夏に原町の小川町石神を回るー紙漉きをした水無川ー
鹿島区の水無川【夏菊、黄菖蒲・・】
街中を流れる川の清しかな黄菖蒲咲きし小川町かな
石神に夏菊映えて清らかに流れる川や真昼明るし
石神に大石ありて菖蒲咲く紙漉きの家ここに古りしも
石神に子育て地蔵あわれかな黄菖蒲咲きぬ母そありなむ
夏菊の白と黄色や木陰あり道の明るく我が走り来ぬ
水無川今日は流れぬ清きかな竹そ伸びなむ学校のあり
原町の小川町を流れるのは水無川である。水無川は結構全国的にも多い、南相馬市の鹿島区の水無川はいつも見ている
この水無し川は水が透明である。濁らないのである。大きな川は真野川でも濁る
水無し川は浅いので濁らない、新田川も浅いので濁らない、だから石神で紙漉きの家があるというとき紙漉きにはきれいな水が流れる水がないとできない、ただ紙漉きは冬に行われていた。水が冷たいからかえって仕事としては辛いとなる
紙漉女さつと手風呂をしてゆきぬ
紙漉きは厳寒期の仕事なんですよ。原材料の植物性の液が
夏場は腐敗しやすい、冬には繊維が締まって品質の良い和紙が
できる等の理由によります。
冷たい水に手を浸し続けて紙を漉くから、手がかじかんでしまう
わけです。それで、時折、湯に手をつけて手を温める。
その情景を詠んだ句でしょう。
飯山市は、日本でも有数の豪雪地帯。冬には2メートル以上の積雪を記録することもあるこの地方では、紙漉きは冬場の仕事として貴重な収入源でした。
紙漉きは冬の仕事である、それが農家の副業になっていた。だから相馬市の山上に紙漉き沢がある
そこを訪れた江戸時代の人が山上は比較的裕福に見えたというとき紙漉きをしていたからだとなる
全国的に紙漉きをしていたからそれは冬の風物になっていた。それで紙漉きの季語は冬なのである
確かに石神で紙漉きをしていた家に嫁いだ女性を知っている。その家は相馬藩の郷士の家であり鎧とかを博物館に寄付したという、かなり由緒ある家である。でも今はサラリーマンであり田は委託して農家になっていないのである
だからそこに農家の生活感はないのである。
石神に子育て地蔵があるのはそこで昔の子育ての苦労を偲ぶとはなる
今は石神は街からの延長のように見える。昔だったらほとんど農家だったのである
とにかく冬だという時夏から紙漉きをイメージできない、でも紙漉きしたところは必ずこうしてきれいな水が流れている
でも水無川といっても数年前には小川町でも恐ろしく水が出て新田川に流れ出してその水も関係して堤防が決壊したのである
それは鹿島区の水無川でも同じである。堤防から水があふれ家に浸水したのには驚いた
だから水無川でも油断できない、鹿島区では堤防をコンクリートにした。そこの竹を切ったがまた生えて来た
そこに鹿島中学校がある
近くでも街でも何かしら特徴がある。小川町は名の通り小川が流れている場所だった
ただ街中だからそれほどきれいだと見ていなかった。場所には村でも街でも何かしら特徴がある
自然でもありそれがやはり多様性を作る、盛岡市は街中を二つの川が流れている
中津川や月に河鹿の啼く夜なり涼風追ひぬ夢見る人と
明治時代だから今の川とはまた違っていた
だから自然を感じられるから外国人にも人気になっていることがわかる
また京都でも街中を高瀬川が流れているし大きな川もながれているのでやはりそれが魅力なのである
東京でも江戸時代は水路が張り巡らされていてベネチアのようになっていた。
今は確かに神田川とかあってももはや自然の川とも見えないのである
今日は結構暑かった。それで海からの風が涼しく吹いた、
海からの風の涼しく浜通り海の方にそ向かいて走る
暑くなるとこの辺は海に向かうとなる。