2025年06月30日

参政党はキリストの幕屋の応援ありー政治と宗教の問題がイランでも起きた 【公明党が衰退するのは何故ー国民政党に成れないから】


参政党はキリストの幕屋の応援ありー政治と宗教の問題がイランでも起きた
【公明党が衰退するのは何故ー国民政党に成れないから】

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参政党はカルトの指摘に神谷代表が反論するも墓穴を掘った

キリストの幕屋はカルトとは違う、手島氏は純粋なキリスト信者だった
でも熱烈にイスラエルを支持した。それはその時アラブの敵に囲まれて国家滅亡の危機にあったからである
でも今になるとガザでジェノサイドになったいる、それは容認できるのか?
爆弾に何か信者が書き込み祈っているのは異常ではないか
ただこの人は左翼である。手島郁郎氏は偉大でもその後に残された団体がこうなることは問題である
すでにガザで5万人も死んでいるからである


●イランの政教一致がもたらすもの

政治と宗教の問題はいろいろある。それは今回のイランとイスラエルアメリカが戦争になったときアラーとエホバが戦うと見たのもそのためである。どちらの神が強いのかとなる。そんなことは実際にはない、でもアメリカでもイスラエルでも宗教的権威であり権力者であるホメイニ氏を暗殺しようとした。

それはなぜなのか

そこに聖なる権威と権力が集中しているからである。それは飾りではない実質的な権力を持ち軍隊に命令できる権力者である
だから政教一致なのである。イスラムは聖職者が政治家であり権力を持ち操作できるからこそそのトップを殺害すれば下々でも
聖なる権威を持つ人が殺されたとなりその権威を失うのである。カリスマの権威を失いその体制も崩壊する

カルト教団は必ず一人の教祖がいて権力と権威を持つ絶対的存在である。だからこそそのトップがあえなく暗殺されればその体制自体が崩壊する。創価などでも完全な政教一致であり池田大作が権威と権力を具現したカリスマだった。
だから選挙でも池田先生のために選挙運動になる。その活動は宗教活動であり政治活動でもある
でも池田大作が死んだときその影響力も喪失した。池田大作の影響を受けた人達も高齢化したからである

なにかわからないけど参政党がキリストの幕屋から応援を受けていた。その創始者の手島郁郎氏が熊本の出身でありそこの集会に参加していた。手島氏はイスラエルが回りのアラブの国と戦争したとき宗教的立場で熱烈な支援者になった。
それはトランプ大統領を福音派が応援しているからイスラエルの味方になると似ている
ただそれはその時イスラエルは本当に周りを敵に囲まれて滅亡の危機にもあった
だから時代的に応援することはキリスト教信者ならありえたとなる。

でも今の状態がそうではない、ユダヤ人がナチスになるように虐殺している、ジェノサイドになる。それをキリストの幕屋が応援しているのは正しいのかとなる。つまりキリストの信仰より旧約聖書の時代に逆戻りしたのである。
旧約時代だと異民族神の命によってエホバによって容赦なく殺していたからである。それが2000年過ぎて再現されたのである。だから2000年後にアラブ側からすれば大迷惑だとなるのもわかる。しかしなぜそれが容認されたのかはユダヤ人の虐殺ホロコーストがありその贖罪のためにドイツは応援している。
それで迷惑なのはアラブ側だとなる。

ともかく政教分離があっても不可分に政治と宗教は結びつく分離できないのである。何か軍事力であれ経済力であれそれだけでは人間を従わすことができないのである。だからヨーロッパの歴史でカトリックが政治的にも大きな力を持っていたのである
ただアメリカはイスラムのイランでもそのトップのハメネイ師でも恐れていない、だからこそ核施設に爆弾を落としたのである
トランプ大統領は政治でもデールであり得すればいいということで外交するからである

●キリストの幕屋がなぜイスラエルを支援するのかーガザの殺戮に手を貸すのかの疑問

結局神が味方する仏が味方する天皇が現人神(あらひとかみ)が味方するから勝つということはありえなかった
科学技術力の差が勝敗をを決めた。ただ旧約聖書の時代はそうした軍事力でなくそこに神の力が働いて勝利したのである
モーゼは杖一本でもエジプトの大軍と戦って勝ったのである
だからイスラエルが旧約の時代とは違うその背後に巨大な強国アメリカがいて勝利するとなる
それは杖一本で戦ったモーゼとは全く違ったものである。だからパレスチナでのガザでの虐殺は容認できるのか問題である
ただまたイスラエルは神が定めた地球の中心でありそこにユダヤ人でも聖殿を再興することは世界で認めるべきだとなる
それも周りでもアラブ世界でも認めるべきだとなる。それがイスラエル国家なのかまたユダヤ人の特区になるのかわからないにしても確かなことはイスラエルが地球の中心として神が定めたことはそれは否定できないのである

それにしてもキリストの幕屋とか出てくるのも何なのか、その団体がまだ活動していたのかとなる
手島郁郎氏の原始福音というのも特殊だった。現代に奇跡中心のキリスト教がありえるのかと見たからである。
ただそこに聖書のエッセンスがありそれを実行した人だとなる。それでも人を殺すなと説いたキリストの教えは異民族にあてはまるのが新約聖書の時代である。だからあれだけ無惨にアラブ人が殺戮するのを容認できるのか?
それは何かキリストの教えからも越脱しているとも見る。
というのはキリストが殺されたのはユダヤ人の民族主義者によってだった。その民族主義者がイスラエルの国家を再興したのである。新約聖書時代から旧約聖書の時代に逆戻りしたのである。

ともかく左翼から見ると参政党は右派でありそれが宗教団体と結託するから批判するのも一理ある
でも内村鑑三でも右派であり日本を愛するとしてキリスト教を説いたのである
ただ内村鑑三の場合は天皇不敬事件があったから右派というのではなく外国人に頼らないキリスト信仰を説いたのである。
アメリカにも頼らない愛国心を助長したのである。何か左派になると愛国心と結びつかないのである
それでキリストの幕屋を敵視したとなる。でも愛国心は否定されないだろう。戦争など奨励するものではなく平和の愛国心は必要なのである、だからこそ内村鑑三はロシアとの戦争で非戦論者になったのである。それは本来の愛国心とは違ったものとして見ていたからである

●カルト宗教団体の異常な御利益追求ー公明党は国民政党になれないのはなぜか?

政治と宗教の問題は複雑であるけど宗教と権力が一体化することが矛盾なのである
それが創価の場合あまりにも露骨なのである。権力を得るためなら何でもいい票を集めて権力奪取するのだと狂気のように祈る
ナチスとファッシズムと似ているのである。そこに本来の宗教を求めたものがゼロなのである
だからこそ一時あれだけ増えた。それは創価に入れば御利益―権力が得られるとしとそうなった
だからカルトでありナチスと似ていて文明の都市化の病理的現象だったのである

つまり政教分離が必要なのはたとえばABという商店がある。Aは創価の会員であり繁盛を願い祈る。でもBは会員でないけど
売れるように工夫する。菓子屋だったらうまい菓子を作る。別に信仰していないから神仏に祈ることはしないけど売れるように努力する。でもそうしたことと関係なく創価の会員は信者の仲間であるAの店から買うことになる。
そこにかえって不公平が生まれる。一方はそれで御利益があったとますます祈り選挙でも公明党に入れるとなる
でもBの店では売れないとなれば不公平となる。だから宗教がかかわると世俗的生活でも不公平になる
だから政教分離だけではない政経分離も必要だとなる。商売でも競争があるが宗教がかかわると不公平になる
そして悪質なのはBの店が繁盛しないのは罰があったとか言うのである。それが異常なことでも宗教団体では平気で言うのである

公明党がなぜ衰退したかとなるとこうしたことが原因なのである。会員となる仲間なら助け合うがそうでないものは助けないとなれば票を増やせない国民政党になれないのである。ただ祈るだけいいとはならないのである。
ただこの世の中常に党派があり仲間がいて団体化する、すると団体化したものが得するように働く、労働組合にしてもその組合の利益は追求するが中小企業だと大きな組合とならず政治でも圧力をかけられない、それでそういう人達の受け皿に宗教団体とか少数政党がなる。

とにかく人間は利益と離れられずある。日々利益を追求するからである。そこに矛盾と不公正が生まれるからである
それで出家したり世俗の利益とかかわらないことで宗教の純粋性を維持したのかもしれない。でも宗教でも世俗の力が強いからその力に屈服してそこが世俗以上に欲望の限りない追求と化したのである
煩悩即菩提とかなりあらゆる欲望が容認され強い欲望を持てとまでなった・つまり完全に俗化したのである。
それはプロテスタンシズムでもそうだった。もともと修道院から生まれたものであり他者への奉仕として勤勉に働くことだとなった。つまり節制して働くことは他者への奉仕だったのである。そのために富を得てもあくまでもそれは他者への奉仕としてあり寄付するともなる
それも全く世俗化してただ金を得れば限りなく欲望追求することが容認されるものとなった。これも宗教の堕落であり俗化だとなる。それだけ人間の欲望は強いからそれを抑えることができないからそうなる。







posted by 天華 at 10:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年06月29日

なぜイスラエルが世界の中心になったのか? 【神の計画と意志が明確にあったー地質学でも証明されるー大陸はもともと一つだった】


なぜイスラエルが世界の中心になったのか?
【神の計画と意志が明確にあったー地質学でも証明されるー大陸はもともと一つだった】

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地球形成のドラマ

もともと地球の大陸は一つ
その中心としてイスラエルを定む
水が陸を覆いその後に陸が現れる
人の大陸を割るものとして
地中海があり黒海がありカスピ海がある
テチスの太古の海がある
ノワの洪水はその記録なりや
大西洋よりジブラタル海峡を通り
膨大な水が流れ込む
更に黒海へカスピ海は一つの海なり
故にカスピ海アザラシとか棲む
塩分もありて元は海の生物の棲む
塩分の濃い死海もそうである
海の痕跡は大陸の各地にある
大陸はアメリカアフリカ大陸は一つ
ユーラシア大陸に分かれる
インドは大陸移動でユーラシア大陸に衝突
ヒマラヤ山脈を隆起させる
何故にその高きにアンモナイトの化石のありや
地球は突然大洪水の水に覆われ海に覆われぬ
そこに光あれ陸地が造山活動で現れぬ
その壮大な地球のドラマを知れ
神のくすしき業を知れ
海と川と陸地と山の織り成す地史を知れ
ザクロス山脈はイラクとイランを分けて
ペルシャ帝国よりそれは変わらず自然の防壁
長大な川は境界、山も境界、海も境界を作る
ライン川はラテン民族とゲルマン民族を分けぬ
熱砂の砂漠も障害となり広大に阻む
それは変えることができぬ神の定めた境界
そこに国々の多様な文化は育まれぬ
イスラエルがなぜ世界の中心なるか
それは神の計画に御意により定められし故
神の雄大なる計画のなかにあらかじめ定められる
エベレストは天を衝き大平原砂漠は広がりぬ
大平原を馬は群れなし勢いよく駆ける
本然の力ににみなぎり疾走する
草原に吹き渡る風の涼しも
常に大陸のかなたを望み人々はある
海のかなたを望みその海を渡りアメリカの発見
境界を越えるもまた人間のやまざる衝動なり
そこに激しい対立衝突ありしも
膨大な血の流されしもその犠牲なりや
その織り成す地球と人間のドラマ
かくして世界は一つに結ばれむ


最初に水が覆っていた海があり次に光があり陸地が作られた。この順序は創世記にあり確かだろう
つまり聖書は科学と一致するものがある。つまり架空のことではなく常に事実を反映しているのである
だからなぜイスラエルが神の都となったのか、それは神が定めたからだとなる
神に意志がそこに働いた。だから地球の大陸が一つの時確かにそ中心にあり地中海に膨大な海水が大西洋から流入した。
それは黒海とカスピ海も一つの海でありチロス海となっていたのである
大陸には海の痕跡がある。つまりそれは海だった、水に覆われていたからだとなる
死海は確実に海の痕跡が残ったのである。

だから不思議なのはなぜそのような何十億年なのか地史の時代から見通してイスラエルが地球の中心と定めたのかここに神の計画があり聖書が記したのはその驚くべき計画の実現であった。

でもその時間間隔は違っていたらしい、化石は急激な変化があり突然化石化したと久保有政氏は【創造論の世界】で書いている
確かなことはただやたらと無作為に作られたのではない神に明確な意図があった。だから聖書の記述と後の科学的研究と一致するのである
空想の産物ではなかった。聖書は想像して書かれたのではない、だから科学的に追及されたものと一致するのである

神には明らかに明確な意志がありそれを実行されたとなる。でもその壮大な地史を知ることは容易ではない
第一世界を見るにしても一部であり全体を知り得ようがないからである。でも地理を知るとしたらその場に一回でも立てば実感する。いくら地図をみてもわからないからである。カスピ海が琵琶湖の365倍なのかとなれば想像を絶するからである
だから大陸は巨大すぎて地図を見てもわからないととなる。

大陸は海洋以外の何物でもない、大陸はかつて海の底だった

まず海がありそしてそののち大陸が海面上に現われ(かわいた所)となった。

地(大陸)は・・・自ら出て、水によって成った古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。」
(「ペテロの第二の手紙」3章5〜6節、口語訳)

イスラエル民族のことを地の中央に住む(エゼキエル)

これも地質学的にももともと地球は一つの大陸でありその中心にイスラエルがあった。それは神が定めたという時
神の計画があり科学的にも一致する。それは何を意味しているのか、天地創造の神の業がありそれは神の計画と意志が働いていたのである。つまりこの世に偶然とかはない、必然しかない、偶然に宇宙が地球ができたのではない、神の計画と意志が働いてできたのである。聖書がその後の科学的発見を証明するのもそうである。科学の時代になっても聖書がその裏付けになっている
その知見はどかからきたのか?それは神から知恵を授かったからである。その後の膨大な科学的発見がそれを裏付けたのである。

いずれにしろまず地理を知ることが大事である。地歴であるが地理は今も変わらないから理解しやすい、時間軸の歴史となるとわかりにくいのである。地理は地質学時代の何十億年前でもその後が大地に山に刻まれ残存しているからである
ただ何十億とではなく意外と短期間に生成されたというのも真実かもしれない、あまりにも長い時間になると人間の思考からして現実感が薄れるしそれがありえないものとなる。だから意外と短期間で生成されたとばれば現代にも通じてリアルなものとして意識するのである。

主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。」
(「ペテロの第二の手紙」

地球でも長い時間をかけて成ったというのは違っている、7日間で創造されたという時意外とそれも正しいともなる。
少なくても何億年の単位になると人間は想像すらできなくなる。すると架空的なものとなるのである。
地球が若いと言うとき宇宙でも若いという時それが空想的なものでなく現代に通じるのである
だから一日は千年のようであり、千年は一日のようでありという時間間隔で見るべきだとなる

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2025年06月28日

夏菊の季節【紫陽花、昼顔、鮎、朝燕、、、】


夏菊の季節【紫陽花、昼顔、鮎、朝燕、、、】

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夏菊た小雨に濡れて街走る

夏菊や流れ光りて朝燕

夏菊の日に日に増えぬ土手の道

鮎跳ねて流れひびきて朝燕

昼顔に添え咲く黄色の小花かな


広ろかな庭に石いくつ白々と映えぬ菖蒲そ我が見て帰る

紫陽花の木陰に咲きぬ水色の淡き色かなこの道親し

誰が家やなおひそかにも菖蒲咲くこの道今日も我は行くかな



夏菊はまだ咲いている、ただ土手の道は草を刈ってなくなった。でも川の草むらに咲いている
夏菊は一面に咲く時気持ちいいのである。

今日川を見たら鮎が群れて上り跳ねていた。やはり時期的に今頃になれば鮎が上る
そこに燕が飛び交い流れがひびき気持ちいいとなる

ただ暑いので困る。今年は梅雨がないのか、それで季節的に紫陽花の季節だけど感覚的に合わないとなる
川の土手の道は紫陽花が咲いている。

ともかく本当に近辺しか行けない、暑くなると自転車は日射病になりやすい、それで困るのである
朝の内は涼しいが昼間になると暑くなる、ただこの辺は海からの風が涼しいから盆地の福島市よりは住みやすいとはバル






2025年06月27日

なぜ地理がわからないのか?【カスピ海や太湖の大きさー琵琶湖と比べて】


なぜ地理がわからないのか?【カスピ海や太湖の大きさー琵琶湖と比べて】

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タクラマカン砂漠




イランを知ろうとすると必ずその周辺を知る必要がある。それで驚いたのは

カスピ海は琵琶湖の560倍!

これも驚きである。こうなると海なことがわかる。この大きさをまずイメージできない。


カスピ海は第四紀更新世以前は黒海および北海と連結していたが、最終氷期が終わって完新世になってから水位が下がって黒海や北海と分離し、現在の姿となった[

カスピ海の塩分濃度は1.2%です。
海水が3.4%なので、海水ほど塩辛くないですが、すこししょっぱい程度です


中国の蘇州の太湖でも

太湖の面積は2,250平方km(琵琶湖の約3.4倍)、周囲は400kmである。中国五大湖の一つで、鄱陽湖、洞庭湖に次ぎ中国で三番目に大きな淡水湖である。湖には大小約48の島が浮かび、多くの半島が連なり、湖を囲む峰の数は72を数える

琵琶湖の約3.4倍、周囲は400kmである 大小約48の島




これを見たけど水平線が見えるから海の感覚にもなる。日本だとこの大きさが理解できない、地図を見ただけではわからない。
地図を見るとかえって誤解する。何か何でも小さく見えるからである。だから百聞は一見にしかずになる
何か北京から学生がカザフスタンに行くという、大学で学ぶよりこうして実地に世界を旅行した人が学生でも学んでいる

この地図を見てヒマラヤ山脈が中国との境になっている、そこにチベットがあり・・・意外とモンゴルも接していている
だから仏教という時チベット経由でモンゴルに伝播した。チベットはモンゴル帝国の影響を受けた。逆にチベットの影響も受けたのである、何かネパールには中国から迫害されたチッベト人がいて商売していた。
モンゴルが中国がネパール、インドには侵入できなかったのは地理的にヒマラヤ山脈などに阻まれていてためである
それでもネパールは毛沢東思想が入って来ていたのは中国の影響があったためである

またヒンズー教徒がいるのはインドの影響である。地理的にはインドの影響の方が多いのである
インドから輸入しているのが多いのである。
またタクラマカン砂漠がありこれも広大である。ここは不毛の地である。
この地図でカザフスタンの大きさには驚く、でもカザフスタンを知る人はまれだろう。一時はソビエト連邦に入ってた
今は中国の勢力が拡大して外交攻勢をかけている。石油が出るのでそれが目当てになる。

またネパールにはジャングルがありインドサイがいる。なぜネパールにジャングルがあるのか、ヒマラヤをイメージするからわからなくなる。

ネパールのチトワン国立公園に生息するインドサイの個体数が増え、過去20年あまりで最も多くなった。保護当局は、コロナ禍で観光客が途絶え、生息地が回復したことも一因だったとみている。

ネパール国立公園・野生生物保護省によると、ネパール国内4カ所の国立公園に生息するサイは、直近の集計で752頭が確認され、2015年の645頭から100頭以上増えていた。

ネパールのサイ個体数、過去20年で最多に 観光客途絶え生息地回復

こんなところまでコロナの影響があった。ここも観光できるようになっている。でも人の見守り離れて一人その範囲を出た時
危険だった。そのサイが突進してきたかもしれない、見守りの人が危ないと安全地帯に自分を引き戻した
ここは象に乗りジャングルに入る

それにしてもネパールというとヒマラヤをイメージするからどうしてそこに熱帯のジャングルがあるのかとなる
確かに大きな鮮やかな色彩の鳥もいた。そこは熱帯のジャングルなのである

ともかく世界の地理を知るのは容易ではない、一つの目安としては境を知ることである
ヒマラヤ山脈で遮られてそこが自然的境界となる、中国はそれ以上は拡大進出できない、それにしても何でも大陸はスケールが違うので戸惑うし理解できなくなる







