2025年04月30日

トランプの関税問題はグローバル経済の危険を世界に示した 【実際の戦争にも発展するし国家の自立も奪われるー東北の飢饉も米の単一商品化が原因】


トランプの関税問題はグローバル経済の危険を世界に示した
【実際の戦争にも発展するし国家の自立も奪われるー東北の飢饉も米の単一商品化が原因】

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農業生産が輸出志向に偏りすぎているとの指摘もある。国家配給公社(Conab)の統計によれば、国内で消費される米やフェイジョン豆の作付面積が、2005〜24年で各43%、32%減少する一方、輸出向けの大豆とトウモロコシはそれぞれ108%、63%増加した。食糧栄養安全保障国家評議会(Consea)のエリザベッタ・レシネ会長は、「こうした傾向は国際価格や為替変動の影響を受けやすく、将来的な国内供給の安定性に懸念が残る」と警鐘を鳴らす。

ブラジル》農業大国なのに840万人が飢餓 ︎ 2500万人が「食の砂漠」

輸出向けに農業でもシフトすると問題が起きる、大豆とトウモロコシの生産に偏り自国の食料を供給できなくなる。
こういうことはグローバル経済では起こり安い、それが歴史的にも日本国内で江戸時代起きていたのである。
なぜなら東北では米は商品作物と化して江戸に送られていた。だから

東北地方の諸藩は、財政を維持するために大坂や江戸に米をどんどん廻していました。
その結果、備蓄米がほとんどなくなってしまい、飢饉が起きた時に対応ができなくなってしまったというのが真相のようです。ある意味人災といえるかも知れません。
そんな東北地方の諸藩の中で、松平定信の白河藩では市場の米を買い占めて備蓄をしていたために、それほど被害は大きくならなかったといいます

天明の大飢饉では飢えのあまり人肉を食べたって本当?


田沼意次の政策 経済を発展させる一方で、食糧危機への対応が甘かったのです。そのため、天明の飢饉が起きたとき、農民は売れる作物ばかり作っていて、自分たちが食べる米がなかったという状況になってしまいました。

東北地方の諸藩は、財政を維持するために大坂や江戸に米をどんどん廻していました。
その結果、備蓄米がほとんどなくなってしまい、飢饉が起きた時に対応ができなくなってしまったというのが真相のようです。


天明の大飢饉では飢えのあまり人肉を食べたって本当?

政治の失政があり飢饉になった。備蓄していなかったとかあり米を商品として江戸に送っていて地元の人に米が回らなくなった。また米という単一商品に頼り米がとれなくなった結果飢えにつながった。
それはグローバル経済でも起こっている、コーヒーだけに頼りそのコーヒーが売れないと地元で他の作物を作っていないので飢饉にもなる。
つまり今起きている米不足問題も歴史的に考察すると見えてくるものがある。

外国に売るための食料を作っていては危険になる。単一のものを生産していると危険になる
つまりグローバル経済は一国内での経済を超えるものとなりバランスを欠けることになる

日本だったら車だけを作っていろ

そしてアメリカから麦であれまた米でも安いのだから買い

こうなることが危険なのである、そして必ず外国からアメリカでもそのために独立性が失われる
食料がないことはアキレス腱となり独立が失われる。

それは石油でもそうである、石油が入らないとお手上げになり外国に従わざるを得なくなる
現代の戦争は今トランプの関税でもめて米中の対立ともなり戦争に発展する危険がある
グローバル経済は全部否定するのではないが危険があることは知るべきである。
特に食料を得られなくなれば終わりだともなるから怖いのである

第一アメリカの農業と日本の農業を比較したら日本の百倍とかの生産力がある。飛行機で種まきして広大な土地で収穫するのだから全く競争などできないのである。そうしてアメリカに食料を頼っていたらどうなるのか、アメリカの奴隷にもされるとなる。だから農業では日本は太刀打ちできないのである。その差が余りにも大きすぎるからである

グローバル経済では工業製品は競争しやすい、農業は別なのである。そこまでグローバル化することは危険である
だからこそアメリカからの大豆を輸入しないと中国が対抗するときアメリカの農民がトランプを批判するようになった
アメリカにしても買うだけで売るものがなければ国は成り立たなくなるからである。
グローバル経済はこうした矛盾があり全部が成り立たない、やはり一国でのその風土に見合ったものとして自律することが基本にある。それはアメリカでも同じであり他国から輸入ばかりしていたら自国の経済が成り立たないからアメリカファーストになったのである

かつてフランスの自給率が80%程度だったのが、自国でまかなう努力をして食料自給率100%以上にした、という話をしていた。これに貢献したのが、当時の大統領のド・ゴールだ。彼は「たとえ1kgでも海外から食料が入ってきたら独立国家とはいえない」と宣言した。

日本はトウモロコシや大豆、小麦などのほとんどを輸入している。小麦を例にとってみると、米国・カナダ・オーストラリアの3か国から輸入しており、この3か国でほぼ100%を占めている。日本で販売されているパンのうち、国産小麦を使っている割合はたった3%。残り97%は海外産小麦だ。

「食料・農業分野は、貿易自由化の犠牲にされ続けてきた」と語っている。自動車などの工業製品の輸出を伸ばすために農業を犠牲にするという政策がとられてきた。

学校給食では、1950年ごろから、コッペパンが出るようになった。これも米国の小麦輸出を推し進める戦略とは無関係ではない、とされている

もし食料輸入が止まったら?ウクライナ侵攻で現実味を増す日本の食料危機「食料自給率37%」のリスク

学校でコッペパンを給食で食べていたからなつかしとなるがそれも日本人に麦を食べさせるアメリカの策略だったともなる。
またこうして貿易戦争にとどまらずそれが実際の戦争まで発展したこともあり警戒される
なぜなら日本はアメリカによって経済制裁されて石油が入らなくなって追い詰められて戦争に突入したともされるからである。また日本の特攻隊も飛行機の燃料の石油がなくて片道しか燃料がないから帰ることもできなかったともいわれる
つまり石油が燃料が無ければ飛行機であれ船であれ動けなくなる、つまりその時点で戦争に負けるとなっていたのである
だから貿易戦争が経済戦争が実際の戦争につながることがあり危険なのである

要するにグローバル経済は一見平和の協力と見えてもそれが一転して戦争に通じていたから危険なのである。
だからそもそもグローバル経済は成り立たない、貿易は必要でも今のような世界を市場化した経済は無理なのである
一国で自給してその上で足りないものを補うことが理にかなっているのである。

米騒動は、大正7年(1918年)に起こった事件で、民衆が米の値下げ販売を要求して米店・資産家・警察などを襲撃したことが原因です。富山県沿岸部で起こり、1道3府32県に波及し、鎮圧に軍隊が出動するなど前代未聞の全国的な暴動に発展しました。米商人が米をためこんであまり売らなくなってしまったため、出回る米の量が減り、米の値段が高くなったことがきっかけでした。 

今回の米の高騰も米騒動の再現にもなる。何かこの米の高騰は政府と農協が結託して捜査して高くしていると指摘している
石破首相は農水大臣でもあったことがありそれで農協と結びつきがあり米の流通を操作しているとしている
それもわかりにくいが農協とかでも巨大な利権集団となりそれが米の流通ともかかわてそうなったとなる
要するに飢饉でも備蓄してい白河藩ではならなかった。政治的問題としても飢饉が起きていた、今回の米の高騰も政治的問題として起きていたのである。つまり天災ではなく人災という面もあったのである
ただ現代はグローバル経済になりその仕組みが複雑で何か米騒動のように誰が操作しているのかわかりにくいのである
そこで暴利をむさぼる者がいたとしてもわかりにくくなるのが問題なのである。

いずれにしろ人間に起きる問題はカルマとして起こる、歴史的に起きたことはまた繰りかえす、戦争でもそうだし疫病でもそうだし飢饉でもまた起こるとなる、カルマは繰り返すからである。人間の諺がなぜ今も通用するかとなると人間自体が変わらないからである、いくら科学技術が発達しても人間の欲がなくならないから犯罪もなくならないし罪も犯すことも繰り返し行われる
だから過去にあったことは形を変えてカルマとして繰り返されるのである。その業はカルマは消えることなく繰り返される
罪障消滅というけどそれもおありえない、つまり最終的にその業によりカルマによって人間が滅亡するともなる。
だからグローバル経済が貿易戦争となり世界戦争となる危険を孕(はら)んでいるのである


posted by 天華 at 20:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

戦後引揚者が開拓に入った歴史 【南相馬市鹿島区の小池横峯にも70人くらい存在した―多かったのは葛尾村と飯館村】

戦後引揚者が開拓に入った歴史
【南相馬市鹿島区の小池横峯にも70人くらい存在した―多かったのは葛尾村と飯館村】

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葛尾村の移民史



戦後引揚者という時私の家で店を始めた時今の小池に戦争の引揚者が入って来た、なぜその人と関係したかというと
私の父親は葛尾村から出て双葉の新山で酒屋に勤めていてその時一緒に働いていた仲間だったからである。
それで私は卵を買いにその家に行っていた。それは相当に貧しい暮らしだった。ただ戦後は食料を得るだけで大変だった
それで街では河原に畑を作り野菜を栽培したりしていた。また私の父親はアユとかウナギをとっておかずにしていた
何かその頃の鮎とかは大きいものでありうまかった。
あたウナギというのは田んぼの畔とかにミミズをつけた俸をさしいれてとっていた。それも天然のものだからうまかった
食べ物がない時代だから特別な御馳走になっていた。

戦争が終わった時戦地から引揚者が全国に散り仕事もないので辺鄙な山村に開拓に入った。それは戦後の大きな歴史である
それは相当に苦労した。私は卵買いにその人の家に行っていた。卵はその当時貴重なものだった。ただ糠を箱に入れて時短所で運ぶ時当時の道は舗装されていないのでがたがたゆれて必ず卵を壊していたのである
真野川でも橋があっても土橋でありゆれて危険だったのである。

そもそも街では井戸が無く水は近くの井戸があるところでもらっていたのである。
また洗濯は裏の堀でしていた。本当に何もなかったのである。私の父親は器用だったのか風呂まで作っていた
それでその水がないので近くの井戸水をもらって運んでいたのである。私はその風呂焚きが仕事でもあった
鉄砲風呂でありその燃料もまた近くの製材屋で捨てたものをバタを利用していた
近くの山で落葉とかも拾いに行ったこともある

おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました

これと同じであり原始的な生活だったのである。これは今になると想像すらできないとなるまず食料がないのだから難儀した、その時農家には食料があったから街で暮らすより良かったのである。

この戦後の引揚者の開拓に入った人は過酷であり半分くらい撤退した。でも土着してそこに住み着いた人たちもいる
こうして開拓に入ったのは相馬藩では越中からなどの移民がいた。その人達は相馬藩が天明時代に飢饉になり三分の一くらいの人口が流出して空地が増えた、そのために藩では移民を募集した。その時土地をもらえるとして真宗を信仰する人達が入った来た、その人達もいい土地が与えられたのではなく苦労した、それで加賀泣きとか伝えられている、苦しくて泣いていたということである,南無阿弥陀仏とある墓は真宗系統の移民の墓である
戦後の引揚者が開拓に入ったのもやはり同じようなことがあった。不便な所が多かった。それで相当に苦労した
noteに出ていた引揚者が入って来た地域を見ると山村が多い、やはりそこは未開拓地があり入ったとなる

葛尾村が50パーセントとかなると本当に多い、それと飯館村が34パーセントっだから多い、浪江町も19パーセントであり比較的多い、それは津島など山村がありそこに入った。原発事故で津島は大被害になり廃墟化した。それでそこでも戦後の引揚者が農業をして苦労したことを語り愛着が生まれてそのことを語る人達がいた。
ただ撤退した人達も多かった。飯館村でも多かった。それで飯館村では戦後人口一万の時があったことに驚く、その後6000人とかなり今は原発事故で千人くらいしか住んでいないから村が維持できるのかとなる

ともかく上寺内小池横峯に開拓に入った人達が結構いた

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これは結構多いと見た。でも葛尾村とか飯館村と比べるとかなり少ない、やはりそれだけの開拓する未開の土地がなかったということである。それでもそれなりに数が存在した、一人二人ではない70名くらいいたのである。その面積もそれなりに広いのである。小池とかは街からすると近い、そんなところでも荒地があったとなる
でも農業経験のない人達もいたから開墾して暮らすのは容易ではないから半分くらいは撤退したのである

,外地から戦後の「内地」日本に引揚げてきた数百万人の人々に注目する。これらの人々は,民間人の引揚げと旧軍人の復員を合わせて629万人以上,1950年人口の7.2%に上った1)。敗戦による人口移動としては,第二次大戦後ドイツへの引揚者及び難民,約1,500万人2)に次ぐ規模であった。

このうち300百万人くらいが開拓に入った。それだけ数が多かったのである。






posted by 天華 at 11:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

2025年04月29日

【相馬藩内の姓からたどる郷土の歴史】 隣の嫁様が双葉の細谷の出身だったー原発のすぐ近くだった

【相馬藩内の姓からたどる郷土の歴史】
隣の嫁様が双葉の細谷の出身だったー原発のすぐ近くだった

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隣の嫁が双葉町の細谷の出身だった。20くらいの息子がいるから40から50歳くらいなのか
地図を見たら原発のすぐ近くだった。それには驚いた
双葉町は私の父親が酒屋の丁稚で働いていた場所である
葛尾村から出てきて働いた。そこから暖簾分けしてこの地に来た
それは戦前のことであった。でも父親は早く死んだので話を直接聞けなかった
だからどういう家に生まれて育ったのかわからない、明治生まれであり読み書きはできていた
それをどこで習ったのかわからない、その頃山村い学校があったのかなかったかもしれない
でも良く筆で字を書いていた。字を書けなければ丁稚とかでできない、おしんというドラマでは丁稚に勤めた所で字を覚えていた
その女の子は貧農の小作であり貧乏だから子供の時でも働かさせられたのである
明治生まれの女性で母の実家の継母も字が読めず書けず苦労していた、なぜなら字を書ける人に頼まなければならなかったからである、だから結構字を書けない人が明治時代にいたし江戸時代でもいたのである

細谷という地域は原発のすぐ近くであり双葉という地域は相馬藩の境でもあった。小良ヶ浜(おらが)浜というのは俺らの浜ということであり相馬藩内でありそれを主張したのでその名がついた。それは港ではない小舟を砂浜にあげて漁をしていたような場所である
ただ相馬藩の境ということで意識された。夜ノ森とは余の森のことでありこの余とは相馬藩の殿様のことであり余の森と名づけられたのである。ともかく人を知る時どういう場所に生まれ育ったのかを知る、でも相馬藩内だとなんとか地理がわかるが
遠くになるとそもそも地理がわからなくなるので理解しにくくなる。
その場所でも地歴を知らないと空間軸と時間軸で知らないと理解できない、でも原発事故は世界的にも有名になったから
私は双葉町の生まれで原発のすぐ近くに住んでいましたとなると世界でも理解されるとなった

双葉町の近くの常磐線の末続村駅がありそこの墓地を見たら新妻の姓の墓が8割くらいあった
新妻一族の村だったのである。こうして一つの姓の一族が住むことがある。葛尾村は松本姓が三分の一くらいてそれは長野県信州の方から移住してきた人達だった。南相馬市鹿島区だと南朝の霊山が炎上して落ち延びた只野氏の姓の人が50軒くらいあるから只野氏一族の村だったとなる。でも町が大きくなるといろいろな人が混じり姓も多様化して由来がわからなくなる

それと江戸時代は侍しか姓を持てなかった。それで姓はもらうことは苗字帯刀となり特別な侍の身分を与えられたことになる
江戸時代には姓は庶民はなかったのである、姓からたどる歴史がある。でも相馬氏にこの辺は支配されてそれがわかりにくい、なぜなら相馬市は千葉県の方から移って来た人達だからである
相馬藩内では佐藤氏一族が相馬氏が来る前に大きな勢力を持っていた。その佐藤氏は義経の従者であり有名である
その佐藤氏は福島市の方から相馬市の方へ移住して勢力を広げた。それで塩手山の下に二軒並んでいるのが佐藤氏だった
それはかなり古い家である、また磯部に佐藤氏の中世の館がありその佐藤氏が今の道の駅の近くの鬼越館に移動した
それは津波を予知したのかただ荒波で被害があり移動した。相馬市はもともと佐藤氏が支配していた。
佐藤というと普通にある多い姓だがその由来はそれぞれである。

