2014年07月14日

ノウゼン(仕事をしていると人も街も活きるー小高の人は遊び人になっている)


 
ノウゼン(仕事をしていると人も街も活きるー小高の人は遊び人になっている)

ノウゼンに蜂の来たりぬ街の家

ノウゼンの朝に散りにき一輪や玄関を入る仕事の女かな
ノウゼンの今年我が家に咲き満ちぬ盛運の時の再び来たらむ


 「凌霄花」は漢名からで、
 「凌」は”しのぐ”、
 「霄」は”そら”の意味で、
 つるが木にまといつき
 天空を凌ぐほど高く登る
 ところから、この名がついた。


確かにこんな感じの花である。


ノウゼンが今年は家に一杯に咲いた。これは数多く咲くから見物である。
ノウゼンは夏らしい花である。これは盛夏にふさわしい。鬼百合などもそうである。
これからが暑くなるからだ。
この七年間は自分の家は災難つづきだった。
この災難の時、弱さにつけ込んで責められたことは忘れられない
人間は恩は忘れけどこうしたひどい目にあったことは忘れられないのだ。
そのことが常に怒りとなってくる
だから人が弱っているとき、苦しいとき自分の利益だけを考えてこの際、相手の弱みにつけこんで得してやろうなどとするならかかわらない方がいい
あとでかえって恨まれるからだ。
だから苦しい人とかかわることは本当は簡単にできないしむずかしいのだ。
その時は何にも得られず犠牲を強いられることになる。
ただ傍観して見ているだけならかかわらない方がいい
つまりただ相手が困っているのを親身にならないで冷たく見ているだけの人が多いからだその人は相手が苦しんでいるのを喜んでいる。
これはチャンスだとその弱さにつけいってくる、こういうことをする人はあとあとまで恨まれる。
ただそうしている本人は何も気づかない、結構助けているのにと思っているのである。

ともかく自分の困難のときは過ぎた、どの家でも困難のときはある。
何もない家族などないだろう。なぜなら必ず病気だとか死だとか事故もあるし
今回のような大きな自然災害もあるし必ず苦難が強いられるのが人間だからである。
自分の家でも中学のとき、父が癌で死んだり不孝はあった。
でもその時は自分は何ら苦難を強いられなかった。
今回だけは全部自分がその苦難を一人で背負ったのである。
自分には一切助けはなかった、ただ弱さにつけ込まれただけだったのである。
保険金殺人のような状態に追い込まれていた。
ただその危機は脱した。
今度はまた我が家は盛運に向かってゆくのだろう。
病気が直ったことが一番心強く思った。
人間病気になったら巨万の富があってもどうにもならなくなる。
そして最後は死があるのみとなる。

ノウゼンが散って朝に仕事の女性が入ってくる。
ともかく人間は仕事しているとき活きている。
街でも仕事しているから活きているのである。
だから小高の人は仮設に入り遊んでいるだけだから活きていない
フィリッピン人の女性を仮設に呼んでいる老人がいる
金があるからそんなことができる
小高の人は補償金の額が大きいからそれで遊んでいるのが多いのである。
だから津波の被害者とかいろいろ別れているけど一番多いのは原発事故の避難者である
その人たちはただ遊んでいるだけなのである。
特に老人はあとがないということで女であれ最後の欲望を果たそうとする
だから老人は復興には向いていない、そんなことよりもうあとがないのだから
欲望であれ果たして死にたいとなる。
老人になったからいって欲望がなくなるわけではない、かえってもう人生も終わりだと思うとき欲望が強くなることもあるのだ。

はっきり言って小高の人たちは同情される人たちではない、
お前たちは金をたんまりもらっているのだからあとは自分たちでなんとかしろとなる
南相馬市民でも原町の人でも協力しないかもしれない
そんなふうにして遊んでいるのに外部の人だって協力するのはいやになるだろう。
もうそういう時はすぎている。
この辺はそうして会社でも帰ってこないというからあと何年かしたら相当にさびれてしまう。
小高の人は同情されないから苦しくなる。若い人は流出しているし町の再建は困難になるでも金があるんだから金でめんどうみてもらいとなってしまう。
かえって金があると人は助けてくれないのである。
お前は金があるのだからと仕事さえ与えてもらえないと浪江の会社経営の人がなげいていたことでもわかる。


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