2025年06月26日

地理は境界から見る―イランの地歴【大陸は川が境界となる、中国の満州里などから地理を見る】


地理は境界から見る―イランの地歴【大陸は川が境界となる、中国の満州里などから地理を見る】

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【アメリカも苦戦】なぜイランは強国なのか?その不気味な強さに迫る

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明確に山脈が境界となっている

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なぜイランとイラクがあるのか、それを地理から見れば、、強固な山岳地帯があり侵入を阻む。イランとイラク戦争がありそこでイランはかえって連帯が強くなった。地理を見るとき境界をみるとわかりやすい。イランという国がどうして作られたのか?
それは地形がまず作ったとなる。ただここでも余りにも広いから理解できなくなる
でもロシアとも接している、その境界がカスピ海になりなぜトルコと接して小国のアゼルバイジャンとかあるのか?
ジョージア、アルメニアもある。それは東欧諸国と似ている、ここが明確に山岳地帯が横断して侵入が阻まれたためなのか
地理的な要素と民族的要素とか宗教的要素とかがありロシアに併合されなかった
そうした小国はロシアに組み入れられてもいいがそうはならず抵抗している
それはなぜ東欧諸国があり一時はソビエト連邦に組み入れられたのに分離してEU側になった。そもそも何故そうした小国が存続できるのかとなる。おそらくその背後に対立する大国がありヨーロッパがありその圧力で小国が存続する
だからイランとロシアの国境地帯でもそうである。

まず境界から地理を見る。一番わかりやすいのはライン川でラテン民族とゲルマン民族のドイツの境界となる。
それはカトリックとプロテスタントに分かれたから宗教的要素でも分かれた。

●地理的要素
●民族的要素
●宗教的要素
●人為的要素

この4っつの要素が重なり境界が形成される。それに風土も関係する。ラテン系のフランスとゲルマンの風土は違っている
芸術でもフランスのモネのような光の色彩の絵画は生まれないだろう。ドイツは霧が多く寒い地域であり風土そのものが違っている。黒い森の国、樅ノ木の国でありそれを模したのが重厚なゴッシク教会の建築である。その石の柱は太く高いのである

ともかく世界を見るとき自然的境界からみる。国でも基本的に自然的境界から作られる。その自然的境界とは山であり川であり
海でありまた砂漠でも境界となる。そこを越えて行くことが容易ではないからそうなる
まず自然の地形が要塞となるのが世界的に共通している。日本でも最初に山城であり次に平山城であり最後に平地の城となる
山は自然の要塞だからである。

ただ自然的境界から見るとロシアがウラジオスットクを領しているのは不自然なのである。だから中国の清の領土であると中国人が主張して農民が開拓に入るというのもわかる。いずれ維持するのが難しくなる
日本の北方四島がロシアになるのもそれは自然的境界からすれば無理である
それでウラジオスットクは中国に北方四島は日本に返還すべきだとなる。
満州里もロシアとの国境である。何かロシア人が買い物にきてひどく怒っていた。つまり国境を越えてロシア人がここに買い物に来る。それとトヨタの車を持っている人がいた。その人は相当に裕福である。そんな辺境でも裕福な人がいた
満州里はモンゴルとも接していた。それがわからなかった、満州が一時日本が支配していてモンゴルで日本人がロシアと戦った

清は明の遺臣で山海関の守将であった呉三桂の要請に応じ、万里の長城を越えて李自成を破った。こうして1644年に清は首都を北京(満洲語:beging、gemun hecen=京城)に遷し、中国支配を開始した(「清の入関」)

北京は満州国に接して中国の首都になった。

満州国と外蒙古(モンゴル人民共和国)の国境線で起きたノモンハン事件。日本とソビエト連邦をそれぞれ後ろ盾とし、4カ月に及んだ戦闘は、日清戦争以来、勝利を重ねてきた日本軍が直面した大規模な近代戦だった。一方、日本軍内の意思疎通の欠如、責任の所在やガバナンス(統制、管理)の不透明さも浮かび、日本軍の「失敗」の典型例ともされる。

中国東北部とモンゴル東部を分けるハルハ河。39年5月11日、大平原を流れる河川一帯の国境線を巡って始まった紛争は、日ソによる軍事衝突へと発展した。両国で各2個師団以上とされる計9万人を動員。規模の大きさから「宣戦布告なき戦争」と呼ばれる。


ここでも川があり川が境界となり戦ったことがわかる。

つまりまず地理的要素として国家が形成される。日本などはまさに地理的要素を第一として作られた国である
海に囲まれているからである。これはもっともわかりやすいのである。
大陸国家の境界は確かに山とか川が境界となる、だからriverがライバルとなる。川を挟んで対立する
それは今もロシアとウクライナで川を挟んで戦争しているから継続される

満州となると寒暖差が大きい、冬は極寒になる。だからモンゴル人の来ている服が分厚いのもわかる氷点下20度とかなれば天幕で過ごすにしても暖房するにしても過酷である、モンゴルに内モンゴルに行ったがそこが標高が相当に高いのである
車で延々と上るからである。それはこの辺で飯館村が標高が400メートルとか高いから冬は寒く夏は涼しとなる
モンゴルになればその差は相当に大きいのである。かなりの高地にある

イラン中北部、標高約1200mの高地に位置する同国の首都。テヘランを中心とした1300万人ほどの巨大都市圏を有する。紀元前6000年の住居跡が見つかっているが、9世紀ごろまで近郊のレイがこの地域の中心であり、テヘランは小村であった。13世紀、モンゴル帝国がレイを襲撃し破壊したため、人々がテヘランに避難してきたことにより都市の歴史が始まる

イランでもテヘランはこんなに標高が高い場所にある。カスピ海に面しているから涼しい場所でいい場所だとなる。
だから砂漠地帯だけが中東ではないイランは平原とか砂漠とか高原地帯があり農業国家だというときそこに国の強さがある
砂漠だけの草原だけの遊牧民国家とは違うとなる。遊牧民国家はモンゴルのように一時的に拡大しても長くは維持できない
イランの強みは農業国で食料を自給するとなれば地理的要因とも合わせて強国だとなる
だから他の中東の国と違って簡単に攻めて支配できないとなる

とにかく境界から世界を見るというときまず自然の境界を知るべきだとなる。私が住んでいる福島県の浜通リは阿武隈高地で中通リが県庁のある福島市などが見えないのである。だからここが福島市と選挙区で同じであり違和感があった。
でも浜通リがいわき市と相馬地域で一体となり選挙区になったのは自然の地形からは必然的にそうなったのである。
つまり自然的境界が阿武隈高地でありそれは変えることができないからである。
イランという国でも自然的境界は変えられないから強いとなる。

ただ中国とモンゴルの境界は人為的境界の万里の長城になった。これでも山岳地帯の尾根に作られている
つまり自然的境界と一体化して作られていた。
またなぜ大陸国家が城壁で囲まねばならなかったのか、それは敵が攻めて来るから人工的に境界を作らざるをえなかったのである。アメリカでもメキシコからの移民を防ぐために壁を作るという時もそうである。どうしても陸続きだと裕福な国に侵入してくるからである。それも境界が深く関係していたのである


イランの地歴

強固な山岳地帯が境界となる
それは神が定めた境界
それ故に万古不変であり
その国は自然の要塞で守られる
川はまた国を分ける
riverはrivalとなり
川を挟んで対峙する
海に囲まれて日本がある
その海は変わらず国を守る
万里の長城も壮大な境界
それは砂漠地帯まで延長する
地理はまず境界を見よ!
境界をめぐり世界の興亡がある
イランはザクロス山脈に遮られて
侵入を阻むペルシャ帝国からの地歴を知る
難攻不落の山々は国を守る
その栄枯盛衰は地理とともにある
ペルシャ帝国の王はその地に眠る
その地歴は雄大にして悠久なりしも










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海外旅行もできない時代になったのかー円高の時代は貧乏な若者もヨーロッパでも旅行していた 【私の海外旅行の失敗談−人生は時間切れで終わる】


海外旅行もできない時代になったのかー円高の時代は貧乏な若者もヨーロッパでも旅行していた
【私の海外旅行の失敗談−人生は時間切れで終わる】

でもその費用は、たとえばエジプト行きの9日前後のツアーなら、2025年4月現在、ひとり約110〜170万円前後かかります。年齢を重ねて安全・安心を求めれば求めるほど、出費もどんどん“豪華”になるわけです。

健康寿命と死亡年齢最頻値の差は<15年以上>も…
「あのときやっておけば」と後悔しないお金の使い方をファイナンシャルプランナーが伝授


こんなに金かかるのか?実は私も海外旅行はこのように金がかかるものと思い円高の時でも行かなかった
でも50才の時円高の時バックパッカーになり海外に行った。ふりかえると良く行けたものだと思う
でも相当に苦しかった。私はまだその時体力気力でもあったからできた。

何か人間は先入観があり行動できない!

つまり30代の頃でも航空運賃がアメリカなのかハワイなのか50万とかなっていた
それで海外旅行はできないとその時思いそれからもずっとそう思っていたのである。その頃海外旅行は団体でするものでありバックパッカーなどまれだったろう。でも円高になりフリーターとか貧乏人も別に海外旅行に行っていた
その人はフリーターでありたいして収入もないのに世界中を回っていた。つまり円高になった時代だからできたのである。
今になると円安で海外旅行ができない、これはかなり損だし若い人の視野が狭くなる
だから人生は何でも時代により損得がある。戦争のために若い人が多数死んだりしたのも時代の影響である

私は海外のことがわからないので大金を持っていった。つまりずっと前の海外旅行のツワーの感覚でいたのである
海外になれば中国とかでも物価が十分の一とかにもなっていた。でも中国に三回行ったが最後は日本並みの値段に北京ではなっていた。だから中国では物価が常に経済成長して上がっていたのである
ともかくこの金銭感覚がわからないので失敗した。私は大きな金を持ったことがない、親からわずかの小遣いももらっていただけであり贅沢などしたことがなかった。ただ自由な時間がありあまるほどあったから旅に費やしたとなる
だから海外でもっと金を使えばいいと思った。でも貧乏性だからできなかったのである
貧乏性はなかなか消えない、今でもそうなのである。私は特別贅沢はしないからである

エジプトにも行ったが物価が安いから十万もかからないだろう。安宿などいくらでもあったからである。だからこの額に驚いたのである。円安でもこの額は高すぎる。海外旅行に慣れない金持ちが行くものになっている
だから人間は何でも金でできるわけではない、金が無くても国内旅行でも海外旅行でもできた
国内旅行だと一番かかるのはホテル代でありこれに一番私は苦労した、何とかして5000円以下のホテルに泊まろうとして探していたのである。それが海外でも同じだったのである。それでスイスとなると物価が高い、でもユースホステルに千円くらいで泊れたのである。ヨーロッパには安宿が意外と多いのである。老人でもユースホステルを利用しているのである

ともかく人間は人生を必ず後悔する、あの時何をすればよかったしなければよかった時間を無駄にしたとかなる
結局人生は何に時間を費やしたか人生になる、Y=TXかもしれない。人生=時間かけるXかもしれない
なぜならあらゆることに時間をかけられないからである。それは才能でもあらゆる楽器を習得することは不可能である
そんなに時間をかけられないからである。だから才能以前に何に時間をかけるかとなる
仕事でも様々な仕事があり一つの仕事に時間をかければそれなりにプロになる。要するに時間が意外と問題だった
人間に与えられた時間はそれぞれ限られていた。その女性は取り柄がないようで緑化会社に勤めていたので花にくわしい
花を育てることにくわしい、また農家の出なので農業にくわしい、それで小さな畑をもって野菜などを作っていた時その話を聞いて農業の苦労を知ったのである。何も取り柄がないようでもそうした経験が役に立つことがある

人間はその時々でもやれることをやらないとできなくなる。まずきついことは若い時でないとできない、だから若ければ体力があれば金が無くても海外旅行はできる。でも60以上とかなれば苦しくなる。つまりすべて金があるからと何でもできるわけではない、エジプト旅行に百万とか考えられない、十万でも充分である。それは若ければできるのである
問題はやはり時間なのである。バックパッカーになるとしても会社勤めとかで一か月休暇を取ることが難しいとなる。
自由な時間が確保できないのである。人間は常に金のことを意識するが時間のことを意識しないのである。それが盲点だったのである。遂には時間がない時間オーバーで終わるのが人生となる。
そして失った時間は取り戻せないし時間は金で買いないのである。また金は不平等でも時間は平等に与えられているからその点は人間は平等だともなる。

いずれにしろ時代的に損得はある。今若い人が気軽に海外旅行できないのは相当に損失かもしれない、視野が狭くなる
それは日本全体にも影響するかもしれない、閉鎖された世界で井の中の蛙にもなる。ただ行動力のある人はどんな時代でも
行動する。登山でもするし日本一周の自転車旅行でもきついことに挑むのである。
ただ時代の影響は必ずある。これだけの円安となると海外旅行は簡単にできない、ともかく若い時にきついことでもしていないと50才と60才をできなくなる。私の場合は60以上になり親の介護で十年とか費やしてその後で十数年遠くには旅行していないのである。でもこれだけ旅行したら満足だとなる。

人間は時間切れで終わる!

人間は金が尽きて終わるのではない、時間がなくなりまた体力がなくなり何もできなくなるということである。
ある人は億の金をためたが病気になり何もできなくなったとかになる。金があっても体力がなくなり時間がなくなりできなくなるるのである。

posted by 天華 at 09:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年06月25日

地理は実地にその土地を踏まないとわからない―特に外国はわからない 【砂漠がわからないから一神教も聖書もイスラム世界もわからない】


地理は実地にその土地を踏まないとわからない―特に外国はわからない
【砂漠がわからないから一神教も聖書もイスラム世界もわからない】

【ひろゆき】イスラム教とイラン・イスラエル紛争の関係性...アメリカは本当に危険な状況です..


ひろゆきの砂漠についての話は的をついている。そもそも砂漠とか遊牧民のことを日本では理解できない
存在しないものを理解することは不可能になる。いくら写真を見ても本を読んでも実感できないからである
例えば海とか山なら日本にもあるのだから理解できる。
ただ山となると外国になると岩山が多い、日本のように森に覆われていない、むき出しの岩山なのである
シナイ山などでも草も生えていないような岩山なのである。だから厳しさを感じる。そこに登って十戒を授かったのがモーゼである。

また川にしても長大で運河のようになっているのが大陸国家である。だから日本の川を滝だと見たというのもわかる
川が交通路になるのが難しいのである。だからヨーロッパであれ川が道となり都市でも結ばれることはない
それは中国でも同じである。なぜインドでもガンジス川がヒンズー教で聖なる河となり世界も中心のようになったのか
それは川自体が大きくそれが大陸を貫くように流れている。
またナイル川でもエジプト文明がナイルの賜物というのもそうである
それは上下エジプトをつなぐものでありそれで統一国家も生まれた。四大文明が川の側に生まれたのは必然だった
それが交通路にもなっていたからである。

つまり世界を知るという時基本に地理を知ることでありこれがわかりにくいから誤解するのである
地理は実感しないとわかりにくい、だから映像を見ても本を読んでもわからない、一回でもその地を踏んだ人の方が知るとなる
エジプトで小型の帆船のファルカーに乗りナイル川を旅したいという学生がいた。
私はファルカーに乗ったとしても狭い範囲である。現実にナイル川をファルカーで旅すればその経験は貴重である
その点は現代では恵まれている。学校であれ大学であれ地理の勉強するにしても一回も外国にも行かなかったらどうして知るのかとなる。その差は余りにも大きいのである。そのことは私自身に当てはまる。50歳まで一回も外国に行っていなかったからである。それが大失敗だった。
ナイル川の岸からピラミッドに通じているという時ピラミッドは港の役割もあったのかとなる。また川岸に神殿がありそれを夜に訪ねた時は月光が照らして神秘的だった。つまりナイル川がありエジプト文明があったとなる。そうなればナイル川を知らなければエジプト文明は知り得ようがないのである

それは砂漠を遊牧民を知らなければ聖書でもイスラム教でも知ることが不可能になる。だから確かにヒロユキが砂漠について言っていることは的得ている。砂漠では一人の指導者が絶対となり従わなければならに、なぜなら砂漠では方向が大事であり
どちらに行くかで生死を分けることもある。そしてそこでみんなで議論して時間がない、すると一人の判断にまかせることになり一人の指導者に従うことが生き延びることになる

それで砂漠を団体で旅した時道に迷ったがその内の一人が経験者でいて水のあるところに導いて生き延びたとある
つまり水は砂漠では最高に貴重なものでありもしその時水を得られなかった死ぬことにもなる
その生死を託されたのがその一人の指導者だとなる。集団で議論している時間がないからそうなった
何か危機を乗り越えるとき民主主義のように議論していると間に合わない、即座に決断しなければならない
すると一人の指導者に託すことになる。

また砂漠では方向が大事になる。だからこそ北斗七星が北極星が大事になる。それで妙見信仰が生まれた。それは相馬野馬追いの相馬氏が騎馬民族にもなりその旗印は北斗七星になった。それは中国から伝わったものである
ともかく砂漠がどういう場所なのか、砂漠は音もしない清潔な場でもある。静寂があり神が現れる場だった。そして何もない砂だけでありそこに植物でも繁茂する熱帯と全く違った風土である。植物でも生物でも多様であればアニミズムになる
そして偶像崇拝になるから熱帯地域とかには一神教は生まれなかったのである
何もない世界はそこに石一つでもあればその石を全集中して見る。一つの神にもなる。それと同じように何もない所には一なる神が君臨する。様々の物があれば一つの物に集中できないあからである
いずれにしろ砂漠に一週間でも天幕で過ごせばその感覚がわかる。空に見えるのは星だけである。それで砂漠地帯では星が方向を示し信仰までなったことが理解できる

砂漠地帯でなぜ協議するとか議論するとかみんなの意見を聞く民主主義が合わないのかそれはそういう土壌がなかったからだとなる。強力な一人の指導者に従わなければ全員が死ぬということにもなる。方向を間違えばそうなる。
一人の指導者が権威者となりそれは神に指名されたものとして人々を導くことになる。それは一なる神が導くと同じなのである
でもその指導者がイランでもアメリカに殺されたらその権威は失墜する。だからハメイネ師の殺害しようとした
その絶対的権威であるものが排除されれば体制も変わるとなる。
それと似たものが日本の天皇であった。ただこれは中東の独裁者とかとはまた違っていた。天皇は第一権力はもっていない、イランではハメネイ師は軍隊に命令できるからである。

ともかくなぜあれほどイスラム教では偶像崇拝とかアラーの神でも批判すると殺されたりするのか?それは砂漠という世界で
清潔と清浄を求め不潔なものを入れない拒絶する世界からかもしれない、そこに一つの神が現れて統率するとなる
議論したり投票したりの多数決の民主主義は相いれない世界だとなる
絶対不可侵の世界でありそこに根本的な世界観の相違がありそれで理解しにくいとなる

現実の中東には人びとが異なる意見を表明し合い、対立や葛藤を経て、合意形成をするための場、すなわち民主的なアリーナ(闘技場)がほとんど存在しない

中東で民主主義が定着しない「本当の理由」〜イスラームをめぐる2つの問題について 末近 浩太

議論とか討論とか話し合いとかそうした文化そのものがないとなる。政教一致になれば神が絶対的権威となりそもそも反対意見は許さないからである。だから様々なことで是非を論じることはできなくなる

神に逆らうのか、仏に逆らうのかとなりできない!