月の輪のわたし*を越て、瀬の上*と云宿に出づ。佐藤庄司*が旧跡は、左の山際一里半計に有*。飯塚の里鯖野*と聞て、尋たずね行に、丸山と云に尋あたる*。是庄司が旧館也*。麓に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落

佐藤庄司:「 庄司」は、荘園領主の代理人として荘園を管理する職のことで人名ではない。ここでは、信夫郡・伊達郡の庄司だった佐藤元治という個人を指している。佐藤元治は藤原秀衡の家臣で、佐藤継信(次信)・忠信の父。

庄司とは荘園のことでありそれが地名化したのは各地にある。庄司渕というのもそうである。庄司という姓の人は相馬藩内にいる

姓で注目するのは南相馬市の鹿島区の岩松氏である、鎌倉から鹿島区の館に住み飯館村の方まで支配した
でもその家来の裏切りにあいその子供まで惨殺されたのでそれが歴史として残っている
それが歴史の事実という時岩松の姓は相馬藩内にはない、つまりその跡が絶たれたからである。つまりこれが歴史の厳粛な事実を示している、何かこの悲劇は消えないのである。




2025年04月28日

家族のカルマは苦しみとなって現れる 【事業の失敗もカルマなのか―具体的例として知る】


家族のカルマは苦しみとなって現れる
【事業の失敗もカルマなのか―具体的例として知る】


カルマの法則は確かにある。でも、それを理解することは複雑で解りにくい。なぜ、私の母の実家がさまざまな問題がのある家だったのか。警察署長にまでなった父親はいてそれがなぜ問題を抱えるようになったのか。

●事業に失敗した。
●後妻が来て家族が乱れた

何かこの後妻というのが問題が生じる。私の母親も後妻なのである、それで子供がいて連れ子がいて後妻にきて問題が起きた
私の母親自体が実家で後妻が入って来て乱れた。ただ実の母親が病気になり夫が世話できなくなりそこに後妻を迎えたことで乱れた。それでも肺病になった25才で死んだ母の兄がいて看病したのである
つまりその後妻は二人の病人を看病したのである。だからすべて悪いとはならない、でも母は継母でありいじめられてのである
弁当を作ってもらったのはいいが食べ残したらその弁当を実の母親ではないから食べられないのかtその弁当をぶんまけたのである
これもひどいことである。母は幼少時代は金持ちでもありお嬢さんだったが父親が事業に失敗してから貧乏になり苦労したのである。

この事業に失敗することもカルマなのだろうか?なぜなら。私の父親も双葉の新山の方で酒屋の丁稚をしていたが倒産したからである。親戚といっても兄弟とかではない、父親の関係でもやはり鉄工所とか経営した家が倒産した
また原町でも事業を始めた人が借金をかかえた。その人が私の家族が介護になりまた私が病気にもなり来たから苦しくなった。
またそうして私が病気になって家を留守にしたときたまたまあった大金を盗まれたとかある
そのことは間にも書いてきた。

何か事業に失敗する人は本当に多い、推理ドラマでもそれがテーマになる。事業は20人に一人くらいしか成功しないむずかしいものである。だからそれはどこにでも普通にいるとなる
親戚の人はなぜ事業を始めたのかそれが良くわからないのである。確かなことは難しい資格を持っていて優秀だったから事業を始めた。別に会社勤めしていればその家族でも妻でも楽だった

その妻の家族は夫は肺病とかになり手術して障害者にもなった。だから相当に苦労したのである
でもそのむずかしい資格をもった夫を持ったので楽だったのである
その父親の妻はだから障害者の夫をもって苦労したのである

だから夫で妻が苦労する→その娘も夫で苦労するというカルマが成り立つと見た

なぜそうなのかとなればその娘でも母親の苦労がわからない、どれだけ夫で苦労したかわからない、でも今度は自分の夫で苦労したとき身に染みてわかるとなる。

なぜこんなに夫のために苦しむのかー私の母親も夫のために苦しんだーそれで母親がどれだけ苦労したか身をもって知るとなる
それがカルマなのである。
それは自分にもあった。父親違いの兄は自分の家では良くしなかった、そのことがカルマとなり介護で苦しんだとかなる
何か家族にも負の部分がありそれが長男長女に苦しみとなって現れる。家のカルマが長男長女に現れやすいのである

つまり事業の失敗で苦しむ人が相当に多いことは確かである。それがカルマとなりその家族が子供でも苦しむとなる
カルマという時小高の人のカルマは原発事故と関係していた。小高から原町に一人移り住んだ。何か原発の補償金でいい車など買い別に東電でも批判しなかった。というのは津波の被害にもあったが東電の補償金が多額で助かったと言っていたからである
でも熟年離婚になり息子は仙台で働くようになり病気になり仙台市の病院に入院した
何かこれもカルマが複合的に重なり苦しみとなって現象化した

とにかくカルマの特徴は苦しみとなって現れる

様々なことで苦しみとなって現れる、それだけは間違いない、その原因も複雑でわかりにくいがなぜ苦しむのかとなるとやはりカルマが関係している。私自身でも若い時代は苦労したにしろその後は楽だった、でも家族の病気と介護で地獄化したのである
楽をした分苦労が重なったとなる。だから人間は楽で一生終わる人もいないし苦しみで一生終わる人もいないとも見る
私の母親はいつも眠るように楽に死にたいと言っていたが百歳まで生きて本当にそういうふうに死んだのである
その願いはかなえられたとなる。一方姉は認知症になりその死に方は悪かった、それも何らかのカルマがあった

いずれにしろこの世を生きることはカルマがある。カルマとはその人の行ったことでありまた宿命なのか、逃れられないものがある。別に金持ちの家でもカルマを持ち不幸がある。家族の不和とか何か悪いことが起きる
つまりカルマがない人はいないともなる。カルマとはまた罪を犯すことにもなる
だからこそ複雑であれカルマの法則が成り立つ、例外はあるにしても成り立つのである

それがカルト宗教団体に入ってもカルマは解消しない、なぜなら近くで創価に入ったら息子が病気になり死にその後を追ううように母親も死んだからである。でも創価に入ったからいってカルマは解消しない不幸もなくならない
ただ不幸な人は頼る者がなく必ず共産党とか創価にカルト宗教団体に頼る。でも解決しないのである
そういうことは実際に身近で見ているからわかる。つまりそいう団体自体膨大の人々のカルマを背負うことになる
そして解決はしない、幹部はその人達を利用して金をまきあげ議員になったり得することしか考えていないからである
つまりそういう団体自体巨大なカルマをもちそのために崩壊する。個々人のカルマが巨大な集団のカルマとなっただけである
そもそもカルマとは人間の業でありそれが積もり積もって人類自体が最後にハルマゲドンなのか破滅するともなる

アメリカが衰退するという時やはりしなくてもいい戦争をして莫大な犠牲者を出した、それは正義でもなかった
大国の横暴だったのである。だからそれもカルマとなり災いともなり苦しみともなったゆく、アメリカがいつまでも繁栄することはないのである。だから歴史にもカルマの法則は成り立つとなる


2025年04月27日

蟻穴を出る【燕来る、牡丹・・・】

蟻穴を出る【燕来る、牡丹・・・】

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蟻の巣にスミレやここに営みのありて我が見る小世界かな

蟻運ぶ虫の羽根かな巣までの長き道のり我は追いにき

巣より出る蟻やぞろぞろ仲間かな餌を探しに四方に散る

大輪の牡丹の今年も庭に咲く新しく植ゆ牡丹も咲かむ

路地裏や燕数羽の鳴き飛びぬ街に活気の戻りなむ


何か蟻一匹が虫の羽根を運ぶ、その距離も結構長いと見た。やっと巣がありそこからぞろぞろ蟻が出て来た
そこにはスミレがさいていた。玄関の前にはタンポポが咲き路地裏の家の間を増えた燕が飛び交う
今日は暑かった。春暑しである。こういう時遠出すると危険である。何故なら日射病になることを経験しているからである
この世界の驚異は必ずしも大きなものにあるわけではない、蟻というのは不思議であり脅威でもある
これだけ小さいものが長い距離を虫を運んだ。そんな力がどうしてでるのか、小さいだけにそう見る
またなぜ土の中で冬も生き続けるのかとなる。

2025年04月26日

春の新田川と八重桜の道【春の山、タンポポ、・・】

春の新田川と八重桜の道【春の山、タンポポ、・・】

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新田川の光り流れてタンポポの岸辺に咲きて我が走るかな

新田川光り流れて芽吹きかな八重桜咲き静かに歩む

新田川の岸辺に咲きぬ八重桜土地の女(ひと)の静かに歩む

新田川光り流れて春の山望みなごみぬ家居ともしく

耕しの人の畑に春の山望み新たに流れひびきぬ

はや散りぬ桜の後にほのぼのと八重桜咲き流る川かな



新田川の特徴は浅い流れなのである。川自体も大きな川ではない、川にも特徴がある、この辺で真野川は大きな川であり
それなりに深く流れる所がある。そしてさかのぼると相当に長い、新田川でも飯館の草野から流れるから長いが大きな川ではない
とにかく浅い流れであり青葉城恋歌の瀬音ゆかしきになる。
川にも特徴がある。相馬市の宇多川は水量もともしく川幅も狭く何か川という感じもしない
でも上流に行くと荒々しいものになる。石ごろごろになり何か意外なり急流にもなる
ただ水の量は少ない、浪江の高瀬川は渓谷になって流れるからこの辺では観光地になる

新田川が春の光に反射して流れる、岸辺に芽吹く木があり八重桜咲つづきそこを女の人が歩む、春の山が望まれ絵になっている
桜は散り季節が変わってゆく、






2025年04月25日

桜が散り八重桜に変わるーなぜ悪いことが続くのか 【大原を回り帰るー前田の空家のこと】


桜が散り八重桜に変わるーなぜ悪いことが続くのか
【大原を回り帰るー前田の空家のこと】

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花散りて幻なれや夢の跡

大原の小径にあわれスミレかな

大原や山吹咲きて畑かな


山桜高きに咲くや大原の前田の道を我は行くかな

大原の前田に残る空家かな春となれども人は住まじも

大原になお耕やさぬ荒地かな春となれども淋しくもあれ

大原の人ともにし病院に我がありし日やその人も死ぬ

風唸り夕べの道やかそけくも残れる花を我は見るかな

故郷に夕べほのぼの八重桜今日もこの道我は行きけり



大原の斎藤氏の家は空家でありそこは住むことはない、なぜなら息子は市街の方に住んでいるし農業を受け継がないからである
前田というとき草分けの古い家である。だから家も古いとなる。
南相馬市の病院で同じ部屋でありその時話を聞いた。そして病院の窓から大原の方を見ていた。
一か月は長かった。でも意外と早くその後死んだ。墓は杉の林の中に隠されるようにあった。
大原は結構放射線被害があり田畑は除染したとしても放置されて草ぼうぼうになっている
一分は回復しても何かもともと後を継ぐ人がいないとかで放置され荒地化する
何か空家が目立つのである。それがもったないと見る

ともかく桜は散った、桜の咲く時期は短い、今は八重桜になる、桜と八重桜の感じは相当に違う
何か八重桜だと定着してほのぼのとする感覚になる、あたたかさがある。桜が咲いた時から常に散る予感はする
だから桜が散ったとき夢のようい幻のように見える、俳句でも夢の中で思案して創作していた
ただ花散るや・・・・夢の跡・・・というときその間に別な言葉を入れていたが思い出せなくなった
夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡から連想したのだろう

故郷やよるもさわるも茨の花 (一茶)

一茶がなぜそうなったのか、私も家族がいるときは故郷はいい場所だった。でも死んでからはいい場所ではない
店では断れるとか何か拒否される、そこにはやはり悪質な人間がいる。だから私も一茶のように感じた
結局人間どこに住んでも同じである、そこには嫌な人間が悪質な人がいる。その人達から逃れようがないのである
つまりこの世は人間が地獄を作りだす場なのである
だから天国でしか安住の場はないのである

私の不満を言ってもなぜなのかとなれば私の父親違いの兄は5歳まで一緒にいたとしても私の家では後妻に来た子供なので良くしなかった。となれば故郷はいいものではなかったとなる。でも死ぬ前に不思議に家に回ったのである
母親がいて回ったのである、だから兄から比べれば私は相当に恵まれていたのである
そのために家族が死んでから嫌なことが苦しいことが続いている、それもカルマだったとなる
まずいいことが続いて一生は終わることないし悪いことが続いて終わることもない、人間は何かそうなっている
私は余りにも恵まれた結果として悪いことが続いたのである

ただ人間は他人のことをとやかく言う前に自分自身が愛ある人間となりほのぼのとしたものを自ら作り出さないとこの世は良くならない、自分がほのぼのとしたものを愛ある人となれば他者も故郷でも住みよい場所になる
でもそれは至難だとなる、言うは優し行うは難しとなる。


文化(culture)の多様性は土地土地の風土から生まれた 【葡萄は土地の影響を一番受けやすい】


文化(culture)の多様性は土地土地の風土から生まれた
【葡萄は土地の影響を一番受けやすい】

● 土地利用と作物の多様性

日本:​山岳地帯が多く、耕作可能な面積は限られています。そのため、多様な作物が栽培され、地域ごとの特産品が豊富です。​

アメリカ:​広大な平地を活用し、トウモロコシや大豆などの単一作物が大規模に栽培されています。地域ごとの特産品は比較的少ない傾向にあります。​

AIのチャットgptの指摘は的を得ている。アメリカであれ中国であれ平坦な土地が続く、その広大な土地は農業に向いている
だから日本ではの土地と地形の相違で多様なものが作られるがアメリカとか中国とかロシアとかウクライナでもブラジルでも
トウモロコシや大豆などの単一作物が大規模に栽培されていますとなる
満州と言われて地域を鉄道で旅したら延々と作ることなくトウモロコシ畑だった。だからとうもろこしは主食にもなる、米の代わりになる。

それに比べ日本の地形は本当に複雑である。海に囲まれ山また山でありトンネルが多い、大陸の鉄道になればトンネルなどないのである。日本でトンネルの技術が発達したのは当然だとなる。砂漠のような中東で風車が発達したのもわかる
そこでは風が吹きやすいからだとなる。
つまりその土地土地の地形とか風土により文明も文化も作られる。どうしても平坦な土地が続く大陸では砂漠でもそうであり単一の意識が生まれる、だからこそ一神教に唯一の神の信仰でも生まれた。ただエジプトは多神教になったから一概には言えない
でも単一的なものとして意識しやすいのである。

ともかく日本は野というとき山の斜面だとなりそれはどこまでも平坦な大陸とは余りにも違っている。山に閉ざされて交通が不便であり地域ごとに文化の相違も生まれやすい、それで地域ごとに多様な作物がとれ特産品が多いとなる
それは文化の多様性を産み出す、大陸のように単一の物を大量に作るのではなくその土地に見合ったものを作り出すとなるからである。cultureはcultivate(耕す)から来ている。その土地と土地でとれるものがそれが同じ品種でも味が違ってくるとかなる
葡萄でも土地土地によって違った味となりその土地の名がつけられて売られる、それは日本の米でも同じなのである
酒でもその土地土地で米の味が違うようになる。水も関係するから水のいいきれいな土地ではコメの味でも酒の味でも良し悪しが生まれる。会津の方は水がいいからまた米の味でお酒の味でも違ってくる、それは新潟県でもそうである

●葡萄の味の多様性

シャルドネ(Chardonnay)

フランス/ブルゴーニュ地方
粘土石灰質の土壌で育ったシャルドネは、レモンやライムのような酸味とミネラル感が特徴で、上級ワインではバターやナッツの香りが加わります。​

アメリカ/ナパ・ヴァレー(カリフォルニア州)
乾燥した気候と温暖な気候の影響で、洋ナシやトロピカルフルーツのような芳醇な風味が楽しめ、樽熟成によりトーストやバターの風味が加わることがあります。​


アメリカ/ウィラメット・ヴァレー(オレゴン州)
火山性土壌と堆積粘土質が入り組んだ土壌で育つピノ・ノワールは、ベリーやカシスのような果実風味となり、ブルゴーニュとニュージーランドの中間的なスタイルのワインに仕上がります。​

リースリング(Riesling)
ドイツ/ラインガウ地方
粘板岩質の土壌で育ったリースリングは、レモンやグレープフルーツなどの柑橘系の香りとシャープな酸味が特徴で、甘みとのバランスが絶妙です。​

フランス/アルザス地方
灰岩質の土壌で育ったリースリングは、桃やアプリコットなどの白い果実の香りをまとい、酸味とミネラル感が強く、アルコール感を伴った辛口に仕上がることが多いです。​


なぜならばありとあらゆる植物の中で、どんな場所に植わっているかということがはっきりと個性としてあらわれるからです。古典経済学者のアダム・スミスも「ブドウ樹はどんな果樹よりも土地の個性を反映しやすい」と記しています。

ワインの味を決める重要な要素「テロワール」とは?

