か日本はお上というのに従順であり従う傾向があり権力に対抗するということがあまりなかった。でもアメリカでは政府を信用していない。その政府は命令できる警察関係でも信用しないとな。だから常に武装しているのだから政府を転覆しようとすることにもなる。つまりアメリカの民主主義というのはその背後に武装した暴力があり成り立っているともなる矛盾がある。

●トランプは神に守られたからカリスマを得た

そして今アメリカは対立が激しくなり分断して内線前夜だとも言われている。それは民主党と共和党でもその支持勢力と勢力は妥協を許さない対立があり武力でもケリをつけるとまでなっている。
つまり民主主義と言うのは信用されていないし司法もまた信用されないとなり決着つくれるつけるのは暴力だとなってしまうのである。だからいかに20歳くらいのなんかわけわからない人は一発の銃弾でアメリカも変えてしまうということになる。それは投票などでそんな効果を得られないのである

ただトランプが奇跡的に助かったということでそれは神の加護があったのだとなった。そのようにしか見えないこともあった。なぜなら数センチ外れていたら確実に頭を打たれて死んでいたからである。それが奇跡的に見えたのである。神がトランプを守ったと見る人も多かったとなる。だから今度はトランプに神格化してトランプの次期大統領は確実だとなってしまったのである。つまりカリスマを獲得したとなる。キリスト教福音派が共和党に多く神がトランプを守ったと信じるからである

つまりそこに民主党派の陰謀があったとしても返って裏目に出てしまったということにもなった。だから必ずそうした陰謀とか悪がが思惑通りにはいかないということである。返って民主党は大統領選挙で勝つことは不可能になってしまう。民主党はディープステートとかグローバルグローバリストであり何かそこでトランプと激しく対立している
つまりトランプ大統領になったとき世界にどう影響するか日本にどう影響するかそれが大きな問題であるからこそ世界で注目したのである。それはもはや現実化していて次の大統領はトランプで大統領であるそこで世界情勢も変わってしまうのである。

だから今回のトランプ大統領銃撃事件は何だったのかとなると不思議になる。そこに神の関与があったのかでまでなる。
確かにこの世の中すべて人間の力で納められたり決めらたりするわけではない。何か神の力が見えない力が働くことがある。それは旧約聖書では奇跡として現れたが現在でも何かそうした説明できない力が働くことはあるそれは個々人でもそうだし国単位でもそうなるのである。どうして帝国主義が歴史世界史ですべて失敗して挫折して縮小したかというのもそうである。そこにはやはり神の力が働いたのかもしれない。聖書でわそうした世界情勢というかそういうものにもかかわり世界情勢を見るのにも役立つのである。

ともかく確かなことはアメリカ帝国主義は終わりつつありその中で起きた事件でもあったとなる。グローバリストは敗れてナショナリストのトランプが勝って世界は変わる。日本もまたトランプ大統領になると麻生とかその配下の茂木が首相候補になるというのもそのためである。何故なら岸田首相の力はバイデン大統領が背後にあって成りたっていたと解説がある
つまり日本の政治情勢もトランプ大統領の衝撃事件で影響されて変わるということなのである


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【新展開アメリカ大統領選挙】予言されていた?
犯人がアノ問題企業のCM徹底的証拠!【トランプ氏襲撃事件 】ケネディ氏と電話対談

ブラックロックという莫大な金持ちの為の資産運用会社と今回のトランプ銃撃犯が深く関係していた。これは驚きである。
陰謀論でも何でもない、犯人は陰で操作っされていた
アメリカにもいろいろな人がいるにしろ巨額の金を集める会社が世界を牛耳る。それが悪魔的なのである。
その人と岸田首相が合っていたということは大問題である
岸田首相は日本をこうした大金持ちに国まで売るのかとなる。
今回の事件は単なる異常者の犯行ではない、裏に指示したものがいてそれがブラックロックとかなると怖いと思った

posted by 天華 at 09:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2024年07月17日

アメリカ帝国主義時代の終わり―グローバル化はアメリカ支配 【世界史は帝国主義が衰退すること証明している】


アメリカ帝国主義時代の終わり―グローバル化はアメリカ支配

【世界史は帝国主義が衰退すること証明している】

●帝国は必ず衰退する―歴史の法則

人間の歴史が始まって以来帝国主義は存在した。古いものではペルシャ帝国などがある。ギリシャまでその帝国の版図を広げようとしたが小国のギリシャに敗れたのである。
またローマ帝国は有名である。でもそれも東西に分裂して衰退して終わった。さまざまな帝国主義が興隆しては衰退して行ったのは世界史でもあった。
モンゴル帝国そうであり一時はヨーロッパまで進攻してヨーロッパに恐怖を与えた。日本にもまた攻めてきたのででもそれも一時的なものであり衰退した。またその後も帝国主義は横に拡張する領土拡張するものであり世界史の中で続いてきたのである。
トルコのオスマン帝国またそうである。それはヨーロッパに脅威であった。でもまたそれも衰退した。ヨーロッパでもフランスは一時ナポレオンが出て帝国主義となった。 イギリスでも七つの海を支配するようになり帝国主義になったくれる。それからドイツはナチス帝国となりこれも帝国主義だった。

ロシアもまたソビエト連邦とあったがそれも帝国主義は横に向かって領土を拡張することである。日本でも日本帝国主義があり必ず国は帝国主義になる傾向がある。でもそれはすべて衰退したのである。となるとこれは歴史の法則でありその歴史の法則を作っているものは神が関与しているかもしれない。つまり帝国主義は必ず衰退するということである。一時的には興隆してもそれは必ず衰退する。それはなぜなのだろうとなる。

●驕れる者久しからずー弱き者の味方が神

帝国主義は一時的な拡大であり恒久的なものとはならない。それは歴史が証明しているのである。必ずそこに栄枯盛衰があり一時的なものとして終わっているのである。
驕れる者久しからずということになる。つまり世界史もまたそのカルマの繰り返しなのである。歴史は繰り返すというときまさにそのことなのであ。それは今も続いているのである20世紀はアメリカ帝国主義の時代だったのである。でもその帝国主義も終わりつつある。グローバル経済というときそれはアメリカ中心の帝国主義の変容したものであり世界市場としての公正なものを追求しているわけでもなかった。ドル基軸通貨となっているのはその証拠である。帝国主義になればその貨幣もまた帝国維持するものとして必要だからだよ。

結局帝国主義は世界史を見れば必ずし衰退して終わっている。帝国主義をまた軍事優先の世界であり力で持って治めることであるでもそれは一時的なものであり長続きしないのである。不思議なのそれぞれの小国でも依然として現在でも存在しずけていることである。帝国は一時的なものであり皆衰退して終わっているのである。
だからアメリカ帝国主義の時代を終わりつつあるということである。それは内部分裂とかとアメリカ第一主義とか国内に回帰するということでも起きてくる。
つまりつまり帝国主義というのは拡張拡大しても必ずそこに無理があり納められなくなり自壊してゆくのである。それは世界史が証明しているのである。

神は弱き者の味方であり強き者を挫くのである。それは世界史にも当てはまるのである。大国強国が必ずしも神に祝福されるとはならないむしろ神が選んだのはだのは小国のイスラエルだったからである。エジプトは大国であったがイスラエルは小国だったのである。だからすべて大国いいとははならないのは世界史だったのである。常に覇権国が移動するのもそのためである。その覇権を長く維持することができないのである。

だからアメリカも世界の覇権国となったがもはやそれも維持できない。そのグローバル経済の資本主義のシステムはアメリカ帝国主義の変容したものだったのである。だからこそドルが基軸通貨となったのである。でも世界でドルを使用しないとかなるとアメリカ帝国主義でも衰退して行くのである。つまり大国だからといってそれがすべて良いものとしては働かないのである。現実一時的に帝国主義として領土拡張しても結局は衰退して元の鞘に戻ったということになる。それは世界史の法則なのである

