飯館村、相馬市玉野村の変化−東北【福島】中央道で旧道となった道
【山村が失われるてゆくー日本の多様性が失われる】
館東とありこの館は鎌倉時代のものであり地名化した
原発事故で3月21日に原乳が出荷停止となり、搾った原乳を捨てる日々が約1カ月続いた。「牛乳が出せないからお金も入らない」と仲間たちにこぼした。男性が所属するJAそうま酪農部会の酪農家28戸のうち、営業を再開できたのは16戸だけだった。
知人らによると、男性はフィリピン人の妻(32)と長男(6)、次男(5)の4人暮らしだった。そろいのヤッケを着た妻が、牛舎で牛の世話を手伝った。
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●飯館村は縄文時代から生活があり古い玉野村は新しい
飯館村の歴史は古い、何故なら縄文中期に遺跡の発掘がありまた木戸木〔ことぎ〕に住んでいた老人が石器を発見したとか聞いた
採集狩猟の生活があり古い、海岸地帯より古い、明確な歴史は鎌倉時代に南相馬市の鹿島区の屋形村の岩松氏の所領になっていた
鎌倉時代から明確な歴史がある。館という地名があるがそれは中世の鎌倉時代にさかのぼる。
飯樋は東日本によく見られる地名で、池の水を田地におくる設備のこと、「比曽」は「檜の生える土地」という意味だと思われる。「佐須」は「焼き畑」を意味する言葉から来たもので、美方郡香美町香住区の「佐津」という地名が由来であるらしい。「大倉」とは「大きな倉」ではなく「大きな崖山」という意味だと地形図から読み取れる。「新舘」の「たて」は、「射楯(いたて)」の意味で、「伊達」と同語源で、住吉神社系統の海神を「イタテの神」と呼んだことに由来し、西日本(播磨国など)からこの地に移住して開墾したものと推定される
これもくわからない、佐須は焼畑地名であることは確かである。
それが「佐津」かたきているとはならない。佐須という地名は多いからである。
大倉御所(おおくらごしょ)、または大蔵御所・大倉幕府(おおくらばくふ[2])は、鎌倉時代の相模国鎌倉大倉郷、現在の神奈川県鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目一帯にあった源頼朝の邸宅
鎌倉から来た岩松氏が最初に南相馬市鹿島区を支配して飯館村まで所領としたから大倉はそこから名ずけたのかもしれない
鎌倉も崖が多いからである。
相馬市の玉野村となると相馬藩でも新しい、江戸時代に入植して玉野村になった。そこは伊達藩、米沢藩の境でありそれで木材資源をめぐり争いがあった。
玉野村は鎌倉時代までさかのぼるものはない。ただ八木原という地名がありすでに古代から安曇氏系統の八木氏が焼畑をしていて松川浦から入って来た。飯館村の山津見神社と綿津見神社は目立ている。つまり最初は焼畑をするために入って来た海人族がいたのである。飯館村の佐須とは焼畑地名であり山津見神社がある
また浪江町の津島村も途中に大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)があった。
大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、大山祇神を主祭神とする『三島・大山祇信仰』の神社。1973年現在、北海道から鹿児島県まで全国に897社存在する。また、1995年の神社本庁の調査では293社、2019年の金沢工業大学の調査では960社存在するとされる。大山積神社、大山津見神社、山積神社、山祇神社、山住神社
これは安曇系海人族の神社である。ただ玉野村となると江戸時代になり開墾された場所である。だから飯館村と比べると新しい場所だったとなる。
いずれにしろ飯館村の領域は広い、だから未だに知らない場所がある。玉野村は広い場所ではない、飯館村だと戦後引揚者が入植して一万人に人口があったことに驚く、その後6000人に減ってもそれだけ多かった、玉野村一時1000人くらいあ人口があっても今は200人程度とか少ないから限界集落にもなる
でもそれなりに人口があり学校があった。その校舎も使われていない、飯館村には相馬農業高校の分校があり今の新しく作られた道の駅からその校舎が見える、その廃校が何とも淋しい感じになる。それは全国的に学校が廃校になり子供がいないのである
分校が辺鄙な村にあったのは国で援助していたからありえたのである。
●長野県の八坂村生坂村の廃校の宿
私は長野県の八坂村なのか廃校に泊ったことがある。それも奇妙な経験だった、校庭が見えて山また山であり坂が多いから自転車で難儀したのである、ここで子供の声があり賑わっていたとみる
本当にこうした廃校が多くその前の店をしている家では何か依然として学校で時を告げる鐘なのか音楽を流しているのがひびくのをテレビで見た。それも何かわびしいとなる
残念なのは玉野村は山ごとソーラーパネルになりまた廃校になった学校をウイスキー工場にする計画があるという、これも何かいいとは思えない、でも昔のように自給自足の生活もできないから
現金収入がないとその場で生活できなくなる。そして原発事故の影響はあまりにも大きかったのである。飯館村で6000人の人口があったとしても今は千人くらいでそれもほとんど老人であり子供はいないのである。学校は廃校になり別のところで学校に通っているからである。また放射性廃棄物の処理場になるとかそれもいいものとは思えない。
玉野村はもともと飯館村と比べると規模が小さい。だから本当に200人くらいしか住まないとしたら消滅の危機にある。だから今は何か木材で炭焼きしたり山菜を食べたり周りにあるもので細々と生活することはできない、ではその代わりに何になるかというと放射性廃棄物の処理場とかウイスキー工場になるのかとなる。するとその村の良さというものは消失してしまう