これらの例からもわかるように、同じ品種のブドウでも、栽培される土地のテロワールによってワインの味わいや香りは大きく異なります。​ワインを選ぶ際には、産地やテロワールを意識することで、より深くワインの世界を楽しむことができます。

つまりこれが文化なのである。農産物は風土と土地と切り離せずある。風なども影響している、寒暖の差とか葡萄でも湖面に反射する光でも影響している。それが文化の多様性なのである。

花でも同じ薔薇でもドイツで見た薔薇は違って見えた。それはその土地の風土とか歴史でも違っているから日本で咲く薔薇とは違って見えたのである。

ヨーロッパの心と日本の心の対比ー晩秋ボーデン湖の詩 【ドイツと東北の風土の共通性】

●歴史も風土の相違で作られる

ラテン民族とゲルマン民族の相違はライン川を境界として気候が違っていることから起きる。フランスとドイツでは風土は違っていて光でも違う、だから光の芸術家モネが生まれてドイツには何か陰鬱な哲学が詩でも生まれたとなる
温かいラテン民族と寒い地域のアングロサクソンにはカトリックとプロテスタントに分かれた、それは風土も関係していていたのである。何故なら寒い地域だとどうしても勤勉になり暑い地域だと怠け者になるからである
プロテスタンティズムが生まれたのは風土とも関係していたのである

「アグリカルチャー(agriculture)」の語源はラテン語の「agricultura」で、「ager(土地)」と「cultura(栽培)」が合わさった言葉です。意味は「農業」で、土地を耕し、作物を栽培する活動を指します。

cultuerは文化でありcultivaて-耕すからも来ている。栽培とも通じている。文化でも日本の俳句は季語が不可欠だという時農業をベースにしている。春は万物が張るからきているし張り田とは田に水を張るから来ている
夏はなずむからきているとか秋は収穫の時期であり商う時期にもなる、冬は増えるからきているのも違和感があるが野菜は冬にとれる増えるのが多いからそうなったとかある。つまり風土と密接に結びついているのである

でも工業となるとそうした自然と分離したものともなる。画一規格化したものを大量生産する。それは風土と関係なくなる
だからグローバル経済になると賃金の安い国で生産する、その土地とか風土とか国が関係なくなる
農業はどうしても風土と切り離せないから多様性が生まれる、文化も生まれる
それで工業化するとその土地土地から遊離して世界の大都市tなると似たものとなる。高層ビルであり車の洪水であり大都会はに世界で共通しているから何かつまらないとなる。高層ビルを見上げてもそこに文化は感じないが古代建築とかゴッシック建築とかはまた様々の様式の教会建築には個性があり文化を感じるのである。文化の基になるのはculture-kultivate(耕す)にあるとなる。









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2025年04月24日

春の夜に死んだ姉の夢を見た―家に通い続ける愛 【布団があたたく姉の愛に包まれた感覚なっていた】

春の夜に死んだ姉の夢を見た―家に通い続ける愛
【布団があたたく姉の愛に包まれた感覚なっていた】

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心のゆくばかりなつかしい女の匂いをかぎ、性欲と悲哀と絶望とにたちまち胸をおそわれ…芳子が常に用いていた蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れたビロードの襟に顔を埋めて泣く

『蒲団』(ふとん)は、田山花袋の

春の夜や姉の寝たる広き部屋その布団に寝てぬくもり感ず

今死んだ姉の夢を見た、姉が死んで13年以上も過ぎた、それも早いと思った、姉と言っても母にもなっていた
子供の時から60年も一緒に暮らしていたからである。姉も結婚しないから私を子供のように見ていたのである
母は脇役であろ女中とかにもなった。それも複雑なのだけどこの家を作ったのは確かに父であったが実際は姉と母なのである
だからこの家の作りは姉が作り姉が中心の家になっていた作りもそうだったのである、間取りも姉の八畳間があり私の部屋はなかったのである。それは個室ではない昔の家で家で法事とかしたから広い間が必要だった
つまり昔風の家で冠婚葬祭を家でしていた。ある農家の家は20畳間なの30畳間なのか広間があってそこで人が集まる
江戸時代なら庄屋のような家となる、そこで役人を接待したりとか公共的なものとしてもあった
襖で仕切られていてもそれを開ければ大広間になるからである。

ともかく私の部屋はなく後から付け足して作ったのである。だからこの家は姉が主役の家となっていた
実際父親が中学の時死んだあとは気丈夫な姉が父親代わりになったのである。だからこそ私は大学にも行けたし大学出ても就職せずとも家に引きこもり旅ばかりしていたとなる。一方で父親違いの兄は五歳まで一緒にいたが良くされず母の実家にひきとられて5年暮らした、そして集団就職で静岡の方に行き交通事故で40才で死んだのである。
その差も大きかった。そのために姉が認知症になり母に暴力をふるい別々に暮らすようになった
その間私は二回病院に入院して手術もした地獄を経験した、でもそれは私の家のカルマでありその家のカルマは必ず長男長女が負うのである、そういう宿命にあるので逃れられないのである

何か複雑なのだけど死んだ人は依然として家にいるともなる。確かに布団という小説はそれを示している
それは若い女性だがそれと似ている、姉の寝ていた八畳間で布団に寝ていて姉の夢を見たからである
太っていてやせた母と違って温かみがあった。だからは私は姉の方の影響を受けたのである
そして60年も一緒にいたということが影響したのである。それは複雑な家族でもやはりそれだけ長く一緒にいたということが
忘れられないものとなり死んで13年以上過ぎても夢に現れその布団がまるで姉のように思えたのである

だから家には死んだ人が生き続けるともなる、それで空家が多いけど空家に入ると依然として幽霊になってその家の人が出てくる感覚になる。幽霊となってもその家に住み着いているのかとも感じる
やはりその家に長く住んだから死んでも離れたくないということはある。家とか土地に執着するとなる
私は最後二人を懸命に介護した。それだけ特別良くされたからである。そのことをわかってくれて死んだから遺影でも笑っていていつも語りかけている。

他では親でも子供を恨んで死んでいる人も結構多いからそうなるとどうなるのか?
その家に親の恨みがこもるかもしれない怖さはがある。ただ今は空家になっているから離れて住んでいるから感じないかもしれない。でも空家でも何か死んだ人でもそこに依然として霊がとどまっているという感じにもなる
家はやはりそこに愛着があり思い出がありそうなる。単なる物ではないのである

姉は別に他人に優しいとはならなかった。ただ自分には特別良くしたのである。母は脇役であり姉は私に過剰な愛を注いだのである。もし姉がいなかったら私はどうなったのかと思う。最悪の人生になったかもしれない、母だけではどうにもならなくなっていたからである。だからこの家には姉が死んでも依然として姉の愛につつまれているとも感じるのである

愛は死んでも残っているとも感じる、愛は消えないとも感じる。ただそれはあくまでも私に対しての愛であり他者には冷たいとなっていたのである。いずれにしろ何か人間は死んですべてなくなるということではない、愛はありつづけるともなる
ただそれはみんなが実の親でもそうはならない、何か私の場合は特別に愛を受けたからそうなったとなる
それは特殊な事情でそうなったのである。確かなことは愛する人が愛される人であれ愛は依然として通い合っているのかとなる
つまり死んでも形はなくなっても愛は通じているのかとなる

でもすべての人はそうならない、実の親子でも今はうまくいかず親を恨み今度は親が年老いて子供を恨んでしんでゆくとか普通にある。だから人が死んですべてが消えるわけではない、愛は依然として残り消えないともなる
それで死者を愛せというときも死んだ人には通じないのいではなく愛すということが大事だと言ったのだと思う
現実に死んだ人でも愛は残り通じ合っている。死んだ人はい依然として愛が継続されているともなる
それは何か説明しにくい、見えないものだからである。

人間は死んだ時点で見なくなり急速に忘れられる。でも忘れられないのはやはり愛してくれた人だとなる
それは実の親でもみんなそうはならないのである。親を恨みまた子供を恨み死んでいる人もいるからである
するとそれは何か必ず影響するのではないか?

つまり愛ではなく怨念が消えず残る!

親戚の女性は実の母親と5歳までしかいっしょにいない、それで認知症になり金があったので施設に入れた
その娘は全く親と思っていないのである。ただ金があるので施設にあづけてかかわりたくないのである
これも自業自得である、また私の母親は継母にいじめられて育てられた
そしてやはり施設に入りそこでないか精神の異常をきたして死んだ、でも母はその人の遺骨を引き取った
大学病院で解剖することを頼んでいたからである。ただ最後に母に悪かったなと謝って死んだのが救いだった
ともかく家族もいろいろいろであり複雑である。ただ別に継母でも愛情を注げばそうはならなかったのである。

何か愛ではなく怨念が残ることは怖いことでもないか、だから親でも粗末にしたりまた子供でも愛さない、何か子供でも親は無条件に愛さない
私の姉は無条件で自分を愛してくれたのである、何か注文したりしなかったのである。
ただそれは特別なことであり他者にはなかなか理解できないのである

故郷に姉の愛あり八重桜

いずれにしろ死んでも母を一般的に忘れられないのは愛されたからだとなる、父親はそうならないからである。
愛の力はどうしても母親にあるからだとなる。


2025年04月23日

古墳に根付く木【春の山、若草、牡丹の芽、タンポポ、山桜、】


古墳に根付く木【春の山、若草、牡丹の芽、タンポポ、山桜、】

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春深む古墳に根付く木一本

家の庭畑のありて春の山

若草に山鳩数羽集まりぬ

朝鳥の飛び来て映えぬ椿かな

牡丹の芽日に日にふくらむ希望かな


海広く朝タンポポの一面に浪打ち寄せて我が走り去る

田舎の小径にあわれスミレ咲く今日行きしは我が一人かな

鹿島なるSAに寄り見る山桜今盛りと咲きにけるかな



古墳の町としてあるけど家の前が庭が古墳になっている。そこに一本の木が根付いている
すると先祖に根づいているつながっているとなるのかと見た
ただ古墳が墓なのかどうかわからないがそれは遠い先祖が生きて残したものであることは確かなのである

家の前が広い庭であり畑があるというのは田舎では普通にある。するとそこで食料がとっると言うことで何か金を持っているより安心だともなる、なぜなら紙幣は紙切れだから預金封鎖だとか物価高で目減りするとかあり安心できなくなった
だから貯金に利子が5パーセントかついていた時代があったが特別恵まれた時代だったのである
なぜなら今でも十年前に貯金したのに満期になり利子がついているからである
だから30年前とかの利子が高くついたとき利子だけでも相当に増えていたのである

だからこういう時代は畑でももって食料を確保しておけとなる
ところが農業は簡単にやれない、もうわずかな畑でも鳥に食われたとか盗まれたとか肥料代がかかるとか種代がかかるとか
苦労が多いが実際の収穫は10倍も費用がかかりわずかだったとなる、素人が簡単にできるものでないのである

常磐高速のSAは人でいつも混んでいる、山の方だから山桜が咲いていた
すでにできてから5年くらいすぎた。それに比べ鹿島駅は壊されるとか言われて小学生は壊さないでと集まりアピールした
明治にできた駅舎で古く鉄道マニアが見に来たりしていたからである

今年は新しく植えた牡丹の蕾が二つふくらんでいるので楽しみである。二三年は葉っぱしか出なかったのに咲くのも不思議である、別な牡丹は30年なのか40年なのか5つつくらい咲き続けている
その土地と合えば咲きつづけるとなる
とにかく花でも咲き続ければいい、米でも野菜でもとり続けられるから恒産となる、でも金融商品は貯金でも紙切れになる恐怖が付きまとっているのである





2025年04月22日

グローバル経済は精神の自立も奪うから問題−アメリカのラストベルトの問題 【昔の山村は自給自足であり都会に頼らないから自立する誇りを持っていた】

グローバル経済は精神の自立も奪うから問題−アメリカのラストベルトの問題
【昔の山村は自給自足であり都会に頼らないから自立する誇りを持っていた】

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富めりとも翁の身には知らざらん木の間のけむり絶えずのぼりて 大和田建樹

能登地震で限界集落に金をつぎ込んでも無駄の問題 
【自給自足の生活の時代は都会の人や税金に頼っていなかった】

都会の人が富んでいようが自分には関係ない、炭焼きで自立して暮らしている、これは炭焼きして自活していた時代であった。戦後十年も炭の生活だった。だからこそ田舎では自給自足で自立していたからこういう自負があった。
国に頼っていない、都会にも頼っていないから都会の人に税金の無駄使いなどともいわれなかったのである。今からすると貧しいのにそういう自負があったということを見直すことになる。おれ達は東京のお荷物ではない、国のお荷物ではない、自分達のことは自分達でまかなっているとうい自負があった。



グローバル化とこのことは何が関係があるのか?なぜトランプ大統領はアメリカファーストというときこの問題と似ている。
グローバル化でアメリカは得していると思ったらアメリカは損している世界に対して関税を高くするようにしたのである。
グローバル経済とは個々の国でも自立するのではなく、世界に依存するということがある。
まず、石油時代になれば日本には石油がないのだから外国から石油を輸入しなければならないのだからエネルギーの面で自立できないのである。すると、絶えず中東のことが問題になる。そこで何か問題が起きると石油が入らなくなると不安になるのである。

そしてあらゆることが石油が関わってくると石油が入ってこないということは国が維持できなくなるともなる。
その点ではアメリカ何でも自立できる供給できるから外国から輸入しなくてもやっていけるとなるからアメリカフアーストになる。ただ車にしても世界にサプライチェーンがあり車でももはやアメリカだけでは作れないシステムになっている
だからアメリカの関税をあげることは自分の国に跳ね返てくるとされる

ただグローバル経済の問題は昔のグローバル経済の問題は昔の自給自足の経済と何か似ている。
アメリカの製造業のラストベルトでは製造業が世界の競争に負けてその誇りを失ったとしているからである。
つまり、それは炭焼きをして、自立して都会に頼らず暮らしていた山村の問題とも似ている。
自律性が失って誇りも失ったということである。

すると今過疎化している山村は炭焼きの時代に戻ればいいとまでなる。またアメリカなら、そのラストベルトでも世界から車を輸入するのではなく国内だけに消費さればいいとなる。それは技術的に劣ったものでもその方が良いというまでになる。
要するに自立性がなくなってしまうことで問題になっている。
そしてそれは精神的にも影響してしてそれは人間の生きる誇りすらなくなってしまう。だから、グローバル経済というのは返って自律性をなくしてその国の地域の誇りすら奪ってしまう。ただ、グローバル化経済でアメリカがグローバル化経済でアメリカが一番得したのかと思っていたら違っていたのである。アメリカはグローバル経済の一番の被害者だと言っていることが奇妙に思えるのである。
グローバル経済でアメリカ人の誇りまで失われたというのはそのためである。

日本にしても、なぜ農民がコメ等作っても金ににならないとして誰もやりたくないそこに誇りを持てない。
その問題も同じ根から発している。今、米が高くなりすぎてそれならベトナムから米を輸入すればいいとかなる。
一部のレストランとかではそうなっている。また日本人は米が高いからパンであれパスタであれ別なものを食べるほか無いともなってしまう。すると、日本自体の文化も失われ、誇りも失われてしまうかもしれない。米というのは必ずしも腹を満たすだけではない。長年の日本で培われた文化だともなるからである。