帝国主義は必ず失敗して衰退する

これは世界史の法則である。だからそれそこには世界史には神が関与しているのかもしれない。中国にしろ一帯一路とかそれも中国を中心とした中華帝国主義の拡大なのでそれも失敗したとなだから世界史にも法則がありそれを見ないと失敗するということである。帝国主義は必ず衰退して一時的なもので終わるのである

●グローバル化はアメリカ帝国主義であった

一見グローバル化と帝国主義ではないように見えてもアメリカの帝国主義の変容したものでありやはり世界支配としてグローバル経済があったのである。
でもそれも衰退して行くというときそれは世界史の法則だからそうなるのである。それがすぐになるというのではないにしてもこれか確かにアメリカはアメリカ帝国主義は衰退してゆくのである。では次なる帝国主義とは何かとなると中華帝国主義なのかとなるがそれも歴史を見れば失敗しているのだからそうはならないともなる

いずれにしろアメリカ帝国主義の時代は終わりつつある。それはトランプ大統領が内政を優先してアメリカファーストとなるようにアメリカ自体が帝国主義として横に拡張拡大することをやめるようになるからである。
つまり帝国主義とは必ずそうして自国に戻り自国第一となるのである。民主党はグローバリストであり共和党はトランプナショナリストであるくれる

帝国主義は拡張拡大でありグローバリストになるのである。でも結局自国第一になりナショナリストになるのは世界の歴史である。
日本でも明治から日本帝国主義になり韓半島とか満州に進出してそれで第二次世界大戦となり大失敗したのとも似ている。帝国主義は必ずそうして衰退して失敗するのである。これは世界史の法則であり神が関与しているのだからいくら人間が思いのままにしようとしてもできないのであるだからもし帝国主義がこのように実現すれば全世界の一人の王によって支配されることにもなるからである。それは必ずくじかれる。世界史にも神が関与しているから帝国主義というのには常に限界があるくじかれるのである。

ロシア帝国主義もウクライナのへの侵略はそうでありそれも失敗する。中華と帝国主義の一帯一路とかも失敗した。アメリカのグローバリズムも実は帝国主義の変容したものなのである。だからそれも失敗するのである。今のアメリカの混乱と分断はまさにグローバリズムのアメリカ帝国主義がもたらしたものでもあった。結局自らの国がグローバリズムで損害を受けたということもありその中西部の製造業の衰退となった。だからグローバリズムとは形を変えたアメリカ帝国主義だったのである。

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2024年07月16日

米国に勝つの途−内村鑑三はなぜアメリカを嫌ったのか? 【明治時代と今の共通性―外ではなく内に向かう時代】


米国に勝つの途−内村鑑三はなぜアメリカを嫌ったのか?

【明治時代と今の共通性―外ではなく内に向かう時代】

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失われた日本人的なもの

米国の主権者は誰であるか。議会?大統領?しからず。マムモンすなわち財神である。。この神を射殺して米国に勝つことができる

対米問題は実は内政問題である精神的にも実際的にも米国が我に不必要になるまで我らは米国に勝つことはできない

日本人はよし物質的に多少米国人に益されたにむせよ精神的には彼らより多大の害毒をこうむっている
物質欲の奴隷となったその原因を尋ねてみれば主として米国人悪感化によることを何人も否むことはできない

米国宣教師の感化によって日本人の家庭が破壊され少しも顧みられない実例は決して少なくない。米国人は全体として決して日本人の益とはならない。
米国人に頼ることをやめてとも友を他に求めんことを切望する

米国にあるものは金である。金を除いて米国にあるものはほとんどない。哲学らしき哲学はない。美術らしき美術はない。かつて高貴なる精神は今は消えてほとんど跡なしである。
内村鑑三全集28

●内村鑑三はなぜアメリカを嫌い敵視したのか?

内村鑑三アメリカに留学している。また札幌農学校でアメリカ人のクラークからキリスト教をえられている。ではなぜその後こんなにアメリカ人を嫌いアメリカを拒否するようになったのか?
キリスト教でもアメリカの宣教師をひどく嫌っていたのである。まだ留学してもアメリカというのはすべてが金であり金で動くことしかない。

悪いものは米国品ばかりではない、それよりもさらに一層悪いものは米国風である。日本は知らず知らずのうちに米国化されたのである。
過去45年来我が国に流行する文化運動なるものは実はアメリカ化ける運動である。文化生活とはなるべく地上において肉の生活を楽しまんとする努力であってこれはまた現在の米国人の理想とするところである
(米国風一掃せよ)

内村鑑三というとき明治時代の人であり北海道でアメリカ人のクラークから聖書を学んだ。そしてアメリカに留学もしている。だからその当時としてはアメリカに直接行っているのだから世界的視野を持っていた。でもなぜ日本に帰ってきてアメリカ嫌いにったのかそれが理解できないのである。

アメリカに行って確かにアメリカのいい点もあるがそれ以上にアメリカの悪い点肌で感じてきたのである。
だからアメリカはすべて金であるというときもそうである。では日本はそうではなかったのかその時代は日本人の素朴さがまだ残っていたから確かに貧乏であっても日本人的良さが残っていてそれとそれと対比してアメリカは極端にすべてが金となっていることを感じたのである

アメリカは何でも金で動く政治でもそうである。選挙にしても莫大な金が必要であり金持ちの援助なくして選挙にも勝つことができないからである。そしてアメリカから金銭的援助を受けてはならないと何かアメリカのもの受け付けないようになっていた。アメリカの宣教師にしてもひどく嫌っていたのである。

だからなかなかこのことは理解できない。それはまた現代でなぜかというと日本人というのはすでに日本人的なものはない。日本人はもうアメリカ人になったのでありかつての日本人というのもの日本人が持っていた良さというのは見れなくなったからである日本人も今やすべて金でありアメリカ人と同じなのでだからもはやかつての日本人的良さを持った人などいないから比較もできないのである。
だからすべてが日本アメリカ人になった時でわ日本人的なものは何かというとそれも分からなくなったのでだから別に金がすべてだという時それに疑問を持つ日本人もいなくなったのである。

アメリカに戦後15年位現実に仕事をしていた人はアメリカ人になっていて日本人のことを批判している。日本人のいい面を言わないのである。
おそらく日本人といっても日本人としてのいい面を持った伝統的な資質を備えた人などいないのだからただ日本人を批判するだけになってしまったのである
おそらく明治時代には日本人的な良さを持った人が庶民の中にもいてそういう人たちをと接しているからアメリカ人と日本人の違いが明確化したということである今はそんな日本人の良さを持った人などいないのだから比較することもできない。
つまりみんなアメリカ人となってしまっているから何が日本人だったのかなどということ理解できなくなったのである

●外に拡張するより内に向かうことを主張

また内村鑑三は外に拡張することを戒めていた。帝国主義は最悪のものと批判していた。でも日本でも第二次世界大戦で太平洋戦争で帝国主義になっていた。その前に満洲進出があり帝国主義的になっていたのである。だから外の拡張ではなく縦から見て自国の富を見え出して自国中心の経済にするべきだといっていた
それが明治時代にそういっていたからそれは世界がグローバル化した時ならわかるがなぜ明治時代にそういうことを言っていたのかということが不思議になる。ただ内村鑑三はアメリカに留学している
だからまた日本は明治時代は江戸時代が継続されていたとか日本的なものは良いものが残っていたから比較してそう見えたのである。