それは創価では政教一致だからそうなる。何かというと反対すると罰が当たるとか地獄に落ちると脅迫するからである。
ただ自分にしても宗教に関しては議論したくない、神がないとかなんとかかんとかいくらで言えるからである
神がいるかいないのかなど議論しても無駄だ。議論して神などいないなど誇っても何も得ることがないのである
ただその他の日常生活ではいろいろ議論して最善策を見つけるべきである。そこでは議論が有効である。でも神があるかないかなど議論しても無駄なのである

ともかく砂漠地帯は一人の指導者に従うことが命にかかわることだから政教一致になった。一人の予言者に従わないと死ぬとなればそれに反対することはできない、自分でも死ぬことにもなるとしたらできないのである。
だから一人の指導者に権威と権力が集中するとなる。だから剣でもって宗教を強制するともなる
反対する者は殺されるとまでなる。そういうことが日常の生活でも適用されるから民主主義にはなりえないとなる
だから民主主義の基本には政教分離がある。それがイスラム教国ではしにくいとなる。
ただトルコとかインドネシアとか民主主義でありすべてがそうではない、別にトルコのオスマン帝国では様々な宗教がありユダヤ教でもキリスト教でも許可されて生活していたのである。つまりイスラム教でも一様ではない、すべてが政教一致ではないからである。

何か日常の子細なことまで宗教を持ち出すとおかしくなる。例えばABという商店があるときAは信仰しているから繁盛するBは繁盛しないとなる。創価などは常にそういうことを言う、でも店が繁盛するのはいろいろな条件があり繁盛する
ただ神仏に祈っても繁盛などしない、そしたらただ神仏に祈ればいいとなるからおかしいのである。現実にはそうなっていないの
宗教で強制することはおかしくなる。宗教は必要でもそれを現代の生活に子細なことまで制約して判断することはできない、心の清い人が神をみるだろうというときそれは個々人の心の問題としたのである。あらゆることを宗教で判断するとはできない、どうしてもイスラム教だと神を冒涜するとして過激になり殺してもいいとなるのは異常である。それがあらゆる日常の生活で神を持ち出すから問題なのである




2025年06月24日

砂漠のオワシス、島のパラダイスへ(詩) 【人の世から災い無くなることがない平和はない】


砂漠のオワシス、島のパラダイスへ(詩)
【人の世から災い無くなることがない平和はない】

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砂漠を行き喉が渇き
オワシスを夢見る
その水は千金の値
花々が咲き夢見心地木の影に休む
そこに神よりマナが与えられて
労することなく安らぐ
一つのパラダイスや
しかしそれも一時の幻
束の間の夢と消える

一つのコインを大事に握りしめる
そのコインに刻まれし王の顔
しかしその王国も砂漠に消える
王の座はそこにはない
そこに一なる神の声がひびきわたる
アザーンが高らかに重くひびきわたる
真の王の座は天にあり不滅

砂漠にまた巨大な都市の幻が現れる
そこに群衆が絶え間なく満たされる
一人一人の顔は見えない
みな同じような顔にしか見えない
しかしそれすらも一時の幻
広大な蜃気楼のように消える
阿鼻叫喚のありしも
ただ砂漠の幻と消える

そこは元の砂漠にもどり
一なる神の声が再び力強くひびきわたる
荘厳なるロゴスの神殿が再び成る
そこに岩が残り岩にひびく
岩は硬く沈黙を守り神の声を拝聴する
偶像は倒れ砂に埋もれ王の座は消失する
そこに再び預言者が現れ神の言葉を告げる
その名は地に記されずも天に記される
生命の書に記されて神の国の一員となる

そこはまたかなた遠くの至福の島
鴎は自由に翔けてまた別な島へ渡り行く
長い海岸線を白波が寄せ地に轟きぬ
大空と海とかなたの山々
海に魚は跳ね飛び躍動する
船は新たな港を目指して進む

ああ 遠く離れた島にあれ
千年人知らず眠りたい
そこに災いなく安らぎたい
最大の災いは人よりもたらされる
醜き人々ののさばり争いはやむことがない
常に火宅の世にして騒乱の世
ああ 遠く離れた隔絶した島に

労苦なく神よりマナを得て
何故か二人の女性の仕える
誠にその日々は極楽の時
ただ花々の夢を見て至福の島に安らぐ
次々に花は咲き飽きることがなし
そして石は千年の眠りにつく
その石の眠りを邪魔するな!
この島は禁断の島にて入るべからず

人よ気をつけよ
美女にあれ何人にあれ人に気をつけよ
災いは人よりもたらされる
人の和にあるは至難なり
何かにつけ争いが生じる
争いの種は尽きることがない
神はこの世よりそを救出する
神の国へそをこの世より救い出す
今しばらくなれ忍耐して待て
そは災い無き国へ神の国へ入る
争いなき乱れなき国で永遠に安らぐ
病なく老いなく愛に結ばれる国
災いはもはやなき神が治める国へ



人間は最後何になるのか?神話とか伝説化してゆく、無数の物語(ヒ・ストリー)と化してゆく。人が死んだら肉体として消えてもそれぞれの物語となる。神話とか伝説となる。大きな歴史でなくても個々人でも家の物語でも伝説化する
神話という時はそれは国家的大きな物語になる。

親でも死ぬがその親も子を通じて物語化して伝説的なものになる。それが実際は現実であってもその現実が伝説化する
だから神話でもそれは現実と関係していて現実を反映して作られたものでありフィクションではない、それはありもしないことを語るのとは違う、そもそも事実は小説より奇なりというときそれぞれの人生でも家族でも様々なことで奇なることを経験している、その一生でも何か不可解なものがある。なぜそうなったのかそういう家族だったのかとかも不思議になる
人間の運命が不思議であり謎にもなる。

ただ聖書の物語はフィクションではない、すべて事実であり神話とか伝説とも違う、現実に起きたことを忠実に記したのである
奇跡も事実である。モーゼが海を割ったのも事実である。作り話ではないのである。そこが他の神話とは違っている
だからその奇跡でも信じなければ信仰はありえないとなる。
だからキリストが湖の上に立った時、ペトロも海の上を歩こうとしたできなかった
それで【信仰薄き者よ】と叱咤された。その奇跡を信じなかったからである。

なぜエホバは砂漠に現れたのか、それは人間は人間は具体的な物を通してしか理解できない、その物が人でも神になるのが普通である。それは必ず偶像化する。だから何もない砂漠に神は現れたのである。
そこに唯一一なる神が現れたのである。

いずれにしろこの世は本当に災いの世である、火宅の世である。戦争でも今も終わりなくある、それだけではない別に戦争が無くても人間は何やかやと争っている、それは家族でも争っている、親は子供に尽くしたのに成長して親が年老いいてもめんどうみないから冷たいとなり育てたことでも後悔する。
つまり別に戦争しなくてもこの世に平和がないというとき常に何にやかにやと争いの種が尽きないのである
つまり人間社会に争いはなくなることはない、だからこそ世界最終戦争でハルマゲドンで人類が滅びると予言された











2025年06月23日

増えるのは老人と病人になる問題−ライフワークを持つ時代 【老人は医者でも自転車屋でも最新の技術とか知らないことがある】


増えるのは老人と病人になる問題−ライフワークを持つ時代
【老人は医者でも自転車屋でも最新の技術とか知らないことがある】


緑内障の手術で仙台市の病院に行った人がいる。緑内障は失明する危険度が高い、白内障は老人は成る率が高い
手術は一時間くらいで簡単と言えば簡単だが精密機械とがないからこの辺では眼科の専門病院がある仙台市でしかできないとなる
その女性は糖尿病であり足が悪く杖をついてやっと歩いている、でも長い距離は歩けない、それでタクシーを呼ぶ
それも金銭的負担になる。
糖尿病にもなっているから目でも神経がやられ足でも手でも神経がやられて自由が利かなくなる、それが糖尿病の怖さである

何かわからないけど家のリーホムをしてくれた小高の大工さんは何の病気かわからないけど匂いがするとかで地元の医院に行ったがその後やはり仙台市の病院に入院した。息子が原発事故で仙台市で仕事するようになったからである
熟年離婚もしていたからこれも大変だとなる

原町の自転車屋のY氏はやはり病気で店を閉じている。ただ完全にやめたわけではなく交渉すれば店を開けて修理や注文は受け付けている、その人77才とかなればもはや仕事もできなくなる。これも困ったことである。
鹿島の星自転車屋の人は癌で死んで二年くらいすぎた、不思議だったのは死ぬ三日前に行った時普通に仕事していてあと何日仕事できるかなとか言っていた。その三日後に死んだのである。そんな状態でも仕事で来ていた不思議である

何か農家の人が病気でも畑で仕事したとか言ってそのまま死んだとかもある、失礼にはなるが農民は田畑で働きながら死ねば成仏したとなるのか、認知症で入院した人がベッドで田植えの真似をしていたとか習慣でそうなる
習慣の力は大きいのである。つまり人間が仕事と一体化する。仕事が人間を作るともなる
退職して仕事がなくなることが大きな問題になるのはそのためである

だからWORKとは作品の意味もあり機能するとかの意味もありそれを持たない人は脳も機能しなくなり認知症になる危険がある
私の家族の一人は公務員だったけど退職してからなにもしない、テレビを見ているとかだけだった。
家事をする人が別にいたからなにもしないでいると認知症になるのも怖い
つまり社会でも働きなにかしら機能していることが必要なのである

もう一つはWORKには作品という意味がある。これも生きがいになる。何かしらそれぞれの興味で追求してきたものがありそれを作品化することである。その作品を完成させることが生きがいになる。今なら自力でネットで発表できる
つまりライフワークが必要になった時代だとなる。会社を退職してからその先が長いとしたらそうなる。
素人学問とか素人芸術家とかにもなる。だからみんなアーテストになれという人がいたのもわかる
猛烈企業戦士の高度成長時代を生きた団塊の世代からすると価値観が変わったのである。
ベーシックインカムが必要だというのも何かそれが今の社会には不可欠だとして突飛な主張でもなくなっている

ともかく退職してからの人生が長くなるときライフワークを持つ時代だとなる。それは会社だけが人生ではなく長い目でその人なりの価値を作る時代だとなる。それを心がけていないと長い老後が充実しないとなる
ただ老人の最大の問題は病気なのである。必ず何らかの病気になる。私自身も親の介護の時病気になり入院して手術したりして地獄だった。本当にこの病気の問題が老人の高齢化社会の大問題であり介護になるのも大問題になっている

それには金も必要でありまた金だけでなく人の手が必要である。何か何億もの金を残したが60以降病気になり何もできなくなたとかいう言う人もいる。何かきついことができるのは50代が限度である
それで自分の場合は50過ぎてバックパッカーになって世界を旅行したのが良かった
今になるととても体力的気力的にもできなくなったからである。だからいくら金を貯めても老後に病気成ったり体力がなくなってできなくなることで後悔する、ただ正直人生を後悔しないい人はいない、それだけ人生は短いからそうなる
貴重な時間が失ってしまうのである。

ともかく誰しも人生は思うようにいかない、必ず不測のことが起きて計画でも狂ってしまうのである
時代も変わり価値観も変わる。それで老人は取り残され前時代の遺物のようにもなる
スマホでもしなければ情報弱者になり肝心なこともわからなくなる。それも怖いことなのである
何か本当に浦島太郎のようになる人も現実にいる。いつの間にか時代が変わり社会のことが理解できなくなる

まずスマホしないとオールドメデアだけから情報を得ていると今や社会のことがわからなくなる
前時代の遺物のようにもなる。鉄の時代なのに石器を使っているような人にもなる
技術の進歩についていけないのである。だから自転車屋でも若い人がいいというとき最新の技術とか製品のことがわからなくなるからである。それは医者でもそうである、どうしても今は年配の医者が多くなる。近くでも90才でも医者をしていた人がいたし高齢の医者が多い、でも経験があっても最新の技術は知らないことがある取り入れられないことがある

こうして技術的な面になると都会の方が有利である。それでどうしても折り畳み自転車などは通販にいいのがあるが後の修理とかあるので買いにくい、難しい病気となるとどうしても仙台市に行かねばならないとかなる
江戸時代でも目が悪くなる人が多く遠くの医者に行くために関所越えたとか記録がある、とても村のようなところでは直せないし診ることもできない、それで目を直す地蔵にでも祈るほかない、薬師堂に祈るほかなかったとなる。






2025年06月22日

宗教の基本ーユダヤ教とキリスト教とイスラム教は偶像崇拝の拒否で一致 【イランとの戦争が世界最終戦争(ハルマゲドン)になる恐怖ー聖書の予言】

宗教の基本ーユダヤ教とキリスト教とイスラム教は偶像崇拝の拒否で一致
【イランとの戦争が世界最終戦争(ハルマゲドン)になる恐怖ー聖書の予言】

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終末の中東大戦争 〜エゼキエル戦争への道〜


中東がなぜわかりにくいのか、イスラム教がわかりにくい、シーア派とスンニ派の相違がわかりにくい、
カトリックとプロテスタントはわかりやすい、それは歴史的なものとして教えられている
カトリックは教会中心主義であり司祭が牧師が神との仲介となる。その仲介者を通すから司祭や牧師なくしては信仰もないとなる
それでカトリックは免罪符を売ったりして堕落した。天国と地獄に行くのも司祭が牧師が決めるともなった
それにプロテストしたのがルターでありプロテスタントになった。万民が各々司祭であり牧師であり仲介者はいないのである。
それはわかりやすいのである。でもイスラム教がなぜシーア派とスンニ派に分かれて争うのかわからない、そもそもイスラム教自体がなじみがなくわからない、でもイスラム教徒は世界で多いのである

共通点として偶像崇拝を厳禁している。それはキリスト教より厳格である。それでキリストであれ聖人であれ人間が神の子であることを拒否している。それも偶像崇拝となるからである。
またユダヤ教もエホバは神でもキリストは神の子としていない、だからユダヤ教とキリスト教は別なのである
ただ宗教は偶像を厳しく拒否する一神教とそうでないものに大きく分かれる。
だから仏像を拝むことは偶像崇拝として仏像をイスラム教徒が破壊したことがあった
仏像は神ではないからである・偶像とは何か、それは目に見えるものを形あるものを神とすることである

でも神は目に見えないものである。だから破壊されることはない、目に見えるものは形あるものは何であれ破壊される。
でも目に見えないものは破壊されないのである。それで神は絶対に破壊されないものとなる
永遠の命というのもそれは肉体ではなく目に見えない霊ともなるから破壊されないのである
それでまたイスラム教ではキリストは神の子とはしない拒否する。一つの偶像崇拝と見るからである
この辺はわかりやすいのである

そういうことでイスラム教徒とキリスト教徒であれユダヤ教徒であれ偶像崇拝を拒否して経典の民として通じ合うのである。返って仏教徒ととは仏像を拝むからそれを偶像と見るから相いれないのである
宗教がわかりにくいというとき偶像崇拝の拒否とかが原則としてありそういう点からみればわかりやすいのである
人間は目に見えるものを通じて世界を知る。でも目に見えないものを知ることは容易ではない
原子はアトムは目にみえないではないかとなるがそれは実在しているものである。物質は目に見えるものであり目に見えないものとしても実在する。

だからイスラム教とキリスト教との宗教の争いなのか?アラーの神とエホバの神が争うのかとなればそんなことはないのである。ではイスラエルとイスラム教のイランの戦争は宗教が原因なのかとなれば違っている
イスラエルでは回りを敵に囲まれているからいつ滅ぼされるかもしれないという危機感を持っている
それでイランが核を持つことを許さないのである。
でもエゼキル書ではゴグとはロシアでありイランの背後に中国が存在する。国家存亡の危機としてどうしてもイランの核は排除しなければならないとなる

 聖書の記述: 旧約聖書のエゼキエル書38章・39章に記される終末的な戦争。ロシア(「マゴグ」)、イラン(「ペルシャ」)、トルコ(「トガルマ」)など複数の国々が連合を組み、イスラエルに侵攻するが、神の介入により壊滅するとされる。地震、疫病、豪雨、硫黄などの超自然的な災害が連合軍を滅ぼし、イスラエルが勝利すると預言されている。

そもそもユダヤ人はなぜ国を失い分散して迫害されても存続し続けたのか、2000年間も民族として存続したのか
それは神がエホバの民であり神が存続させたとなる。だからこそイスラエル国家の再興は世界史的に大きな事件となった
つまり世界を揺るがす出来事だったのである。

人間は聖書だったら常にエホバに頼りその命を受けた予言者に先導されて勝った記録である
その時軍事力ではないその勝利に導いたのはエホバであり軍事力ではなかった
モーゼは杖一本に神の力が宿り出エジプトを成し遂げた。その時軍事力はなかったのである
でも現代の戦いはイスラエルでもアイアンドームとか常に科学技術力の優劣を競うものとなる
アメリカが強いのは科学技術力で優位に立つ、常に科学技術力で優劣が決まる
だからイスラエルでもイランでも神に頼っているのではないのである
その争いの決着は科学技術力で決まるとなる
日本も最後に原子爆弾を落とされて戦争が終わったとなる。その時神国だとした日本は科学技術力で負けて終わったとなる

でもユダヤ人が2000年も国土もないのに2000年も存続したのか?迫害もあって強固に存続したのかそこには神の意志が働いていた。つまりイスラエルの民は神が選んだ民であり滅ぼされないとなる
そうでなければユダヤ人が存続したのかとなる。やはりそこに神の意志が働いて存続したと見る
だからイスラエルを滅ぼそうとしたとき世界戦争になりハルマゲドンになり人類絶滅の危機になる
その時救世主が再び現れると予言されている
だからこそ今回のイスラエルとイランの戦争は世界に影響すると見る

つまりアイアンドームが守るのではなくエホバが守る!