でも、技術競争は世界で熾烈に行われておりそれに破れたものは。こうして自立性とか誇りまで奪われてしまうのである。
でも、アメリカがグローバル経済で一番損したということは理解できないことであった。
アメリカが世界からグローバル経済によって富を収奪したと思っていたのである。実際はアメリカの富が奪われたと言っているのも意外だったのである。
なぜ日本で米に高い関税をかけているかといえば外国から米が安く入ってくれば食料まで外国に依存するのだから何かあったとき米が入ってこなくなり日本人は飢え死ににしているとなる。それは、食糧を外国に握られているからである。

外国から日本には輸出しない。そうさせたくなければ従いと外国から言われる。実質、外国によって支配されることになる。
だからグローバル経済というのは、世界的経済戦争であり技術戦争でありそれに負けたものは他国に支配され、奴隷化されるということである。それがアメリカでもそうなっているということが意外だったのである。
やはり人間はそうして他国に従属して奴隷のようにされるより支配されるより自立して生きたいということがある。そこに精神の誇りを持ちたいということがある。それは、昔の山村で炭焼きをして、自立して生きているから都会の人にとやかく言われる必要がないというのとも似ている。
なぜ今の過疎地帯が山村は都会の人からいろいろ言われるのは電気であれ水道であれインフラの整備が東京とかでも都会の人がその税金を出している地方交付税で出している。そういうインフラを整えるのに都会の80倍もかかるとかなるからである。

人間というのは、やはり自尊心があり誇りがありそれが失われることに耐えられない。だからこそ国同士でも自立して存在した。独立して存在したい。そのために戦争でもする。そういうことをグローバル経済では、ただ経済中心になり精神的なものを無視しているから問題になる。グローバル経済は精神の自立も奪う武士は食わねど高楊枝とかの諺があるがこれもたとえ貧乏でも、武士には誇りがあるとなる。つまり人間は誇りを最も大事でありそのためには戦う命をかけても戦う性質がある
ただ食うために生きているのではないからである。食料を得るためにだけに物を得るためにあけ生きるのではないからである

そもそも精神的自立性という時日本はアメリカに負けて失ったのではないか、国が独立自立が失った時また個々人でも自立が失ったとなる。それがグローバル経済でアメリカに起きているというのも意外だったのである。
中国の貿易戦争に負けるときそれはアメリカの誇りを失うから耐えられないとなっている。それは中国でもメンツを重んじるとかで同じなのである。日本はアメリカに負けてそうした精神の自立を失ったのである
やはり自国は自国で守らなければアメリカに頼っていただけでは自立はできないとなる
アメリカは日本のために戦うとか世界をリードする時代は終わったとなる。ただそうなると中国、ロシアとアメリカと接して
日本は相当に苦しい立場になる。でも人間は誇りを失いたくない、それがアメリカに起きていたことが意外なのである




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アメリカのテスラなどでは自動運転がすでに行われて実用化しているという、やがて日本もそうなる
つまり電気自動車は通用しなかったとか言われるのは日本車がまだ世界で通用するという偏向報道だと加治将一氏は言っている
すると日本車も将来売れなくなるのかとなる。そうなったら日本は売るものがなくなりどん底になる
そのことは日本では報道されないからみんなわからないという

それは常に高度成長時代にジャパンアズナンバーワンとしてアメリカを見下していた時と似ている
日本はすごいとか礼賛されだけだったがたちまち今や日本ついて悪いことばかり言われる
だから自国礼賛も危険になる、太平洋戦争でもアメリカなどたいしたことがないという傲慢から戦争になったからである
ただその時情報不足があった。それでも外国のことが正確に報道されず日本礼賛になるとき危険である
アメリカがいいというのではなく人間は奢る時危険になるからである。
だから本当の実情を報道を知るべきだとはなる、結局外国は住んでみないと実感できないから判断が誤るのである

posted by 天華 at 13:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年04月21日

親孝行したいときは親はいないは死語になった 【親に冷たい息子娘が増えた、老人も人格が歪んでいるのが多い】


親孝行したいときは親はいないは死語になった
【親に冷たい息子娘が増えた、老人も人格が歪んでいるのが多い】

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年齢を重ねるほど、子供と堂々と距離を置くべき理由|
もう子供に頼らず、静かに一人で生きたい80代の母|オーディオブック



このyoutubuは事実ではないだろう、創作がある。他にもそうしたyoutubuの放送がある
中東の大富豪と日本人が結婚したが何不自由ない生活でも人形のようにされ離婚したとかある
それも事実ではないにしろ別に人間としてそういうことあるから
フイクションとしても全部作り話とも見えない、そいうことは人間の一般的心理としてありえるからである

何かせっかく作った干し柿とか漬物とを息子の家族に持って行ったが息子は子供が受験勉強でうるさいと集中できないからホテルに泊ってくれと言われた。それが余りにも冷たく母は悲しむ。これが家族なのかと悲しむ
でも今の時代そういうことが多いかもしれない、近くの人は常に息子のことで介護されていて不満を言う
実際脳梗塞と糖尿病で歩くこともままならない、杖ついて何かにつかまらないと歩けないのである
でも台所仕事でも洗濯でも自分でしていて息子は手伝ってくれない嘆いている

これは障害者をかかえて育てられて長男にかかりきりになりその弟はないがしろにされたとかある
でもそうした事情がなくても今は一般的に親と子の関係がうまくいかなくなっているのが多いのかもしれない
そのことがyoutubuで訴えているからである。金があるとその金が欲しいだけで親のことなど思ってくないとか放送される
それが他人ならわかるが息子娘でもそうなっている。だから親子とか家族と何なんだろうとなる

私の場合は親二人いたとして特別思っている。それは60年間以上一緒にいて特別良くされたからである
別に働かなくても何も言われなかった、旅していてもかえって奨励されていて働けと言われなかったのである
だから私は家に引き込もり自分の好きなことを追及してきたのである。それが自分の性にあってたのである。
だからそうして生かされたことで特別親に感謝しているからこそ介護でも懸命にしたのである
死んでからも供養しつづけている。
ただ一般的に結婚して子供を持つとなかなか親のことを思わなくなる。新しい家族のこと、妻や息子のことで家族のこと、妻や息子のことで精一杯となるからである。

それにしてもそれが事実でないにしろ何か悲しいものを感じた。親子とはそんなものなのかと思ってしまう。
そして子供の時、いろいろと子供を世話したことなどを懐かしんでいる。でも、子どもはそのことを忘れるというか、そんなに。思わない、ということである。その残された親は一人で暮らして悲しんでいるだけだとなる。

そこで一番感じたのは母親が作ってくれた料理がありそれを干し柿とか漬物を持って行ったが無駄になったとか悲しんでいたことが身につまされた。それはただ店で買うものとは違う。母親の愛情がこもったものであり手作りのものでありそれをお金で買うというだけのものではない親の心がこもったものなのである。
なぜ、そのことを感じたのかというと私の親はみんな死んで私はただ料理が面倒だから買うことだけであり。誰も私のために料理を作って来る人はいなくなったからである。ただもしかして妻がいればその手料理を食べれば母親がいなくても代わりになったから補われてそれほど思わないかもしれない。

でも、今や私のことを思い私のために何かをしてくれる人は一人もいなくなったのである。
だからこそ、余計に親がいたときは良かったとして特別そのことを感謝して思うようになったのである。
そして大正生まれの母親の好物が干し柿であった。貧乏な時代を生きたからである。それで干し柿を遺影に献げているのである。

何か孝行したいときは親がなしと言われたのは。それは親が早く死んでいたからだとなる。今は、必ず高齢化で親は子供は親になってもまた生きている。そしてその親のことを子供は思わない。

親孝行したいときは親は死んでいる
親はいつまでも生きていても親孝行されない

これも時代の変化でそうなった。時代によって家族も変わってしまうということである。だからそれを悲しんでもどうにもならないのかとなる。それで幼馴染が親切にしてくれるのでそれは慰めとなっていた。
つまり現代ではなかなか娘、息子に頼れない時代になっている。その娘、息子にしても。親に遺産があるとすると、それだけが目当てになる。だから一体何のために子どもを育てたのかとなる報われないとなる。

ともかく、こうして高齢化社会というのはいろいろな問題が生じてきている。それは、今までに経験したことがないからである。

寿(いのちなが)ければ則ち辱(はじ)多し

「荘子そうじ」外篇・天地
「男子多ければ則(すなわ)ち懼(おそ)れ多く、富めば則ち事多く、寿(いのちなが)ければ則ち辱(はじ)多し」
兄弟が多ければ争いの心配が多いし、富が増えればそれを守るために煩わしいことが増えるし、長生きすれば世の辱めを受けることが多くなる

今なぜ老人が問題になるのかそれは長生きでありその老人でも本当にまともな老人はいるのかとなる
老人をみていると何か心がまがり人格が歪められた人が多いように見える。それはまるでダンテの地獄編を見るようである
結局罪を犯して生きてきてまた人間の愚かさが現れる。体も醜くなるが心も醜いものとして否応なく現れる
つまり人生の最終決算が現れる、罪ない人は一人もないというとき老人は人生の総決算として現れるのである
だから本当は早く方が死んだ方がいいとまでなる。醜さをさらしてまで生き続けるのはかえってうとまれ嫌悪されるだけだとなる

でもそれを自覚している老人はまれである。かえって出しゃばり迷惑をかけても恥じることがないとなる
つまり人間はいくら長生きしても何か人間として完成されない、何かみんな歪んでいる、それは過酷な人生で歪められたこともある。私の母は継母の育てられて歪みまた働きずめで花などいらないとなり人格的ぬ歪んだものとなった
それは同情すべきだがとにかく老人は人格的に歪んでいる人が多いのである

要するに老人だけの問題ではない、別に若い時からすでに人格が歪んでいる人は普通にいる
そしてビジネスで成功する人はサイコパスだとか言われるのもそうである。成功者でも人格的に歪んでいるとなる
またそうしなければこの世では成功しないとなる。だから別にその延長として老人になるのだから当然歪んだ人格になる老人が多いとなる

2025年04月20日

アメリカのトランプのエリートの反知性主義と似ていた共産主義の革命? 【焚書坑儒などがあり知識人への憎悪がアメリカを分断する―ラストベルトの反発】


アメリカのトランプのエリートの反知性主義と似ていた共産主義の革命?
【焚書坑儒などがあり知識人への憎悪がアメリカを分断する―ラストベルトの反発】



アメリカの平等主義は、知性と権力の結合、つまり知的エリートが権力を独占することに反感を抱かせるのである。

 したがって、それが反知性主義となり、平等の名の下にエリートの思想狩りをすることに繋がるわけである。ハーバード、イェール、プリンストン大学などがその典型である。

ハーバードを恫喝するトランプの「リベラル狩り」に大衆はなぜ喝采送るのか…背景に米国の低学歴層が抱く反知性主義

なぜ起きたカンボジアの虐殺ー中国の文化大革命も同じ】
【知識人が憎まれた理由ーAI化でかわる労働

クメール・ルージュ政権は頻繁に、専門家、知識人、仏教僧侶、少数民族だけでなく、カンボジアの旧政権や外国とつながっているという疑いで誰も彼も逮捕して処刑した。型にはまったように、眼鏡をかけたり複数の言語を話したりといった特徴で知識人と見なされれば、クメール・ルージュに反抗するおそれがあるとして処刑された[71]。、ビジネスリーダー、ジャーナリスト、学生、医師、法律家に加えて、それまでのカンボジアの軍、政治指導部の粛清につながった

高い地位、儀礼、富、学識など、そういうものに到達した人々について
わたしが思うには、彼らの到達したものは彼らの体と魂に結果を残すものではない限り
すべて彼らの身につかず、浪間に消える‐ホイットマン

ただ高卒の人で大工さんであり庭師の人はその人も何か人に負けたくないという気持ちが人一倍強いのである。それで大工だけではなく庭師もするようになった。田舎だとやはりいろいろなことを要求されるからそうなったのだろう。だからその人は才能があるのであるただその人は異常なほどに人に負けたくないという気持ちが強いのであ。だから私に対して大学出ているということでそれだけで何か自分が劣っているということを感じでマウントしてくるのである。

そして本に対しても憎しみを持っている整理したりしてこんな本はいらない捨てろとか言っているのである。それは別にそういうことはかつて歴史でも起った。知識人が時の王様を批判したとき憎まれて焚書坑儒があり書物が焼かれたりしたからである。まだ中国で文化大革命が起きたときやはり知識人が農家に地方の農家に働かされるようになったからである。下放ということがなされたからである



アメリカが今トランプ大統領になり何が起きているのか、

アメリカの平等主義は、知性と権力の結合、つまり知的エリートが権力を独占することに反感を抱かせるのである。

 したがって、それが反知性主義となり、平等の名の下にエリートの思想狩りをすることに繋がるわけである。ハーバード、イェール、プリンストン大学などがその典型である。

ラストベルトというときそこは製造業でありITとかコンピューターを駆使したカルフォルニアとかの金融業主体の人達とは違う
何かそうしたものに反発する人達がいる、それは自ら汗をかき物つくりをする人達である
それは工場労働者だけど更にさかのぼれば職人である。最初のアメリカ開拓時代は農民であり職人であり肉体労働者であり
その人たちを賛歌したのがホイットマンだった。体で身に着けて人格を作るとしていたからである。
それは職人気質とかが作られた日本とも似ている。そこに誇りを持っていたのである
またその人達の価値は認められていたのである。

だから不思議なのは製造業のラストベルトというとき錆びついた工業地帯で働く人たちがないがしろにされて誇りすら奪われたとしてその人達を代弁しているからトランプは大学を有名大学でも攻撃している
何かこれが毛沢東時代の知的労働者でも下放されて農村で働かされたと共通している。習近平もその経験をしている
またカンボジアでは眼鏡をかけているとかだけでもまた医者ですら粛清されて殺された
それは始皇帝時代から焚書坑儒があり知識人が殺された。それも恐ろしいことである
つまり今起きていることは時間軸で見れば形は変わってもカルマの再現だとなる

現実の私の家のリーホームした大工さんは本を捨てろとか何か知識人であること自体を憎んでいた
ただ私は別にその人を軽蔑したわけではない、むしろ賞賛していたのである
なぜならその大工さんは庭作りから壁塗りからといろいろできる人でありそれで他の大工さんと違っていたから誉めていたのである。でもその大工さんは知識にうといからわからないからそれで反発した
でも家とか建築のことについて詳しいから感心していたのである

つまり人間には歴史をたどればこういうことがあった。僧侶とかでも反発されてたのは知識人だからである
それが共産主義というときマルクス主義という時知識人が現実に導いたものである
そしたらマルクス主義者自体が知識人であり殺されるとまでなっていた。それもおかしなことである
ともかくアメリカ人はホイットマンの時代に郷愁を持っているのかとなる。ホイットマンのように肉体労働者が賛歌された時代である。それは数字を操作する金融業の人達とは違っていたのである

なにかそれが偽りの労働であり人をだますものでありそれでハーバート大学の人はそうして作り出す投資信託であれ金融商品が詐欺だとして良心の呵責に耐えられず辞めたとかある
また日本の銀行員でもそういうことがあり生きがいを感じられず農業に従事したとかなる
何か労働という時、農民が米を野菜を果物をじかに作るとき天に神に感謝する、そのときそのとれたもの食べるとき買うのとは違い特別な喜びがある。それは大地と結びつき天と結びつくからである

何か労働というものが世界的に荒廃している。『西洋の敗北』エマニュエルドットでプロテスタンティズムが失われてしまって空虚化したというのは理解できる。労働は宗教的行為としてもあったからである、何かトランプ大統領が福音主義者の応援を受けているという時も良き古い時代のアメリカへ復古するということである。それだけ何か精神が荒廃したからだとなる

グレートアメリカアゲンとは復古主義である。それは何か西部開拓時代のフロンテアスピリッツの回帰だともみる
つまり日本だって歴史だとそうした復古主義は必ず起きる。日本なら本居宣長の国風文化の見直しがそれである
また明治以降でもやはり戦前を戦争でもそのとき日本人が一体化したということでなつかしむことがある
そういう復古主義は必ずどこでも起きる。つまり何か世界的にいくらグローバル経済になってもそこに精神の空虚さが生まれていて復古主義が起きるのである。グローバル経済は道徳なき経済でありそれで世界的に物だけがやりとりされるもので精神は荒廃したとなる。