日本はなぜ退廃してしまったのかというとアメリカの戦争に負けてすべてを防衛ですらアメリカの基地が作られてアメリカ頼りになってしまった。明治時代にはそういうことはなかったから返って日本は独立心を持っていたのである。今や実質的にアメリカに頼りアメリカに支配されることになる。結果的に日本人アメリカ人になったと同じなのである。

ではアメリカは理想的な国とかアメリカ人が理想的な人間とかというとまるで違う。アメリカ自体が今や一つにまとめることができない。アメリカは移民の国でありまず一つにまとめることが容易ではないのである。だから分断してゆくのである。そして銃でもって政府を倒すという権利が与えられているのである。そういう国柄でありアメリカ人は銃を手放さないのである。

だから常に銃による惨劇が起きてくるのである。。アメリカの分断は相当に深刻らしい。何か一つにまとめることが不可能にもなっている。内戦前夜のようにもなっている。何をもって一つにまとめるのかもそれは民主主義とかでも無理だし返って分断されてゆくのである。
だからそもアメリカに習ったということが日本の根本的な間違いがあった。それは戦争に負けて強制されてしまっただから日本人としての良い面は否定されただアメリカ人に倣いとなってしまったのである。だから今は日本人はアメリカ人なのである。

でも明治時代は内村鑑三武士道キリスト教を唱えたように江戸時代の継続がありまた庶民にして日本人的良さを持った人たちがいだからアメリカ人と比較してアメリカ人の悪い点が余計にクローズアップされたのである。
でも今やそんな日本人も居ないしみんなアメリカ人になってしまえば何がアメリカ人の悪い点なのか分からなくなってしまったのである。

いずれにしろ明治時代はさまざまな人物が出て日本を導いたのでそれはなぜだったのか?江戸時代に250年がありそこに培われたものがありそれで明治になった時そうした人物がいろいろと現れたのである文化でも明治になって漢詩一番盛んになったということもそのためある。
つまり日本的伝統が依然として生きていてそれに西洋文明が接ぎ木された時実は新しい日本文明が起こりえた。でもキリスト教は接ぎ木されず日本は大正時代から戦前の昭和は満州進出とか帝国主義的になっていたのである
それが太平洋戦争となってアメリカに負けて終結したのである

●戦後はアメリカに支配されてすべてがアメリカ人になった

アメリカに習うというよりアメリカに支配されたのだから統治されたのだから当然日本はすべてアメリカに習いアメリカの言う通リにするほかなかったのである。
結果的日本人はアメリカ人になりやはりすべてが金だとなってしまったのである。だから今内村鑑三は明治時代に言ったこと内を充実させて外に拡張する帝国主義を批判するということはグローバル経済を批判するのとも似ているのである。
つまり明治時代にすでに今の時代を予見していたともなる。それだけの識見を持ったのはやはりアメリカに留学したということが大きい影響したのである

またただ国が大きいということだけでそれが価値あるとはならないそれはアメリカでもそうだが中国でもそうだしロシアでもそうである文明を作ったものはむしろギリシャのように北海道の2倍くらいしかない国でその内実は豊かな文化あり現代でもそれが西欧文明の元となったのである。
だから大きい国が全て良いという訳ではないのである。対外文化とか芸術が生まれるのは面白い小都市国家でありフィレンツェのような5万くらいの年でありギリシャでも小国であったからだ。だから国土の大きさでそれが必ずしも価値となることはない。たとえ巨大な軍事力を持っていたとしてもそれ自体で価値あるとはならない。その軍事力によって従うということもないのである。

アメリカが巨大な軍事力があり巨大な国土があり資源もありだからといってアメリカから何か生まれたかといえば芸術とかは生まれなかった。哲学とかも生まれなかった。文学とかでもわずかにホイットマンなどがあったにしろやはりヨーロッパとか比べれば相当に劣ったものである。
だからそもそもアメリカに習うということは危険なものがあったのである。それは戦争で負けて強制されたこともあるがそれによって日本人の良さ失われてしまったことが一番の損失だったともなる

●アメリカは衰退してゆくから日本も備えなければならない

つまりこれからはアメリカは分断して行き衰退してゆくのであるこれは間違いないと思う。だからドル基軸通貨となるの困るのである。そのことを観ていないと日本は大失敗にまたなる。だから中国に従うというのではなく日本としての独自の道を開くことが望まれているのである。
つまりアメリカには頼ることができなくなるし日本独自の外交でも経済で必要になってくる
それは戦後70年で80年にもなり大転換が望まれることにもなる。そのためにはやはり歴史を振り返り明治時代でもその当時何があったのか人物でも知る必要はあるのである

いずれにしろ明治時代はから日本は外国勢力によってそれに対抗するために内に向かうより外に向かうことになった。でも明治時代にすでにそうした外に向かうこと内村鑑三は戒めていたことは何なのだろうとなる
だからその時代を見るときひとりの人間から時代を見るということも必要である。明治時代でも色々な人がいてその時代を生きているからであるだから明治時代というと日本は外国と接して外に開く時代だったのに内村鑑三の場合は内に向かうことを主張したことをなぜなのだろうとなる。

ただ明治時代でも40年くらいあるのだからその間にやはり日本でもなんらか変化したのである明治の前期と後期はまた違ったものになっていたのである。でもなぜそんなにアメリカを嫌っていたのかとなる。それはやはり明治時代でも日本的伝統的なものは何か庶民の中に残っていてそのためにアメリカというのをを比較するときアメリカの悪い点が見えたからだとな現在ではもはや見えない

第一日本人的日本人というか日本人の良さを持った人がどういないからである。みんなアメリカ人になった時比較することもできなくなったからである。だから庶民でも金をくれと来て実際その人は家の中に入ってきて泥棒だったのである
そんな人がいるということも驚きだがそれは戦後の日本人だったということも何かといえばただ金である金を取り金を奪う相手でしかなくなったのである。それはアメリカ人になったということである。

だからこそアメリカ中心のグローバル化とか資本主義はアメリカに富が集中するようにつくられたシステムであり公平な世界の市場などではないのでただアメリカでもグローバル化してトランプがを支持する中西部の製造業の衰退になっているからアメリカでも必ずしもグローバル化がよく作用した伴っていなかったのである。

だからこそトランプは国内に中心の経済に戻そうとしたのである。つまりグローバル化というの世界的な経済であれ文化であれ歪みをもたらしたのである。そのことを明治時代に振り返るとき内村鑑三は指摘していることが現代にもあてはめる当てはまるということはやはり歴史は繰り返すということなのだろうか
確かなことはアメリカ中心の世界は終わりつつあるだから日本はこれからどうするのかということを考えねばならないアメリカ一辺倒に世界は終わりつつあるからである。






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2024年07月15日

【滋賀県がピンチ】湖西線は並行在来線として経営分離されるのか? 【新幹線の影響で在来線が苦しくなる―湖西線の旅の回想】


【滋賀県がピンチ】湖西線は並行在来線として経営分離されるのか?
【新幹線の影響で在来線が苦しくなる―湖西線の旅の回想】

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【滋賀県がピンチ】湖西線は並行在来線として経営分離されるのか?