だからアメリカに頼りアメリカが守るというのは神の民ではないともなる。しきりに聖書では同盟は結ぶなとしていたからである

エジプトと同盟を結んで、アッシリヤの危機から守られようとします。つまり、エジプトとの同盟について「死と契約を結び、よみと同盟(協定)を結んだ。たとい、にわか水(アッシリヤの勢力のこと)があふれ、超えて来ても、それは私たちには届かない。」と彼らはたかをくくっていたのです。しかしイザヤは、こうした政治的工作を厳しく非難します。そして1で彼らに「死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。にわか水があふれ、越えて来ると、あなたがたはそれに踏みにじられる。」と主のことばを語ります。しかもそれは繰り返し繰り返し押し寄せる、と。この啓示を彼らに悟らせることは全く恐ろしい(恐怖でしかない)ことだとしています(19節)。

イスラエルは小国でも大国のエジプトと同盟を結ばなかった。神は禁止していたからである

イザヤは、こうした政治的工作を厳しく非難します

この政治的工作とはアメリカとイスラエルなのである。だから神の民だったら本当はアメリカに頼って戦争はすべきではないとなる。とにかくイスラエルを火種として世界最終戦争のハルマゲドンが起きるとなれば恐怖である
イスラエルとイランの戦争は世界に波及してそれが核戦争となり人類が滅びる恐怖になる
だから小競り合いではない世界戦争となるとなれば日本でも巻き込まれるとなる。


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2025年06月21日

複雑なイランー宗教に民族主義に石油利権にイギリスアメリカに仕切られた歴史 【宗教でも政教一致または政経一致は歪める―御利益利権追求になる異常】

複雑なイランー宗教に民族主義に石油利権にイギリスアメリカに仕切られた歴史
【宗教でも政教一致または政経一致は歪める―御利益利権追求になる異常】

イラン史(古代から現代まで)【ゼロから世界史特別総集編

イランとかイスラム圏は理解しにくい、それを複雑化しているのが宗教であり経済である。
イスラム教でもスンニ派とシーア派に分かれた対立している
そこに民族主義があり複雑怪奇になる。
何かそれは日本でも日蓮宗が今でも創価があって顕正会があって対立するのは宗派争いなのかとなる
民族主義は日蓮宗は極めて民族主義的要素が強い、それは蒙古襲来を予言して国家の独立を守るということで時代的なものが反映した。それで日蓮宗が戦争でもす軍人の石原莞爾などがその思想を利用した。つまり民族主義がナショナリズムが強烈になった時期だからである。日蓮宗にはナショナリズム、民族主義が強いのである
だから国立戒壇を主張していた。それは完全な政教一致である

そのことがイスラム圏でも関係している。民族主義と宗教が結びつくのである。でもキリストは民族主義者ではなかった
その時ユダヤ人は民族主義宗教であり神の選民として選ばれた民でありその神はエホバであり神は選ばれた民のユダヤ人を救うというのが教理としてあった。そのために民族を越えた万民に対する愛を説いたキリストは同じ民族のユダヤ人に殺されたとなる
イスラム圏でも多様な民族がいてその民族が争っている。それをまとめるのがイスラム教だとなるがそれも宗派対立がある
それはカトリックとプロテスタントの争いと似ているのか、その歴史的経過は理解できるがイスラム教は理解できない、ただ共通しているのは偶像崇拝禁止が頑なに守られていることで共通している

イスラム圏で王政は王族による既得権者が利権を得て裕福ななったが国民はその利益を得られないということで革命が起きた
それはイラクでもフセインがそうでありイランではホメイニ師によるイラン革命があった。
そこには裏で欧米がかかわり操作されていたことで反発した。イギリスの二枚舌外交である。欧米はそういう交渉が二枚舌外交がある。そもそもそれは人間自体が常に善を装い悪を成すのが人間であるから国家間の取引も同じなのである
騙し合いだともなる。それは欧米では顕著なのである
欧米が中東にかかわるとき石油利権があり経済的理由がある。トランプは政治はデールだとしてあからさまに主張する
それに翻弄されてきたのがイスラム国であり世界でもあった。そこに正義とか関係しないのである。だから日本とアメリカの戦争でもアメリカに義があったわけではない、だから東京裁判は勝者の一方的な不公平なものだった

要するに世界は力では決して治めることはできない、一時的には治めたとしても必ずそのしっぺかえしがある
力で何でも通ることはないのである。だからこそキリストは剣を取るものは剣によって滅ぶと言った。剣では軍事力だけでは治められないのである。一時的には治まったようでも根本的には治まらないのである
だからこ世界史は帝国が一時的拡張してもまた元の鞘に戻る、イランもペルシャ帝国が拡張してもやはり必ず限界がある
地理的にはイランの位置が中国やインドなどからの西への通行路になり商業が発展したというのも地理的な要因でそうなった
意外なのはイランは遊牧民が主体ではなく農業国家だとなる。それがモンゴルなどとは違っていた
農業国家だからこそその国と文明は持続する。遊牧民国家は持続しにくいのである。

ともかく世界がわかりにくいのは民族でも多様であり入り混じっていることである。そこに宗教がかかわり複雑になる
宗教でも政治と関わる時利権と深くかかわり複雑になる。石油の利権で世界も動くとなる。それでイスラム圏は中東は欧米によって食い物にされたということはある
そもそも中東地域から700年間くらい発明発見がなかった。つまりそれだけ西欧からすると遅れた地域になったのである

なぜ世界史でも国でも理解しにくいのか、それはまず地理が理解できない、余りに広大であり理解できない
確かなことは自然的境界はわかりやすい、イランでもその国境は山岳地帯がありそれが侵入を阻みまた外に侵攻するのも阻む
またイランはカスピ海がロシアとの国境になる。そのカスピ海の島がイラン領だとロシアと争い日本の北方領土の島は日本に属すると主張している。世界では常に領土争いがある、民族争いがある、そこに宗教がかかわると複雑怪奇になる

宗教でも創価を見ればわかる、最近渋谷で問題になったゴミ廃棄物処理の利権に創価がかかわったとして創価の会員だった人が裁判を起こしてる。そこには市役所の人も創価の会員せあり便宜を図っていたのである。宗教でも利権にかかわり御利益を追求する組織化集団化政治化すればそうなる、その御利益(利権)をもとめて利権を得るために会員になる人も多いのである
だからこそ選挙の宗教に成っている。創価の場合はあまりにもあからさまなのである

だからイランにしても中東の国家は石油利権が大きいから世界で注目してその利権の争奪戦になる
それがイラク戦争でありイランでもそうなのである。核はイランに持たせないというのもおかしいのである。
アメリカでもヨーロッパでもイスラエルでも核を持っている。まず核が危険なら持つべきではないとなる
だからこれも一方的なのである。結局そこには強者の論理しかない、強いものが決める取り仕切るとなるだけである
宗教というとき正義を正しさを求める、でも人間社会だと常に利益を求める、そのためにはサタンに魂を売るということが
常に行われている。それは国の関係でもそうである。だからトランプ大統領はデールだとなる。それは何か正義がどうのこうのとか持ち出さない得すればいいだけだとなる。もし宗教がかわればそういうことはないはずである
宗教は正義を善を第一に求めているからである。

ともかく20世紀は欧米が世界を支配してずたずたにされた。それは日本も同じだった。中東は特にひどかった。
でもアメリカ帝国も衰退するようになってきた。世界の力関係が変わって来たからである。ただイランはイラクのようにはいあいかないとうとき国土も広いし歴史も古いし人口が9千万だというとき意外である。それだけ大国になる。
何かウクライナとロシアの戦争にさらに中国がかかわるとき第三次世界大戦になる。それは聖書のエゼキル書の予言が現実化するのかとなる。それはやはり核による戦争で人類が滅びるというハルマゲドンの恐怖がある
イスラエルが2000年後に再興されたことはそれが最終戦争を呼び起こして人類が滅びる
ただその時再び救世主が現れるという予言が実現するのかとなる



実名告発】【創価学会】渋谷区リサイクル利権の不正

結局創価公明はこうして利権を得るための団体である。そこに宗教を看板にしているからおかしいのである
こうして不正をしていて他者を地獄に落ちるとか罰当たるとか責める、責められるのは誰なのかとなる
政教一致でありまた政経一致である。政治経済は利権と利益の追求である
それが宗教団体で許されるのかとなる。仲間なら不正でも利益を得られるとなる
要するに利益えればいいだけである。それは宗教が関係しなければいいが政教一致であり政経一致だから矛盾して異常なものになるカルトなのである。だから法律的に禁止解体すべきだとなる






posted by 天華 at 19:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年06月20日

原町の小川町の上の牛越城の下の水無川は気持ちいい場所 【立葵、青葉、涼しさ、白鷺、黄菖蒲・・・】

原町の小川町の上の牛越城の下の水無川は気持ちいい場所
【立葵、青葉、涼しさ、白鷺、黄菖蒲・・・】

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川子の森

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牛越城の下

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十字路に昼間明るし立葵

一筋の流れ光りぬ青葉映ゆ

木に寄りて影の深きも涼しかな


森の影深くもあれや夏の日に樅の木真直ぐに立ちて動かじ

公園の木陰に休み燕飛びまた移り行くかな原町の街

夏の日のなお明るしや餌あさる白鷺映えて夕風涼し

草深く黄菖蒲咲きて夕べなお明るし道を我は走りぬ



鹿島区の川子の森の坂を上ると森の影が道に濃い、そこに数本モミの木が立っている。樅の木は冬にふさわしいと見るが
夏でも森の深い影なして重厚である

原町は8キロくらいだから買い物とか頻繁に行く。これが相馬市となると倍の距離になり簡単には自転車では行けなくなる
道の駅の公園はいい場所である。太い木がありその下で休むと気持ちい、日陰でも建物の影だと何か暑く感じる
やはり自然な状態が生物だから気持ちいいとなる

そこから街を通りイオンに行きやはり牛越城があった下の水無河原で休み涼む。水無川でもあそこは常に水が流れている
その水無川で豪雨となると氾濫もするから怖い。ともかくあそこはいい場所である
街中でもそうした自然があると気持ちいとなる。

原町の郊外は広い、何か市でも同じようでも感じが違う、それは長く住んでいないとわからない
原町は新興の都市であり相馬市は城下町だとなる。だから郊外が広く家が建っている。昨日でも今日でも暑い、陽ざしが強い、それで熱中症になる。老人は汗をかかないので危険になる。体温調節ができないのである。

ともかくイオンに行く牛越城の下の水無川は気持ちいい場所である
自然が街のなかにあるからいい、ただ下流の小川町となるとコンクリートの堤防になるのでいい感じがしない
相馬市の宇多川もいい川に見えない、川幅が狭く流れる水の量も少ない、でも意外なのは玉野村の方の上流になると石がごろごろする荒々しいももとなる。川にも表情がある。それは下流から上流へと全体を見ないとわからないのである

あそこの水無川でも菖蒲とか咲いていたが一切増水があり流されたのである。それで復旧工事もした。あそこの水無川は涸れることがない必ず流れているからいいのである。

昨日も今日も暑い、老人は汗をかかず体温調節ができないので熱中症になりやすいのが問題である
ただ夕方は涼しいので自転車で走ると気持ちいいのである。





2025年06月19日

イランでも地理とか国の規模を理解していなかった 【イスラム文明と西欧文明の対立ー民主主義にすることは簡単にできない】

イランでも地理とか国の規模を理解していなかった
【イスラム文明と西欧文明の対立ー民主主義にすることは簡単にできない】

2017年の国勢調査によると人口は約8000万人で、世界でも17位であった。多くの民族と言語が存在する多文化国家であり、主要な民族の構成はペルシア人 (61%)、アゼルバイジャン人 (15%)、クルド人 (10%)、ロル族 (6%) である。宗教は99%がイスラム教徒でその大部分 (89%) がシーア派である

総面積は1,648,195 km2 (平方キロメートル) で、中東で2番目に大きく、世界では17位である。北部を東西にアルボルズ山脈が、北西部から南東部にザーグロス山脈が走り、その間にイラン高原が広がる。国土のほとんどがイラン高原上にある

アケメネス朝
紀元前550年 - 紀元前330年。

アケメネス朝は、キュロス2世により、メディア王国、リディア王国、新バビロニア王国を滅ぼし、新バビロニア王国により移住させられたユダヤ人を解放し、バビロン捕囚を終焉させた。キュロス2世の息子カンビュセス2世(カンブジャ)により、エジプトを併合して、古代オリエント世界を統一した。ダレイオス1世がペルシア戦争を起こしたが敗北した。ダレイオス3世のときマケドニアのアレクサンドロスにより征服され滅亡した

なぜ地理が誤解しやすいのか?メキシコがアメリカに付随した小さい国と見た。でも一億の人口があり面積は日本の5倍ある
小さな国ではないのである。イランでも8千万人の人口がある。そんなに人口があったのかとなる
何故なら砂漠地帯もありそんな人口を養うことができないと見ていた

まず広大な領土である。それ自体が理解できない、周りを山に囲まれていて自然の要塞化している。それで攻めにくいとなる
逆に外に攻めるにも山岳地帯があり攻めにくいとなる。日本でも海に囲まれているから海が障壁となり攻めにくいが逆に外に出るのには攻めるのが障壁になる。
いずれにしろペルシャ帝国となると最古の民族なのかとまでなり古いのである。でも何かペルシャ帝国とギリシャが戦ったこととかいいイメージがもてないのである。それは日本は明治以降ヨーロッパに習いアメリカに支配されたから欧米側からの味方になるからえある。そこを政教一致の旧弊な国だと見る。ただ中東の国は石油があるからその経済的面しか見ていないのである。

バビロン捕囚でユダヤ人を解放したというのも古いとなる。その時ペルシャはユダヤ人にとって救いの国だった
またアレキサンダーによって滅ぼされたこともあった。大陸国家は常に興亡が繰り返されていた
それでもイランはペルシャ帝国の末裔であり国を維持してきたとなる。ただ専制国家でありいいイメージをもたない
それでギリシャがペルシャに攻められて勝ったというときポリス国家連合体民主国家同盟の勝利として西欧中心の歴史では位置ずけている。その辺からすでにペルシャ帝国から継続するイランでも良く見ていないのである
ヨーロッパ中心の歴史観だとイスラム国家とかアラブ世界は遅れた国と見ている

ところがイスラム世界がヨーロッパより進んでいた時代があった。イスラム世界があってそこからヨーロッパが取り入れたものがあった。まずギリシャの学問の文献がイスラム世界を通じて取り入れられてそれがヨーロッパ文明の発展に寄与したのである

アラビア語起源の英語の単語のリスト

alcohol  アルコール
algebra 代数学
alcove アルコーブ
alchemy 錬金術
algorithm アルゴリズム
alkaline アルカリの

中世時代、アラビアは世界で最も数学と天文学が進化していたので、現在アラビア語に由来する数学についての英単語が沢山あります。

Alchemy(アルケミー)はアラビア語 Al kimiya に由来し、Al はアラビア語の定冠詞(英語では the に相当)であり、この技術がイスラム経由で伝えられたという歴史的経緯を示す

algebra はアラビア語で「バラバラのものをまとめること」アルコールやコーヒーもそうである。なぜ代数がアラブ世界で発達したのか?それは偶像崇拝を厳しく拒否するから具体的な人間の像とか作ることは禁止されて抽象画が発達した。代数は幾何学とは違う、極めて数字化する抽象能力である
だからこそイスラム世界で発達したとなる。alchemyーchemistry 錬金術は化学の基となった。それも抽象的思考が発達したから生まれたとなる。

こういうことがありヨーロッパ文明が興隆した時イスラム世界は下位のものとされたことに不満が生まれた。なぜならヨーロッパの白人の女性が今の金で5ドルくらいで売買されていたとかあったからである。つまり奴隷として売買されていたのである
それが逆転したのである。その後イスラム世界は下位のもの遅れたもの劣ったものとされたのである
その不満がイスラム世界にはある。先進国が後進国になったということである。

今回のイランのイスラエルの攻撃でも西側から見るとイランは遅れた国と見て攻撃したとなる。欧米に従えとなり攻撃した
宗教的対立もあるがそもそもアラーの神とエホバの神が戦うのかとなればない、どちらも偶像崇拝は禁止しているからである
不思議なのはどちらも神に頼るとして現実は核をめぐる戦いにもなっている
聖書では馬であれ軍事力に頼らずエホバに頼れと常に主張されている。でも双方とも核をめぐる戦いになっているのも解せないのである。

いずれにしろ現代は西側が欧米が世界を導くものとしてありその世界観と歴史になる。でも最近は経済的にも中国が台頭してきて欧米側が西側が衰退するのも現象化している。では中国が覇権国になるかとなればそれも簡単にはなれない、中華文明はその周辺までであり世界化はしていない。でも漢字を使う日本は明らかに中華文明の範囲に入り中国でもそう見ている
中国の配下に成り安いとはなる。ただ世界的視野でみれば西欧文明の次に来るものは何なのかとなる
欧米は衰退してゆくことは確かである。次に勃興してくるのは何かとなる
それより人類は核戦争で滅びるという黙示録の世界にもなる。何か紛争があると必ず核が問題になる
核が使われるということで戦々恐々となる。イスラエルがイランも攻撃したのは核を持たれるという恐怖からである。
人類は戦争になれば確実に核戦争になり滅びるとなる。それは小競り合いですまなくなるから恐怖するのである。

明かにイスラム文明があり西欧文明がありその文明の対立だともなる。政教分離しろと言ってもその文明自体を否定破壊することはできない、社会そのものがそういう宗教による強固なシステムを作って来たからである。文明の対立になるから簡単に政教分離できない、民主制にしろといっても簡単にできないということである。
イスラム教で人種を越えてまとめていたものが民主主義になるとアメリカのように分裂するとなる。そして国家は弱体化して崩壊するとななる。

マルクスが言ったアジア的専制国家というときロシアでも中国でもそうでありペルシャ帝国でもそうである。
共産主義国家になってもやはり一人の王が支配するアジア的専制国家ということは変わりない、イスラム圏では一人のカリフが王となりアジア的専制国家になる。それがアジアの政治的特徴だとなる。民主主義国家でも様々な問題がある。
だから簡単に民主化できないとなる

エゼキル書ではゴグはロシアでありその背後の中国も加わりイランとも対立して戦争が起こると予言した
その時救世主が再来するとされる。それを信じる人達がアメリカの福音派などにいる。
ただ聖書の時代は武力だけでは勝利しない、必ずエホバに頼れとなり勝利した
だから核にどちらも頼ているのが神に頼ってはいないのである。だから宗教の対立ではなく相手が核を持ったら危険になるという恐怖がそうさせる。核がかえって戦争の抑制にもなるがそれが暴発することもあり恐怖となる
核を持っている限りいつか使われるという恐怖なのである

posted by 天華 at 13:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年06月18日

イスラムの政教一致は民主主義より悪いと言えるのか 【民主主義には政権交代が必須ー絶対的権力は絶対に腐敗する】

イスラムの政教一致は民主主義より悪いと言えるのか
【民主主義には政権交代が必須ー絶対的権力は絶対に腐敗する】


政教分離が必要だというのなら、近代国家が良きモデルであり続け、それには政教分離が不可欠であり、そのことによってイスラムにもこのようなメリットがある、ということを政教分離を果たした側が目に見える形で示す必要がある。だが、今の私たちに、これが出来るだろうか。

イスラムは何故政教分離が難しいのか − 国家と宗教(追記 〜’17.2.9)

民主主義国家が常に批判されるし決していいものではない、民主主義には様々な問題があるし今それでアメリカが分裂し内戦になるとか苦しんでいる。民主主義の問題は大衆民主主義になりただ数がものいう制度になる。ポピュリズムやファシズムにもなった。その例がナチスである。ナチスはヒットラーは正式な選挙で選ばれたのである
なぜそうなったのか?そこに大衆民主主義の問題がある。悪い方に向くとそうした極端なことが起きる

例えばトランプ大統領が一番気にしているのは世論だという、その世論に敏感であり政策でも決める。ということは民主主義は常に多数の動向で決まる。数で決まる。それが問題あるにしろ数が多ければ選挙にも勝つしその多数者の指示で政治は動く
でもその多数が正しいこととはならない、でも票を多くとった方が勝ちでありそれで物事は決められてゆく
だから極端になれば数がすべてであり多数が指示すれば何でもできるとなる怖さがある
だからトランプ大統領が一見独裁者の王のようでも世論のことを一番気にしている。何故なら次の選挙では負けるとなるからである

民主主義の弱点はこうして何かすべて多数で決めらるるから不安定になる。その動向も変わるからである。
それで一貫した長期的視野で見た政策が実行できない、国家百年の計とかはむずかしい、その時々大衆の支持を得なければならないからである。議員にしても次の選挙で当選することが最も重要なことであり長い先のことを見て政策を決めることはしないできないのである。どうしても選挙があり選挙で勝つための短期的政策になる
その例が国民に一律2万円の給付するとかの政策である。つまり目の前の選挙に勝つために政策を決める
本当は消費税をなくすとか何か長期的視野で政策を実行しようとしても目の前の選挙に勝たねばならないからそうなる

ただ民主主義は選挙だけではない制度として三権分立があり行政だけではない司法もあり権力が議員だけにすべてあるわけではない。これは独裁を抑えるものとしての制度である。民主主義は常に政権交代があり成り立つ、それは権力を持つと必ず腐敗するからである。利権がありその利権が腐敗をうむからである。

権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する アクトン

つまり既得権者とな利権を得ることで腐敗する。それが防ぐために民主主義が生まれたともなる。権力を持つことはそれだけ人間を傲慢にするし権力の乱用が起こり危険になる。それでトランプ大統領の強引な手法は権力の乱用だと批判されるのである
でも大統領でも政党でも次の選挙で勝つとは限らない、そこで権力が失うと議員でもただの人になる

でもイスラムの宗教国家になると政権交代は簡単にできない、宗教指導者が権力を持つから宗教の権威は絶対だからである
神に逆らうのか仏に逆らうのかとか宗教的権威を持ち出してくるから権力一体化した政権は変えることができなくなる。
何にしろ完璧なものはない、別にイスラムの政教一致の政権でもいい点はある。だからすべてを否定はできないことは確かである。ただ民主主義にも思想がありそれは人間を性悪説で見ている。権力を持つとその人間は生来悪だから悪いことをするとみる
だから政権交代が必要だという思想である。
政教一致の政権にはそれはできない、聖なる権威と俗なる権力が一体化するである。だからカトリックが政治化して権力と一体化した時腐敗したとなる。

要するに政治の問題は権力を持つ者の暴走とか横暴をどうして抑制するかになる。それで三権分立ができたとなる。
そもそも政治と宗教が一体化することは矛盾する。宗教的救いとこの世で権力を持つことは矛盾する
釈迦でもなぜ王宮から出て一回の乞食僧になったのかとなる。キリストでも枕するところなしとしてあり何ら権力など持っていなかったし権力を持とうともしなかったのである。それを習えば権力を持つことは否定されるのである

