2014年07月12日

相馬市松川浦の津神社(つのみつ)は津波と関係していない (古代奈良から製鉄のため渡来人がもたらした)



相馬市松川浦の津神社(つのみつ)は津波と関係していない


(古代奈良から製鉄のため渡来人がもたらした)


(つのみや、つのみつ、つの)神社はツヌガノアラシトから来ている

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日本書紀では、第11代垂仁天皇(以下、11と略す)3年のことだという。新羅の王子、天日槍の記事の前段に、大加羅(おおかや)の王子の都怒我阿羅斯等(つぬがのあらしと)が渡来してきた話がある。かの国で都怒我阿羅斯等が牛に農具を背負わせて田舎を歩いて・・・
となると、天日槍は個人と考えるよりは、新羅からの渡来した集団を指していると考えた方がよさそうだ。そう考えた時に、天日槍や都怒我阿羅斯等がたどった道というのは、秦氏が分布する地域であることから、新羅から来た秦氏という同一系統の氏族の居住地を結ぶための伝承だという人もいる。

 角刺神社は、飯豊青皇女いいとよあおのひめみこ)が政(まつりごと)を行った忍海角刺宮跡として知られています。日本書紀によると、飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)は2人の弟が天皇の位を譲り合い、長く位につかなかったため忍海角刺宮で政を行い、自ら忍海飯豊青尊(おしみいいとよのあおのみこと)と名乗った、と記されています

「白川郡。飯豊山。此の山は、豊岡姫命の忌庭(ゆにわ)なり。又、飯豊青尊(いいとよあおのみこと)、物部臣(もののべのおみ)をして、御幣(みてぐら)を奉らしめ賜ひき。故(かれ)、山の名と為す。古老曰へらく、昔、巻向珠城宮(まきむきのたまきのみや)に御宇(あめのしたしろしめしし)天皇の二十七年戌午年の秋、飢えて人民多く亡せき故、宇惠々山と云ひき。後に名を改め豊田と云ひ、飯豊と云ふ。」

旧村社「角刺(つのさし)神社」 <近鉄忍海駅より西へ徒歩約3分>

祭神は飯豊青命(いいとよのあおのみこと)である。彼女は葛城襲津彦の子、葦田宿禰(あしだのすくね)の孫で、甥の億計(おけ)と弘計(をけ)の兄弟が、清寧天皇崩御の後、譲り合ってなかなか皇位に就こうとしないので、10ケ月ばかり、
ここ忍海の「角刺宮」で執政を取ったとされている。忍海の「角刺神社」の辺りは「日本書紀」顕宗即位前記で
「日本邊也(やまとべに)(見欲物也)見まほしものは 忍海の この高城(たかき)名は 角刺の宮」と歌われており、相当立派な宮殿が建っていたものと推測されるが、

『先代旧事本紀』中の「国造本紀」では、7世紀前半までこの地方は浮田国造の支配下にあったとされている。大化の改新後に陸奥国が設置されると浮田国造の領土は分割され、宇多川流域が宇多郡に、新田川流域が行方郡になった。黒木田遺跡(相馬市中野)が宇多郡の郡衙と推定されている。

『和名類聚抄』には「宇太郡」とあり、飯豊・仲村・長伴・高階の4郷が載せられている
宇多天皇(うだてんのう、貞観9年5月5日(867年6月10日) - 承平元年7月19日(931年9月3日))は、日本の第59代天皇(在位:仁和3年8月26日(887年9月17日)



まず神社や地名を解読する時は大きな歴史の流れを知っている必要がある。
東北は蝦夷が住んでいた。その蝦夷が大和王権に抗して争った歴史がある。
その蝦夷とは何かというと歴史的に明確ではない、ただ蝦夷の字は当て字でありエミシがもともとの名である。蝦(えび)の字をあてている。
南相馬市の鹿島区の海老村は蝦でありエミシの住んで領域である。
海老が当て字だからわかりにくくなっているのだ。

松川浦の津神社の津も当て字である。もともとの呼び名はツノミツ神社である。
ここで誤解したのは津神社となっているから津という漢字にとらわれてしまったことである。津はあくまでも当て字でありもともとはツノミツ、ツノミヤであり漢字にすれば角なのである。津之郷とかあるがこれは必ずしも湊ととは関係ない、ツノは漢字にあてれば角なのである。この起源はツノガノアラシトにある。渡来人に由来しているのだ。
津守(つもり)とあればこれは湊を守る神である。だから津は湊だがツノとなったときはみんな違っている。そして津神社というのは単に一字でツ神社とは言わない、つの神社なのである。

だから小高の角部(つのべ)とあるがここにも津神社があるがこれはツノガノアラシトの角であり渡来人の一団が住んだ場所でありだから部となっている。
その渡来人は製鉄集団であり浜砂鉄をとり鉄製品を作るために奈良や近江からやってきた技術者集団である。

新地町武井地区製鉄遺跡群

南相馬市金沢地区製鉄遺跡群

この二つが大きな製鉄遺跡である。ここが多賀城の前進基地であり多賀城の木簡から宇太(宇多)という字が発見された。製鉄にたずさわる工人が移動していたのである。
金沢遺跡から今とか渡来人をさす木簡の字が発見されている。
それから白人とかの人名をは発見されているから濃密に渡来人が関与したのが相馬地方だった。
だから松川浦の津神社は三大実録にのる古い神社だというとき奈良の葛城から移された神である。飯豊青というのも天皇の名であり宇多天皇もでているからそうした地名でも神でも移動してくる。

松川浦の津神社(つのみつ)神社は津波とは何の関係もなかった。
ただなぜかツノミヤ、ツノ神社に津が当て字にされたのである。
それは浜砂鉄をとるために海岸線を移動した渡来系の技術者集団が移した神だからそうなった。
何か明確ではないのだが相馬地域までは津神社(つのみや)神社があるが宮城県になるとない感じがする。それは渡来系の氏族が関係していて宮城県までは神社を移せなかったのかもしれない。津神社(つのみや)神社は茨城でも磐城でもあり全国にある。

広島県福山市津之郷町大字加屋

とあるのも津之は角なのである。ここが当て字で誤解しやすいのである。
加屋と伽耶なのである。

津神社はもともと津波とは何の関係もなかった。ただたまたま高台に神社があったので津波と結びつけられたのである。
それでも津神社でも単にツ神社と呼んでいれば津波と関係しているかもれない。
ツノと呼んでいれば角でありツヌガノアラシトにつながる神社なのである。
浪江の棚塩の津神社も七百年とか古いからこうした古代のツノミヤはツノガノアラシトを起源としているのである。

鹿島区の烏崎の津神社は鯨を祭っているから津波と関係しているかもしれない。
慶長年間に祭られたということで時代的に慶長津波があったときだからである。

いづれにしろ津波神社とか津波のために祭られたという神社はない。
浪分神社は津波の浪を分けたというので津波神社だがその他はほとんど津波と関係していない、今回のような巨大津波があって神社に関係させているのでありもともとは古代の奈良から移された神社であり地名なのである。

 
posted by 老鶯 at 11:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係
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