特に高島市の人口は、2005年の5.5万人から2024年は4.5万人に減った。2050年は2.8万人に急減するとの推計もあり、人口戦略会議は「消滅可能性自治体」に分類した。高島市の高齢化率は37.6%と県内市町でトップ。高校生など若年人口が急減し、それが市内各駅の利用の大幅減につながっている

JR湖西線、強風「比良おろし」に翻弄された半世紀 
運行安定性が通勤通学と新幹線連絡特急の課題

私は全国の鉄道を乗っている。ただ記憶として思い出す時忘れてしまう。つまり老人になるとこれまでしてきたきた起きてきたことを経験してきたことを回想することが仕事になる。ただその時記憶が残っていないと回送することもできないのである。だから意外と旅でも記憶する旅をしないと後で回想できないから損するとなる。それで意外と車での旅は記憶に残らないので後で何か回想しても浮かんでこないかもしれない。一番記憶に残るとしたら歩くたびなのである。

なぜこの湖西線は記憶されていたのかというと何かそこは寂しい場所だったのである。訪れたのは秋の暮だった。特に途中の塩津駅とかは淋しい駅である。そこには枯木が立っていたことを思い出す

塩津駅枯木一本通りすぐ

何か枯木が印象に残っていた。

鴨稲荷山古墳の巨大な家型石棺が興味を覚えた。家の形をした古墳だからである。ということは家族がそこに埋葬されたのかとなる。

高島の家形古墳や秋深む

湖西線で一番印象に乗ったのは東の方から東(あずま)の方から秋の太陽が輝き昇ってきたのを見たことである。あんなところから太陽が昇るのかと不思議だった。湖西というとき西なのだから東は名古屋方面なのである。旅をするとこの方向感覚がわからなくなる。福島県の浜通りだといつも太平洋を見ているから太平洋から太陽が昇る。で一旦内陸部に入ると山から太陽は昇るのである。内陸部では山から陽が昇り山に陽沈むのである
日本海だと海に太陽が沈むから太平洋と逆になるから不思議になる。

東より秋の陽昇る湖西より我が見つつも高島に寄る

日本海から滋賀県に入り湖西線で京都の方に行く。でも京都が近いとしてもそこは意外と寂しい場所だったのである
高島市の高齢化率が高いというときやはり淋しい場所になっていたのだろう、でも私が入った時は40年前とかになっていたのである。だから当時とまた違っている

そしてわからないのは比良下ろしとかの風が吹き電車の運行が止まりやすいということである。
それは福島県の常磐線でも冬は西から北から風が吹くので運行が停止することがあるのと似ている
相馬のからっかぜとかあるからだ。ただ旅をして風を感じることは難しい。まして車だと風は感じなくなる。だから意外とその土地のことがわからないのである。風土というとき風と土のことだからである。

ともかく西とつくと何か淋しい感じになる。西会津とかなるとそこも淋しい感じになる。基本的に方角地名が地名の基本だからである。だから湖西線となるとその通りだとなる。

新幹線が大阪―小浜となると湖西線の利用も減る、ただ大阪とか京都への通勤電車でもあるから滋賀県では困るとしている。特急とかは通らなくなるからである。新幹線の新しいルートは琵琶湖が見ないから旅としてはつまらないとなる。
つまり鉄道は情緒があるのだがスピード優先になると情緒はなくなる。旅するとなるとつまらないとなる。ただで来るだけ早く目的地につくいというこてはビジネスとしてはいいが観光とか旅となるとつまらないとなる。
でも北陸新幹線とつなぐことで利便性が高まる。それで在来線は取り残されるとなる。

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2024年07月14日

野馬追いは身分制社会の復活であり今の社会に強制される 【でも誰も参加できないので維持継続できるのだろうか?】


野馬追いは身分制社会の復活であり今の社会に強制される

【でも誰も参加できないので維持継続できるのだろうか?】

●野馬追の行列は参勤交代が現実化するのと似ている

この辺で相馬野馬追というのは重要な祭りとして継続されているでもこの祭りというのも一見ただ過去の再現するだけだと見ている人もいるが全く違う。過去が江戸時代であれ現実に生きてくる祭りなのである。江戸時代の身分制が再現されるのである歴史の保存を第一一にして継続を第一にしているから当然そのとき侍であった身分の者はしか野馬追には出れない
だから野馬追は御行列と言ってただ昔を再現するだけではない。現実の今の社会にその江戸時代であり通用してくるのでだからこの地域だけが相馬氏の殿様は受け継がれて殿様は生きている時場所なのである

現在はそんな身分制社会とか関係ないしそんなものを継続されるべきではないまた復活するべきでもない。ただ一見祭りとして儀式としてしているのかとみるが現実にこの地域ではそうした身分制社会を現実に再現されるのである。
それがただ祭りならばいいななぜ身分制社会を現実に再現して強制されるのかともなる。そのことを本格的な行列が始まる前の段階で自転車で馬の脇を取ったとき馬上から怒鳴られたことで認識した。

まるで参勤交代の行列の前で庶民が頭を下げて這いつくばりシタ二―シタ二ーなる時代の再現なのである。それがただお祭りとしてするならばいいのだが現実社会にまた身分性が復活して強制されるということでもことにもなる。時々雲雀ヶ原で行われる侍フィスタなどはだれでも鎧兜をかぶり参加できる。そうした気楽でないものは野馬追なのである。でも参加者もだんだん減ってくるから維持できなくなるという問題があると思う

●只野氏一族が多いが今の現実社会で身分制を強いるのは問題

いずれしろ確かに鹿島地区などには南朝の末裔である只野氏の一族がこの地には多い。でもそれは歴史的に考証に値してそれが今現実に生きている社会に通用させようとすることは問題である
私は只野氏があり御先祖でありだからそうでないものは私に従うべきだとかなる。そんなことを本気で言っていること自体時代錯誤に陥っているのである。そもそもまた相馬藩にしても相馬氏のことを持ち上げているがそこにはすべて善政がしかれたということでもないのであり一揆が起きていないということは相馬藩は不満な人がいなかったということでもない。ただ郷士が多かったためにその人たちが監視役になり一揆をおこさせなかったのかとも見る

つまり地元では相馬氏のこと悪く言えない雰囲気がある。それが野馬追が現実に江戸時代を再現させて身分制社会が継続すべきだともなるからである。そういう時代錯誤にも陥っているのであるもちろん野馬追には祭りの意味があるそれ自体に反対するわけではないが何かそれだけではない江戸時代の身分制社会を今の時代に再現してそれを押し付けるということが問題なのである

現代では身分制社会を意識することはむずかしい、ただ身分ではなく地位が社長だとか部長だとか会社での地位とかその人の役職とかで人を見る。特に医者は特別尊敬されるとかありまた技術者も尊敬される。でも現代で身分から人を見る人はいないだろう

明治維新後、侍の身分は大きく変わりました。1868年の大政奉還により、武士が日本を統治する時代は終わり、士農工商の身分制度も廃止されました1。その結果、侍は「士族」として新たな身分に分類されました。

明治以降戸籍では侍は士族と記されていた。一般の人は平民と記されていたのである。だから依然として身分制が適応されていたとなる。ただ俸禄も失い苦難を強いられた。原野を開拓して農民になった侍も多い、

また武士のこれに対し、政府は士族の救済にあたり、未開拓地の開墾・移住の保護奨励、官有地の廉価払下げ、資金の貸付など、いわゆる「士族授産」に力を注いだのです。
風刺画「士族の商法」は、当時の商売に失敗続きだった士族を揶揄して作られたものです。

風刺画「士族の商法」を解説!
実は西南戦争を実況した絵画だった?