ただアメリカはもともと内村鑑三が留学した時代から金一辺倒の社会でそれを嫌っていた。アメリカは移民の国だからアメリカンドリームの一攫千金を得るために移民がある社会になる。億万長者が生まれる国なのである
ただアメリカには物質主義であり文化ない生まれない国である。それは歴史が短いからである
中国を奈良時代に習ったのは高度な文化があったからなのである。まず漢字はその文化の最たるものであり文明とは文で漢字で明らかにするものだともなるから漢字を取りえれることで遣唐使を派遣したともなる
アメリカに文化を習う取り入れるとかはない、科学技術を取り入れるとしても何か文化を取り入れることはない
だから世界でアメリカを尊敬するということはない、ただ軍事力と経済の物質主義の国だとなる
それは西欧文明とも違たものである。民主主義といってもそれは文化ではない、行詰まっている
とにかくグローバル経済自体が行詰っている。それはやはり文化を創造しないからだとなる



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2025年04月19日

長閑な故郷−古墳の町【長閑、タンポポ、蟻穴を出ず、春霞、桜、チューリプ、、】


長閑な故郷−古墳の町【長閑、タンポポ、蟻穴を出ず、春霞、桜、チューリプ、、】

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家の庭に古墳がある、二つある。それだけ古墳が多い

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蟻穴を出でて喜び遠くへと

家の前タンポポあまた増えにけり

春の日やぽかぽかあたたむ古墳かな

我が里に古墳いくつか長閑(のどか)かな

春霞連なるや山の屏風かな

自転車に走りゆくかなつばめ飛ぶ

竹しなり自転車走る里の道

チューリップ駅の案内模様替え


長々と柳のたれてこの道や桜も映えて菜の花も見ゆ



玄関を見たら蟻が一匹動くのが早いかなりたちまち遠くへと進んだ、それもは早かった、穴から出て喜ぶ動いたのかとなる

今日は23度で暑いくらいである。だから長閑となる。古墳の町とか宣伝しているけど何かぽかぽかとその小さな古墳を春の日があたためる感じにもなる。死者が眠るのかその死者も気持ちいいとまでなる
阿武隈山脈は屏風のように連なり霞む。

駅の案内は新しくした。でも駅はずっとかかわっていない、閑散としている。チューリップがいい、でも常磐高速道路のSAと比べると余りにもその差が大きい、駅に人の出入りは少なすぎる、一人くらい駅に待っているとかなる
そして駅前の自転車屋の人は死んで淋しいとなる。
ただ駅は街と直結している。でも常磐高速のSAから街に来る人はいないのである。分離しているのである
だから街を活性化することにはならないのである







2025年04月18日

桜咲く谷野原ー玉野村−霊山ー飯館村へ【霊山南朝滅ぶ短歌−北畠顕家の死と桜】


桜咲く谷野原ー玉野村−霊山ー飯館村へ【霊山南朝滅ぶ短歌−北畠顕家の死と桜】

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谷野原

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玉野村

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霊山紅彩館

【飯館村】

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木戸木(ことぎ)



かなたへそ峠を越えむ燕来る

峠越え燕飛び交う季(とき)は来ぬ

上り来て朝の耕し金谷原

一すじの滝のひびきや朝桜

大滝の響き芽吹きや登る坂

拓けたる玉野の平地春野かな

梅匂う遅きも玉野の平地かな

玉野にそ梅の匂うや休むかな

君子蘭広間に休む窓映る

【飯館村】

菜の花の匂うや山の穏やかに

栃窪に灯ともりあわれ蛙鳴く




横川の朝にひびける流れかな桜の映えて更に奥行く

石一つ据えて金谷原誰か住む枝垂桜や街は遠しも

老いてなお坂を上るも春なれば他所の桜を見むと欲すも

おのがじし満ち足り咲くや君子蘭窓に映りて我が休むかな

【北畠顕家花と散り南朝滅ぶ】

霊山に春風唸る南朝の城そここにと時は過ぎにき

春風の霊山に唸り武士(もののふ)の城にありしも南朝滅ぶ

霊山の巌黒々と春の風唸り吹くかな武士(もののふ)籠る

春の風唸り吹くかな時は過ぐ山は変わらじ人は変わりぬ

朝の滝轟き桜一時の栄いにあれやはやも散りなむ

朝の道桜咲き継ぐ霊山へ滝そひびきて風の荒らしも

春の風唸り吹くかな霊山に顕家若く花と散るかな

顕家の駆けゆく姿りりしくも花と散るかな風荒く吹く

風荒く朝に散る花顕家の一時映えぬ武者姿かな

目覚めれば花のあまたの散りにけり風吹き唸り夢の跡かな

(木戸木)

木戸木(ことぎ)にそ桜咲くかな十本ほど幾人かここに住むもあわれも



今年が風は強く吹く、自転車だとまともに風を受ける、ただ車だとまたそうした自然を風でも感じないのである
それで自然と一体化しないから俳句でも短歌でも詩も作れないとなる
今回は春風でも荒く吹いたからである。それで霊山についても風がうなり吹いたのである

この道は歴史の道でおある、霊山が炎上して逃れたのがこの道だからである。落武者となって相馬市であれ南相馬市の鹿島区でも逃れた。特に鹿島区では日吉神社があり逃れた一族の根拠地となった。その一族の只野氏の姓が本当に多いのである
50軒とかあり原町区へも相馬市へも拡散している。だからなぜこれほど多いのかとなる、その一族は繁栄したとなるからである
南朝の将軍北畠顕家は21才で死んだ、これは早すぎる一瞬の光芒を放ち死んだとなる。

ただどうして霊山のような山で生活できたのか?前は相当の数の僧が修行していた、でもその食料などどうして供給したのだろうかとなる。山を登り運ぶにも大変だし誰が供給したのかとなるからである

太平記』の物語では、顕家の軍は徹底的な略奪を行いながら行軍し、顕家軍が通った後には人家どころか草木も残らなかったと描かれている。同物語では、「これらの行動を恥知らずの夷の軍勢であるから」と批判的に描写されている。霊山包囲などの苦境からの出撃により物資が絶対的に不足していたという事情が反映されたと伺われる。

これはやはり霊山では食料に苦労したために食料を確保する強引なものになった、それは霊山での経験でそうなったというとき
事実からそうなったとなる

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金谷原では松母姫が死んだ。その碑がある。霊山から逃れてここで死んだ。横川の橋のたもとでここに住んでいる女性と語ったことがある。その若い女性は歴史クラブに入っていて詳しかったのである。

松母姫ここに死すと語りけり横川に咲く桜を見て暮る

電動自転車の問題はバッテリーが意外と早く切れることである。それで霊山できれたのであととで苦労した
坂だと歩くほかないからである

飯館村の木戸木(ことぎ)を回ると暗くなりつつありそこに十本くらいの桜が咲いていた。そこに住んでいた人は何かその桜を植えた話を語っていた。その人はその桜の咲くところで畑仕事をしていた。でも85才とかで体が弱り苦しいと言っていた
だから今はその畑は放置されているしそこに住んでいるかどうかもわからない。
ただあのような不便なところに住んでいて車もないし80才過ぎるとかなると暮らすのも難儀である
なぜなら配達してもらうとかバスをまって買い物しているとか行っていたからである、今そこに住んでいるかどうかもわからない、飯館村ではそもそも原発事故以後二割くらいしか残っていない、それも老人が多いから村が維持できるのかとなる
玉野村小学校でも廃校となり臼石小学校も廃校となりと廃校になる学校が本当に多いのである

ともかく自転車で行くのもだんだん苦しくなる。ただ人間は日ごろ筋肉でも鍛えていると老人でお強化される
なぜ疲れたとなれば冬の間運動しなかったからである。それで筋肉が弱ったのである。だから日頃運動していれば筋肉は強化されるのである。

それにしても今日も風が強く桜はかなり散った。山の方は咲き始めえもありまだ散らない、気候の差でそうなる
ただ飯館村では咲いていてのである












2025年04月16日

アメリカの覇権は終わる―関税問題はそも徴候 【ローマ帝国が東西に分裂したようになる―貨幣も別々になった】

アメリカの覇権は終わる―関税問題はそも徴候
【ローマ帝国が東西に分裂したようになる―貨幣も別々になった】


アメリカが世界の富を集めている、グローバル経済で収奪している。そう、見ていたがアメリカにすれば逆に世界から収奪されているのだということで関税をかけることになった。アメリカは世界から輸入するだけで輸出するものが限られている。
アメリカの製造業は衰退した。世界から輸入ばかりしていたら当然国も貧しくなってくる。
でもなぜアメリカではそんなに輸入できたのかということである。外国から物を買うことができたのかということである。

アメリカの主要な産業はITと農業であった。農業は主要産業でもあるというとき、その広大な土地がそうさせたのである。日本の農家と違ってその生産力は百倍にもなるという。それだけ平坦な土地があり。日本の零細な農業とはまるで違っているからである。その農業にしても関税が高くして買わないとなり農家が大打撃になる 。ブラジルからとか輸入するからとなる
経済は生産と消費があり。いくら作ってもそれが消費されない売れなければ作っても無駄だとな
る。アメリカは世界の巨大な消費地であった。でも自ら生産しないで消費ばかりしていたらその国は豊かにはなれない。
アメリカはそこで行き詰まってしまった。

でも、消費というとき江戸時代の江戸は大消費地であり何か生産しているわけではなかった。侍は別に何か生産していないからである。要するに、ただ消費するだけだったのである。ではなぜそのようなことが可能だったのか。
それは政治的軍事的機能はあり参勤交代でもそれは無駄なようで消費するだけでもやはり経済的効果をもたらしていたのである。それによって宿場町ができてその街道筋も栄えたのである。でも、侍は何かを生産するということはなかったのである。
それとアメリカは似ているかもしれない。輸出するものは少ないにしろ軍事大国であり世界の政治的中心にもなっていたからである。つまり、大消費地になっていたのである。アメリカ人はたとえ、金がなくてもクレジットカードで消費しているのである。だから、その借金も膨大なものになっている。国自体が外国からの国債でその金額も膨大だからもし中国であれ、日本であれその国債を売ればアメリカは窮地に立たされる。

ともかく、アメリカはなぜ高い関税をかけるようになったのか。それはトランプだけの思いつきでもなくアメリカ全体の経済的問題として、必然的にそうなったとしている、売るものがなく借金しても買ってばっかりいたらその国はとても持たない。ただ、アメリカはドルが基軸通貨であり紙幣を刷ればそれでなんでも買えばばいいとなるかなるか。そんなこと続かないわけである。とても金融だけの経済では行き詰まってしまうのである。経済と政治は一体でありその経済を無視して政治だけでは覇権国になれない。アメリカは経済大国だったからこそ、覇権国になりえたのである。その経済が衰退する時覇権国にはなりえなくなる。

その基軸通貨のドルでも。世界的信用を失ってゆく。それはローマ帝国でも東西に分かれたとき別々の貨幣となり衰退したと同じである。つまり、世界的にドルの価値が下がり基軸通貨でなくなり中国の人民元がグローバルサウスでは基軸通貨となってゆくこともある。つまり、アメリカの覇権は失われて、世界も分断されるということになる。
ローマ帝国も政治と軍事力、軍事力で大帝国になっていたが東西に分離して貨幣も別別のものになり、衰退したのである。

だから今、アメリカもローマ帝国のようになってゆくのかもしれない。アメリカのドルはもはや基軸通貨として維持できなくなる。政治力と軍事力だけでは覇権国になり得ないとなる。今、世界はそういう岐路に立たされているのかもしれない。
アメリカの国自体が。内部から崩壊して行く。政治軍事力だけでは維持できず。やはり経済的問題として維持できなくなる。
アメリカは世界から孤立して行くのかとなる。世界の警察とか言われたが、それも維持できない。それだけの経済力もなくなってきている。何か武器すら製造できなくなっているという。だから。軍事力と政治力はその裏付けとして、経済力がなければ成り立たないということである。それは表裏一体なのである。

ただ、そうなると日本の立場は中国とアメリカに挟まれて苦しい立場になる。でもアメリカに頼っていればいいという時代は終わった。となるアメリカはアメリカファーストになり自国を守るだけで精一杯になってしまう
でも中国に従うのかとなるとそれも難しい。中国の属国となり奴隷化されるかもしれないからである。それは日本だけではない。世界的にアメリカに頼ることはできないしパックスアメリカは終わったということである。
それでまた世界が分断されて第三次世界大戦が始まるという人もいる。群雄割拠の戦国時代になるのかともなる?
いずれにしろ日本の外交は相当に難しいものになる。

日本はそもそも。東西を結ぶものとしての地理がある。世界的役割があった。中国に先んじて西欧化したのも、そのためであった。ただ逆に、その東西の狭間で分断されるということにもなりかねないのである。ともかく、世界の覇権は常に移動してきたからやはりアメリカもその覇権が維持できなくなる移動してゆくそれは避けられない。となるそういう歴史の転換点に来ているということを認識する必要がある。アメリカの覇権の一方的関係は終わったということである。その次にどうするのかとなると日本は相当に難しい立場になる。でも、政治的には混乱しているし経済も衰退しているからこれまた危機になる。
すると挙国一致内閣作り対処する他ないかもしれない。右とか左とかで争っている時ではなくなるかもしれない。
確かなことはアメリカの覇権は失われてゆくということである。



2025年04月15日

春の雷の俳句連作 【春の躍動の詩】


春の雷の俳句連作 【春の躍動の詩】

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活動や鳴り響くかな春の雷

新しき事起こりなむ春の雷

停滞を破り鳴りなむ春の雷

日本を新たにせむや春の雷

未来へと四方に轟く春の雷

天来の声轟くや春の雷

春の雷新発見や進みなむ

天才のまた一人い出む春の雷

天よりそ霊感を得む春の雷

不意をつく驚天動地の春の雷

船出せむ海にも響く春の雷

満開の花に轟く春の雷

老骨も蘇らむや春の雷

坂のぼり鍛える若者桜咲く

川流れ場所を移りて桜見る




春の躍動


巨きなる山に挑め

その頂上を極め征服せよ

そして天に上らむ

そこにいくつもの天の宝庫あり

その扉を開けよ

停滞を打ち破れ

一つの場所に囚われるな

灼熱の溶岩の山

海を望みかなたに飛翔せよ

突然は春の雷は鳴りひびき

強烈な閃光が走る

いたるところに桜は咲き

日本よ、停滞を打ち破れ

新しいは発見のあれ

新し詩の起これ

躍動する自然に合わせよ

汝は大いなる山に登り挑戦せよ

果敢にぶち当たりその山を征服せよ

汝は頂上より天翔り神にまみえむ

牡丹の芽は未来へ大きくふくらみ

タンポポはどこまでも咲き続く

大輪の花は遅くも開花する

そして海に出て轟き響く波の押し寄せる

自然とともに躍動する者よ

血は湧き踊りめぐる

神の栄光は自然にあり

その業は限りなく魅了する

そのインスピレーションは絶えることはない

汝は地球を宇宙を詩う者なれ

創造主なる神に習え

常に創造を試みよ

新たな未来は開けむ










2025年04月14日

相馬市の城下町の夕桜【初蛙、燕来る、夕桜、夜桜、春の雷、和紙、、】


相馬市の城下町の夕桜【初蛙、燕来る、夕桜、夜桜、春の雷、和紙、、】

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初蛙我が家に向かい鳴きにけり

初蛙我なお生きむ我が家かな

新しや路地裏にも燕来る

復興や松川浦に燕来る

女高生相馬の城下夕桜

若人の声のひびけり桜かな

城下町老舗の菓子屋夕桜

よどみなく桜に満月昨夜なれ

夜桜に雷の閃光続け様

春の雷あとに満月の光輝かな


移り住み建てにし家や石すえて枝垂桜の色濃く垂れぬ

夕暮れに堀に映れる桜かな相馬の城下灯ともるわわれ

城跡に咲きし桜に夕日さし土地の人なれしばし語りぬ

桜色淡くも染めて城下町店の灯ともり細き道かな

城下町和紙に映えるや夕桜その色しみぬ店の灯ともる



昨日の朝に蛙が大きな声で我が家に向かい鳴いた。冬眠から目覚めて鳴いた。それがなんともいい感じだった。
空家が増えているから人が住んでいなければ家も死んでいる。蛙が鳴いても空家だったら活きてこないとなる

