南相馬市石神村の子育て地蔵について
【紙漉きの家があったのはきれいな水が流れる川があったから】
この庭が公園だと見た。小屋があり老人が休んでいた
勝手に写真を撮るとまずい場合がある、なぜなら私有地だからである
別にいいものとして見せるなら許されともなる
子宝、子どもの病気、学業、夜泣きやおねしょ、母乳の悩みなど、「何日までに」と、日を切って祈願すると成就すると言われている日切地蔵尊。
江戸時代中期の安永年間(1772年〜1780年)に、この地に疫病が流行し多くの子どもが亡くなったため、その慰霊と、子どもたちが無事に育つ事を願い、お堂が建てられたといわれています。
子育て日切地蔵尊(ひぎりじぞうそん)
子育て地蔵は全国的に多い、それだけ子供を育てる苦労があり地蔵に祈ったとなる。また延命地蔵も対になり多い
それも早死にする人が多かったからである。子供でも早死にするのが多かった。だから墓地を見ると必ず幼児でも死んでいる
年齢が記されているからである。だから子育て地蔵に無事健康で生きることを祈ったとなる
その時医療でも発達していないから子供が特に死にやすかったのである。
つまりなぜこれほど子育て地蔵が多いのかは子供が育てる苦労が大きくまた病気とか死に安かったからだとなる
延命地蔵でも長生きできないから地蔵に祈ったとなる
子安神社もそうである。それは鹿島区の橲原へゆく所にある。
石神の子育て地蔵はもともとは道路の脇にあったのではない、草刈りしている老人が家の裏山にあったと言っていた
何か古い碑でも移されているのが多いのである。そもそも石神の隣へ行く道はあのような車が通る道ではなかった
細い道路だったろう。地蔵でも古い碑でももともとあった場所を知ることも大事である
畦道に古い碑があるときそこがもともと人が行き来した道だったからである。
裏山にあったという時今のように目立つものではなかったのである
ともかく様々な地蔵があり地蔵を探求するプログもある。それはネットで調べられるから便利である
石神で紙漉きをしていたという家があり確かに水無川がきれいに流れていた。その家から近い、ただ牛を飼う人がいて汚れるとかそこに住む人が言うがおそらく戦前は牛を飼う人はいなかったかもしれない。水がきれいな所でないと紙漉きはできないからである。
そしてT家の庭にいろいろな石を置いた庭があった。小さな小屋に老人が休んでいた、何かそこが公園に見えたのである
その庭はT家の庭だったのである。だから写真をとっていたら何をしているのかと言われて説明した
あそこは地域の老人が休む場らしい。
その老人は石神には住んで50年くらいというから野馬追に出る家からすれば新しいのである。
石神は何か原町市街からの延長のように見える。でもそれは最近のことで家が増えたと言っていた
イオンが意外と近いから街の延長に見えたのである。石神村という江戸時代からの古い村というふうには見えないからである。
奇妙だけどT家の庭もいろいろな石を並べ公会堂の前の畑にも大きな岩がある。だから石神の名にふさわしいともなる
何か村には特徴がある。それは狭い範囲でもある。それはその場に立ち土地の人に直接聞くと実感する
石神村水清く流れ
紙漉きの家のありしを
黄菖蒲映えて
大石の重くもあり
子育て地蔵やその母の苦労かな
紫の文目も色を深め咲き
ここに刻める歴史かな
何かその場に刻む歴史がある。場と一体となった歴史がある。ただ現代は移動する社会だから農民社会とは違う。
農民は生活自体がその土地と一体化するからである。
今のように移動できない農民社会だとどうしてもその土地と一体化する。紙漉きにしてもその材料は身近にある木なのである。
だから地産地消になる。ただ今の村はそうした生業とかなくなり限界集落となりソーラーパネルが置かれて変わった
石神村何か街の延長してありイオンも近いから街から離れた村とは違っている、だから学校も二つとかある
大原村とかなると街からかなり離れているとなる。だから限界集落とはならないのである。
鹿島区の八沢小学校は廃校になったしもう村の学校でも維持できないのである
ただ村々にはそれぞれ生業があり成り立っていた。それも原発事故でこの辺は大打撃を受けた
飯館村は悲惨だった。ここでは極端なものになったが全国的に空家が増大するし村が維持できなくなっている
石神村は街の延長にも見えるから維持できるとなる