2025年06月14日

日本人劣化幼稚化の原因ー現代文明人が共通して劣化したのではないか 【ルネサンスは小都市で生まれた】

日本人劣化幼稚化の原因ー現代文明人が共通して劣化したのではないか
【ルネサンスは小都市で生まれた】

日本人が劣化したのはなぜなのか、日本人が幼稚化しているのはなぜなのか、その原因は何なのか?
それを考えるときなぜ明治時代に偉大な人物があれほど輩出したのかとなる
大学でも何でも創始者になり日本を牽引した。明治時代に漢詩が一番興隆したのもやはり江戸時代の遺産があり教育が漢文でされていたからである。漢詩の特徴は志(こころざし)を述べるということである
つまり明治時代の人の教養は漢籍によって培われていたとなる。
また武士道があるときそれもモラルとして日頃の生活から体得していた、それで武士道キリスト教を提唱した内村鑑三が生まれた
何かそれは日々の生活で培われたものがあり知識だけの人達ではなかった。
人間はどうあるべきなのかとかその日々の生活で環境で自覚していたとなる。

現代の指導者は膨大な知識を学んでも本質的にモラルとか何か人間として肝心なものが身に着かないのである。
いくら知識をつぎ込んでも何かそれが弁護士ならその知識を利用してだまして金をもうけるとかなる
そういうことが余りにも多いのである。
問題があるにしろ江戸時代の武士は武士道を知識としてではなく体得していたとなる
それができたのはそういう基盤となる社会があったからだとなる。そもそも教育は知識だけではできない。
それを育む社会があってできる。それは一人の人がいくら優秀でもできないのである

だから何か戦前を生きた人達と戦後を生きた人達は違っていた、戦後の高度成長を築いたのは誤解しているのは団塊の世代の人達ではない、戦争が終わり焼け野原になり戦争を経験した人達が戦後の繁栄を作ったのである
それは団塊の世代の親達だったのである。そこを誤解するのである。団塊の世代は何か常に批判されるが戦後の復興は団塊の世代の上の世代が作ったのである。だからその時の人達は団塊の世代とは別だった。戦前の教育を受け戦争を実際に経験した人達だったとなる。

でも戦争に負けて戦前は鬼畜米英で戦った人たちはアメリカに追随するものとなった。極端な変節になった。
戦前までは何か日本の伝統的なものは受け継がれていた。その良し悪しは別として戦前の人間と戦後に生きる人間は違っていた
だから戦後10年か20年はそういう人地が指導者だった。団塊の世代が指導者ではないのである
団塊の世代が指導者になるのはその後なのである。高度成長時代を築いたのは戦前に生まれた人達だったのである
アメリカに負けても経済で復興してアメリカに勝つということになった。
それで日本の自信を誇りを取り戻そうとしたのである。でもその肝心な経済が成長しない失われた30年になった

そして日本の誇りも失墜した。人物も幼稚化したとか全体的に劣化したのである
ただそれは日本だけではない世界的にそうかもしれない、何か世界でも均一化しているからである
大都市をみれば同じようなっている。高層ビルが立ち並びその大都会で人間は大衆化群衆化しているのは同じだからである
つまりそこにはもはや肝心な人間はいないともなる。

現実に人間は数字化されて統計化されて人はロボットなのかともなる。そもそも一千万の東京でもそれが何なのかわかる人がいるのかとなる。それを見れば眩暈する。そこにはもはや本来の人間は存在しえないとなる
何か人間がどうのこうのというより本来の人間が存在しなくなったとなる
そこで力を持たものは大衆である。その大衆には何か高貴なものを目指すものがない、すべて経済のことしか結局金のことしか眼中にないとなる。その大衆に迎合したのがマスコミだとなる。パンとサーカスを提供するものだったとなる
ただこの大衆はナチスのようにもなるから怖い、カルト教団もそれと似たものである。
そこには何ら高貴なものを真善美を求めるものがないからである。御利益を追求するとき経済活動であり政治活動になる
ただ数を集めて社会をナチスのようにファッシズムにする。そこに高貴なもの真善美は求めない、大衆が求めるのはパンとサーカスだからである。

つまり人物がどうのこうのといってもその基盤となる社会がない、となれば人間形成などできない、それでそうした高貴なものを真善美を求めるものは孤立化してアウトサイダーにならざるをえないとなる
大衆文明社会から分離して大自然とアイデンティティ化するとかして本来の人間回復を求める
ただそれは孤立化するから目だたないとなる。マスコミでも取り上げないからである
ただ逆にそのアウトサイダーに真善美が宿る、そういう社会が失われたものがその反動として真善美がその孤立した一人の人間に宿るとなる。なぜなら逆に神であれ自然であれそういう人を求めているからそうなる。それは大衆ではない、一人の単独者に失われた真善美が宿るとなる

特に自然の美はやはり変わりなくある、だから教会でも大聖堂でも宗教がそこで維持されるわけでもない、本当の美は大自然にある、そこが本当の神殿だからである、そこでこそ神を讃え礼拝すべきだとなる。人間回復は依然として人間によって汚されない大自然に触れてあり得る。霊感の源はそこにある。大自然に共鳴してこそ人間回復はありえる
そのためにはカオスの雑音の文明都市から離れねばならない、どうしても現代は人間回復するためにはアウトサイダーになってしまうのである。

いずれにしろあらゆる分野で人間が劣化したという時、現代文明社会からは人物は生まれようがないともなる
余りにも複雑化してそもそも人間ではあることはできない、知識も膨大でありとてもついていけない、知識偏重はかえって人間を歪めるとまでなる。そんな膨大な知識を消化できないからである。消化不良となってしまうからである
いずれにしろ日本人が劣化した幼稚化したというときそれは世界的に共通かもしれない、文明の世界の巨大都市は似ているからである。古代文明だったらそれぞれが違ったものになっていた。でも現代の文明都市はビジネス中心の都会であり共通している
景観も高層ビルが立ち並び似ているからである。それがもし古代的なアーチの門とか何か違っていたらそこから生まれる人間も育まれる人間も違ったものとなる。ルネサンスのような世界が生まれるとなる。

ともかく人間が何か知識だけではない、知識にしてもそれがその地域とかと結びついてものになる。だからルネサンスとかはフィレンツという5万くらいの小都市で生まれた。現代の一千万とかの巨大都市になるとそこでアイデンティティ化することは不可能である。それで明治時代という時依然として江戸時代の連続性があり藩校とかありそういうものが受け継がれていた
東京にしても最初は新潟県より人口が少なかった。百万とかから出発したからである。それでも大きく感じていたのである
今は一千万となれば十倍でありそこで人間の精神がアイデンティティ化することは不可能だとなる。

だからもともと天才は大都会から生まれない、5万くらいの小都市から生まれているのである
そのくらいがアイデンティティ化できる規模だとなる。ただ村くらいでは無理である。そこには何か職人でも商人でも知的な刺激を受けるものがないからである。
それで啄木でも宮沢賢治でも盛岡という都市があり刺激されたのである。近くにでもそうした都市があれば才能も開発されるとなる。ただ現代は別にアマゾンでボタン押せば本でも何でも買える。またyoutubeでも知識は得られる。
だから地方でも独学できる環境が備わったとなる。むしろ大都会だと東京とかなると自然に接することができないからそこから文化は生まれないとなる。culture-cultivate(耕す)ものがないからである。