松川浦から相馬市に行った。曇っていたが夕べになり晴れて来た。桜は満開だった。黒橋を相馬高校の学生が走り上っていた
柔道部で訓練していた。城跡の桜は満開で夕日がさしていた。相馬高校は城跡のすぐ近くにある
相馬女学校というと古いので長刀(なぎなた)を習っているのはやはり城下町であり侍の伝統があるからそうなる

城跡と言っても何かそこで歴史を感じるものがない、城があれば感じるが何にもないから感じにくいのである
ただ町割りとか城下町になっているから南相馬市の原町区とは違っている

何か和紙というのが日本的でありその感じが何となくいい、曇っているようくすんでいて真っ白なものとも違う。また厚みがあるも違う、ざらざらした肌触りもある。何か城下町であれ和紙が似合うとなる。

またお菓子屋というのはその店独自のものを味を売っているので生き残る、普通の店はスーパーができてシャッター通りにな

っても生き残る。何か丸森の金山とか街の中心でなくても菓子屋はあり成り立っているのである
それは自家生産であり独自の味をつくりだしているかなのである。同じものを売っていないからである

近くに原発避難区域から移住した人の家でもすでに十年とか過ぎるのか石をすえ枝垂桜が咲きその色も濃くして落ち着くとなる

家に帰り夜になって稲妻が走り雷が轟いた、春の雷である。それも三回くらいつづけざまに光った。
なんか今年は風が吹き雨がふり雷がなり稲妻が走る荒れ模様である

そしてたちまち桜も散ってしまうとなる。なんか波乱気味なのか、穏やかではない、ただこれからどうなるのかはわからない

よどみなく桜に満月昨夜なれ

昨夜は満月が満開の桜に輝いていた。今日は一転して雷であり稲妻が光った。変化が激しいのである

それから今外で見たら満月が輝いていた。これだけ自然の変化が今日一日であった

春の雷あとに満月の光輝かな

日本は農業に向いていない?ー山が多くて平地が少な


日本は農業に向いていない?ー山が多くて平地が少ないから大規模化できない
【人間は自然の風土地理を無視して生きられない】


文明は基本的に地理とか風土とかにより作られる。日本は海と山の国である。平地が少ない、だから海彦山彦の神話になる。そこに平地で暮らす人々がいないのである。平地の民が大陸では普通である。山により遮るものなく大きな川がさえぎるものとなりそこが境界となる。それで日本は実は農業に向いていないと最近大規模農業を始めた若い社長が言っていた
山間部は平地がないから大規模化できない、未だにそうしたところの農業は零細な農家が多くそれで農業では今は苦しいとなる

大規模農業法人が実現するとすれば、地域には少ない人しか住まないことになる。例えば、人口1700人の北竜町で考えてみれば、1700haの水田を1法人が300ha経営するとすれば6法人で可能だ。各法人が数人、たとえば、5人の正規従業員を雇っても、全員で30人に過ぎない。つまり、生産性、コストを追求するとなれば、結局のところ、少数の人間しか住まない地域となる。

日本で大規模農業は可能なのか?

中山間地が多い日本では共同で農村を維持してきたが、企業的農業だけでは農村は守れない。また企業が参入しても採算が取れず出て行けば農村が消滅してしまう。一方で小農は自然を有効に活用し、食料自給率の向上や食の安全を保障し、農村を守る

何かテレビでは農業の会社経営者が法人化して収入を上げて若い人が働いていることを報道した。つまり大規模化して機械化してスマート農法で生産性をあげ効率化する。それは山村部ではできないとしている。平地ではないからである
中国でも麦を収穫するのにコンバインで一気に刈り取りできたが山間部が平坦でないのでできないんでやはり出稼ぎの人が人力でしていた。そこには中国でも機械によらないで人間がするほかないほかないのである
それで平坦な地でも機械で田植えできない所が残りそれは人力でしていると聞いた
何事すべて機械化できない、必ず人間の手が必要になる。それはAI化でも同じである。全部答えを出してくれわけではないのである。そこに幻想を抱じすぎると問題になる

人間はそもそも風土の影響とか地理地形の影響から逃れられない、これはいくら科学技術が発達してもできないということが農業は特に風土とと天候とか地形とか自然条件により規定される度合いが強いからそうなる
工業製品を作るようなわけにはいかないからである。自然を相手にしているからそうなる。農業は文化の基だからである
cultureはcultivate(耕す)から来ているからである。それでワインでもその土地の風土により味が違って名前でもその土地の名前で売り出している。まさに文化なのである。農業は工業製品のように規格化できないのである。また機械化にも限度がある制限される。その土地にあった適正を追求してあったからである。


それで大規模農業で成功した例をあげていたがそれもうまくかないとネットで読んだがそうなのかと納得がいく
ではどうすればいいのかとなると私には深く追求していないのでわからない。でも農業は自然と密接に結びついているからなかなか機械化できないことは理解できる。
そもそも気候であれ地形であれ地理であれ変えられない宿命的なものである。山を平らにできない、だから自然条件に制約されるのである。それで野というとき平なところではなく山の斜面を指している。山が多いのだからそういう地形が日本には多い
入野という地形がそうである。その野とは山の斜面のことなのである。そこに棚田があり段々畑があったりする
それは地形に適応してそうなったのである。

ともかく日本は平地が少ない、だから農業するのにも向いていないというのもわかる。飯館村の木戸木(ことぎ)で畑を作るのに土地を平らにすることで苦労したというのもそうである。奈良はならすからきているとか平坦にするということで苦労する
奈良とは実際は今の平坦な広い地ではなく山間部の斜面の野が起源なのだろう。田にしても県(あがた)から始まりそこが最初の
国の行政に組み入れられたからである。

何か農業は大規模化すればいいとか素人から見ればそうなのかとみるがやはり人間は定められた自然の条件に適合しないでは生きられない、それで行き詰まるのもわかる。海彦山彦の国だったという時縄文時代から日本で暮らすとなると自然を変えることもできないからそうなる。自然災害でもなぜ津波の被害が甚大になったのか、それは海側が魚をとるのに便利だからである
相馬市の磯部では被害が一番大きかった。村は壊滅して誰も住んでいない、なぜそうなったのか、磯部村の家が密集している海岸に集落が作られた。その後ろは田である。つまり田を作る平地には家はまれである。

もともと海であり海を埋め立てて田にした。そして津波で元の海になったのには驚いたのである。海を田にすること埋め立てすることは自然に逆らうことなのである
だから縄文時代にそうして海だったところには人は住んでいない、縄文時代の遺跡は発見されないのである。
要するに人間はいくら科学技術が進歩しても自然に逆らっては生きていけないのである。それは傲慢なことであり自然から復讐されるとなる。山に平地にできないしその自然条件を変えることはできないのである
科学技術にも限界がありそれを過信することは危険になる。

また別に米でもアメリカから輸入すればいいではないかとなるがそれにも限度がある。食料は安全保障でもあり外国から輸入できなかったらどうなるのか、外国に経済でも頼りすぎることは問題なのである。食料がなければ今度は外国に言いなりになる
独立も失われるである、だから中国では一年以上の食料を備蓄している。日本では一か月しかしていないというのも問題である。だから安い米を安易にアメリカからでも輸入するのは危険である。グローバル経済が何でもいいわけではない、その土地に見合ったものとして生活するように神が定めた。それを無視できないのである。日本は車だけ作っていればいいとなれば結局外国に食料を頼れば支配されることになる独立は失われるのである。

また過度なグローバル経済は文化も破壊する、その土地土地に見合ったものとして作られてきたものを破壊する
そもそも工業製品のように一様化できないからである。農業は特にそうであり過度なグローバル経済は文化を破壊する
それは人間の生活を豊かにするわけでもないのである、なぜなら人間は必ずしも物質だけなものだけに生きるのではなく精神的なものも求めているからである。だからグローバル経済が今うまく機能しなくなったのは人間の精神的な面も影響している
貿易は必要でも土地土地の国々の文化まで破壊するときもはや人間の生きる意義まで失われるとなるからである

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2025年04月13日

日本列島桜の旅−短歌連作‐【記憶する旅をしろ】

日本列島桜の旅−短歌連作‐【記憶する旅をしろ】

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九州(平戸)

外国へ海は開けぬ平戸にそ朝の桜や按針の碑あり

入江にそ潮寄せける城ありぬ桜の咲きぬ日本なるかな

(瀬戸内海)

船の行き電車の行きぬ瀬戸内や桜咲き継ぎ駅いくつかな

日本列島浪打ちひびき桜咲く港いくつや蜑の船いず

瀬戸内の潮流れて島々や桜の咲きて鯛のとれるも

桜咲く天守望むや人盛り船の行き来に瀬戸内栄ゆ

明石城春の夕陽の映えにつつ船の行き来や桜装う

大阪城城跡広く夕陽映え集う人にし桜散るかな

淡路島城に月光り残る花一夜泊るもあわれなるかな

(京都奈良)

京都なる八坂神社の古りにける枝垂桜の優艶に暮る

古の奈良の都や古き壺飾れる店や桜に暮れぬ

花開く唐招提寺朝訪ね鑑真の死すは日本なるかな

(東海道)

日本列島浪打ちひびき桜咲く港いくつや蜑の船いず

太平洋陽は昇るかな桜咲く東海道に城いくつかな

小田原城海を望みて花盛り一夜泊らむ波の音ひびく

打ちひびく波の音かも伊豆の海朝の桜や富士を望みぬ

(東北)

小峰城(白河)小さくあわれ一本の桜のいわれ悲しくもあれ

二本松城をまじかに畑に人菜の花に桜錦なるかな

二本松夕暮れあわれ花の散る後そ訪ねて少年の碑かな

気仙沼大島に桜咲きそむる海を望みてなお寒しかも

古風なる城門入りて弘前城枝垂桜夕暮れるかも

日本の果て稚内に来ぬ六月に桜の咲きぬ旅の終わりに



40年前とかに九州の平戸に行った。そこが印象的だったのはこの辺の太平洋の海と違っていて入江になっているから
それが外国に通じていると直感した。按針の碑などがあったから実際そうだった。
とてもこの辺の海は外国に通じているとは感じない、荒涼とした海原でありいつも船二三艘くらいしか見えないからである

瀬戸内内海にしてもこの辺の海とは違う。島々がありその間を潮流があり船が行き来する。だから大きな船が島の間の水路から迫って来た時は驚いた。そんな大きな船が近くに迫って来たからである。


瀬戸内海には◎潮流(潮の満干で起こる流れのこと)が速い
瀬戸内海は小さな島がたくさんあるのが影響して潮流が速くなり、複雑な流れをするので海底の養分がかき混ぜられてプランクトンが増えます。
栄養豊富なプランクトンが生息していて、それを食べる鯛が成長しやすい環境が整っています。そのため、瀬戸内海で釣れる鯛は大きく、重量のあるものが多いです。

瀬戸内海は島が多いからまた太平洋とは違っている。絶えず船が行き来している。大きな船も行き来する

天離(あまざか)る夷(ひな)の長通(ながぢ)ゆか)ゆ恋ひ来(く)れば明石の門(と)より大和島(やまとしま)見ゆ

(柿本朝臣人麿)


瀬戸内海は海の道路にもなる。大きな船でも絶えず行き来しているからである。水道というのも水の道であり船の道なのである

 入川は福山城の外堀と海をつなぐ運河で、満潮時には外堀まで船で入ることができました。現在の御船町辺りには藩船をつなぎ留めるための御舟入(船溜まり)が設けられ、その周囲は船奉行をはじめ、船頭や水主(かこ)の屋敷に当てられていました。また川沿いに市が開かれ、活気のあるにぎやかな港町が広がっていました。

福山城が建てられて間もない頃ころ
,当時は,城のすぐ近くまで海水が入り込こんでいた ため,人々が生活に使う井戸水に塩分が混ざっていました。そこで,水野勝成は,城下町に芦田川の水を利用した上水道を整備することにしました。これは,江戸の神田上水などにつぐ全国で5番目の上水道でした。

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福山城の前はかなり海が迫っていた。日本の海岸は海が入り込んでいた.縄文海進がありその海が埋め立てられて田とになったり町になった。だから相馬藩で小高に相馬氏が最初に作った城が浮舟城と言われたのか、海が近く中世には海運が盛んだったのである。田になっている所は湊になり船の出入りがあり蔵院などあった。
南相馬市でも鹿島区の古代は塩崎に船着という地名がありそこまで海であり海岸の山で製鉄が行われて船で資材など運んだのである。現実に十四年前の津波で船着という場まで海の水が押し寄せたからである。

だから福山城の前はかなり海に近く江戸時代なると城まで水路が伸びて船運があった。入船町があるのもそのためである
他に四国でも現実に船が城まで入り城が港の役割をしていたのである。今治城とか高松城がそうである
何か相馬がその瀬戸内海の城を見て参考にしたという時小高城が海に近いから真似たとなる。

ともかく福山城で印象に残ったのは鉄道の駅があり今は城が駅なのかとも見た、つまり駅を降りるとすぐに福山の城に着くからである。旅という時目的地にアプローチする経路でかなり印象が違ってくる
もし船で入り城に入ればその感覚はまるで違ったものになる。だから福山の城でも海が見えないし海を意識できなかったのである。すると昔のことが実感できなくなるおが問題なのである

瀬戸内海はまた東北の太平洋とはまるで違っている。島が多く島で結ばれ古代からすでに船で行き来があった
だから大きな船が島の間の水道に汽笛を鳴らして入って来た時は驚いた。明らかに瀬戸内海は交通の海である。

日本は海に囲まれている。だから海と切り離せない地形であり地理である。東海道でもやはり海と通じている
吉田城でもアプローチが街から市電で来たが実際は川があり橋がかかり海が近かった。
海が相当に近い海に接しているともなる。でも市外から市電で来たので海を意識できなかったのである
だから旅は歩く旅であれ自転車の旅であれバイクの旅であれ電車の旅であれ船の旅でも印象が相当に変わるのである
海から城を望み城が港となる時城の役割を直感的に理解する。

春の風海より吹くや橋わたる旅人着きぬ吉田城かな

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大阪城の地理でも北側にはいくつか川が流れており、淀川を伝って京都に行くこともできます。
川を下れば海もすぐ。瀬戸内海を通じて西国ともつながっているので、とても便利な場所です。

海と川をつなぐという時川が道の役割をしていた。日本では森が多く道がない時川が道になっていた
だから城でも川を道として到達すれば港の機能があったとなる。
大阪も水路があり江戸でも水路があり海から舟で行き来した。ベニスとも似ていた。特に瀬戸内海は交通の海であり
大阪は地理的要衝になったのはそのためである。それは江戸城でも似ているのである。

東北に来ると小峰城(白河)となると小さい、東北の城は西のような豪壮なもながない、それだけの経済力もなかった
たた会津の蒲生氏郷の城は七層だったから見応えがあった。今の会津の城はそれから比べるとこじんまりしているからである
何か侍の娘が人柱として犠牲にされたというここがありその乙女桜の木がある。
何かこの城はおもちゃのように小さく見える。東北には大きな城はないのである

二本松城は塀しかないのか、山自体が城になっている、すぐ近く畑で働く人がいて桜に覆われていた
その景色が背後の安達太良山に映え景観がいいのである。

城跡に高く登りて春の日や四方見渡す福島県かな

廃藩置県で会津県と二本松県と磐城県が構想されていたことは納得がいく、二本松は地理的に福島県の中心に感じるからである

気仙沼となると津波の被害がひどかった。その前に大島に登った時桜が咲き始めいた。ただ寒かった。それは津波の前であり
津波の後は行っていない。津波の後は親の介護ともなり十数年旅していないのである
その後は何か旅しずらくなった。コロナ騒動もあったとか旅できなくなったのである、そして円安で外国人が押し寄せているしホテル代も高くなったからたびしずらくなったのである

桜がなかなか見れないのは咲く時期が短いからである、それでも私は稚内でも桜を見たのである。それは自転車で行き見たのである。それは6月だったのである、桜前線は6月まで日本列島を移っていたのである。
また韓国の古都慶州でも桜が咲いていたから日本列島だけではない韓国まで通じていたとなる