侍は俸禄を失い相当に苦しいんだ。北海道開拓したのは侍が多い
亘理藩では伊達藩では一族が侍が北海道に移住した。それで伊達市となっている。八沢浦も相馬藩の武士が開拓したのである。
だから妙見の社が田んぼの中にある。
また江戸時代から相馬藩には郷士が多かった。郷士とは侍と農民が一体化した者であり実際の生活は農業だった。ただ一応鎧兜とか旗印が伝えられて野馬追いにでる。だから野馬追では市街地から出るのまれでありほとんどが農家から出るのである。
また侍と言っても下級武士となると生活が困窮していて庶民とたいして変わらず貧乏だったのである。だから内職したりして糊口ををしのいでいたなる。その内職で作られたものがお土産とかになっている。

●野馬追は維持継続できなくなる

いずれにしろ相馬藩の地域は野馬追いがあるために特殊な地域になっている。それは過去の再現であり身分制まで復活するのである。例えばそういう地域が今あるのか?伊達政宗の仙台でもないだろう。京都で時代祭りがあるとしてもそれはただ昔を偲び再現するだけなのである、侍フェスタと同じである。みんだ昔を偲び楽しむのである。

野馬追はこうした気楽なものと違う、他から来た人はわからないかもしれないが江戸時代の身分制社会の復活であり現実の社会に適応される。だから野馬追は誰でも参加できない、武士の出でないと参加できない、つまり野馬追に自由参加はないのである。
となると参加者でも限られていていずれ維持できなくなるかもしれない、前は500騎くらいでて壮観だったが350騎くらいになり神旗争奪戦かなり少なく迫力に欠けた。
なぜなら神旗争奪戦とかなると行列と違い馬を自在に操る技が必要だからみんな参加できないからである。甲冑競馬でもそうである。だからどうしても参加者が減ってゆく、少子高齢化で跡継ぎも減って行く。この辺では津波原発事故で被害がありそのためのまた出場する騎馬が減ったからである。

将来的野馬追いは維持できるのだろうか、おそらく別に侍フェスタのようにただ鎧兜かぶり気楽参加する祭りなら維持できる。それは誰でも参加できるからである。ただ馬に乗るとなると危険でありむずかしくなる。馬自体一年間飼っっていることも金も手間もかかる。だから野馬追は継続されるのだろうか、勝手に誰でも参加できないとなればどうしても規模も縮小してゆく。祭りとしての迫力もなく外からも見に来る人も減って行く
ただこれはあくまでも私自身の見解であり別な見方もありそれはそれで検討すべきである






posted by 天華 at 15:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2024年07月13日

NHKのユイのハマが教えてくれた―民俗学者の福島の6年を見て 【海を汚すなと漁業者が言っても説得力がなかった―多額の補償金をもらっていたため】

NHKのユイのハマが教えてくれた―民俗学者の福島の6年を見て

【海を汚すなと漁業者が言っても説得力がなかった―多額の補償金をもらっていたため】

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●漁業組合員だけ原発事故前も手厚い補償金をもらっていた

NHKのテレビで民俗学者と新地の漁師について放送していた。その学者は実際に船に乗って漁の経験もしている。 72歳なのに実際に船に乗って漁師と同じ経験をしているのは感心した
でも私は漁業者について批判してきたがそのことは一言も触れない。もしそのことを放送したらそもそもは取材すらできないということである取材は確実に断られる

なぜ漁業組合は原発に反対しなかったのかその事が一番疑問だった。それより原発が作られた時すでに事故前から手厚い補償金をもらっていたのである。それでその地元の人はみんな漁業組合に入っているわけでないし補償金をもらってるわけでないから羨ましがっていたのである原発御殿が立ったとか羨ましがられていたのである

そもそもこの辺の漁業は零細であり規模が小さい。福島県は宮城県からすると1/10の規模だったのである。だから漁業だけで暮らしていけることは難しくもなっていた。だから跡継ぎがいないとか問題になっていたのである。経済的にやはりやっていけないということがあった。それで松川浦の人がネットでそのことを訴えていた。
でも原発事故後は事故前からすでに補償金をもらっていたということで見方は変わってしまった。
周りの人は別にみんな漁業をしているわけではない漁港に住んでいても必ずしも今日漁業をしているわけではないだからなぜ漁業組合に入っている人だけがそうして補償金で優遇されていたのかとなる

原発事故後はさらに補償金が大きなものとなり特に船主とかになると多くのお金を貰ったとも言われる。それは事故後だったらやむをえないことがあった。
でも事故前から金を補償金をもらっていたということ海は汚してならないとか神聖な場所とかその漁師が言っていたが実際はお金を貰うことを優先していたのである。
それより漁業というのは津波で確かに大きな被害がありクローズアップされたが全体の経済から見れば農業は1割とすれば漁業などはすでに5%なのか全体の経済に占める割合は極端にこの辺では少なくなっていた。

●農業林業漁業は全体の一割の経済規模にすぎない

そしてで漁業にしても地元で捕れた魚を食べているかといえば全国から魚は入ってきて外国からも入ってきている。なんでもグローバル化しているのだから地元で魚は獲れなくても困らないとなってしまっていたのである。
その点でも漁業であれ農業であれ日本全国ど競争したり外国と競争しなければならなくなったのがグローバル経済だったのである
するとまず地元の農業であり漁業であれ林業でありその従事する人はわずかでしかなかったそして地元でも浪江の人は電気関係で働いていて東電で働いていたりしたら原発事故で避難区域になって周りが草ぼ茫々になってもまったく無関心だったのである。そして補償金が入ったから老後の足しになるとか助かったと言っていたのである。

つまり今の農業とか林業とか漁業は全体の占める経済の割合は1割とかにも満たない。実際の収入は会社に勤めているとか東電に勤めていてお金をもらっていたとかなるのである.漁業となると1パーセントくらいになるのか全体に占める割合はわずかななおである。確かに松川浦だと大きな港がある。漁船も多い、でもガスの基地にもなっている相馬市と新地町の合同の火力発電所もある。それの方が経済規模が大きいともなる。

むしろ漁業関係者などは東電社員の一員になったのではないかと思う。漁業権を売り渡すことで原発が作られてその代わりとして事故前も手厚い補償金をもらっていたし事故もそうである。
つまり明らかに東電社員になっていたのである東電という巨大企業は一地域自治体に入ってきた時東電城下町になってしまったのである。ただ事故になったとき盛んにその被害が海とか土とか森に放射線被害がありそれで話題になり放送されたのである

●放射性物質の処理水を海に流すでも補償金を要求するのか

だから矛盾しているのである。なぜなら放射性物質の処理水を海に流すと漁業組合は反対する。
でも現実問題としてそのために補償金が割増されるとなるのである。それはあくまでも漁業組合にでありそこに入っていないものはもらえないのである。それだけの特権が漁業権として持っていたのででもそれだけの特権があるからこそまた責任が問われたのである、

つまり新地の漁師も金の為ではないと言っていた。海を汚してはならないと言っていた。つまり金のために反対するのではないと言っていたことでも何か漁業組合関係でも常に優先的に補償金がもらえるということで気にしていてそういったのである。
もともと漁業組合が原発に反対したら建てることができなかったからである。つまり漁業権という権利を持った時そこに大きな責任も課せられたということが事故後に自覚されたのである
ともかくNHKの放送はきれいごとで終わった。本当の問題の核心に迫ることはなかった。またそんなこと放送したら取材さえ許されないからである

この辺の津波のことで一番大事なことは何回も私が指摘している慶長津波で生波(津波)で700人溺死したという相馬藩政記に記されていた二行の記録だったのである。
このことを民俗学者であれ郷土史家であれ指摘する人がいなかった。民俗学者は津波のことで何もできなかったことと反省しているがこの二行は全く忘却されていたことが大問題だったのである。それで郷土史というのもただ単に好事家がするものでもないと知ったのである。生死にかかわる重大のものが郷土史でもあったということである。

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2024年07月12日

赤とんぼを海岸で見た再考 【人間の五感の衰えー鐘の音で知る時間感覚】

赤とんぼを海岸で見た再考

【人間の五感の衰えー鐘の音で知る時間感覚】

夏の終わりの暑さがやわらぐ頃、成熟して真っ赤になったアキアカネが山から群れをなして下りてきます。そのため、真っ赤になった赤とんぼ、つまりアキアカネを見て「秋だな」と感じ、赤とんぼが秋の季語になったのです。

