2014年08月22日

万葉集の歌が津波の跡に甦った (八沢浦が葦原になって実感した)



万葉集の歌が津波の跡に甦った


(八沢浦が葦原になって実感した)

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●万葉集では萩は美的鑑賞として歌われている


古い時代から、季節感だけではなく暮らしに役立つ植物として愛されてきた。
枯れ枝で屋根を葺き、皮を剥いで縄をなった。
家畜のエサになり、根は薬になった。
若葉は乾燥させてお茶代わりに飲んだというし、
種は粉にしてご飯に混ぜたという。
http://northend.exblog.jp/4592818

萩をこんなふうに見ている人はまれだろう。ウサギが萩の若枝を食べる。そんなことも知らないだろう。萩はやはり原初の状態だと相当に密生していた。
萩は自然の中で様々な効用があり活きていた。
人間は今自然のことがわからなくなっている。都会生活していると自然を実感としてわからない。田んぼもないのだから米がどうしてできるのか実感としてわからない。
教科書や映像でみても米がどうしてとれるのか実感としてわからないのだ。
自然はやはり日々の生活でじかに接しているとき実感としてわかるのだ。
これは萩だけではない、他の植物でもそうでありまずただ美的鑑賞するものとして最初はなかった。

1541: 我が岡にさを鹿来鳴く初萩の花妻どひに来鳴くさを鹿

1598: さを鹿の朝立つ野辺の秋萩に玉と見るまで置ける白露

1599: さを鹿の胸別けにかも秋萩の散り過ぎにける盛りかも去ぬる

万葉集では萩が恋の歌が多いことは宮廷人が歌ったとなる。萩を実用的なものとてし見ていない、美的な鑑賞的態度である。ただ一面が萩原になっているとき、そこに白露が玉となっている感覚は現代にはないだろう。
現代ではやはり一面の萩原とか葦原とか花の原とかはない、自然があっても一部分である万葉時代は一面に自然が密生していた風景が奈良の平城宮の回りにもあった。
鹿がいる風景も普通にあった。それで奈良には鹿が今も飼われている。
「さを鹿の胸別けにかも・・」という表現は万葉時代で萩の原があってこそ歌われるものだった。
こういう風景が山の中に入ったからあったのではなく身近にあってこそ歌われた。
鹿は日常的に野生として自然の中で観察できていた。
だからこそ人間と鹿は一体化してゆく、動物に人間を見るというのはその時代からあったのではなく今でもある。家畜であれペットであれ人間的感情が移入される。
それを感じたのは野良猫だった。子がいる母猫であり四匹も子を生んだ、でも餌がない、親自体が餌がないのだから子供はどうしているのだろうと思う。
その時、雨がふり子供ぬれて鳴いていた。そして親を見たら歯をむきだして自分をにらんだ。子に餌をやらねばならない、守らねばならない、その顔は母親としての必死の形相があった。これはやはり人間と同じなんだなとその母猫を見ていた。
どうしても犬とか猫は人間の感情が移入されるのである。
野良猫と野生の動物は違っている。それでも鹿が野生の中でどうして生きているかは今ではわかりにくい、ただ鹿が自然の中から消えたわけではない、北海道では原野でも見たし雪の知床でも見たのである。

知床の雪に埋もれてエゾシカの鳴き声鋭くひびきけるかな

エゾシカは北海道では必ず見れる。だから鹿が自然界から消えたわけではない。
鹿が原初の自然に生きている姿はそれ自体が美になる。野生の動物はもともと自然と野生の中に自然と調和して生きるとき美しいものとなる。
そういう姿を実感できないのが現代なのである。
だから自分は津波の被害で死んだ人には申し訳ないけど原野化した自然というのは不思議な光景だなとつくづく思う。
この風景は何なのだろうと否応なく意識される風景なのである。

●海老村の跡に雉が十羽も出てきた

海老村は壊滅したけどそこが原野化してキジが十羽くらい出てきたのには驚いた。
普通は今までは一二羽である。なぜ10羽もでてきたのだろうか?
原野化して増えたのだろう。津波と原発事故が重なりこの辺は田畑を作らないのでそこが原野化した。それでカヤネズミなどが増えてそれを餌とするノスリが増えた。
ノスリが七八羽集まって所を見たからである。
10羽のキジを見たときこれなら狩りもできるなと思った。
原野化するとそこはもともと江戸時代でも狩場になっていたからだ。
狩というとき山の奥に入って狩りするというのではない、身近な場でもしていたのであるそもそも野馬追いが野生の馬を追いつかえまて焼き印を押して神に献げる神事だったのでありそれはまさに馬を狩りすることであり動物を狩る狩猟時代にさかのぼることなのである。