旅はまず旅を計画をして旅を実際に経験して旅を回想する、そこで盲点なのが旅を回想するとき忘れることである
30年40年過ぎると忘れる、だからいかにして記憶する旅をするかが問題になる。それで写真とかが役に立つ
でもデジカメがないときは記録するのも簡単にできなかった。すると頭に記憶されたものでたどるほかなくなる
でも簡単なメモでも思い出すに役に立つ、それを見て思い出す作業をするのである
ここでまた全国の桜の短歌を作ったのは思い出すことができたからである。


桜前線の短歌






















2025年04月12日

桜咲く梁川から丸森へ歴史の道−短歌十首【丸森の金山城の歴史、伊達政宗から伊達市になる歴史】


桜咲く梁川から丸森へ歴史の道−短歌十首【丸森の金山城の歴史、伊達政宗から伊達市になる歴史】

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梁川に攻防ありぬ要衝の地そも古りにしや春に訪ねぬ

攻防の拠点にあれや訪ぬれば何かありなむ春の梁川

阿武隈川蛇行し流れ渦巻きぬ桜の咲くやはるか来たりぬ

阿武隈川流れたぎちぬかなたにそ吾妻山望み春の日暮れぬ

大張や桜の咲きて白石へその道知りぬ夕暮るるかな

正宗の初陣の地なり丸森を治めて名づく筆甫なるかな

正宗の海を望むや磯山に椿の赤く映えにけるかな

金山城春の夕暮れ伊達思い相馬思いぬ我が帰るかな

丸森や夕べ桜の心染むともしびあわれ相馬に帰りぬ

桜咲く伊達と相馬の境かな玉野の家々古りにけるかな



伊達氏は源頼朝の奥州征伐で功を立て、源頼朝に伊達郡を賜った関東武士で、伊達郡に入植して伊達氏を名乗るようになった。伊達郡は鎌倉時代以降、豊臣秀吉によって17代伊達政宗が転封するまで伊達氏の本拠地だった。梁川城は、4代伊達政依のころから、天文元年(1532年)に伊達稙宗が桑折西山城へ移るまで、300年弱にわたって伊達氏の本城だったと考えられている[4]。城の北方には伊達氏の氏神の梁川八幡宮があり、また、近隣には京都五山に倣って伊達政依が創建したとされる伊達五山と称される寺院があった

伊達氏が本拠を米沢に移してからの梁川は、蒲生氏を経て上杉氏の領地となります。上杉氏支配の段階に梁川城跡は、上杉景勝と軋轢を増す伊達政宗への対策として大規模な改修が加えられました(図1)。北三の丸に残る桝形虎口や大規模な堀跡・土塁などは、この当時の姿を良く残しています


なお伊達政宗の初陣は伊具郡(宮城県丸森町)での相馬氏との戦いであったが、その時に伊達軍の拠点となったのが梁川城で、政宗は梁川八幡宮に戦勝祈願をしたといわれている。



梁川は地理的に要衝の地だからこのように会津の蒲生氏と上杉氏と伊達氏がかかわったのである。その館があった所に池があったとか鎌倉時代にさかのぼる古いものである。ただ今はその遺跡でも土手くらいしか残っていないのである

ともかく伊達氏の起こりは福島県の伊達市である。宮城県ではないのである。だから正宗初陣の地は丸森なのである
金山城は相馬氏と伊達氏が交代で城主となった歴史がある。だから相馬藩の一部であったのである
それで相馬総合病院にその丸森の人が私が入院して同室だった。
その人がんだちゃと言った


東北人のずーずー弁は共通している
んだが語尾になる、

んだ
んだす 秋田県
んだちゃ 宮城県
んだは共通している、東北は蝦夷の地域である
ただ宮城県は仙台は商都でありそれでその語尾は

だっちゃ、だっちゃ、

となる、この語尾が特殊なのだ、これは大阪弁のように押しが強い語尾なのである
んだは口ごもるような言葉である、そういう傾向が東北人にはある
宮城県は伊達藩は正宗が出たように特殊なのである
あのような芝居かっかたような人はいないからである

んだちゃはんだ+だっちゃなのである。それは金山城の下に住んでいれば二つの方言が合体してできた方言だとなる
新地の人もだっちゃというとき新地は伊達領だったからである。それで訛りは国の手形となった
どこの土地の出身か訛りでわかる。


ともかく梁川では会津でも米沢藩でも伊達氏もかかわった。それは地理的要衝の地だったからである
丸森の木材資源でやはり米沢藩と伊達氏と相馬藩は三つ巴の争いがあったのもそのためである。
現実に丸森の金山城は相馬藩と伊達氏が交互に城主になっているからである

1564年(永禄7年)または65年(永禄8年)に相馬氏の家臣井戸川将監、藤橋胤泰が築城したと言われる。その後伊達氏と相馬氏の争奪戦が展開された。

天正9年(1581年)には伊達政宗が初陣を飾り、同12年(1584年)に伊達氏の領有となった。

そして、金山城は政宗の家臣中島宗求が2千石で拝領した。江戸時代は元和の一国一城令により金山要害と称し、引き続き中島氏が明治維新まで居住した。

伊達政宗が領内検地した際、最初に記入した土地である由縁で「筆の甫(はじめ)」を意味して名付けられたとされる。

ともかく丸森は相馬の延長上にもある。梁川となると相馬藩からすれば遠くなるが丸森は相馬藩と一体ともなる地理なのである
だから正宗が丸森が初陣の地となりさらに海に出て山元町の磯山に正宗が休んだ場がある。その時正宗は広い海を見たのである
でも仙台とか松島とかそっちの方が伊達藩になったので伊達市になっていることがピンとこないのである

また伊達と相馬の境となっているのが玉野村でありそこは相馬藩なのである。それはやはり伊達氏と早い時期から対立してそうなったのである



丸森町】筆甫(ひっぽ)キリシタンを守ったマリア観音堂(2016)

ここが詳しいので参照

角田から丸森へ阿武隈川を行き大張村から梁川へ 
(新緑と残雪の蔵王と阿武隈川―短歌連作)











2025年04月11日

仙台市の夕桜【夕桜、花曇り―和紙の魅力】 kyoutsakura.jpg


仙台市の夕桜【夕桜、花曇り―和紙の魅力】

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仙台や人の往来夕桜

仙台や60万石夕桜

仙台の店店のぞく夕桜

城の跡謂れを語り夕桜

みちのくの黄金の御仏夕桜

墨汁の和紙ににじまむ夕桜

みちのくや今日も暮れゆき花曇り



桜が咲いてから風が吹き曇る、桜の季節でも天候は毎年変わるから違って見える
仙台市は何か特徴がない、商業都市であり観光には魅力がない、城下町でもそれも何か明確ではない
つまり特徴がないのである。第一青葉の季節はあっても桜は余り咲いていないからである。

今日も花曇りでありみちのくにふさわしのか、和紙は使わないがそれは実用品ではなく特別なものとなり
アートに使うとなる。和紙は曇った感じにもなるから花曇りにあっているのか、和紙自体が芸術品だとなる。
和紙自体が作るのに紙漉きがあり相当に手間であり苦労なのである
だから貴重になったのである




2025年04月10日

近辺桜の俳句【朝桜、タンポポ、スミレ、落椿、花曇り】


近辺桜の俳句【朝桜、タンポポ、スミレ、落椿、花曇り】

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十羽ほど山鳩集う朝桜

玄関にタンポポすみれ人迎ふ

朝桜椿百輪と映えにけり

相馬藩六万石や花曇り

奉納や二宮神社に桜かな

我が市に観光客まれ花曇り

夕暮れの小径や数輪落椿

淋しきや桜の咲くも空家かな


今日は花曇りだった。相馬藩は六万石である。小藩である。二宮神社は二宮尊徳を祭っている。この辺では常に語られる。
でも二宮尊徳は相馬に来ていないのである。その弟子は二宮仕法を学んで実行したのである。

写真はカメラにより映りが違う。ただきれいに映るのはレンズも重く持ち歩くのがめんどうになる
ただ写真を追求するとカメラとレンズに左右される
フェスブックは写真中心である。だから投稿するとききれいな写真をアップしたいとなる
カメラは持ち歩くと重いと嫌になる。だからカメラはいい写真撮るとなると結構苦労になる

私の場合はそこまで凝ってはいない、でも映像の時代であり写俳(写真+俳句)という分野が生まれたことでもわかる
正岡子規の写生俳句と写真は相性がいいからである
小径の椿の写真は方向を変えて撮ったら違った風に撮れた。撮り方によって違ってくる

それにしても空家が目立つ、桜が咲いても空家なのが淋しいとなる
玄関にはタンポポとどうしてかスミレも咲いた。どこからか種が飛んできてこんなところにも咲く
桜の咲く時期は短いから見逃してしまう。だから見れない桜がいくらでもあるとなる
この辺は外国人の観光客は来ない、今や日本国内をゆっくり旅もできない
つくづくこれがグローバル競争に負けることであった。円高では貧乏人も外国旅行できたができない
日本は貧乏国になったからである。






2025年04月09日

春の平泉の短歌連作ーみちのくの都の跡には自然があり美がある


春の平泉の短歌連作ーみちのくの都の跡には自然があり美がある

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春日さし昔大路と我が歩み古思ふ都の跡かな

春の日や無量光院跡その池に映す影や夢にしあらむ

御池にそ春の陽まぶし影映す無量光院夢の跡かな

みちのくの浄土にあれや大池に春日耀ふ仏いますらむ

大池に映りきらめく春の星いくつや美し浄土なるかな

大泉が池岸辺広く礎石かな柱太しも春の日暮れぬ

みちのくの都の跡の大池に映す桜やたちまち消えぬ

みちのくの都の跡や若草に春の光や虹の切れ端

みちのくの都の跡や我が歩み古思ふ春の暮かな

藤原の三代の栄華金色堂まばゆく映えて春の夢かな

金色堂螺鈿の光り御柱に細工こまやか仏輝く

風荒れて義経堂の桜かな波乱の一生みちのくに死す

春の日にはなやぐ女なお若く桜に映えて大和撫子

(北上川)

北上川流れや遠く石巻海にそい出や春の風吹く

北上川蛇行し流るその岸の広々として春の日さしぬ

北上川広き岸にそ遊ばんや春の雲浮き心なごみぬ



平泉だと近くだから何回も行ける、それで四季に行っている。春には虹の切れ端が残ったのを見たのが印象的である
平泉の魅力は堂塔伽藍が焼失してもそのあとに何か残されたものが自然の中にありそれが美となっている
大都会だと自然の中に映えないのである。だから残されたのは無量光院跡であれば何もないのである
でも前に池があったことをイメ――ジする。それがかえって美しく見える
平泉は都だったしてもイメージしないと浮かんでこないのである

ともかく美は自然と調和するところにあり、大都会のビルの谷間や雑踏には映えないのである
いくら人間が人工的美を作り出してもやはり自然のなかにこそ本来の美がある
不思議なのはなぜ太平洋戦争とかで300万人死んだのにそれが語られないのか?
でも会津の悲劇は語られるのはなぜかとなる。それは美があったからかもしれない
悲劇であっても人一人の悲劇が語られる、そしてその後は純白の雪に覆われたのである

太平洋戦争とかでは原爆の悲惨な跡とか東京の焼野原とか言葉を失う情景である、そこでは言葉にできない余りにも無残なものになっている。失礼にはなるが会津の場合は確かに悲惨なのだがそれが語られるのは美しい自然がありそこで繰り広げられた悲劇だったからともなる、そしてその戦の後はまた純白の雪に包まれたのである

人間の暮らしを神が隠したという時そうした悲惨な悲劇でも自然があれば純白の雪に包まれ消されるということがある
それが救いとまなる。でも現代の戦争はそういうことがない、東京の焼け野原は余りの無惨でありそこには自然がないから
自然に包み隠されることがないから醜悪なものがむき出しになった無惨がある
そもそも大都会は美は消失した場でありそれで空襲でさらに無惨なものとなったのである

まず大都会はそもそも美は消失した場所でありそこには醜悪なものがむき出しになっている
つまり自然に包み隠されているとき本来の美がある。だから大都会から生まれてくるのは醜いものとなる
カルト教団でもそうである。そういう場所には美は全く生まれない、山で修行した僧とは余りにも違っている
そこではだから美がなく心も浄めらえることはない、殺伐とした世界なのである

それと比べると平泉は確かに堂塔伽藍は消失したのだがそこに自然があり自然の美が映えているのである
都会でも盛岡市とか岩手山が映え弘前市だと岩木山が映える、そこには美がある。仙台市とかなると大きくなり美が消失する
それでも広瀬川とかありそれが潤いを与えているのである

北上川は大きな川である。その全容はわからない、ただ北上川は石巻まで通じて舟運もあった。それは陸奥を貫き流れているとなる。








2025年04月08日

南朝滅ぶ霊山の桜【山桜咲く大倉村‐佐須村ー石戸村ー石田村】


南朝滅ぶ霊山の桜【山桜咲く大倉村‐佐須村ー石戸村ー石田村】

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桜はや散りにけるかな滝ひびき落ち延ぶ武士(もののふ)南朝滅ぶ

もののふに巌の黒くも硬きかな夕べ桜の霊山に咲く

(親王桜)

丸森に形見と残る桜かな南朝語り夕暮るるかも

顕家の死ぬも早しも朝に映ゆ花の散りしも南朝滅ぶ

霊山を守れる城の巌硬く黒々として桜咲くかな

霊山を城と守りぬ月光り闇に咲きにし桜なるかも

横川に桜の咲きてあわれかな松母姫を土地の女語る


清らかに巌にひびく流れかな朝に見上げぬ山桜かな

風うなり山桜散る山間に流れの清く朝の空澄む

石田村桜に一つ大岩やここに暮らし歳月思ふ

大倉村佐須村あわれ咲く桜ここにも栄えし家のありしも


霊山神社は霊山の麓でも山を登った所で隠されるようにある。そこに北畑顕家の像がある
霊山から落ち延びた道は歴史の道である。その末裔が南相馬市の鹿島に住んだ。日吉神社は末裔の只野氏など落ち延びた武士が
祭った神社である。とにかく鹿島区には只野の姓の人が本当に多いのである。只野一族の町だともなる
それは南相馬市でも相馬市でも只野の姓の人がいるから繁栄したとなる

霊山城は十年存在したが炎上して南朝は滅びた。その落ち延びたとき扮装したのでそれが祭りとして残っている
宝財踊りである。


松母姫碑(福島県相馬市山上字横川)
 北畠顕家の愛妾として、萩の局、松代姫、松尾姫などの名が知られている。この松母姫碑は、松代姫の母のものといわれてる。

「浜通り霊山落城の痕跡をたどる」研修会を開催しました

これも霊山から落ち延びて残した遺跡である。それを横川の橋で桜の咲くのを見て土地の娘が語った。
相馬市の方にも落ち延びたからその途中でここで死んだのかとなる
顕家は21才で死んだ。余りにも早い死だった






2025年04月07日

満開の桜となるも夕べ風荒く吹く

満開の桜となるも夕べ風荒く吹く

夕風に咲きにし桜ゆすらるる落ち着かぬかな心騒ぎぬ

咲きそめし桜と見るもたちまちに満開となり夕風唸る

たちまちに桜満開さにあれど夕べに風の荒く吹くかな

昨日土手の桜を見たら一分二分咲いたのかと見た。今日見たら満開だった。これも早いと見た
夕べ夜に相馬市の方に行ったら風が温かく寒くなかった。だから温かくなったと思った
ともかく桜は咲いたなと思ったらすぐに散るのを予感する。何か最初から風が荒く吹いたことで今年は特にそのことを感じた
つまり桜は見ていても違ったものになる。また場所によっても感じ方が違うし天候の影響もある

桜の咲く時期が短いので桜は遠くだとなかなか見れないのである。大河原の方の一目千本桜でも去年行った時もすでに散った後だった

我がたずぬ千本桜の散る後やはるばる来しもむなしかりけり

桜は別にどこでも咲いているでもなかなか見れないのは咲く時期が短かすぎる。その短いゆえに桜を見ることを見のがすのである

未だ見ぬ桜の多しも日本にそ生まれ惜しむは桜なるべし

プログのいい点は時々刻々の変化を伝える、実況中継することである。なぜなら原町の桜でも早く咲き鹿島相馬市と桜前線は移ってゆく、その変化を伝えられる。でも別にそんなにプログを日々見ている人はいないだろう