日本人は季節に敏感である。だからそこそ季語を中心にした俳句が生まれたのである。季語なくして俳句はありえないからである。

季節の変化−海の方に赤とんぼが飛んでいた
 【尼鷺の一群を見たーAI俳句―夏の月】

3日前にこれを書いた。赤とんぼがすでに海岸でかなりの数飛んでいたのである。それは早いとも見た。なぜ早い時期に赤とんぼが飛んできたのかということである。それはこの二三日かなり涼しくなったからである。そして海の方だと海風が涼しいから余計にそこに集まった。熱いうちは涼しい山の方に秋赤とんぼはいるか涼しくなると平地に降りてくるからである。その平地でも海の方に飛んでいたのは涼しい所だったからとな
だからこの二3日涼しくなったの敏感に赤とんぼが感じたのかもしれない。つまり赤とんぼは天気予報を見て行動するわけではない。本能的に行動するのである。人間というのは今すべて科学的に機械的にそれでもって季節でも判断するようになった。でも何か自然を見る感覚が衰えてしまったかもしれない。



鳥が飛ぶ方向を本能的に知る能力は、主に「磁気感知」と呼ばれる仕組みによります。鳥の脳には地球の磁場を感知する能力があり、これを利用して方向を知ることができます1。この能力は、特に長距離を移動する渡り鳥にとって非常に重要です

動物は本能的に備わったもので生きている。人間はその本能より今や科学技術によって生きているのである。だから何か季節を感じるにしても常に天気予報を見ているわけである。その方が確実だからである。天気予報が無い時代はどうして知るかとなれば何かの兆しがありそれに敏感になる

一方,日本語の haru は,韓国語の接尾辞の -mが韓国で発達する時代より先に日本に伝来し,paraが paru となり,さらに paru が haru に変化したと考えられる

ハルは大地を「墾ル」(はる)作業にもとづく語で,ナツは「田に水を引くこと」,アキは「稲が稔り収穫すること」,そしてフユは御魂(みたま)のふゆ(増殖)のたまものと,霊魂の復活を表すことからきているという。要するに,ハル・ナツ・アキ・フユという大和ことばは水稲耕作にかかわる語で,大陸からもたらされた暦の知識によって四季観として整えられ

,西行の『山家集』,秋歌に

おしめども,鐘の音さへかはるかな霜にや露の結びかふらむ

これは秋のおそらく早朝であろうが,「鐘の音が,昨日までの早朝と比べ変わった。その日以前は,朝方には鐘に露が結んでいなかった。が,(季節が進んで温度がさがり)鐘に霜が結ぶよう
になった。そのために鐘の音が違ってきた。

季節感・季節観と季節学の歴史


春が韓国語のparuからきているのか?音からすればそうなる。なかなか韓国語と日本語の共通性がわかりにくい、なぜならパルが春としてフランスのパリもまた同じ音になるからである。でも感覚的にはこれは当たっているのだろう。

おしめども,鐘の音さへかはるかな霜にや露の結びかふらむ

鐘というのは今それで時間を感じない、時たま鐘の音が聞こえるときがあるが今鐘で時間を感じていない。だからこの歌は理解しかねる。鐘の音が変わって聞こえるというとき春に聞く鐘と秋に聞く鐘の感覚的相違になるのか?それは時報とかだったら同じになる。何か鐘の音は大地に山に響き心に響き余韻を残す、だから時計で時間を知るのとは相当に違うのである。
おしめどもというとき鐘の音が消えるのが淋しいともなる。鐘の音は何か深い余韻を心に残すのである。
だから鐘の音だけで時間を知った江戸時代の感覚は今とは違っている。

御寺古り鐘の響ける春の野に余韻の深く夕べ帰りぬ【自作】

2024年07月11日

グローバル化の円安で日本は日本にある富を基にする時代へ 【自国にあるものを持って豊かな国にする】


グローバル化の円安で日本は日本にある富を基にする時代へ

【自国にあるものを持って豊かな国にする】

常に土地の必要に鑑み天然の法則にしたがって土壌の産出力を損なわざrんことのみ、これつとめたとのことせある。
故に世の気運に乗じて一画千金の利に博したことはないが
しかし彼の土地は徐々にとしてその肥沃を増して彼はそのために年を経るもかつて一回の不作を嘆じることなくまた将来に対して何の憂慮の懐くべきもないということである。
【内村鑑三全集ー12】

米西戦争以後のスパイン国の状態である。キューバを失いプエルトリコ奪われ、フィリッピン群島を売り捨てしめられスパインんは域に入ったのである。トレード、アンダルシアの豊富なる鉱山は再び開削され、ムルシヤ葡萄園は前時に優る豊熟を来たし欧州の西端自己を持って足れりとする一楽園は起こりつつある
これをもって見るも捨てるべきは帝国市議である。他国を侵略するは者は自国を放棄するものである。
帝国主義は心配と労力と出費の多くして平和と安心とはない
【内村鑑三全集ー12】

世界大航海時代とはヨーロッパ富を求めてアメリカ大陸またはアジアに向かって進出した時代である。そこでインカ帝国は滅ぼされマヤ文明が崩壊してして黄金を国に持ち去ったがそれで国が豊かになったとはならなかった。黄金がいくらあっても実際は豊に慣れない,鉱物でも自国にあれば豊かになる。
またイギリスでも七つの海を制したが今では自国の経済は低落させるだけである。そもそもイギリスは島国であり耕地が少ない、
アイルランドとかなるとジャガイモがとれずジャガイモ飢饉となりアメリカに移住した。その子孫がケネデイ大統領だった。

つまり土地が狭く肥沃でなかったのである。イギリスは寒い地域であり果物でもとれない、地中海沿岸は温暖でありオレンジとかとれる。つまり食料でも輸入しなければ得られない国なのである。その食もフィッシュアンドチップスとか貧しいのである。
それだけ豊富な食材がないのである。
ただ石炭などが採れて蒸気機関車が発明されて工業国家となったことがスぺインとかと違っていた。

ともかくイギリスはフランスとかドイツと比べると寒い国だから食糧に恵まれていなかった。ただ大航海時代七つの海を支配して外国から貿易でそれも一方的な略奪的な貿易で豊かになったのである。だからこそポンドは世界の基軸通貨となり今のドルと同じだったのである。それがなぜ衰退したのかそれは自国内富ませるものがなかったということである。
フランスとかドイツは広い耕作地帯があり農業大国でもある。

オランダもまたイギリスと似て国土が狭いから貿易で商業で富ませるここなかった。それで船の技術が発達して世界の海に乗り出して日本までおきたのである。その船の技術が風車の技術も利用していたということもある。結局その国富を作るのは自国になければその富は一時的なものとして終わることを歴史は証明している。なぜロシアと中国とかアメリカが強いのかそれはそれを広大な土地がある農業国であり資源国であれ自前でまかなうことが出来るからである。

確かにグローバル化とか自由貿易は一時的にはその国を豊かにする。でもそれは一時的である持続可能なSDGs社会ではない。それは一時的繁栄として終わる。持続できないのである。
戦前に日本はアメリカに生糸を輸出していたがそれも戦後になると時代が変わり衰退したのである。輸出に頼ればどうしても持続できないのである。

だから円安になると外国から物が買えなくなる、そしたらどうするのかとなり国内にあるもので賄うほかないとなる、すべては無理であってもそもそも外国の物が買えなくなるからそうならざるをえないのである。膨大な耕作放棄地であれ森林資源であれ再び利用するほかなくなる。輸出とか輸入に頼るグローバル経済は危険なのである。
ただすべての貿易を否定づることではない、貿易は必要なのである。それが過度なものになったから問題だったのである。日本の食料自給率が30パーセントとかなると異常である、他の国は食料自給率が高いからである。だから最初に日本が飢饉なるとも言われるのである。