また政治でも聖書でみどり子の治めさせよとなるのは子供は権力を志向しないからである。権力を持つことは人間の欲望を権力で実現することだからである。老子でも治めずして治めよというとき権力を否定する。それが理想だとなる
政治家とは権力を得たいということで議員に成りたいとなる。常に権力を得て支配者になり威張りたいとか利権を得たいとなる
つまりそれだけ権力の魅力が大きすぎるからそうなる。
民主主義の思想はその権力の魅力が大きいからこそそれを抑制する制度だとなる。でもそれもうまく機能しないから問題になる
要するにこの世に魅せられて天使がサタンになったというとき権力がそれだけ大きな魅力がありそうなったのである
宗教者でも堕落してサタンになることは歴史が証明している

だから民主主義は必ず政権交代が必要である。それがなくなれば民主主義は機能しない。日本では政権交代がないから自民党一党独裁が続くから問題になる。つまり絶対的権力となり腐敗するとなる。アメリカでは必ず民主党と共和党で定期的に政権交代がありそれで権力も移行するから一応民主主義が機能しているとはなる
いずれにしろイスラム国家が民主主義国家より悪いのかとなればそこには歴史的なものもありその社会が理解できないから簡単には言えない。でも権力(政治)と宗教が一体化することは矛盾してくる
確かなことはこの俗世で理想の政治は実現しない、神の国で神自ら治めるとき実現する
いくら制度を作っても理想の政治も国も作れないということである

民主主義は多数がすべてだから結局ナチスのようにファシズムになる危険がある。
また統制がきかず暴動になり無政府状態になりアメリカでは商店の略奪になる
何か規範は規制が多数の横暴により無視される。アナキー無政府状態にもなる危険がある
それが今アメリカで起きている。だから民主主義がイスラムの宗教国家よりいいのかとなればそうは言えない
でもまたイスラム国家の政教一致国家がいいとは言えない、ただ社会には何か規範が規律が必要である
それが宗教的戒めであり十戒が生まれた。それが多数がすべてとなれば規範も規律もモラルもないアナキーになる
その矛盾がアメリカで起きている。ただ民主主義にも思想があり権力の乱用とか一党独裁が権力の腐敗を生むから
政権交代が必要でありそのために選挙があるとなる。それがないと民主主義は機能しなくなることは確かである
日本では自民党一党独裁にもなっているから問題なのである

posted by 天華 at 21:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年06月17日

イランは政教一致であるそのトップのハメイネ師の暗殺をイスラエルが企てた 【イスラエルは国家が滅亡する危機を共有しているから過激になる】

イランは政教一致であるそのトップのハメイネ師の暗殺をイスラエルが企てた
【イスラエルは国家が滅亡する危機を共有しているから過激になる】

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イラン、最悪の大誤算!イスラエルの報復で体制崩壊の危機…国民は「独裁打倒」を叫び、歴史が動いた




なぜイスラエルがイランのハメネイ氏を暗殺しようとするのか?つまり政教一致の国だからである
権力と宗教が一体化しているからである。だからその宗教的権威を破壊すればイランの体制は崩壊する
政教一致ということは権力と聖なる権威が一体化することである
だからそのトップのハメネイ師を暗殺すればその宗教的権威も喪失する。アラーの神の加護があるのに何故殺されたのかとなり民衆の支持を失うからである。
つまり政教一致国家はその権威が宗教でありまた同時に権力も持っているからである
宗教的権威は不可侵なのである。でも暗殺されればその権威を失墜する。

政教一致という時日本でも創価がそうである。仏の権威と権力が一体だから選挙は仏法の戦いで必ず勝利するとなる
そして池田大作がハメイネ師と同じようなものになっていた。生き仏ともなっっていた
だから先生のために選挙に勝つのだと二年前から選挙運動をしている。選挙のためにある組織なのである
だからそもそもこの世の権力と宗教が一体化することは合わないのである。

創価の場合でも異常なほど権力を求め御利益を求めている。そのためには権力を得ることだとして選挙活動が主体になる
そもそも宗教が心の内面の問題とするとか言うとなかなか理解されにくい。御利益がある福運があるいいことがあるとなれば
誰でもわかるから入りやすい、ともかく民主主義社会では数で決まる。そこに正義がなくてもいいのである
赤信号みんなでわたれば怖くないとなる。そこで法であれ正義であれ無視されるのである
そうして民主主義からナチスが生まれたのである、題目あげれば何でも望みがかなうとなるから誰でも即座に理解するからである

アラーの神の信仰のイスラム教でも偶像崇拝を厳しく禁止していることでは一致している。またどちらも経典の民としても共通している。だからイスラム教とユダヤ教の神がアラーの神とエホバの神が戦うのかとなればそんなことはないのである
では何が争いの原因なのか、イランがテロ組織を使いイスラエルを攻撃する、またパレスチナでガザのハマスの背後にイランが支援しているということで攻撃した、また核を持つとイスラエルが滅ぼされるという恐怖を持つ、イスラエルはユダヤ人は常に迫害されてきたから何か回りが四面楚歌のように思っている。それで生き残るためには国家を存続するためには武力で守るということになる。そういう危機意識があるから攻撃する。常に国家存亡の危機にあるという感覚である
イスラエル国家100年にも満たないのだから本当にそうなることはありえるからである。
そしてまた国家なき民族となることを恐れている

ともかくイスラム国家のことはわかりにくい、ただイスラエルに攻撃されてイラン国民で喜んでいる人達がいる。つまり反体制派はこの際ハメイネ独裁体制を倒す好機だとしている。つまり政教一致の政治に反発する人達もいるが宗教の縛りが強いのでその人達の言論は封殺される。政教一致はカトリックがヨーロッパで成ったから嫌悪する人達がいる
それでフランス革命が生まれた。そこで唱えられたの人権でも宗教のもとずく人権ではなかったのである
なぜなら人権はこの人がイスラム教だから苦しくても助けないとかキリスト教だから助けないとはならない、宗教と関係なく苦しんでいれば助けることなのである,善きサマリア人の例えがそうである。

でもまた民主主義がいいものかとなるとこれも本場のアメリカで行きずまっている。何かアメリカに王はいらないとトランプに抗議のデモになる。それだアメリカも二分されて内戦になるとかいう人もいる
民主主義は別に最善のものではなく最悪を避ける独裁を避けるシステムだともなる。でもそれも今はゆきずまっている
ロシアと中国は独裁国家であるからアメリカの欧米の民主主義国と相いれない敵対するとなる
そこに政教一致の問題がある。ではイスラエルもユダヤ教の政教一致ではないか、でも一応民主主義の体制にはなっている
ネタニヤフ首相に反対する人たちもいて発言はしている。イランではハメイネ師を攻撃することはできないからである。

この問題はイスラエルの背後にアメリカが欧米がいてイランの背後にロシアがいて中国が関わってくる
地政学的に大陸でつながっているからである。だから世界を二分するような第三次世界大戦に発展する危険がある
確かなことは政教一致が大きな問題になる。その体制を崩壊させるにはそのトップのハメイネ師を暗殺するとなる。
そこに宗教の権威と世俗の権力が一体化しているからである。
確かなことは暗殺されたりイスラエルに爆撃されると権力を失う危機になる。宗教国家は政治的妥協しないからである
聖戦ともなり天皇を現人神(あらひとかみ)として戦って日本人が3百万人死んだと似ている
そうでないとしても政教一致は矛盾して理に合わないから自壊するとなる

それにしてもイスラエルのハイファーが攻撃された、あそこの港からキプロスを回りギリシャに船で行った。
そこは地中海に出る玄関口だったとなる。イスラエルにしても理解しにくい、それが2000年前の聖書の時代に戻るのかともなるからである。ユダヤ人が世界に離散してまた2000年後に国を再興することは奇跡だともなる
ユダヤ人は神の民だから滅ぼされないともなる。そういう信仰がユダヤ人にはある。

でもイスラエルは何か本当にアメリカの一州なのかとも見る、一体不二でありイスラエルだけでは回りのイスラム国とは戦えないのである。だから聖書の時代とは違っている。聖書の時代はイスラエルは小国でも大国に頼らず予言者に従い独立していたからである。ただエホバが導いて勝利したとなっていたからである。
ただイスラエルはまた2000年前と同じくローマ帝国に敗れ国を失い離散したようにそういう危機意識を共有していることは確かである。だからどうしても過激になるおである



イランは多様な民族が存在して一つにまとめるためにシーア派のイスラム教でまとめる

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イランは国の一体感をイスラムのシーア派でまとめている。多様な民族を宗教でまとめている
それが民主主義になったら国が民族ごとに分裂すると見ている
民主主義をそういうふんい見ている国もある。それはロシアでも中国でも同じなのである
つまり国をまとめることがどれだけ難しいかである。民族が多様になると余計にそうなる
それはロシアでも中国でもそうである。どうして国を一つにとめるのかとなる
それが同じ宗教の下にまとめることになった。
それぞれの国にはそれぞれの事情がある。国の地理や歴史を知らないと理解できないとなる
その基本に地理があることは確かである。その他にもありそれぞれの国の理解はむずかしいとなる
posted by 天華 at 20:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2025年06月16日

相馬地域の水無川と紙漉きのこと【紙漉きにはきれいな水が流れる川が必須ー美濃、越前和紙は有名】


相馬地域の水無川と紙漉きのこと【紙漉きにはきれいな水が流れる川が必須ー美濃、越前和紙は有名】

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石神の水無川
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鹿島区の水無川


扇状地では、粗い堆積物(レキや砂レキなど)が上流から運ばれて来てたまります。
堆積物が粗いので、水がしみ込んでしまいます。平常の時に全部の水がしみ込んでしまえば水無川になってしまいます。

水無川は水がきれいである。南相馬市の原町区の水無川も石神の方でもきれいである。それは水が粗い堆積物(レキや砂レキ)
が運ばれてできたからそれが濾過するからだとなる。透き通ってきれいなのである
ただ川が多少でも深くなると濁る。真野川は深い所では濁っている
でも新田川は浅いから濁らない、それでこうした川は紙漉きに適していた。不純物を流すのにきれいな水が必要だったからである
それで石神で紙漉きを行っていた農家があった。それは戦前である。
原町だと高倉でも行われ押釜でも行われていた
そこにはやはりきれいな川がある。一番盛んだったのは相馬市の山上でありそこには紙漉き沢という地名が残っている
宇多川ではないのである。それで山上村は 生活が豊かに見えたと記している

ともかく水がきれいだと正に心が洗われるとなる。見ていて気持ちがいいのである。でも水無川でも豪雨になると急激に水が増水して洪水の被害がある。鹿島区の水無川では堤防があふれて家が浸水した被害があった
それで堤防を強化する工事をした
また原町区の水無川では新田川に水が激流となり流れ出して向かい側の堤防に当たり堤防が決壊したのである
だから水無川だからと油断できない、増水すると相当な被害がある

原町の水無川の場合上流に高倉ダムがありその水を放水したから高倉の水無川の岸辺の家は浸水して結構な被害があった。
あの時は細い流れでも水があふれだして下から砂が出て来た。砂があったのかと驚きでもあった。田んぼの畔の小川だったからである。土の下には砂があるのかと認識した。砂田とかればもともと砂地だったところを田にしたのである

礫(レキ)→砂利→砂→細砂→粘土 へと風化母岩が風化作用により粉砕され母材(2次鉱物)となり、更に浸食等による風化や腐植
など生物の関与により土壌ができる。

土壌の基礎知識

この変化があり土になる。もともとは砂でも土でも岩石だとなる母岩だとなる。

養蚕も盛んで紙を製する者が30戸なると山上入り山上村で約百軒あり三割が紙漉きに従事していた。それで紙漉き沢という地名がある。紙漉きには水が欠かせないからである。そういう条件を満たしているから裕福に見えたのである

進歩他の村より超越する覚ゆ。紙を製する者多し

初代相馬郡長大須賀次郎が着任早々郡内各地を巡回したときの記録である

江戸時代の山相馬市上村は他の村より進歩して栄えていた?

【江戸時代の馬頭観音の碑が語るもの】

いずれにしろ紙漉きは水がきれいな所ではないとできない、それで山上に紙漉き沢があり石神に水無川があり高倉はその上流である。その水無川でも水が絶えているのを見ない、鹿島区の水無川は水が流れるのはまれなのである
そうなると紙漉きには適していない、そして紙漉きが冬に行われるとき、冬は乾燥して雨があまりふらない。すると冬でも水がばがれないと困る。ただ石神村の水無川は常に水は流れていた。上流に高倉ダムがあっても戦前はダムがなかった
真野ダムも戦後にダムが作られていたからである。

下流には美濃和紙で知られる美濃市牧谷地区があるが、この地区で和紙の生産が盛んであった要因の1つに板取川の清流が挙げられる

私は名古屋から白川郷まで自転車で行った、その途中に板取村通ったのである。かなり奥の山である
板取という地名だけ覚えている。日本三大和紙は、美濃和紙、越前和紙、土佐和紙である。この美濃と越前は隣り合っている
越中であり名古屋の方から越前街道がある。美濃という時山の国であり水がきれいなので紙漉きに向いていたのである
五箇山村とかは越前にあり相馬藩に天明の飢饉の時移民してきた所である。その数も多いのである。相馬藩で人がいなくなり欠け地が増大した、その土地を利用できるということで入って開拓した。それで相馬藩では埋め合わせができた
だから相馬地域での墓地を見ると真宗の南無阿弥陀仏の墓が必ずある
ではここから紙漉きの技術が伝えられたのか不明である。山上は江戸時代に紙漉きをしていても石神、高倉、押釜は戦前にしていたのであり江戸時代ではない、戦前でも紙漉きはしていたのである

それから越中などの移民が越前和紙を作っていた場所でありそれは有名であった。それで江戸時代に技術が伝えられたのか明確ではない、調べられない、紙漉きが盛んだったのは戦前だったからである。確かなことは山上の紙漉きは一番相馬藩では古い
何故なら紙漉き沢と地名として残っているからである。明治時代に回った大須賀次郎が一番紙漉きが盛んだったと記録している
それは江戸時代から続いていたからである。おそらく原町区の押釜とか石神、高倉の紙漉きは戦前に行われていた。
山上は江戸時代から行われていて一番古いとなる

山上ではかなり馬の運送があった。なぜなら馬頭観音の碑がある。それは江戸時代の年号が記されている
意外と馬頭観音碑は多いが江戸時代のを見たことがないのである。一番多いのは大正とか昭和かもしれない
その時代に馬の運送が多くなった。だから近くに馬車屋があった。馬車が荷物を運んでいたのである
大正以降その荷物を運ぶことが増えたのである。人口も増えた。
だから経済活動も活発になった運送料も増えたとなる、それで戦後野馬追でも農耕馬とか運搬に使う馬が出ていた
それは競走馬と違って脚が太いもので早くは走れない馬だった






2025年06月15日

夏の日に南相馬市の原町区の郊外を回る【立葵、風涼し、夏野、若竹 菖蒲】

夏の日に南相馬市の原町区の郊外を回る【立葵、風涼し、夏野、若竹 菖蒲】



立葵真っすぐな道彼方へと

風涼し知らざる道を進み行く

我が決める進路や進む風涼し

原町の郊外広く夏野かな

清流に日に日に伸びぬ竹を見る

若竹に風のそよぎてしなるかな

紫のクリスマスローズ色濃くもその女(ヒト)来るを咲きて待つかな

近くなれ知る人死にぬその庭に岩は残りて菖蒲咲きあり


原町の郊外は広い、でもやはり耕作放棄地になっている所がある。そこは草茫々となっている
ただそれが広々とした夏野ともなる。風が涼しくて気持ちよかった。
原町であれ鹿島であれ相馬市であれ新地であれ感じは違っている、海側は似ている面はある
でも飯館村とかなると山に囲まれた村だから違っている。標高でも400メートル違うと温度も違ってくる

今日は曇った後晴れたから気持ちよかった、それほど熱くもなかった、水無川に水が流れていてそこの竹を切ったので
竹が無くなったがまたすぐに竹が生えて来た。そして日に日に伸びてゆく、それが竹の場合早いのである
近くに学校もある、子供も日に日に成長してゆく、でも子供はあまり見かけない。
原町でも小さな川沿いに自転車で走れる舗装した道路を作ったのは良かった。気持ちよく走れるからだ。

紫のクリスマスローズが咲いて待っている、その女性は糖尿病であり歩くこともままならない、目も悪いとか辛い
何か70以上になるととにかく病人が多くなる、これも大問題である。それで若い人たちょ社会保険費用が増大する
でもこれからますます増大する、なぜなら氷河期世代が控えているからである。それもすぐに60歳以上に十年くらいでなる
その負担が続くのである

近くの人が死んだが玄関に大きな岩がありそこに菖蒲が咲いていた
妻はかなり早い時期に死んでいた。その人は妻を愛していた、だから供養を欠かさなかった
その妻が菖蒲ともなるかもしれない、ともかくどうしても自転車で行くと空家が目に付くのである
それが持ったないと見るのである。






アメリカの移民の暴動を理解するにはメキシコを理解せねばならない 【南米が植民地化されて停滞したのはなぜか】


アメリカの移民の暴動を理解するにはメキシコを理解せねばならない
【南米が植民地化されて停滞したのはなぜか】

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人口 約1億2,601万人:日本の人口は約1億2,397万人(2024年3月1日:総務省統計局)で、ほとんど変わりません。 ・国土 約196万平方キロメートル(日本の約5倍)ほぼ同じ人口が日本の5倍の面積に住んでいる国といえます。

地理を知るというとき、どうしても大きさがわからない、アメリカにしてもちてつもなく広い、その中には広大な砂漠もある
グランドキャニオンとかなればそこが地球なのか別な惑星に来た感じになる。
地球を知ることは不可能になる。まず地図を見ても地理を知ることは不可能である
メキシコはアメリカに付随した小さな国と錯覚する。でも人口は日本と同じくらいであり国土面積は日本の五倍なのである

だからアメリカの暴動を理解するときメキシコを理解しないと理解できない、メキシコの国旗を振っていたりしているからである
移民を排斥するという時でもメキシコ人が中心だからである。
でもメキシコという国は何か歴史でもなじみがない、古代文明があったとしてもそれが世界史的に何なのか理解しにくい
エジプト文明だとその歴史がヨーロッパの歴史にも影響したとか関連してくるものがある。アステカとかマヤとかインカ文明は世界史では孤立した文明になる。

日本が西洋文明の挑戦を受けた時なぜそれに応戦できたのか不思議になる。何故なら江戸時代を見ればその差が歴然としていたからである。それはトインビーの言うように西欧文明に対応できる文明国であり南米の古代文明とは違っていた
だからアステカでもマヤでもインカでも簡単に征服されたて植民地化された。

封建制があったのはヨーロッパと日本だけであることでもわかる。ヨーロッパでは城が多いが日本でも城が多いからである
そこにヨーロッパと日本の共通性がある。ということは近代化西欧化することができた社会があったともなる
封建制とはマルクスの言うアジア的専制国家とは違っていた。今でもロシアでも中国でも中東でもアジア的専制国家である
大陸国家はそうなりやすいのである。日本は天皇が存在してもその天皇は専制国家の強大な権力を持つ王とは違っていた。
何ら権力を持たないまさに象徴天皇だったのである。
つまり明治維新がなぜ日本でできたのかそれは江戸時代の封建制がありそれが西欧化近代化できた原因だったとなる
それは南米のメキシコでも古代文明があったとしても西欧化できない近代化できず植民地化されたのとは違っていた

ともかく陸続きだということは常にその隣国の影響をもろに受ける。だからメキシコから移民が入るのを止められない
それで中国でも遊牧民のモンゴルが侵入してくるので万里の長城が作られた。アメリカでもメキシコ人が侵入してくるからトランプが壁を作った。でも大陸は広いからどうしても侵入してくる
そしてすでにメキシコ人でもアメリカ社会の中で定着している。そお移民を簡単に排斥できなくなっている。社会の底辺でもっ社会を支えて欠かせないものとなっている。だからアメリカでも移民に対して意見が二つに分かれる
それが内乱の危機にもなっている

世界を理解するには地理であり歴史であり地歴になる。空間軸と時間軸で理解するということである。
どちらにしてもむずかしいとなる。だから地理でも地図を見てもわからない、それで常に錯覚して誤解する
メキシコはアメリカに付随する小さな国だと見ていたのである。こういうことは常にある。
メキシコの森林面積も広くそこにギャングが隠れ場として逃げるというのもそうである。それはロビンフットと同じだとなる
熱帯のジャングルとなればバナナとか食料もあるのかとなるからである

メキシコの多湿のジャングルは、中央アメリカ全土で最も広大な熱帯雨林のひとつで、その主な指数はラカンドンジャングルです。このジャングルは、ユカタン半島のチアパスからグアテマラ北部まで、190万ヘクタールに及びます。.