どうしてか盛岡の桜は見ていない、桜咲く時期にうまく見れないのである。でも青森の弘前城の桜は見ている

船岡の一目千本桜と蔵王の短歌20首 (山は場所によってまるで見え方が違う)



2025年04月06日

原町の小川町に初燕【牡丹の芽、桜、鶯、落椿・・・】


原町の小川町に初燕【牡丹の芽、桜、鶯、落椿・・・】

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牛越城


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(鹿島区)

若草にノスリの飛ぶや朝開けぬ

十輪ほど朝の小径や落椿

誰が参る墓地にあまたの落椿

水無川清く流れて朝桜

牡丹の芽太しや庭の石重し


(原町)

小川町流れのひびき初燕

小川町桜に流れ初燕

原町や電車の音に初燕

夕鶯いづこに隠る藪深し

風唸り桜咲きそむ牛越城散るも早しや一時の城


昨日は初燕を原町の小川町で見た。初燕は感動的である。「旅路来て赤絵の町や初燕」有田町に来た時は初燕を見た。
初燕をどこで見るか今回は原町の小川町で見た。それもふさわしかった。原町は新興の市でありそれが似合っていたとなる
牛越城にはすでに桜がさいていた。そこは5年で終わった。城というより館があったとなる。

今日は朝周りを廻った。小径に椿が散っていた、あそこの道はいい道である。何か田舎は小径がありいいのである
水無川も流れて桜も咲き気持ちいい、鹿島区にも燕を見た。ただ土手の桜はまだ咲いていない、でも他で咲いているのもある。
咲く時期が違っている。


水無川が今日は流れて桜が咲く、結構水は出ていた。ここの水は清らかである。
ともかく桜は咲いた時から散るを予感する、咲く時期が短いからである

ひさかたの 光のどけき 春の日に静心なく 花の散るらむ 紀友則

静心なくというとき咲いた時から散るのが早いからそうなる。そして桜は咲く場所とか近くでも多様である
それで咲く時期が短いからなかなか見れないのである。桜だと車の方がいい、いろいろな場所に咲くからである
有名な桜の名所も多様だからである。とにかく花見の時期である、相当桜を見てきたがとても日本全国でも近くでも見切れない
それは早く散っていしまうからである


2025年04月05日

会津の悲劇はなぜ起きた【秋月悌次郎詩碑に寄す】 【明治維新は薩摩長州の横暴も美化された過ち】


会津の悲劇はなぜ起きた【秋月悌次郎詩碑に寄す】
【明治維新は薩摩長州の横暴も美化された過ち】


有故潜行北越帰途所得

行無輿兮帰無家 国破孤城乱雀鴉
治不奏功戦無略 微臣有罪複何嗟
聞説天皇元聖明 我公貫日発至誠
恩賜赦書応非遠 幾度額手望京城
思之思之夕達晨 愁満胸臆涙沾巾
風淅瀝兮雲惨澹 何地置君又置親

故ありて北越に潜行し帰途得る所
行くに輿(こし)無く帰るに家無し 国破れて孤城雀鴉(じゃくあ)乱る
治は功を奏せず戦略無し 微臣罪有り複貫日(かんじつ。一貫して)至誠に発す
恩賜の赦書応(まさ)に遠きに非(あら)ざるべし 幾度か手を額(ぬか)にして京城を望む
之を思い之を思うて夕晨(ゆうべあした)に達す 愁(憂い)胸臆に満ち涙巾(きん。手ぬぐい)を沾す(うるおす。濡らす)
風は淅瀝(せきれき)として雲惨澹(さんたん)たり 何(いず)れの地に君を置き又親を置かん


碑の一つ無念を語り雪の降る
会津のもののふの義と忠の心
天皇にも通じるや残さる御歌
王城望み涙流るる悲憤の詩
その悲愁は満ちて雲惨澹たり
国破れて拠るべき無し
その悲涙は氷結して氷柱となる
その慟哭は地に響き天にも達せむ
血をもて地に記されしものの地歴
時を経て天地神明にして正さるべし
会津の峰々秀麗にし連なり
英峰は凛と隠れて聳えぬ
その碑に寒風吹きつくも
峠の道に後の世の形見と残しぬ
そはまた猪苗代湖浪打ち響きつ
白鳥の真白く映えて
その岸に忠節と松は立ちにき
その心は乾坤にも記さるるかな

会津の悲劇がなぜ起きたのか、それは明治維新が何だったのかともなる。それはいろいろ言われるようになった。
確かなことは歴史が勝者の記録であり敗者はないがしろにされる。明治維新は薩摩長州が勝利したのだから時の政権によって
美化されたのである。何か吉田松陰がテロリストと言われるようになったのもそうである
松下村塾はテロリスト集団が集まる場所でありそれが政権を取った人達、高杉晋作の奇兵隊に属していた伊藤博文などが
美化して語られるようになった。それに拍車を駆けたのが司馬遼太郎の小説でありそれは事実でもなく架空でも信じるようになった。そして水戸黄門でも水戸光圀とは実際の人物はかなり悪辣な人物だったというときそのギャップに戸惑う
テレビで架空の人物が作られそれが事実のように思わされる。その弊害が大きいものだった。

明治維新とはやはりマルクスの言う階級闘争だった。それも侍階級のなかでの階級闘争だった。何故なら明治維新の主役は侍の中でも下級武士でありその人達は貧しく身分で生まれつきで未来は決められて上に上がることができなかったからである
身分制社会というときこの辺の野馬追祭りで再現される。なぜなら侍であった家からしか野馬追に出れない、そして身分制社会の厳格な復活の祭りなのである。旗指物でも先祖伝来伝えられたものであり勝手に作れないからである
だから御行列が始まる時自転車でその脇を通ったらひどく叱られた。つまり無礼者として刀で切られることもありえる
そういう身分制が復活するのが野馬追いなのである
そうした身分制社会の厳しさがありいくら侍でも下級武士はその身分制社会で不満が鬱積していたのである。
それは福沢諭吉でも下級武士であり能力があっても上に上がれない不満があった。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は侍の中での上下関係があり身分制があり不満があって生まれた言葉である。ただ会津では侍が薩摩長州軍に責められているときヤーヤー一揆があったのは庶民でも税金に苦しめられてそうなった
だから身分制社会の不満は庶民いもあった。
身分制社会というとき会津市内に徒の町があるというとき東京の上野の御徒町(おかち)と同じである。馬を持たない足軽とかが住んでいた町だとなる。つまり身分によって住む場所も違っていたのである。そして相当に貧しかったのである。冬でも炭すらまともに使えない極貧だったともなる。

明治維新とは何かとなればこうした身分社会に不満な人達が上に上がるために起こしたものでありそれで奇兵隊となると別に侍でなくても成り上がるために足軽であっても参加したのである。そして伊藤博文が首相にまでなったことでもわかる。
彼らはそうして成り上がるために幕府を倒そうとしたのである。要するに侍の中での権力闘争だったのである。
尊王とかはただそうして錦の御旗として薩摩長州がでっち上げたものである。
なぜなら別に会津でも尊王であった

孝明天皇宸翰(こうめいてんのうしんかん)とは、1863年(文久3年)に、八月十八日の政変を行った礼に、会津藩主松平容保に送られた宸翰である。同時に、御製も送られた。これを松平容保は、竹筒に入れ生涯誰にも見せることなく、亡くなった。

たやすからさる世に武士(もののふ)の忠誠のこゝろをよろこひてよめる

「やはらくも 猛き心も 相生の 松の落葉の あらす栄へむ」

「武士と 心あはして 巌をも つらぬきてまし 世々のおもひて」

孝明天皇は公武合体を願っていた。その時会津藩と薩摩藩が官軍で賊軍は長州と藩と攘夷派公卿だった
孝明天皇は36才で急死した。それは長州よりの何者かによって毒殺された疑いがあるとしている

いずれにしろ長州と薩摩の横暴暴虐が明治維新として勝者になったので讃えられるようになった。でも平和裏に大政奉還を徳川幕府が言っていたのだから政権交代できたのである。だから別に会津でもそれほどの犠牲者を出す必要はなかった
それは長州の過激なテロリストと薩摩が合体してそうなった。第一徳川幕府でも明治維新はできた。薩摩長州が先導した結果
会津であれ東北列藩が犠牲になった。そしてその後の戦争も征韓論を主張した吉田松陰や西郷隆盛などにより日本が実行して
太平洋戦争へと向かう原因となっていたのである。薩摩長州の過激な思想が受け継がれてそうなったともなる
歴史は連続継続しているからである。








2025年04月04日

庭の奥に咲く白椿ーみちのくの桜は一分咲き(短歌)


庭の奥に咲く白椿ーみちのくの桜は一分咲き(短歌)

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雨しとと奥に隠れて白椿咲くを見てをり一人籠りぬ

奥に咲く白椿にそ雨雫曇れる日にや籠りけるかな

隠れ咲く白椿かな奥ゆかし我が一人家に籠り見るかな

一つ木に赤と白との椿咲く調和してそ美しきかな

みちのくの桜は一分咲きにしもなお冷たく風の吹くかな

家の前タンポポ咲きぬ通りをたまに人行く街に住むかな


昨日もその前も雨だった。だからめずらしくかなり川に水が出た。結構山の方で雨が降ったのかもしれない
何か冬は家に籠りまだ寒くなり家に籠る。窓から白椿が隠れるように咲くのが見える

椿でも一本の木に二色の赤と白とが咲いているのもめずらしい。その家は医院であrったが空地になった
ただ椿の木は残っている、結構広いと見たがその土地を利用する人はいないだろう
その周りの家も二軒ほど壊され空地となった、とにかく空家と空地が街中でも増えて来るのである

ここの桜は一分咲きである。風が冷たく吹いてきた。昨日よりはあたたかいが風が冷たかった。自転車だと風とかを常に感じる
タンポポが家の前に咲いた。通りをたまに人が通るがほとんど通らない。
ともかく外に出にくいから籠っているとなる

プログとかはその時々のことを放送するのに向いている。桜が咲くのは場所によってずれがあり桜前線があり北上する
西の桜が散ってもみちのくの桜は遅く咲きだす。その変化がいいのである
北海道の稚内では6月に咲いていたからである。

2025年04月03日

国とは何なのか、自然境界から作られた国 【福島県はなぜ地理的一体感を感じないのかー行政的人工的に区切られた県】

国とは何なのか、自然境界から作られた国
【福島県はなぜ地理的一体感を感じないのかー行政的人工的に区切られた県】


そもそも国とは何なのか?クニは区切るに由来するから区切らている一地域だとなる
それで会津のことを語って来たが

会津嶺の国をさ遠み逢(あ)はなはば 偲(しの)ひにせもと紐(ひも)結ばさね

会津嶺というとき会津は山また山の国である、奈良も国のまほろばとなったとき青垣山に囲まれた地域である

倭(やまと)は 国(くに)のまほろば 畳(たた)なづく 青垣(あをがき) 山隠(やまごも)れる 倭(やまと)し美(うるは)し」

これも山で区切られた一地域のことである。つまり山々が自然境界となった一地域が国なのである。日本の場合はそれだけ山が多いからそうなった。
だから福島県を太平洋に面した浜通りがあり中通リがあり会津があるけど一つの国となる地理的一体感がもてないのである
浜通りなら阿武隈山脈(高原)に遮られて中通リの福島市の吾妻山でも見えないから地理的一体感をもてない
つまり人間はまずその地理からアイデンティティ化して精神も形成される。だから心ーこころはここのことなのである
その住んでいる土地と一体化する。だからなぜ日本に小国という地名が多いのか、それは小さな範囲でもそこが国と意識されたからである。国とは今のような大きなもではない。

江戸時代の藩ならある程度は国と意識されたかもしれない、会津は会津藩で大藩である伊達藩も60万石の大藩である
でも伊達藩となると大きすぎるのである。だから違和感を感じるのはなぜ新地が伊達藩に属していたかである
海岸沿いで平坦な地であり何か区切られる地形でもない、ただ阿武隈川は大きいからそこで境界を感じる
つまり地理的には阿武隈川で区切らてそこで別々の国が形成されるとなる。

それはライン川でローマ帝国が侵入できなかった自然境界となったのと同じである。ラテン民族とゲルマン民族の境界となったのと地理的に似ている。たしかに阿武隈川を渡った岩沼から北になると仙台圏に入ったと意識する
それで不動産業の人が岩沼から仙台市の土地は二倍とか高くなると言っていた。岩沼からは仙台圏になるのである
だから地理的に見れば新地は自然的境界でないから正に不自然なものを感じるのである
境界でわかりやすいのは宮城県と山形県の境界が面白山がありそのトンネルが長いからそこで山形県と宮城県の境界だと意識しやすいのである。それで春でも残雪の山が見えるから山国で寒い国だとも意識する
トンネルをぬけると雪国だったともなる。
大陸では平坦な陸地がつづくから大きな川が境界となる、その川をめぐって国が民族が争ったからriverはライバルになる
何か地理がわかりやすいのである。日本は山が多くて地理がわかりにくいのである。

とにかく国とは行政的に区切られた人工的なものではなく本来は地理からみて地形とかに制約されて醸成されたものである。
江戸時代のは藩は地理的に一体感を持つものとして藩があった。ただやはり伊達藩とかなると大きくなりすぎていた。
相馬藩でも古代は磐城国であり今でも磐城太田駅とかあり磐城とつく名が相馬藩内にある。それは浜通リは地理的一体感を持つ地域だからそうなった。

籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ふくし)持ち この岳(をか)に 菜(な)摘(つ)ます児(こ) 家(いへ)告(の)らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居(を)れ しきなべて われこそ座(いま)せ われこそは 告らめ 家をも名をも 

この大和は奈良の一地域を指していたのである。それが日本全国に拡大したのである。だから一つの小国が拡大したともなる
ただこの歌は天皇が王が治めるとなった地域であり王が存在して国として意識されたというときまさに国は一地域が囲まれてた地域としてありそこに王が存在して国となった。その王とは天皇だとなる
ただそれは今の国家とは違う相当に狭い範囲である。それは小国とある地名のように狭いのである
そこを国として意識したのである。言ってみればa small humanised countryとなる
だからその時天皇は雲の上にいるような人ではない身近な人だったから庶民と直接は語りかけたとなる

大和には 群山あれど 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島

この香具山は高い山ではない、低い山であり飛鳥という一地域である。全国に国見山がる。南相馬市にもあるがそれは結構高く海岸が相馬市から双葉の方まで見えるのである
でも香具山は152メートルしかない。つまりその山は極めて人間の生活に親しい山なのである
だから小国というのにふさわしいとなる。

ともかく飛鳥―藤原京―平城京と拡大した時その規模も拡大したのである。そうなると人間的サイズではない大きな国と変化したのである。その国は江戸時代の藩から大国家となり何か人間的な小規模の小国の感覚が失われたのである

バス停や小国降り立ちスミレかな

霊山かあ福島市に行くと小国町がある。小国というとき全国にあり狭い範囲を国として意識したのである
うまし国ぞというときそれは人間的なものであり今の巨大国家とは似ても似つかないものだった
江戸時代の藩はまだ自然境界内にありアイデンティティ化することがあったが伊達藩でもすでに巨大化すると地理的一体感なくなえる。だからなぜ新地が伊達藩なのかともなる。
だから廃藩置県になったとき何か不自然なものを感じる。福島県は大きすぎるからである
そして浜通リは吾妻山も見えないしまして会津は全く見えない遠い地域になっている。それで一体感を感じないのである

いずれにしろこうして国は地理的一体感がある狭い地域のことであったが今や仙台市でも百万とか東京でも一千万とかなればそれはクニでもありえない、その巨大都市は怪物的都市であり人間的範囲を越えて東京タワーから眺めれば眩暈がする
国見どころではない。そこはどこなのか別な惑星にでお来た感じになる。それは人間の住む場なのかとなってしまったのである

廃藩置県では二本松県とか磐城県とか会津県とかになる予定があった。それは江戸時代の藩に基づいたものでありそれだと地理的一体感をもてたのである。人間が一体感を感じるのは狭い範囲になる。それが余りにも拡大化して一体感が感じられなくなったのである。つまりもはや人間的感覚をはるかに超えたものでありそこで人間同士でも一体感をもてないあからそこからカルト教団とかナチス的なものが生まれて来たのかとなる。何かヒットラーでも題目でも唱えると偽装でも一体感を演出できるからだとなる