ともかく株の上がり下がりとか為替の上り下がりに一喜一憂するのも落ち着かないから嫌になる。

故に世の気運に乗じて一画千金の利に博したことはないが
しかし彼の土地は徐々にとしてその肥沃を増して彼はそのために年を経るもかつて一回の不作を嘆じることなくまた将来に対して何の憂慮の懐くべきもないということである。

この方が精神的には安定する。【恒産有る者は恒心有り】になる
目まぐるしく時勢に飲み込まれその指針が常に揺れ動いているのが現代である。また一攫千金を夢見たり株にはそういうことがる。でも貯金も安心がなくなる。だから体力と土地がありそこに確実に収穫が得れれるとなる方が安全だとなる。
資本主義とかは変動が激しすぎるのである。グローバル経済でもそうである。中国が景気いいと思ったら衰退が始まり日本と似たものともなる。その変化が激しすぎるのである。だから現代が精神の安定も得られずに何かに追われて安定せずに精神が病むとなる。だから現代は逆に狩猟的世界から安定した
cultivate-cultureの時代になる.それぞれの土地を国を耕して文化を再生するルネサンスの時代になる




posted by 天華 at 17:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2024年07月10日

劣等感を持たない人いない 【人間は劣等感を解消できない―劣った人が神に選ばれた不思議】


劣等感を持たない人いない

【人間は劣等感を解消できない―劣った人が神に選ばれた不思議】


●学校で勉強できなくて異常なほど劣等感を持つ人

人間はなぜ劣等感を持つのか。人間はそもそも他者と比べれば何か劣っているものを感じる。それはあらゆる面でそうである。体力でもそうであり体力のない人は体力がある人を羨ましいと思い劣等感を持つ。逆に勉強ができる人を勉強ができない人は劣等感を持つ。
その人は大工さんでありなぜその人が異常なほど劣等感を持つか。それは学校の時勉強はできない事が原因となり異常なほどの劣等感を持つようになった。それは自分自身でも学校では勉強ができないから劣等感を持っていた。

だからその人は高校出て大工さんになったが普通の大工さんと違って庭師にもなったし壁塗りとかとかいろいろなことをこなせる仕事ができる・そんなに色々なこともできる人いないからそれだけで相当に優秀だとみた。でもその人が学校で勉強ができないということに相当に劣等感を持っていたのである。だからなんとかのし上がるため努力したのである。

それでも異常なほどに劣等感を持っている。だから私が本を読んでいたり何か知識的な仕事をしていることに対してその人は理解できないから劣等感を持つ。それで本を捨てた方がいいとかそんなことまで言うのである。私はその人をいろいろなことができるのだから評価して褒めていたのである。でもその人は知識的なことをわからないから劣等感を持っている
ただそれを発条にして人一倍努力したとはなる

ただ人と比べるときなんだか必ず人は劣等感を持つ。なぜなら人間は知識でも一部分しかわからないし仕事にしてもごく一部しか担当してその他のことはわからないからである。あらゆることに通じている人間はいないのである。そのために他者と比べて私はそのことができないとかそれで劣等感をを持っていたたらきりがなくなってしまう。

●あらゆる人が女性でも劣等感を持つ-劣等感を解消することは不可能

その豆腐屋だった女性はその仕事に対してやはり劣等感を持っていたみたいだ。でもその人は息子が医者になったりして相当に恵まれているのである。でも豆腐屋だったということでそれは職業として下位のものとして見て劣等感を持っていた。女性でも劣等感を持つ人は必ずいる。

ただ奇妙なのは私の姉の場合看護婦の免許を持っていたし自分は常に優秀だと自慢していたのである。そして他者を劣ったものと見ていたのである。そういう人は珍しいと思う。自分の家族のことだから悪くは言いたくないな客観的に見るとこれも異常なことだったかもしれない
そして最後に私は優秀だったと言って死んだのである。実際は認知症になり馬鹿になり死んだのだから最後に私は馬鹿ではない優秀だったということ強調したかった。だから悲惨だったのである。それほどまでに優秀ということにこだわっていたのである。これもなかなか理解できないことだった。ただ家族としては家につくした人でありなかなか批判はできない。でもこれも何か異常だったのかともなる
ともかく人間は劣等感を持たざるを得ない。その理由は人間のできることは極わずかでありあらゆることができる人あらゆることに通じる人などいないからである。それで人と比べると必ず自分にないものがありそれで劣等感を持つ。

つまり劣等感を解消するということは不可能になってしまう。他者と比べれば必ずできないことがあるそれで劣等感を持つとしたら解決不可能である。
ただ劣等が恐ろしいのは社会に対してその劣等感克服するために社会に認めさせるために実際に行動することである。ヒットラーは画家になりたかったが画家になれなかったので政治家になりそれでその劣等感を克服しようとしたのである。だから劣等感というのは怖いものを持っているのである。
池田大作にしても何か大学を出ていないということで世界中に金をばらまいて博士号をもらっていた。何か大学というのも特別なものとみてそれで拘っていたのである。別にその人は大学出なくても相当に能力があった人である。だからなぜそれほどまでに博士号もらうことにこだわったのかとなそれはやはり劣等感を持っていたからだとなる。

●神が選んだのは返って劣っていた人だという不思議

いずれにしろこの世の中で劣等感を持たない人はいない
知識にしても膨大でありその一部しかごく一部しか理解できないするとそのことで劣等感を持つのである。だからほとんど人間で劣等感を持たない人は人はいないようにも思う。何かしら他者と比べれば知らないことがありそれで劣等感を持つ。別に豆腐屋でも立派な仕事でありその息子は医者になったのだから劣等感を持つ必要はないとみるがそうでもなかったのである。
あらゆる仕事で劣等感を持っている人が多い。また学歴とかでもこだわり劣等感を持つ。文系の大学などただ大学という場ににいただけであり何も勉強していないということがある。だからなぜ大学というだけで私は大学を出ていないとか劣等感を持つのかとなる。

つまり劣等感を持つということはきりきりなくあるということである。そうなれば人間は劣等感を解消することができないとなる。また国の間でも人種でも優劣があり白人は優れているとかヨーロッパ人は優れているとかありそれで劣等感でではなく差別するのである。人間は神から見れば神は差別しない。神はどんな人種であれ国であれその中から選ぶのである。
不思議なのむしろ劣った人間を選んだ。旧約聖書でも神に選ばれたという人は普通の人よりもを劣った人だったのである。他に優秀な人がいたのに劣った人を選んだという不思議がある。だから奇異なことだとなったのである。
心が貧しい人は神を見るだろうというとき貧しいというのは富のことではなく心が謙虚な人何も自分には誇れるものはないという人のことを言っていたのである。
そういう人神を選んだとなる。そのために天才となるとあらゆるもので恵まれているから神はそういう人を選ばなかったのであるむしろ恵まれない人こそ何も誇れるものがないと思っている人こそ神にに選ばれたということである

●人間の不満とか劣等感は社会を変えても解決しない

ともかくあらゆる人が劣等感を持っている他者と比べれば必ず何か足りないものがあるからである。それが人間にとって変わらない大きな問題である。劣等感は別に人間が存在していた時からあった。なぜなら狩猟時代であり狩りうまい人が居るが下手な人がいてそれで劣等感持つようになるからである。
つまり劣等感は人間から解消できない、これは人間は病気のことやいろいろなことを科学技術とかの発展で解決してきたが劣等感を失くすことは不可能である。そこに人間の絶望があるとなる。

またルサンチマンなども解決できない、なぜなら何か不満がありそれを社会のせいにする。社会が悪いとなりその不満を吸収するのが創価とか公明党か他の野党にもなる。要するに社会を変えればその不満も解消できると思うからである。でも現実は必ず不満な人がいていくら社会を変えても共産主義国家になっても平然として社会から不満は消えることはないのである。ただ一部の者は中国のように特権階級化するだけである。

