【知識人が憎まれた理由ーAI化でかわる労働●毛沢東の文化革命、カンボジアの200百万虐殺の恐怖
960年代半ばでは、ポル・ポトは、カンボジアを強大なクメール王朝の「神話的な過去」に戻し、外国援助と西洋文化のような不健全な影響を根絶して、農村社会主義を復元するといった目標に沿って、マルクス・レーニン主義における自らの思想をカンボジアの状況に適合するように再構築した
クメール・ルージュ政権は頻繁に、専門家、知識人、仏教僧侶、少数民族だけでなく、カンボジアの旧政権や外国とつながっているという疑いで誰も彼も逮捕して処刑した。型にはまったように、眼鏡をかけたり複数の言語を話したりといった特徴で知識人と見なされれば、クメール・ルージュに反抗するおそれがあるとして処刑された[71]。、ビジネスリーダー、ジャーナリスト、学生、医師、法律家に加えて、それまでのカンボジアの軍、政治指導部の粛清につながった
医者や教師、公務員などの人たちは問答無用で知識人の対象として扱われましたが、そのほかにも以下のような理由だけで、連行の対象になったそうです。しかも家族ごと。
都会に住んでいる
メガネをかけている
自営業を営んでいる
毛沢東思想でも文化大革命でも同じようなことが起きた。今なら中国でも都市戸籍をもている人と農民は持てないので差別がある
農民中心のしゃかいだったらならなかったのである。
文化大革命とは、毛沢東と彼を支持する学生たちが起こした共産主義革命である。毛沢東の継続革命論に感化された知識層の学生らは紅衛兵と称して暴力的な革命を試みた。
毛沢東に扇動された紅衛兵は毛沢東の政敵である共産党の幹部、役人・教師、地主や親までも弾圧の対象となり、犠牲者20万人から50万人とされ、被害者は1億人に上ると言われている。なお、文化大革命の後、紅衛兵の学生らは、下放と称して辺境の農村部に強制移民させられた
また知識層を信用していなかった毛沢東は、下放と呼ばれる知識青年の再教育制度を行った。下放により、毛沢東を熱烈に支持した2000万人を超える青年たちが辺境の地に赴き、慣れない手つきで農作業に従事した。絶望的な貧困に直面し、毛沢東の死後、1000万人が、都会へ逃げ帰ったと言われている。
何故こういうことが起きたのか、その時代は農民中心社会であり額に汗して働いている人が多数だった時代である。
そこでは知識人とか
ビジネスリーダー、ジャーナリスト、学生、医師、法律家に加えて、それまでのカンボジアの軍、政治指導部の粛清につながった
こういう人達が粛清された。医者も入っていることに驚く、こういう人達は知識人でもあり楽しているとみなされた。つまり農民からみればそう見えるからである。だから国を支えているのは農民であり知識人は楽していると見られたのである。医者は別にそうでなくても特権階級にみられたのかもしれない、このことが何か特殊なことに見えるが今でも現場で働く人たちと事務とか設計しているとかの仕事に分かれる
設計している人達は冷房にきいた室内で仕事しているが建設現場で働く人は炎天下でもはたらくとか過酷だからである。
農民も外で働くから老人が畑で熱中症で死んだとかある、建設現場でも危険であり事故で死ぬのが多いのである
だからこういう対立は今でもある。
●現場労働者の苦労から知識人の排斥
大工さんというのも現場仕事であり高い所で仕事することがあり危険である。だからその人は私に向かって本を捨てろとか何とか知識人であることに憎悪していた。お前は本ばかり読んで文を書いたとしても楽だと見られたのである
別に古代から知識人が時に為政者に憎まれたことあがある。
始皇34年(紀元前213年)、博士淳于越(中国語版)は郡県制に反対し、いにしえの封建制を主張した。丞相の李斯は、儒者たちがいにしえによって体制を批判していると指摘し、この弾圧を建議した。始皇帝はこの建議を容れて、医薬・卜筮・農事以外の書物の所有を禁じた「挟書律」を制定した。
ここでは医薬はのぞかれている。農業させるために下放されたというのも毛沢東思想であり今の習近平首相もそうなのである。
トルストイでも手を見てその人を判断した、農民として仕事している人の手とそうでない事務仕事と化している人の手は違っているとして判断した。
トルストイによれば、ロシアは農民の国からわざわざプロレタリアの国に変わる必要はないこと。彼が最も道徳的で正しいと考えたのは、どの国においても農民の生活だった
ロシアと中国も農民が多数であり当然そうなった。マルクス主義はその農民社会に適合したのである。その後の工業社会ではない、土地を基盤とした農業社会に適合して革命になった
毛沢東革命も農民社会があり農民を基盤にしていた社会だから起きたのである。
丘や聞きく、国くにを有たもち家いえを有たもつ者ものは、寡すくなきを患うれえずして均ひとしからざるを患うれう。貧まずしきを患うれえずして安やすからざるを患うれう、と。
均ひとしければ貧まずしきこと無なし
こういう思想はもともとあった。ただ共産主義国家は等しく貧しくなり豊かになれなかったのである。金融資本主義になったとき反発される、ただ数字をそうさして莫大な富が一部の人にはいるからだる。
●労働の機械化ロボット化AI化で起きること
いずれにしろ危険な重労働から人間は解放されるのか、労働というカルマから解放されるのか、それがAIとかで返って知能労働者が不用になってくるというのも何なのだろうとなる。