それはそれ自身の中に動植物の6つの主要な埋蔵量を持っています。この保護区には331,000ヘクタールのジャングルがあり、大陸で最大のものです。これだけで500種類以上の木があります.

湿ったジャングルの特徴、植生、動植物および州

これも想像できないものである。500種類の木があるということは何なのだとなる、そんなに木の種類があるのかとなる
そこからして熱帯雨林のジャングルが理解できない、沖縄だ西表島(いりおもて)とかでジャングルに夾竹桃が自生している
この花は街路樹になってどこでも見れる。でももともと熱帯の森に自生していたのである。

森という時、ウクライナとかロシアにも広大な森がある、ヨーロッパでも広大な森に覆われていたのである
その森を知らないとまた歴史でも理解できない、森が覆っているとなかなか道もないし交通が阻まれる
でもヨーロッパとか大陸では大きな川があり道となり交流があり商業もありえたとなる
いずれにしろメキシコには行っていないからわからない、でもメキシコを理解しないと今アメリカで起きている暴動は理解できないとなる。その基本となる地理が理解できないことが最大の問題なのである

ただ日本でも韓国が日本海では気に食わない、韓国から見れば面白くない、その海は韓国からみればただ東海になる。
それはメキシコ湾がアメリカ湾にするべきだというアメリカの主張とも似ている。どうしても隣国は争いやすいのである
つまり移民の問題はアメリカとメキシコの国の問題にもなる。それは大陸で連なる地理でありその影響力が大きいからである



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2025年06月14日

日本人劣化幼稚化の原因ー現代文明人が共通して劣化したのではないか 【ルネサンスは小都市で生まれた】

日本人劣化幼稚化の原因ー現代文明人が共通して劣化したのではないか
【ルネサンスは小都市で生まれた】

日本人が劣化したのはなぜなのか、日本人が幼稚化しているのはなぜなのか、その原因は何なのか?
それを考えるときなぜ明治時代に偉大な人物があれほど輩出したのかとなる
大学でも何でも創始者になり日本を牽引した。明治時代に漢詩が一番興隆したのもやはり江戸時代の遺産があり教育が漢文でされていたからである。漢詩の特徴は志(こころざし)を述べるということである
つまり明治時代の人の教養は漢籍によって培われていたとなる。
また武士道があるときそれもモラルとして日頃の生活から体得していた、それで武士道キリスト教を提唱した内村鑑三が生まれた
何かそれは日々の生活で培われたものがあり知識だけの人達ではなかった。
人間はどうあるべきなのかとかその日々の生活で環境で自覚していたとなる。

現代の指導者は膨大な知識を学んでも本質的にモラルとか何か人間として肝心なものが身に着かないのである。
いくら知識をつぎ込んでも何かそれが弁護士ならその知識を利用してだまして金をもうけるとかなる
そういうことが余りにも多いのである。
問題があるにしろ江戸時代の武士は武士道を知識としてではなく体得していたとなる
それができたのはそういう基盤となる社会があったからだとなる。そもそも教育は知識だけではできない。
それを育む社会があってできる。それは一人の人がいくら優秀でもできないのである

だから何か戦前を生きた人達と戦後を生きた人達は違っていた、戦後の高度成長を築いたのは誤解しているのは団塊の世代の人達ではない、戦争が終わり焼け野原になり戦争を経験した人達が戦後の繁栄を作ったのである
それは団塊の世代の親達だったのである。そこを誤解するのである。団塊の世代は何か常に批判されるが戦後の復興は団塊の世代の上の世代が作ったのである。だからその時の人達は団塊の世代とは別だった。戦前の教育を受け戦争を実際に経験した人達だったとなる。

でも戦争に負けて戦前は鬼畜米英で戦った人たちはアメリカに追随するものとなった。極端な変節になった。
戦前までは何か日本の伝統的なものは受け継がれていた。その良し悪しは別として戦前の人間と戦後に生きる人間は違っていた
だから戦後10年か20年はそういう人地が指導者だった。団塊の世代が指導者ではないのである
団塊の世代が指導者になるのはその後なのである。高度成長時代を築いたのは戦前に生まれた人達だったのである
アメリカに負けても経済で復興してアメリカに勝つということになった。
それで日本の自信を誇りを取り戻そうとしたのである。でもその肝心な経済が成長しない失われた30年になった

そして日本の誇りも失墜した。人物も幼稚化したとか全体的に劣化したのである
ただそれは日本だけではない世界的にそうかもしれない、何か世界でも均一化しているからである
大都市をみれば同じようなっている。高層ビルが立ち並びその大都会で人間は大衆化群衆化しているのは同じだからである
つまりそこにはもはや肝心な人間はいないともなる。

現実に人間は数字化されて統計化されて人はロボットなのかともなる。そもそも一千万の東京でもそれが何なのかわかる人がいるのかとなる。それを見れば眩暈する。そこにはもはや本来の人間は存在しえないとなる
何か人間がどうのこうのというより本来の人間が存在しなくなったとなる
そこで力を持たものは大衆である。その大衆には何か高貴なものを目指すものがない、すべて経済のことしか結局金のことしか眼中にないとなる。その大衆に迎合したのがマスコミだとなる。パンとサーカスを提供するものだったとなる
ただこの大衆はナチスのようにもなるから怖い、カルト教団もそれと似たものである。
そこには何ら高貴なものを真善美を求めるものがないからである。御利益を追求するとき経済活動であり政治活動になる
ただ数を集めて社会をナチスのようにファッシズムにする。そこに高貴なもの真善美は求めない、大衆が求めるのはパンとサーカスだからである。

つまり人物がどうのこうのといってもその基盤となる社会がない、となれば人間形成などできない、それでそうした高貴なものを真善美を求めるものは孤立化してアウトサイダーにならざるをえないとなる
大衆文明社会から分離して大自然とアイデンティティ化するとかして本来の人間回復を求める
ただそれは孤立化するから目だたないとなる。マスコミでも取り上げないからである
ただ逆にそのアウトサイダーに真善美が宿る、そういう社会が失われたものがその反動として真善美がその孤立した一人の人間に宿るとなる。なぜなら逆に神であれ自然であれそういう人を求めているからそうなる。それは大衆ではない、一人の単独者に失われた真善美が宿るとなる

特に自然の美はやはり変わりなくある、だから教会でも大聖堂でも宗教がそこで維持されるわけでもない、本当の美は大自然にある、そこが本当の神殿だからである、そこでこそ神を讃え礼拝すべきだとなる。人間回復は依然として人間によって汚されない大自然に触れてあり得る。霊感の源はそこにある。大自然に共鳴してこそ人間回復はありえる
そのためにはカオスの雑音の文明都市から離れねばならない、どうしても現代は人間回復するためにはアウトサイダーになってしまうのである。

いずれにしろあらゆる分野で人間が劣化したという時、現代文明社会からは人物は生まれようがないともなる
余りにも複雑化してそもそも人間ではあることはできない、知識も膨大でありとてもついていけない、知識偏重はかえって人間を歪めるとまでなる。そんな膨大な知識を消化できないからである。消化不良となってしまうからである
いずれにしろ日本人が劣化した幼稚化したというときそれは世界的に共通かもしれない、文明の世界の巨大都市は似ているからである。古代文明だったらそれぞれが違ったものになっていた。でも現代の文明都市はビジネス中心の都会であり共通している
景観も高層ビルが立ち並び似ているからである。それがもし古代的なアーチの門とか何か違っていたらそこから生まれる人間も育まれる人間も違ったものとなる。ルネサンスのような世界が生まれるとなる。

ともかく人間が何か知識だけではない、知識にしてもそれがその地域とかと結びついてものになる。だからルネサンスとかはフィレンツという5万くらいの小都市で生まれた。現代の一千万とかの巨大都市になるとそこでアイデンティティ化することは不可能である。それで明治時代という時依然として江戸時代の連続性があり藩校とかありそういうものが受け継がれていた
東京にしても最初は新潟県より人口が少なかった。百万とかから出発したからである。それでも大きく感じていたのである
今は一千万となれば十倍でありそこで人間の精神がアイデンティティ化することは不可能だとなる。

だからもともと天才は大都会から生まれない、5万くらいの小都市から生まれているのである
そのくらいがアイデンティティ化できる規模だとなる。ただ村くらいでは無理である。そこには何か職人でも商人でも知的な刺激を受けるものがないからである。
それで啄木でも宮沢賢治でも盛岡という都市があり刺激されたのである。近くにでもそうした都市があれば才能も開発されるとなる。ただ現代は別にアマゾンでボタン押せば本でも何でも買える。またyoutubeでも知識は得られる。
だから地方でも独学できる環境が備わったとなる。むしろ大都会だと東京とかなると自然に接することができないからそこから文化は生まれないとなる。culture-cultivate(耕す)ものがないからである。

2025年06月13日

人と付き合うことはその人の問題と付き合うこと 【問題が問題を産み解決しないーこの世から災いは消えることはない】

人と付き合うことはその人の問題と付き合うこと
【問題が問題を産み解決しないーこの世から災いは消えることはない】

近くのごみ箱に燃えないゴミを入れるようとした。それは次の日でありその時隣の人が血相を変えて私に対して怒った。その人と何か揉めることはなかった。だから、驚いたのである。
別に今日は燃えないゴミを捨てる日ではないですよと言えばいいだけのことである。
ただ、その人は悪い人ではないと思う。何か妻をて介護していて家の中で揉め事があり。それで突然その不満が他人に向けられたのかもしれない。犯罪でもそういうことがあり。むしゃくしゃしてる時他人にその不満をぶつけることがある。それは。誰にでもある。自分自身も親の2人の介護で様々な問題を抱えてそうなったからである。

私がそうした問題を抱える時問題を持った人たちが私のところに来たのである。 ある人はは事業に失敗して苦しんでいたから。なんとか助けてくれと。自分のところに来た。自分はそれどころではなかったが自分自身が苦しんでいるのだからそんなことを考えられなかった。またある人も金に窮していて実際泥棒であり大金を盗まれた。
その後に来た人も金に苦しんでいた。その人には今でも援助している。

これでわかったことは人間と付き合うことはその人の持っている問題と付き合うことである。人間はなにかしら問題を抱えている。問題を抱えない人はいないと思う。ノープロブレムの人はいない。だから、人と付き合うということはその人の持っている。問題と付き合うということになる。また、人の醜さとも接することになる。
だから私はもともと陰の性格であり人付き合いが苦手だった。そして、引きこもりになったのである。そのときは別にそうなっても何ら問題が起きなかった。だから、その30年くらいは本当に幸福だったとなる。何か問題になることがなかったからである。
ただ、家族が争っているということはあった。それでも、家族は私一人に尽くしてくれたのである。だから、特別な環境で私は恵まれて幸福だったのである。
それが一転して家族が病気になり介護になり地獄と化したのである。それも楽した結果のカルマだったとなる。

ともかく、人間と付き合うということは相手の問題と付き合うともなる。金がなければ何とかしてくれと頼まれ要求される。
それが一番多いだろう。ただ、そのほかにもいろいろな問題が人間にはある。数限りなくある。その問題に。いちいち対処していたら身が持たない。なぜカルト宗教団体があれほど数が増えたのかというと人間の持っているさまざまな問題がそこに持ち込まれるからである。それは共産党でも同じである。それは、貧困の問題が一番多いだろう。

その他人間は何かしら問題を抱えている。だからこそ、離婚が1/3になりその他さまざまな問題が家族でも起きる。
もしかしたら、問題のない家族はないかもしれない。ただ外から見ているとわからないのである。
でも。今回のことでも自分とは関係ないと思っても隣だからなぜ曜日を間違えてゴミを投げようとしただけなのに。血相変えて怒られたのかということはやはりその人が何か問題を家の中で抱えているからだとみた。その不満が、私にぶつけられたのである。
何かその時、外に出たら救急車が走ってきたそれは、その家に行くのかとさえ思った。毎日救急車は出動するがそれも必ず、何らか問題が病気があり事故がありとかでそうなる。
私は、家族が病気になったとき何度も救急車を呼んだからである。私自身が病気になっていたからである。家族の介護の時。 2回も入院しているからである。その時誰も頼る人もいなかったのである。それもカルマだったとなる。

人間とは、とにかく問題が常に起きてくる。その問題の解決が強いられる。この辺で起きた原発事故でもそうである。それは未だに解決していない。つまり、機械は便利なものでも必ず故障があったり危険なのである。車は便利なものでも必ず交通事故がある。つまり、この世から災いは消えることはない。常に新しい予想しない災いが生まれてくるのである。原発事故なら、プルトニウムの毒が二年2万年も消えないとか、信じられないものとなった。いくら科学技術が発達しても人間から災いなくなることはない。技(わざ)は災いなのである。それは神話でも聖書でも人間にもたらされた災いを記したものだとなる
プロメテウスがゼウスから火を盗んで過酷な罰を受けたというのもそうである。原発も同じなのである。その災いは甚大なものである。

エデンの園の中心には「生命の樹」と「善悪の知識の木(善悪を知る木)」が生えており、神は「善悪の知識の木」から実をとって食べてはならない、とアダムに言った。

つまりこのことでも災いは産み出されてそれが人間のカルマとして課されてのである。だから人間から災いは決してなくならない、いくら人間はなくならないいくら科学技術が発達してもなくならない。その根本原因を取り除くことはできない。
この世のさまざまな問題を解決することはできない。その力が智慧が人間には無いからである。
永遠に問題が問題を生む世界だとなる
だから人と付き合う時その人の問題と付き合う、一つの問題が来たともみる。
しれで便りがないのは良い便りとなる。何か便りがあることは悪い便りだともなる。

時事問題の深層という時人間個々人にも問題があり社会にも問題がありそれは解決できない。一つの問題が解決してもまた新しい問題が生まれる。

つまり人間から問題がなくなることはない!

それは歴史でもそうである。常に時代時代の問題がありその問題は消えることはないのである。
それは、カルマとして永遠に消えないともなる。ただし、自然界は神の知恵によって収められているから問題がこんなに起きないのである。

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる

つくずくそう思う。鳥でも動物は何を食べて生きているのかと見る。そこに不満は聞こえないのである
人間は絶えざる不満であり嘆きでありその声は絶えることがないからである。それは例え豊かになっても金持ちになっても人間から問題が消えることないのである。苦しみは消えることがないのである

要するに人間の問題は死なないと解決しないともなる。死んでやっと問題が解決して安らいでいるとなる
人間嫌いになる時どうしてもその人のかかえている問題と付き合うことになる。また醜さとも接することになる
そもそもこの世にある限り問題をかかえ問題からまた苦しみから逃れられないのである
つまり人間には業(カルマ)がありそれが解消しないのである。罪が解消しないのである。
だからそれは共産主義でも社会を変えても解決しない、カルト教団でも解決しない、膨大な人間のカルマをかかえて解決しない、その教団自体がカルマを雪だる式に巨大にふくらんでゆく。それで自壊して自滅するとなる


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2025年06月11日

消失した本来の宗教―大自然で心を浄化するー上野霄里(しょうり)氏の言葉


消失した本来の宗教―大自然で心を浄化するー上野霄里(しょうり)氏の言葉

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山(自然)から発するもの

山から発するものは
大いなる沈着鎮静である
山から発するものは
内なる充溢自信である
山は大地に不動にして乱れず
頂は天に向かい聳え
天の声を授受する
山は不変にして力強く持久する
人は汲汲として追われる生
それも実りあるとは限らじ

人から発するものは
この地を汚して大気も汚す
大いなる山と山は響き合う
嘆きにあらじ不平を言わじ
山から発するものは
堂々た自信に満ちた偉観
人を寄せつけぬ厳格な姿
万年億年の不変不動の姿
その肌を太陽の光が焼き
一転して氷雪に閉ざしぬ
轟々と風は唸り山は沈黙する
ひたすら沈黙して時を刻む
人の命は短く瞬時にも終わる

大自然から発するもの知れ
太陽は絶え間なく光を発する発光体
無数の星は光を発する
花々は神のイデアを美を発する
その多様な花々は調和する
神のイデアはそこに具現する
人間から発するものは何か
絶えざる不平不満を吐き出す
その解決方法はなし
大自然に没入して沈黙せよ
そこにエクスタシーがある

神の持つ宝庫は一つにあらじ
あまたの宝庫がそこにある
そこから無償に与えられる
人間に尽きることなく与えられる
まさしく神の業は奇跡なり
それを得るにはむしろ見る目が必要
その心は透明に澄まねばならぬ
俗を離れ孤高なるべし
無なる器となり神はそこに与える

大自然に深く没入せよ!
その与えられるものは無償なり
神は輝く発光体にしてそのエネルギーは尽きぬ
『光あれ』と天地創造の業は成りぬ
神の業は荘厳なる真善美の荘厳なる神殿を作る
そこに人は争わず手を結ぶ合う
熱い愛の心と信頼で結び合う
ただ人は心の清く大自然に没入せよ
そこで神の業をこぞりて讃える
そのために人が作られしを知るべし



●神は最も善きものを無償で与える

人間はどうあるべきかとなると語られることは経済のことであり人々が求めるのは金である
そのためにこの世があり人があるとなる、毎日がまず食うためであり生活することである
神が無償で与えると言うが人は日々労苦してその糧を得る
無償で与えられるものはない、金なしで与えられないからすべてが金になる
でも不思議なのはこの世の良きものは精神から見れば神は無償で与えているのである
別に花の美を見るにしても必ずしも花を花屋から買わなくても見ることができる

野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

野の花は別に買わなくても見れるし本来の花の美は無償で見れる野の花にある。また別に山でも景観でも無償で見れる
海を見たからと金を払いとか山を見たから金を払いとはならない、この世の最も良きものは無償だともなる。
つまりあくせくして苦労して与えらるものではないのである
ただ真善美を見るとき必要なことは心が清いことなのである。意外とこのことが無視されている

金を得るためなら相手を騙すし金になること利益が第一となる。それがこの世だとなる
それがカルト宗教団体でも御利益第一になる。毎日御利益を得るために集団で狂気のように祈り政治活動して権力を得ることしか眼中にない、そこには真善美など関係ない世界である。
何か組織集団化するとそうした宗教が追求したものが全くこの世の栄華を欲望を満たすものとして利用されたとなる

だから本来の宗教性はゼロである。宗教が山を聖として修行する、だから天台宗とは山岳宗教であり比叡山で修行したとなる
そこでは親鸞も日蓮も修行していたのである。つまり山の聖なる気に触れて修行したとなる
モーゼが十戒を授かったのもシナイ山だった。ただそこには岩山であり草木が無のむき出しの岩山である
それでも山を聖としてありまた砂漠でも不純物がない砂だけにしてもそこが一なる神が現れた場となった

●職業は業であり心を汚す、心を浄化する場の喪失

ともかく今宗教は全く世俗化して世俗より世俗的な場である。あらゆる欲望は肯定される。むしろどぎつい欲望を持てと指導しているから異常である。創価でもカルト教団が東京とか大都会から生まれたこと自体宗教とは縁のないものとして最初から生まれたのである。すべてが経済であり政治活動でありそれが世俗よりも拍車をかけて追及する場である
では何が本来の宗教なのかとなると大自然が聖なるものでありその大自然によって浄化されるから山で修行したのである