つまり社会を変えて劣等感とかルサンチマンは解消できないのである。
それで奇妙なのはまた最近AIの進歩して人間よりりAIが優れているとなるがでも別にそのAIに劣等感を抱くことはない。ただ一時機械に仕事が奪われたとして機械の打ちこわしということが起きた。それは別に劣等感とも違っている現実の生活に影響したからそうなったのである。現実の生活に影響したからそうなったのである。 劣等感を持つというときそれは人間に対してあり機械に対してではない。いくらAIは人間より優秀だからといってAIに劣等感を持つ人はいないのである。劣等感とかルサンチマンはあくまでも人間に対してもつのである。
とにかく人間の問題はいくら社会を改革して本質的なところで改革できない。それは劣等感とかルサンチマンはなくならないからである。

2024年07月09日

季節の変化−海の方に赤とんぼが飛んでいた 【尼鷺の一群を見たーAI俳句―夏の月】


季節の変化−海の方に赤とんぼが飛んでいた

【尼鷺の一群を見たーAI俳句―夏の月】

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サギ科の鳥。全長50センチくらい。羽色白色で、繁殖期には頭・首・背などがきつね色になる。くちばしは黄、足は黒色。日本では夏鳥で、水田や湿地帯でみられる。猩猩 (しょうじょう) 鷺。

尼鷺に一群移動し我が里に
紫陽花や夕べ川岸の道に咲く
草深く川面に映す夏の月

異常な暑さだけど今日朝に海の方に行ったら赤とんぼかなりの数飛んでいた。今これ赤とんぼ飛ぶのかと見た
赤とんぼの修正は暑いときは山の方に居るらしい。だから夏には見かけないのである電話今日はなぜ赤とんぼは海の方に富んでいたどこそれは昨日まあ結構涼しくなったからなのだろうでも今日も曇っていてフィルム蒸し暑いのでやはり30度くらいあるかな涼しいとは言えないではなぜ赤とんぼが海の方で飛んでいたのだ確かなことは海の方はふみかす枠から涼しいから集まるということでだから早め暑いにしても海の方に集まったかもしれんはい会議

それから4日前頃尼鷺の一群が飛んで来た。アマサギは北海道から移動する。寒い時は北海道にはいない。普通は冬でも鷺はいる。でも冬は北海道にははいなとなるのか、何故なら尼鷺は冬に沖縄に移動する。それで沖縄では冬の季語になっているのである。ともかくなかなか尼鷺はみれないだろう。それは移動するから見れないのである。

いずれにしろ異常な暑さで熱中症のようになった。この暑さは8月でも続くの続くのだろうかもし暑さが続いたら体がおかしくなってしまう
でももしかしたら8月はそんなに熱くならず秋が来るのは早いかもしれない。それが海の方で赤とんぼが飛んでいたことである
俳句もなんかあまりに暑いと風流どころではない。
ただどうして暑さを凌ぐかということは先決であり風流はやはり余裕がないと生まれない、暑すぎたり寒すぎると風流も亡くなる

水面にゆらゆら嗤ふ夏の月
町中を走る流れよ夏の月

AIが作った俳句でありこれもそれなりに俳句に成っている。

町中を走る流れよ夏の月

これは涼しさを感じる、一見単純だがこれもそうさくなのかもしれしれない。だからAIは芸術とも関係しているのである



2024年07月08日

本を集めるだけで後で役に立つ 【引用は創造的作業である】

本を集めるだけで後で役に立つ

【引用は創造的作業である】

本は集めることで価値が出てくる。本は簡単に理解できない。その道の専門家な書いているからなかなか理解できない。本を読むということはただ読んんだけでは身につくものはない
本が活きるのは自分の文脈で引用したりして活かすことである
ただ引用するだけでその人の創作的表現がなければその引用も生きてこないのである。だからこそその人の言いたいことが主になり引用はその人の文章に従属したものとし表現されなければならない。そのとき引用された文も生きてくるのである。
それは新しい創造にもおなる。

それでギリシャのことについて書いたがそこで引用した文が生きたのである。それは自分自身にとっても何か不思議だった。というの本を集めてその本を読んでいなかったということである
ただ私がギリシャに直接旅したことでギリシャを実感的に知ることがなかったのでそのことを理解したのである

いずれにしろ膨大な本があってもなかなかその本読んで理解することは簡単にできない。それはなぜなのかとなると外国など理解するには本ばかり読んでいたら理解できない一回でも外国に実地に行ってその土地を踏んだとき実感するからである

だから50歳でバックパッカーになって外国を回った経験は貴重だった。なぜなら今になると体力も衰え気力もなく外国に行けなくなったからである。
つまり50代だと結構厳しいこともできる。でも60代になると何らか持病が出てくる。私自身は60代になって病気になりまた親の介護ではや旅すらできなくなったのである。
ただこれだけ旅したのだから悔いはないし満足だとなる。とにかく何かするにしても人間はいろいろな事は出来ない。たちまち時間は過ぎてしまうからである
だから20代ではもっとも厳しいことができる。でもその時期を逃すとそうした厳しいことはできないとなる。若さたちまち消失して行くのである。だからみんな老人が人生を振り返り大したことが人生ではできないものだと反省するのである。

自分の場合会社勤めもしなく自分のやりたいこと興味のあることを追求してきた。それだけ自由に生きたとしてもそのやれることは大したこともなかったのである。
だから会社勤めしているわ一生は会社に捧げられたとなる
では退職してからやりたいことをやる自由に生きるといってもその時間は限られている。何かやるにしても人間とは結局積み重ねなのである。何か新しいことをやるにしてもこれまでの積み重ねがないと実りとはとはならない
だから自分の興味あることその本を収集することも無駄ではない。なぜなら後でその本を理解し引用するということがあるからである。

ともかく外国でも一つの国を理解すること自体相当に難しい。地歴とか風土とか様々なものは関係しているから難しいのである。ギリシャの北海道の2倍くらいの面積しかないというときそれも意外だっただった。そんな狭い土地で文化が生まれたということである。むしろその狭さは有利に働いたのかもしれない
ギリシャのポリスにしても1万くらいの人口でありそうなるとそれぞれの顔も知っていると人間関係も密になる
ソクラテスが対話を中心にしたのはそういう事情があるかもしれない。何か一方的に強制的に教えるのではなく必ず議論して真理を探求したということである
それは国が大きくなればなかなか出来ない。今や国が大きくなりすぎて民主主義も成り立たなくなったというのは国にしてもその規模が大きすぎるからである

ギリシャの国土が北海道の2倍くらいしかないということそれは意外だった。だから国土が小さくても文化というのは生まれる。むしろ国土は小さいほうが文化は花咲くとなる。それでフェレンツとか5万くらい人口であれだけのルネッサンスが芸術が花開いたということである。
でも1000万の大都会から文化は生まれないのである。天才でも不思議に大都会から出ると思う出ていないのである。それはなぜなのかとなる。何か小規模な世界だとアイデンティティかしやすいのでーそれは自然でもそうであり自然と一体化してゆくということがある。その規模が東京のように1000万とかなればもはや不可能になってしまうのである。。


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栄光の残滓を見るギリシャ紀行 
【ギリシャの遺跡は過去のもであり現代に活きていない】

神々とエーゲ海の誘惑 ギリシャ 森本哲郎編集
【参考にした本】




2024年07月07日

さくらのレンタルサーバーの不具合が回復

さくらのレンタルサーバーの不具合が回復

さくらのレンタルサーバーが攻撃されたのではなく
桜の会社でハードディスクの交換とかしたらしい
だからすぐに回復した、でもインターネットは一瞬にして記録されたあものが消えるのが怖い
だから安全対策が大事になる。バックアップとかでもそうである。