むしろ肉体労働であれエッセンシャルワーカーは代わりになれない、それでも自動運転とかロボットが改良されれば現場の仕事も肩代わりする。すると別に現場で働く人も知識階級とかを楽なものとして恨むことがなくなる。
実際なぜニートとかこれほど多いのか、それは社会に余裕があり家族でも養っているからである。
私自身にしても家事を全部してプログでも書けるのは全部機械化しているからである。
なぜなら戦前であれ戦後十年くらいは電器製品がないから家事だけでも重労働になる。それで私の母が東京で女中していたように女中を裕福でなくても雇っていたのである
だから機械化ロボット化AI化で人間は嫌な労働から解放される
その時知識人でも現場で働く人から責められることもなくなる
ただ労働自体はなくならない、人間にとって負荷が大きい肉体労働はなくなる。それが理想となる。そうなれば知識人でも現場で働く人から責められないからである。
そして人間は何をするのか遊戯をする人間になるかもしれない、
遊ぶという価値が増大する、何かAIとかでもそれはコンピューターが成すのであり人間は何もしないとなる。
つまり人間の出番がなくなる。それも不思議な世界である。
絵や詩までAIが作るとしたら人間の価値は何なのかとなる
ただその時現場で働く人も機械化ロボット化するときブルーカラーの人の知識人とか事務員とかトルストイとか毛沢東の思想のようなものは消失する。
ただSF的なものとなるがそこにもやはり矛盾が生まれ人間の問題は解決しないのである。仕事がなくなれば金だけではない生きがいとして仕事を与えてくれともなるからである。
●人間は金でなく仕事そのものをしたい人がするのが理想
そもそも金にならなくても人間は生きがいを求めるから仕事は必要なのである。それは強制されたものではなく自主的に仕事するものとなる。・
そもそもに天職についている人などどれくらいいるのだろうか。金のために働いているのはほとんどではないか、せいぜい1割がいればいい方だろう。もしその人の天職があれば金を払っても仕事する
ソローが森の生活をしたのは金のために働くことしたくなかったからである。
だからこそ機械がロボットが代わりに仕事すればいいとなる。
自分自身も流れ作業とか建設現場の危険な仕事しかなかった。
大学を出ても旅と学問とか芸術とか追求して終わるとなる。そこで金をもらったことはないのである。あとは教師のまねごとをしたがそれも失敗だった。
つまり人間は本当に天職についている人がどれだけいるのかとなる。医者でも親が医者になるとかでなるとかその人の適性を考慮しないからである。
ただ正直何が適正なのかわかりにくいのである。
ソローが言ったようにほとんどが強制されて金のために仕事している。すべての仕事の成果は金で計られるのである。
あなたは立派な仕事しましたとかその価値を認める人はなかなかない。リホームした大工さんは立派な仕事したから認めている
その人の天職だったのかとなる。実際は天職についている人がどれくらいいるのか、これだけ仕事が多様化したとき個々の仕事が見えないのである。
だから現代では仕事についている人はかえって部品のように見える。人間が巨大な複雑な社会の一部品となり卑小化されるのである。その部門でいくら優秀でも巨大な社会の一部品になっているからである。
それでニーチェのような超人志向になったりヘンリーミラーとか上野霄里(しょうり)氏の原生人間とか何か全人間をトータルに生きるエネルギーに満ちた天才だとなる
何か人間でも無数の細胞がありその一つの細胞を見ているだけだとなる。何か共産党では党員は細胞というときもそうである。
創価とかカルト教団でもそこはただ一票とみられるだけであり後は何もない、一人など一票でしかないのである。無数の大衆を相手にして大衆を操作するためにある、ファシズムになるのが現代なのである。
●機械がAIが主役で人間が補助役になる
ともかくAIというものでも絵画を詩すら作るのに驚く、でも何か自分で創造した感じがない、だから達成感みたいなものが生まれないのである。コンピューターの価値は高くなるけど人間の価値は低下してくるのである。
それで奇妙なのは田植えでも機械で今しているがそれでも端のほうが全体でできないところがありそれは手で植えている。
中国でも膨大な麦を刈り取るがそれでも地形的にコンバインでできないところを前々から出稼ぎに来ていた人がコンバインでできないところを刈り取っているのである。
だからいくら機械化されても人間のすることはある。それでも何か機械の補助役となり主役でなくなる。
それはAIの知的仕事でもそうなりつつある。人間は補助役であり主役はコンピューターになる。だからどうしても何か自分で工夫して自分の才能で作ったという感覚がもてないのである。
コンピューターが人間の頭脳化するときどうなるのか、
これはSF的なものとなる。人間はいらないとまでなる。多くの人は特に知的な事務員とか医療関係でも人がいらなくなる。
まずyoutubeはインターネットは学びの場である。それはインターネットはもともとパソコン通信から始まったから対話的なのである、マスコミはマスを大衆を相手にするがインターネットは個々人を相手にして対話的なのである。
だからヤホーニュースの解説でも私自身が答えることができる、他のyoutubeでも答えることができるメデアなのである。
マスコミはそれができないのである。ただ大衆洗脳装置となっていたのである。
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