つまり今やそういう場が喪失した。だからなぜ禅宗がひたすら座禅を組んで沈黙するのかそれは日常の生活に持ち込めば異常となる。ビジネスでも常に口八丁手八丁で人を騙してでも金を得る、何か金融業はそういうことが多い
そもそもなぜ出家とかしたのか、それは職業というのがもともと人間の業でありいいものと見なかったのである
だから職業にたずさわらない出家して山に籠るとなったのである。ただそのことで世間でもそうした僧を認めていたことである
それはその人達が世間から離れて心を浄化することに意義を認めていたということである

それが現代では大衆宗教になった時そうした本来求めていたものが世俗が求めるものを倍加して求める
御利益を狂気のように求めて集団で祈る。それに従わない者は地獄に落ちると罰当たるとか言っているのだから信じられないとなる。だからこ現代の宗教はカルトなのである。大衆化して俗化したカルトである
そこには宗教が追求した真善美はない、そうした肝心なものがそこから生まれようがないのである
それは現代の文明の大都市からも生まれない、それは大自然に求めるべきものであり今でもその大自然は一億年前と同じように存在している。現代の宗教を標榜する場がもはやそこに本来の宗教は皆無である。

だから宗教を求めるとき大自然で心を浄化すべきだとなる。それは大都会ではできない、カルトととなり異常化する
だから奇妙なのは引きこもりが増えたというときその人達は昔のように山で修行する場を与えればいいともなる
何故なのかこの世で働くことは必ずしも心にとっていいものではない、心を汚すのである
何か金融業など見ると人を騙す職業なのかとも見る。それでそいう場で働いた人の人格は歪んでいる
それは怖いことでもある。老人になってそれが顔にも否応なく現れる。何かやましいことをしてきたことが自ずと刻印され顔に現れる。何か老人を見ていると世間的には成功しても金持ちになっても人格的には歪んでしまった人が多いかもしれない
そもそも現実社会で人格形成とか関係ない、むしろ金を得るには邪魔だとなる

●社会は人格形成など考慮しない、金儲けだけになる

職業でも人格形成するのはある。何か理系の人は堅実だというとき文系は何か人を騙す職業が多い
それは職人気質とかあり昔の職人は堅実であり人をだますようなことをしないで人格形成したとなる
農民でもそうである、そいう人達が社会の大部分を8割とか占めていた時代はかえって健全な社会だったのかとなる
トランプ大統領が株で儲ける人達を敵視して知識人を嫌うのはアメリカでもホイットマンの時代は農民とか職人とかが働く人達でありそういう人達を賛美していたのである。

ともかく心を浄化するとかなど今のカルト宗教にはない、そんなことを言っていたら人が集まらないからである
心を浄化するために山に籠り沈黙しろなどと言えば誰もついてこないからである
御利益があると執拗に言えば大衆はついてくるとなる
それも異常なことである。だからカルト宗教は本来の宗教とは何の関係もないのである
では心を浄めるというときどうするのかとなるとそういう場がなくなったのだから大自然に求めるべきだということは天台宗が山岳宗教だったようにそこに心を浄める場がある。それは変わりないのである。
自然は億年であり無傷でそのまま変わらずにある、人間の社会は変わりすぎたのである
とても一千万の東京とか大都会が何なのか理解することは不可能である
そこで精神を正常に保つことは不可能だとなるからカルト宗教が生まれたのである、それはナチスに似たものとなるから怖いものともなる。

なぜ現代の偉人がまともな人がアウトサイダー化したのかそれはカオス文明社会で本来の人間たらんとしてそうなっただけである。現代文明のカオスに非人間化に耐えられないとなりもともと優れた天才とかはそうなったのである
それは社会から見れば異常な人であり認められない、でもその独立不羈の個人が正常な人だったとなる
宗教団体であれ組織化集団化すると個々人は認められないのである。社会が認めるのはそうして集団化した団体であり個々人は認めないのである。そこではまとまった票が得られるとか金が集められるとなる。個人は百万票で当選するとなればそんなもの何の力にもならないとなるからである。

なぜ現代で世界でも引きこもりが多いのか、それはやはり心浄めるというといとき社会は人格形成とかを考慮しないからナイーブな人が適合できないからかもしれない、私自身そうだった、社会に適合できないから引きこもりになった。
だから私のふさわしい場は山で沈黙業する場だっとなる

口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。
19 というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、
20 これらのものが人を汚すのである

こうならないことは世間の中で仕事するとなるとむずかしい。第一沈黙していること自体異常な人と見られる
でも大自然と同化することは山が千年沈黙しているように沈黙せねばならないのである
とにかく芸術にしても詩を作るにしても大自然と合一するとき沈黙せねばならない、それが宗教の修行と同じだったのである

●上野霄里(しょうり)氏の言葉

詩は社会と断絶した隠者的な風格を備えていなければならない。

なぜ彼があれほど集団組織を嫌ったのだろうか、それは集団の中で個が抹殺される、集団化することは黒だったら黒一色にすることである。赤だったら赤一色にする。カルト宗教団体ではそうなる。まるで企業戦士のようになる。揃いの背広を着て同じ色になる。それはナチスと似ているのである。
それに反してあれほど苛烈に組織集団を断罪したことには驚嘆するしこれは何なのかとなる
その時一人の個人のみがクローズアップされる。そんな人間いたのかという驚きである

その堂々たる直ぐなるもの
力に充ちて威厳あり
その慧眼は神的でもある
天才のみがもつ生来のもの
一つの主張が常に貫かれている
内部が火のように熱く燃えている
直ぐなるものとして貫かれる
厳格なる巌のごとく
原生人間は本来の人間を蘇らす
その足は大地を踏みしめ
確かな足跡を大地に刻印する

組織集団を断罪してその個なるものが強力に主張される。だから稀有なる人だとなる。何故ならみんな組織の集団の一員となるべき必死になっているからである。ただ天才のことは平凡な人は理解できない、そして偶像崇拝になる
それは天才と凡人の差が大きいからである。確かなことは組織集団は雲散霧消しても強力な個人は残る
その足跡は明確なのである。

2025年06月10日

観光は水ものー北海道の有名な観光地はインバウンドでも人口減少 【外国人によって破壊される日常の生活】

観光は水ものー北海道の有名な観光地はインバウンドでも人口減少
【外国人によって破壊される日常の生活】

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ラベンダーの聖地で何がー富良野の変化

私はずっと航空業界にいて、その間に湾岸戦争だとか、911だとかいろいろありましたから身をもって体験しているんですけど、観光って本当に水もので、災害、天変地異、政変、テロなど、何かあったらピタッと観光客は来なくなります。

観光は水ものです。
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観光を重点にして市町村を作ることに失敗する。それは北海道でニセコは有名だけど富良野市でも小樽市でも函館でも有名な所が
かえって人口が減少している。観光だけでは活性化維持できない、でも土地でとれた農産物をブランド化した所は生き残る
また十勝とか酪農農業地帯は観光ではなく生き残る。つまり一見観光がいいようで観光だけでは人口減少を食い止められない
ではなぜそうなるのか?それは観光は水ものであり何かの影響でぱったりと来なくなる
コロナでもそうだった。何か異変があると来なくなる。だから観光を中心にすると失敗するとyouyubeで放送している

パブルの影響を最も受けたのは温泉街であり廃墟化した。それも会社の団体旅行が中心でホテルはそうした人のために作られた
そこで宴会でも行われた。何か小規模な卸店でも小売店とは客を旅行に連れて行っていた。
ということはどれだけ団体旅行があったかということである。私の母は大正生まれで働きずめの人生だった
それで旅行もしなかった。でも豆腐の卸す所でも旅行に招待したのである、近くの呉服店でも着物を買う客を招待したのである
それは大きな会社だけではない、こうした本当に小さなな卸業でも客を団体旅行に連れて行ったのである
だから温泉街は活況になりホテルが建った。それが廃墟化したのである
今は家族や個人が主体になり会社など団体旅行は激減した。

だから今度は円安とかで外国人観光客で活況になるとしてもまたリゾート地としてホテルでも増えてもやはり日本のバブル崩壊のようになることがありえる。つまり観光は水ものだからである。何か異変があると一番影響を受けやすいのである
そして意外なのは今北海道でも外国人で賑わっている所でも人口が減っている、街自体が寂れている
それはなぜなのか、観光だけではそもそも市町村が成り立たない、富良野でも観光だけに重点を置いて街作りをしても人口が減っている、街が寂れている。何か定期的に継続しないと市町村は維持しにくいとなる

それにしても廃墟化する温泉街とか空家が900万軒になるとか北海道でも札幌を除いて衰退している。旅した所が衰退している
函館でも小樽でも観光地であり外からテレビだけから見ているそうは見えないのである
通りでも外国人で埋め尽くされているのを見るからである。でも裏の飲み屋とかは店が閉まり閑散としている
他の店でも閉じている。そして人口が減少している。それも5000人減るとか減少数が大きいのである
でもその人達はどこに行ったのかとなる。札幌に集中するのはそのためなのかとなる
地方でも若者が流出するのは東京に集中する。でも現実はそこで豊かな暮らしができるわけでもないのである

youtubeとかプログではそうした裏の事情が放送される。飲み屋街などマスコミでは映さないからである
だからテレビだけを見ていると誤解するのである。テレビは常に一部分だけが映されるもので全体は映されないからである
とにかくyoutubeを見ていると日本全体で街でも衰退していると実感する。
現代は世界的にも観光の時代である。世界から観光客が押しかける。それで観光公害となる。地元の人の日常の生活が乱される
そもそも観光客が威張り迎える人は召使のようになる。何かこれはおかしいのである。そこに住んで生活する人が主体であり
その生活が乱されるとなると主人が観光客であり金を出せば何でも許されるとなる
つまりここでも金だけが力となり迎える方にしても歓迎しなくても金のために仕方がないとなる

ただ江戸時代になると湯治とかありそれは観光とは違う、農民の労をねぎらうものとして温泉があった。
それで芭蕉はそういう農民を見て俳句を作った
 (語られぬ湯殿にぬらす袂かな)というのは農民の日頃の苦労がありそれは語られないものであり同情したとなる
ただこの語られぬ苦労というのはあらゆる職業である。その苦労がわからないのである
今の温泉とか外国人が利用するときは日本人でも何か娯楽である、ただ息抜き癒しの面は今でもある
ともかくすべてが資本主義ではグローバル化して金さえ払えばいい、なんでも許されるとなる
それで金を持っていれば何でも買えるとなり横暴になる。
本当はよその土地に行ったらその土地の人を気ずかい見させてもらいますとなるのが礼儀ともなる
金さえはらえばむしろ見てやるとなるのも異常になる

北海道でも農業が酪農が中心にしている所は観光を主体にした所より衰退していないのである。
なにかすべて金があれば金を払えば許されるというのが問題になる。資本主義社会はそれが極端化したとなる
それもグローバル化でも拡散された。日本でも中国人に土地が買われて水でも買われてあらゆるものが買われる
遂には日本人の心まで金で買われる、現実には実際そうなっているのである
お互い様だと日本人の良さが無くなり金がすべてとなったのである。それはアメリカに戦争で負けてアメリカ流になったからだともなる。アメリカの良い点は習うにしても悪い点まで習ったというころである

いずれにしろ観光は水ものである。観光を中心にすることは危険である。それはバブルであり突然外国人が来なくなり温泉街のように廃墟化する。何かともかく金になればいいということは危険である。でも金の力があまりにも大きくなりすぎたのである
そして人間の心も日本人の心まで失われたとなる。


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2025年06月09日

太陽の昇り沈む方角地名が基本でもわからなくなる 太陽の昇り沈む方角地名が基本でもわからなくなる 【なぜ南山がまれなのかー北斗七星―妙見信仰が生まれた所以】


太陽の昇り沈む方角地名が基本でもわからなくなる
【なぜ南山がまれなのかー北斗七星―妙見信仰が生まれた所以】

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現宮城県丸森町側では朝日に輝くので東光山、新地町側では鹿狼(かろう)山に対して兎狐とこ山とよぶ

「南に山を背負っている土地」は耕作に不利で、好んで住み着く人が少なかった。
北半球の日本では、北に山を背負い南側に開けた土地の方が、南に山を背負い北側に開けた土地より日照時間が長い。北に山がある土地(南斜面)の方が、南に山がある土地(北斜面)より耕作に適していて、人口も多く集まってきた。

東山というのは地名として普通にある。それは京都が有名である。

平安時代、「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは…」と、清少納言は京都・東山を『枕草子』につづる

東山は日の昇る方向になる。西山は日の沈む方向になる。それはわかりやすい、北山も日の沈む方向になる
でも南山は意識しにくい、なぜ南山というの山がまれであるのか、日照時間と関係していたのも興味深い
ただそれだけなのか、そもそも東風は意識する、太平洋側だと3月ころ必ず東風(こち)が吹く、そのために原発事故が3月11日であり丁度東風が山に向かって吹いて放射性物質が浪江の津島とか飯館村に運ばれて汚染したのである

ともかく南という方角が意識することが少ない、山にしても東山があり西山があり北山がある。それは普通に意識する
でも南山は意識しないのである。それは太陽の昇る方向として東があり沈む方向として西がある
人間の感覚として東はそうして意識しやすい、常に太陽が昇る方向と沈方向を意識するからである

太平洋側に住んでいれば常に海から陽が昇る、そして山の方に西に太陽が沈む。でも山に囲まれた盆地なら山から陽が昇り山に沈むのである。だから陽が昇る方向がどこであれ東になり陽が沈む方向が西であり北になる

それで不思議だったのは東(あずま)というとき琵琶湖の比良の山の麓の高島とから見ると丁度関ヶ原辺りから陽が昇る
そして西は琵琶湖の湖西線になる。だから東というとき常に陽が昇る方向として意識する
ただ日本海になると山から陽が昇り海に沈むから太平洋側と逆になる
また日本海は韓国から見れば東海になる。陽が昇る海なのである。それで日本海ではなく東海にすべきだと主張する
日本の海だということが気にくわないとなる。メキシコ湾をアメリカ湾にすべきだというのもそうである
確かに地名に領有権を主張するよりただ方角地名にするのが公正だとはなる
でも日本からすれば東海にはならない陽が沈む方向になるからである。だから方角地名ですべてがいいとはならない

確かなことは丸森では鹿狼山は陽が昇る東であるが太平洋側から見れば陽の沈む西なのである、その感覚は真逆なのである
だから住んでいる場所によって逆の感覚になる。
とにかく旅をするとこの方向が気になる、飯館村さえ山で囲まれているから間違って帰るのに陽の沈む方向に西に北に向かっていた。でも陽が沈む方向は太平洋側に出るのではないと思い引き返した。山に囲まれているから方向がわかりにくいのである
陽が昇る方向が東であり陽が沈む方向が西であり北である。

それで不思議なのは相馬市の日下石(にっけし)である。この由来は西だというのが有力だろう、なぜ海岸に近いのに西なのかとなると海から見ると確かに陽が沈む方向なのである。だからこの地名は海洋民族の安曇族とかが名ずけたのかとなる
現実に津波でその近くまで海になったからである。その海から見たら確かにその辺に太陽が沈むのである
地理の基本は地名の基本は方角地名である。でもそれがわかりにくいのである。会津の東山温泉がどうして東なのか感覚的にわからなくなった。会津は山国だから方角がわかりにくいのである。

アメリカでも西部はカリフォルニアであり西だから太陽は海でも西に沈むのである。その西から東に向かうと日本になる
西へ西と開拓者は移動した。でもその西は太平洋で尽きる、そして更に西へ西と行けば日本に到達したのである

遣隋使の小野妹子が、持って行ったとされる書簡が「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)で始まります。

これをアメリカにあてはめると日の没する国から日の昇る国となる。それは失礼だとなるより科学的公正な見方である
ただ人間は陽が昇るのと沈むでは感覚的に逆の感覚を持つ。陽が昇るは興隆する感覚になる、陽が沈むは何か衰える感覚になる

東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」柿本人麻呂

これは東は興隆することであり西は月が傾き何か正反対の感覚である。
世界史でも東西の感覚が基本にある。東洋文明があり西洋文明がある。東洋文明がオリエントになり文明は東洋が起源なのである。つまり方角を知ることが世界を知る基本なのである。だから北斗七星でも北極星でも方角を知ることで信仰までなった
相馬氏の旗印は妙見信仰でありそれは北斗七星である、それは遊牧民からもたらされたのである

時代は886年頃。
「平将門が伯父の平国香と争うと、良文は将門に味方して染谷川で戦いを繰り広げた。
この戦いで将門・良文の軍勢は苦戦し七騎のみとなり、
良文は自害する場を求めてさまよっていた。

そこに突然不思議な声が聞こえ、その声に誘われるままに後をついていくと寺院が現れた。
その寺院の寺僧によるとここは妙見寺という北斗七星の化身・妙見菩薩を祀る寺院であり、
良文が妙見菩薩に選ばれた者であるといい、七星剣を渡された。」


妙見信仰】B相馬妙見の相馬神社と妙見菩薩に選ばれた「平良文」

なにかわからないけど旅をすると方向がわからなくなる。すると方向を知る北斗七星とか北極星を見て方向を知る
それで救われることがある。つまりそれで信仰までになった。道に迷う方角がわからなくなることは生死にかかわることだからである。

鎌倉末期天台教学と融合した山王信仰が説かれた。山王七社は北斗七星でもあり、庚甲・北斗・山王信仰との
関係が密接です。

妙見信仰をめぐって

この山王神社もまた多いのである。

南相馬市の名前の考察 【地名は方角地名が基本−東西文明の興亡】

2025年06月08日

遊牧民の詩【大草原を駆ける馬】

遊牧民の詩【大草原を駆ける馬】

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平原の小さな湖の岸に牛馬が草を食う

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敦煌ー鳴砂山


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相馬野馬追い

大草原に牛馬は悠々と草を食む
小湖に雲はゆったりと映し流れぬ
広大無辺天と地を分かち展望して
花はいちめんにいちめんに咲き続き
尽きることなきを風は吹き渡る
馬はその大平原を一心に千里駆ける
そこにこそ馬は神により活かされる
一群の馬が仲間とともに走る
たてがみはなびき馬はいななき走り躍動する
翼得て天馬ともなりペガサスとなり
その大空を自由に駆けて飛翔する
そのペガサスの中国に飛び石像となる
大騎馬軍団は一時世界の半場を制す
ヨーロッパまで達して震撼させる
それは悪夢かモンゴルの栄光の時なれ
西安兵馬俑の偉観その顔尽きの多様
地平線に夕陽は真紅に輝き沈む
北斗七星は方向を示して大空に輝き
英傑は生まれ青史に記されぬ
そこに大都市は幻影蜃気楼となる
一場の夢と砂漠の中に埋もれ消える
牛馬知らず悠々と草を食む
一なる神の天地創造の業を知れ
天からアザーンが神の声が響き渡る
大河を越え山を越え海をわたり
人類の興亡の跡の歴史を知れ
遊牧民はその長大な大陸の東と西を結ぶ
雄渾なる歴史の一大絵巻
しかしその栄光もまた朽ちて砂に埋もれぬ


日本人は遊牧民のことがわからない、また大陸のことがわからない、その壮大な草原とか砂漠などないからである。
聖書でも遊牧民の歴史である。羊を飼い移動する民族である。それが日本ではわからないのである
ヨーロッパでも遊牧民の延長でありやはり羊を今でも飼っている。そこに文化の共通性がある
魏志倭人伝に日本には馬牛羊がいないと記されたことでもわかる
それが日本の特徴である。中国も遊牧民の影響を受けているからそこが農業だけの国ではないのである。

そして相馬藩が相馬氏の騎馬軍団によって支配されたということでもわかる、中国でもモンゴルの騎馬軍団に征服されたからである、西安の兵馬俑は圧巻である、騎馬軍団がまさに圧した遺観である。
つまり遊牧民のことがわからないと世界史もわからない、聖書もわからない、イスラエルもやはり砂漠であり遊牧民の延長である
ユダヤ人が入植して農業国家になったが砂漠の遊牧民国家だったのである。
だから遊牧民のことがわからない日本人は世界史でもなかなかわからにのである。