ただ不思議なののは身の回りにあるものを利用して竹細工であり藁細工でれ自給自足の生活をしてきた。そのとき電気などは使っていないのである。
ともかく阿武隈山地の村々は限界集落化して消滅するのかどうなる。それは何をもたらすのか何か人間の生活の多様性が失われ旅をしてもつまらないとなってしまう。本当にそういう場所は村は秘境であった。そうした秘境のような村は日本でも至るところにあったのである。浪江町の津島も相当に離れていて本当に秘境だったのである。そういう村々が日本から失われていくとき何か
精神的には貧しいものになるかもしれない。
海彦山彦の山彦の世界が消失してゆく、その生活の多様性が失われ何か画一的なものとなり都会的になり精神も養われないとなる。
八坂村の廃校の宿
犀川のうねりつたぎつ 流れを沿い下り
大岡村や生坂村や 八坂村の山深く
あまた咲きしは木槿の花 その花におおわれ
我は入りにき 今日の一夜の宿はあわれ
廃校となりし村の 小学校の改築の宿
ここに六年生の教室と なつかし泊まる卒業生
窓辺に流れのひびき 校舎の廊下をきしみ歩みぬ
窓辺に寄りて外ながむれば 赤とんぼとぶ山の学校
かすかに虫の音や 校舎は古りて生徒はなしも
その山の道の辺 刈り入れの農婦ありにき
道の辻には地蔵や 昔なつかし何語る
童の遊ぶ声もひびかむ 野に山に川に
祭りの太鼓も笛の音も 野に山に森に
村の墓所には女郎花 我がしばし佇みぬ
山々は打ち重なりて 村は閉ざされしかも
八坂村の坂をし上れば 誰そその墓の主や
我を見送る影のありや 我は汗かきかき坂上る
ああ また来てくれと その影は別れを惜しむ
ああ なつかしき日本の国の 昔の村を思うかも
旅人はるか大町へ 坂を上りて去り行けり
玉野村の小学校の廃校
こうした村が失われてゆくことは何か日本の欠けるものが生まれる、どうしても東京とか一千万人も住んでいることが何なのかわからない、人間が住める場所なのかとも見る
明かなことはそういう村でも人は住んできたのである。
そこで生きられないということはなかったのである。
都市にばかり人が集まることは何か異常な現象なのである。
でも現実は今の時代は住むことが容易ではない、でもそうした村々がなくなることは多様性がなくなることであり淋しいとなる
●外国人の嫁が山村にかなり入って来た時代
外国人が入って来て多様性が生まれるからいいというけど日本の中での多様性が失われてゆく、玉野村、飯館村などは原発事故で維持がむずかしくなる、だから森林公園にすればいいとかにもなる、でもそこに人の暮らしがなくなることは何か大きなものが欠落してくる。都会ばかり旅してもつまらないとなる、でも旅することは遊びだともなるからまた別問題になる。
それでもソーラパネルとか放射性廃棄物の処理場とかウイスキー工場とかの村はもはやかつての村とは違ったものとなる
ただ旅人の視点から見るだけだからそんなことは通じないともなる。そういう村は旅で行くならいいのである。でも住むとなると人間でも嫌な人がいても付き合わなわけにはいけないしその人間関係も閉塞的になり息が詰まるようにもなる。
何かそうした村とかなると常識も礼儀も通じない異常な人が普通にいる。それで推理小説で奇怪な事件が起きることがドラマ化する。それは余りにも狭い人間関係で生きているからそうなる。
そうした場所から逃れられないからそうなる。
不思議なのは浪町の津島でも中国人の嫁が来て夫を鉈で襲った事件があった。こんな山奥に住んでいられないと不満が爆発したのである。外国人の嫁をもらった人が本当に山村では多い、飯館村の木戸木〔ことぎ〕でもフィリピン人の嫁がいて40近くになっている。すでにそういう時代があり歳月が過ぎた。
玉野村で乳牛を飼う人がフィリピン人の嫁をもらっていて原発事故で放射性物質に汚染されて生活できないと自殺した。
それも原発事故のもたらした悲惨な例である
飯館村は避難区域になり相当な補償金が入った。それで家を新築しりした人が多い、でも相馬市とか玉野村でも丸森町でも原発の補償金は微々たるものでありそれで不満があった。放射性物質の汚染はそれなりにあったけど30キロで区切られたからである。
玉野村は飯館村の隣なのだから相当に汚染されたと思うからである
●サイクリング道路にはいい玉野から霊山への道
空家化した玉野村の旧道 若木神社があるのは伊達藩と相馬藩の境にあるから
ともしくも共に生きなむあわれかなその生業や干し大根かな
飯館村冬に行かじも暮らしあれともしくもあれ春を待つかな
玉野村トンネルぬけて遠きかな暮らしの荒れや冬に思いぬ
玉野村境にあれや街遠く家並み古りて冬の日暮れぬ
井戸に蔵残しあわれ玉野村ここに刻みし歴史かな
玉野村の境の村に家並みがありそこに一軒の家が空家になっていた。蔵があり井戸があった。ここにも暮らしがあったとみる
やはり何代かここに住んだことは確かである。でもこうした空家山村でなくても街内でも多いのである。その数も一千万軒にもなるとか大問題なのである、その一軒一軒の家の歴史も失われるとなる。何か活かす方法がないのかと思う
旅人だとそうした空家を休憩所にすればいいとかなる。
なぜなら福島中央道ができた結果そこは車が通らなくなったからである。サイクリング道路としては最高だとなる。車が通らないから道の真ん中でも自由に走れたからである。
バイクでも車を気にせず飛ばしやすいとなっていた。
福島中央道ができた結果旧道化して休息する場とか食事の場がなくなったからである。
古い井戸があり蔵がありる空家
誰が住んでいたのか玉野村の家並み古りぬ
しばしここに休めと茶でも一杯飲む
秋の夕日のさして碑は並び古りぬ
そこは昔の宿場町や旅人は去りぬ