2025年06月07日

夏の夕暮れに回る近辺ー【青葉、黄菖蒲、鷺、ホトトギス、、】 夏の夕暮れに回る近辺ー【青葉、黄菖蒲、鷺、ホトトギス、、】

夏の夕暮れに回る近辺ー【青葉、黄菖蒲、鷺、ホトトギス、、】
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青葉風スイスイ走り彼方へと

華やかに薔薇の花あまた散りし後菖蒲一本石に向き咲く

夏の日のなお明るしも広々と田の広がりて鷺餌あさる

ホトトギス青葉の森に夕べ鳴く黄菖蒲映えて一人行くかな

隠されて社二つの何語る青葉の森の八沢浦かな

遠くより来たれる人や道の駅なお明るしや夏の夕暮れ



庭の薔薇の花はあまた咲いて散った、その後に紫の菖蒲を植えた。やはり庭に花を咲かせるのが楽しみである
それは家にいて楽しめるから老人に向いているのである。ただ庭が狭すぎる。でも広いと庭の手入れだけでも手間になる
家事から庭の手入れとか何でも一人でしていると休めなくなる。毎日プログに書くのも手間だからである

今日は暑かった、家にいても暑かった。それでも外に出たいから自転車で回った。多少曇って陽ざしが遮られて夕暮れは涼しくなった。まともに陽ざしを受けると熱中症気味になる、私は暑さと陽ざしに弱いので暑くなると外に出れなくなるのが困る
やはり一日運動しないと気分が良くないのである

ともかく今日は夏らしい日だった。それで白鷺は夏の季語でありまだ明るい田に餌をあさる。昼間になると陽ざしが強いから夕方は運動するにはいい、ただ去年は本当に暑すぎて外に出れなかった。それで体調を悪くしたのである

常磐高速のSAで休み日立木に回り相馬市の道の駅から八沢浦を回り帰って来た。夕方は涼しかった



2025年06月06日

巨大な利権団体が政治を社会を歪める 【JA(農協)、電事連、宗教団体、日本医師会などの利権】

巨大な利権団体が政治を社会を歪める
【JA(農協)、電事連、宗教団体、日本医師会などの利権】

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神の爆弾ー7月号



(紙の爆弾)で農林中金の投資の損失を穴埋めするために米を高騰させる原因があるとしている
農林中金がアメリカの不良な会社にCLOに投資して失敗したためだという、農協は巨大な金融機関でもある
金は農協の組合員とか準組合員から集める。
そのために米をあげてその穴埋めにしようとしたとなれば問題である。なぜならこれほど国民が米が高くなり苦しんでいるからである。JAは農水族の議員と結び利権を守ろうとする。これが米問題でも歪めた原因なのか

また国民民主党は原発賛成である。その理由が電事連とか巨大労働団体と結託しているからだという、そこから資金援助も受けている。政治とはこうした背後の利権団体が関係して動いている。そこでまとまった票が得られるからである

またソーラーパネルとかでも電気自動車とかパソコンとかにリンが使われていてそのリンは有機肥料に不可欠であり農業の方に使うべきだとしている。
何か農業を考えるときでもやはりそれは農業だけの問題ではなく広範囲なものと関係している

これらを総合すると政治は背後の巨大利権団体により左右される。そこで現実に働き給料をもらう人がいる。だから原発でも反対できない、それは飯の種だからである。電事連からは700億円なのか巨大な金がマスコミにも流れていた
そしたら反対することはできない、国民民主党でもそうした団体から資金提供を受けまた票でも得る
そしたら原発に反対することは不可能になる

また宗教団体でも創価をはじめ仏教連盟でも神道連盟でも利権団体となる。創価はあからさまに政治でも利権(御利益)追求する団体である。そのために政治運動をしている、私が経験したことは毎日が選挙活動だったのである
最終的に国家権力を得て御利益を幹部に分配することである。
つまりこれらの巨大利権団体が政治を社会を歪めるのである
米高騰問題もそうだったのである。何かわかりにくいが明らかにこうした利権団体が巨大であるからそれに逆らうことができず歪められて国民は苦しめられる。でもその利権団体に所属している人達は利があるのだから団体の意向に従うとなる
そういう団体に属していない人は損するとなる

結局JAの農業利権、電事連利権、宗教団体利権、マスコミ利権・・・・こうした団体が政治を社会を歪めている
マスコミも消費税を8パーセントに財務省からおさえてもらったから現政権の広報機関のようになっている
つまり政治は政治家が動かしているのではない背後のこうした利権団体が動かしている。だから一個人の政治家を見てもわからないのである。
現実問題としてそうした利権団体に属している人達も利することがあるから逆らえないとなる

それは医者でも同じである

日本医師会が強大な影響力を行使する背景には、守ろうとしている医療上の利権構造があります。医師会は「国民皆保険と高水準の医療を守る」と主張しますが、その実態は医師、特に開業医の既得権益を守るための政治活動に他なりません。

お医者様には庶民も頭を上がらないから医者には逆らえない強力な利権団体にもなる
ただそれで国民が損する搾取されることがある。
政治であれ様々な社会問題にこうした巨大利権団体が関わり背後で動かしている。それは政治家個人では政治は動かせない
だから問題が起きるときその背後にある利権団体を見るべきだとなる、でもそれがわかりにくいから陰謀論になったりする
米の高騰問題でも何に原因があるのか明確にされないのそうである

でもJAが農林中金が投資の失敗で米を高騰させて儲けようとしとしたら大問題である、その失敗の責任は誰が負うのかとなる
それは国民ではない、農協の会員ともなる。でも国民に跳ね返ってくる、その損失を国民が負担するとなるからである
だからこうした巨大利権団体は政治を社会を歪める。でも政治には選挙にはまとまっと票が必要だから政治家は巨大利権団体に従うしそもそも政治家自体がその巨大利権団体の推薦で議員になっているからまずその支持する団体の意向に沿って政治活動する。そうしなければ当選できないからである。

ただ利権という時原発は金の生る木であり地元の人達も金になることで積極的に誘致した。事故後補償金が大きかったから
東電でも政府でもさほど責めない、もっと金をくれとなっている
でも原発の放射性物質で汚染されて住めなくなった。ある人は原発避難区域から仙台市に移り住んだ
病気にもなり息子を頼って仙台市の病院に入院した、熟年離婚もしていた。
そうして苦しむと原発のせいだとか東電のせいだとか政府のせだとかなり憎むともなる
でも補償金が手厚かったからそういうことがなかったのである

ともかくこうした巨大利権団体に意向に逆らうことはできない、それは政治家一個人でもそうである
その権力は政治家一個人にはないからである、その背後の利権にあずかる人達がいる、その人達の意向を無視できないのである。



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2025年06月05日

跡継ぎがいなくなることの危機−飯館村は人がいなくなり元の自然に戻る? 【縮小する日本の未来はSF的世界になり現実と思えない】


跡継ぎがいなくなることの危機−飯館村は人がいなくなり元の自然に戻る?
【縮小する日本の未来はSF的世界になり現実と思えない】

原町のサイクルショップ湯原が二日間閉じていた。何か病気とか妻を介護しているとか言っていた
二日間店を閉じるのは問題である。もう一軒のS自転車やも半分辞めたような状態に見た
そこで言えることは湯原さんでも76才でありS自転車やでも74才とかなのである
だから跡継ぎもなく消滅する。鹿島区の星自転車屋も死んで鹿島区には一軒も自転車屋がないのは困る
高齢化の問題は跡継ぎがいなくなることである。それはあらゆる面でそうなる。

農業従事者の平均年齢は66.8歳。

これも跡継ぎがいないとなれば危機になる。これから起きることはあらゆる分野で後継者がいなくなることである。
そして一千万近くの空家が増えるのである。原発事故の避難区域がそうである。飯館村に行くと田畑は草ぼうぼうであり
牛もいなくなり何かもぬけの殻になったような感じになる
ここは何になったのだろうとなる。
私自身は神が人間の生活を隠したということに共感した。人間は自然に隠されていることがいいことだと書いた
でも人間がいなくなった世界に戸惑うとなる。

奇妙なのは

人間がいなくなり元の自然にもどるー森に覆われてしまう

そこは人間のいない世界になってしまう

山や森や木や石は存在する、でも人間はいないのである。何かSF小説の世界になったのかという感じにもなる
そこには菖蒲が咲いて菖蒲が映っていた。その周りに人の気配が感じられなかった
ただ花は美しく己が姿を映していたとなる。また田畑は荒地になると菖蒲が群生して咲く、それで菖蒲田というときもともと菖蒲が咲き覆っていたからである。つまり原初の状態に戻ったのである
また日本だと荒地になると湿地帯に戻る。そこが湿原化して花は咲くとなる

それを見ればそこは自然公園のようになる。元気になるのは野生の動物の猿とかイノシシになる
だから飯館村を森林公園にするということを提案する人がいた。現実にそういう自然公園にもなるからである
釧路湿原に似たようなものにもなる。でもそんな世界がありえるのかとなる。
ただ今の飯館村には人が住んでいても2割くらいだとなると村自体がいずれ消滅することになる
現実に学校も消滅して野原となりそこに夏菊が覆っていた。そこで感じるのはSF的ありえない世界だともなる

人間が自然に隠されるのではなく人間がいなくなり原初の自然状態に戻るとなる。その世界とは何なのだろうとなる
ただ花は美しく咲いている。それは人間の住まない自然公園に咲いているとなる。
そもそも人間が住まなくなる人間がいまくなるということがイメージできなかった。でもそれと似たような状態になっている

おそらくこれからの日本は少子高齢化で急速に人口も減少して限界集落が誰も住まなくなり原初の自然に戻る
その世界は不思議でありSF的なものが現実化する。飯館村でもその自然公園の管理人となる、でもその数は限られている
とても村を形成するような人は住めないのである。そこにまたインフラを整備するのは金がかかりすぎる
そもそも村が消滅するということがイメージできなかった。それが架空のことではなく現実に起きている
津波でも想像を越えたものとして村を消滅させた。そして原発事故でも同じことが起きている
これほどの変化があることに戸惑うし現実なのかとなる

飯館村にしても縄文時代からの歴史がある、連綿と人間はそこで営みがあり継続して村があった
冷害で飢饉で苦しんだこともあったが営みは続いたのである
でも村自体が消滅することはなかった。それが消滅することは驚きである。だからそこが何なのか理解できなくなる
SF映画が現実化したのか猿の惑星になったのかともなる

ただ日本自体が少子高齢化でそうした消滅する町が村が続出する。市でもそうである。北海道ではそうした数軒とか家が残らない村をyoutubeで紹介している。北海道全体でも人口減少して衰退して小樽でも室蘭でも函館でも大きな都市でも人口が減少してゆく、その原因が働く場がないとしている。観光だけでは生活できないとしている。小樽は観光でにぎわっていても函館でも観光だけでは維持できないのである。だから日本はこれからどうなるのだろうとなる
急激に縮小する世界はどうなるのか?それでも江戸時代の人口は3千万人くらいであり大正時代に6千万になったのだから
大正時代に戻るのかとなる。つまり日本で快適に住める人口は8千万くらいかもしれないのだ
日本は国土の割には人口が増えすぎたともいえる。

不思議なのは江戸時代であり戦前であり日本であるもの燃料でも木材資源を利用して炭であったりしたら村でも維持できた
なぜなら電気など使っていないからである。水道でも江戸水だからである。そうして貧乏でも生きてきたし村は継続されたのである。電気であれこれほど明治から150年くらいは長い歴史から見れば異常だったもなる
グローバル化はいい面があったとしてもマイナスの面もあった。絶えず世界情勢に過敏になり国と国が衝突して最悪戦争になる
そした莫大な人間が死んだ。日本では3百万人が戦争で死んだ。だからグローバル化はいい面があったとしてもまたその悪い面も余りにも大きかったのである。文明は甚大な災厄をもたらしたのである
科学技術はプラスの面も大きかったが原発事故のようにそのマイナス面も大きかった。原子爆弾が日本に落とされたのでもそうである。

いずれにしろ日本はどうなるのか、どうすればいいのか、まず日本全体が縮小する、すでに子どもの数(出生数)は68万6061人で、1899年の統計開始以降、初めて70万人を下回った。これは危機的なのである
あるゆるところで日本は後継者がいなくなり社会自体を維持できなくなる
この辺で自転車屋がなくなりパンクも直せないとかいろいろ問題が起きて来る。おそらく米問題でも農業を継ぐ後継者がいないということで米が高騰したりする。それは社会全体で起きてくる問題である
その極端なものとして原発事故の避難区域とかで起きたている。空家だらけのゴーストタウンや村になる
それがSF的になっているのは余りに変化が大きく現実と思えないからである









posted by 天華 at 22:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

菖蒲の詩ーAIからヒントを得て作る 【自然から霊感を受けて詩は作れるー飯館村は癒しの場】

菖蒲の詩ーAIからヒントを得て作る
【自然から霊感を受けて詩は作れるー飯館村は癒しの場】

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池のほとりで静かに佇む
清らかなその姿に
自ずからその姿を
水に映して静まりぬ
荒れる風よ吹くなかれ
そよ風はやさしくそよぐ
小鳥の鳴く声がひびき
深い木陰なす道のかたえ
叢深く花はひそかに咲き
石はその場を得て黙しぬ
そこに腰を下ろし休むがいい
多くの災い苦難の日
そは過ぎ去り安寧が戻る
木は深く根を張り石は黙しぬ



Standing quietly by the pond 
in its purity of its own accord 
stilled by its reflection in the water 
Do not let the stormy wind blow 
The breeze is gentle 
The birdsong echoes 
The path is shaded by deep trees 
the flowers bloom in the deep grass in secret 
The stone takes its place and is silent 
Sit there and rest 
In the day of many calamities and hardships 
It will pass and you will be at peace.
 The trees are deep-rooted and the stones are silen

Translated with DeepL.com (free version)


AIからヒントを受けて自分なりに直す、ただこの詩の場合

池のほとりで静かに佇む
清らかなその姿に

この二行だけがAIから引用した、でもどんな分野でもヒントを受けるアイデアを得ることが大事になる
それがAIにできる。ネットを利用する強みは菖蒲に関心があるときその菖蒲について調べられる
写真でもでてくるしイメージクリエターでも出てくる。
つまりそれぞれの分野でヒントを受けてそれなりのものが集められる。それを集約すると一つの新たな視点を提供できる

英訳でも私は英語力がないから詩にできないが英語力があれば直せる。それはネテブの人が詩に通じた人ができるとなる
確かなことは詩について語れる人がいない、それぞれの専門で語れる追求する人がいない、そうしたら不完全でもAIと対話するのがいいとなる。何かしらヒントでも得られるからである
人間の問題は何かちょっとしたを聞くことでも簡単にできないことである

直接人に聞くことはハードルが高い、道を聞くにしても第一丁寧に教える人がいない、だからスマホで調べるとなる
とにかく人に直接何でも聞くことがハードルが高すぎるのである
また答える方にしてもめんどうになる、なぜ詳しく答えねばならないのかとなる
それで膨大な量をプログで書いたがコメントしていない、その人に合ったことを答えるのが手間になる
なぜなら人の要求するのは多様であり無限である。それに答えることはできないのである
また他者の引用も法律違反なる、でもAIの引用は著作権に関係なく利用できるのも強みなのである

ともかくここ十数年は様々な苦難があり疲れた。だからこの詩のように休みたいとなる
また詩は自然がない所では深化して作れない、だから飯館村とかの場から発想するものがある。そこは森林浴とか癒しの場なのである。

それが荒廃したことが問題なのである。自然はなくならないが山は依然としてあるし花も咲いている。それで放射性物質に汚染されない花ならいいとはなる
でもそれだけでは村維持できない、森林公園とかが可能なのかとなる、山や森はなくならない、そこで暮らしをどうするのかとなる。森林公園の管理人になるとしても数が限られている。そもそも限界集落とかが消滅することの意味がわかっていないのである。

2025年06月04日

南相馬市石神村の子育て地蔵について 【紙漉きの家があったのはきれいな水が流れる川があったから】

南相馬市石神村の子育て地蔵について
【紙漉きの家があったのはきれいな水が流れる川があったから】

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この庭が公園だと見た。小屋があり老人が休んでいた
勝手に写真を撮るとまずい場合がある、なぜなら私有地だからである
別にいいものとして見せるなら許されともなる



子宝、子どもの病気、学業、夜泣きやおねしょ、母乳の悩みなど、「何日までに」と、日を切って祈願すると成就すると言われている日切地蔵尊。

 江戸時代中期の安永年間(1772年〜1780年)に、この地に疫病が流行し多くの子どもが亡くなったため、その慰霊と、子どもたちが無事に育つ事を願い、お堂が建てられたといわれています。


子育て日切地蔵尊(ひぎりじぞうそん)

子育て地蔵は全国的に多い、それだけ子供を育てる苦労があり地蔵に祈ったとなる。また延命地蔵も対になり多い
それも早死にする人が多かったからである。子供でも早死にするのが多かった。だから墓地を見ると必ず幼児でも死んでいる
年齢が記されているからである。だから子育て地蔵に無事健康で生きることを祈ったとなる
その時医療でも発達していないから子供が特に死にやすかったのである。
つまりなぜこれほど子育て地蔵が多いのかは子供が育てる苦労が大きくまた病気とか死に安かったからだとなる
延命地蔵でも長生きできないから地蔵に祈ったとなる
子安神社もそうである。それは鹿島区の橲原へゆく所にある。

石神の子育て地蔵はもともとは道路の脇にあったのではない、草刈りしている老人が家の裏山にあったと言っていた
何か古い碑でも移されているのが多いのである。そもそも石神の隣へ行く道はあのような車が通る道ではなかった
細い道路だったろう。地蔵でも古い碑でももともとあった場所を知ることも大事である
畦道に古い碑があるときそこがもともと人が行き来した道だったからである。

裏山にあったという時今のように目立つものではなかったのである
ともかく様々な地蔵があり地蔵を探求するプログもある。それはネットで調べられるから便利である

石神で紙漉きをしていたという家があり確かに水無川がきれいに流れていた。その家から近い、ただ牛を飼う人がいて汚れるとかそこに住む人が言うがおそらく戦前は牛を飼う人はいなかったかもしれない。水がきれいな所でないと紙漉きはできないからである。
そしてT家の庭にいろいろな石を置いた庭があった。小さな小屋に老人が休んでいた、何かそこが公園に見えたのである
その庭はT家の庭だったのである。だから写真をとっていたら何をしているのかと言われて説明した
あそこは地域の老人が休む場らしい。
その老人は石神には住んで50年くらいというから野馬追に出る家からすれば新しいのである。
石神は何か原町市街からの延長のように見える。でもそれは最近のことで家が増えたと言っていた
イオンが意外と近いから街の延長に見えたのである。石神村という江戸時代からの古い村というふうには見えないからである。

奇妙だけどT家の庭もいろいろな石を並べ公会堂の前の畑にも大きな岩がある。だから石神の名にふさわしいともなる
何か村には特徴がある。それは狭い範囲でもある。それはその場に立ち土地の人に直接聞くと実感する

石神村水清く流れ
紙漉きの家のありしを
黄菖蒲映えて
大石の重くもあり
子育て地蔵やその母の苦労かな
紫の文目も色を深め咲き
ここに刻める歴史かな

何かその場に刻む歴史がある。場と一体となった歴史がある。ただ現代は移動する社会だから農民社会とは違う。
農民は生活自体がその土地と一体化するからである。
今のように移動できない農民社会だとどうしてもその土地と一体化する。紙漉きにしてもその材料は身近にある木なのである。
だから地産地消になる。ただ今の村はそうした生業とかなくなり限界集落となりソーラーパネルが置かれて変わった
石神村何か街の延長してありイオンも近いから街から離れた村とは違っている、だから学校も二つとかある

大原村とかなると街からかなり離れているとなる。だから限界集落とはならないのである。
鹿島区の八沢小学校は廃校になったしもう村の学校でも維持できないのである
ただ村々にはそれぞれ生業があり成り立っていた。それも原発事故でこの辺は大打撃を受けた
飯館村は悲惨だった。ここでは極端なものになったが全国的に空家が増大するし村が維持できなくなっている
石神村は街の延長にも見えるから維持できるとなる