ともかく八沢浦でも一面が葦原になってしまった。それは日本の原風景だった。
日本で一番多い地名は葦原だろう。飯館村も葦原になってしまった。八木沢峠の麓の
バラ坂なども人が住まなくなり元の自然に戻った。そして羚羊が出てきたのには驚いた。羚羊は今まで見たことがない、つまり人が住まないと自然の野生動物が住みやすくなるのである。

雉(きじ)で、名前が鳴女(なきめ)という者を遣わしましょう。」
とお答え申し上げたので、鳴女に言われました。
「おまえが行って、天の若日子にこう尋ねよ。
「この葦原の中つ国は私の御子が治める国で、私が委ねて与えた国である。
しかし、この国にはすばしこい荒ぶる国つ神どもが大勢いると思われる。
そこで、どの神かを遣わして、帰順させてほしい。」と。

神話とかが今実感として理解できないのはあまりにも文明化した結果、原初の自然から離れた結果なのである。東京に住んでいる人がビル群がある東京に帰って見えてくるとほっとするというのも異常な感覚である。それほど文明化してしまって自然から離れてしまっているのだ。全く人工的環境の中で生きている。
ただそこで食べているものはその人工的空間からは得られない、自然からしか得られないのだけどそううい感覚もなくなっているだろう。実感として食料でもどうして得られるのかわからない、ただスーパーには何でも並んでいるか金さえあれば食べられるという感覚になってしまう。

●葦原は日本の原風景

葦原といってもそれを実感として感じることができないと葦原を知り得ないのである。
そういう風景がなかったら理解し得ようがないのである。
八沢浦はもともと入江だったことは今回の津波で実感した。ただ今葦原になっていることはこれも予想外だった。この葦原も原初の風景にもどったのである。
この一面の葦原を日々見ていると葦原が実感できる。

4419: 家ろには葦火焚けども住みよけを筑紫に至りて恋しけ思はも

651: 難波人葦火焚く屋の煤してあれどおのが妻こそ常めづらしき

 現代語訳すれば、「難波人が葦火を焚く部屋のようにすすけて古びているけれども、わたしの妻はいつまでも可愛くて一番だよ」ということでしょうか。
 古代より、難波の地は葦が生い茂っていることで有名でした。昔、燃料として用いた葦は火力が弱く、煙って家の中は煤(すす)だらけだったようです。
 「まるで家の中の真っ黒な煤のように、顔も手も煤で黒くなり、若い頃の初々しさはないけれど、それでも女房は世界一だ」と貧しいながらも明るく生きている庶民のくらしと思いが生き生きと詠まれています。

 この大阪の昔からの象徴を、関西大学は校章に用いているわけです。
http://www.kansai-u.ac.jp/presiweb/news/column/detail.php?i=1160


人類史上、最初に「文字」を考案したのはメソポタミアの人々である。
当初はエジプト同様の絵文字だったが、エジプトと違い書くものが粘土板だったため、絵文字は書きにくい→葦を粘土板に押し付けて絵文字っぽい模様を書き始める→簡略化して楔形文字に という流れで一連の楔形文字が確立していく。この文字はメソポタミアを中心に、広く西アジアで使われるようになる。
http://55096962.at.webry.info/201202/article_12.html


現世の人々の住む住居は葦や日干し煉瓦造りの粗末な物であった。朽ちにくい石造には永遠性への観念が込められていた

葦は世界中でもいたるところに生えている。だからエジプトでも生えていて利用した。
パスカルの考える葦というのもこれも原初的思考があった。葦が身近なものだからこういう思考になった。葦原はは世界的にも原初の風景なのである。

1324: 葦の根のねもころ思ひて結びてし玉の緒といはば人解かめやも
2134: 葦辺なる荻の葉さやぎ秋風の吹き来るなへに雁鳴き渡る
2468: 港葦に交じれる草のしり草の人皆知りぬ我が下思ひは
2565: 花ぐはし葦垣越しにただ一目相見し子ゆゑ千たび嘆きつ
2745: 港入りの葦別け小舟障り多み我が思ふ君に逢はぬころかも
2748: 大船に葦荷刈り積みしみみにも妹は心に乗りにけるかも
2762: 葦垣の中の和草にこやかに我れと笑まして人に知らゆな
3279: 葦垣の末かき分けて君越ゆと人にな告げそ事はたな知れ
4459: 葦刈りに堀江漕ぐなる楫の音は大宮人の皆聞くまでに

萩は宮廷人の美的鑑賞の歌になっているけど葦は原初的生活感覚の歌になっている。
葦が燃料となっていたこと時代そうである。つまり一面の葦原を見ていたらやはり
何か役に立たないかと考えるのが普通である。
つまり八沢浦で見る葦原はそうだし津波の跡は他でも葦原になっている。
その中にエゾミソハギの花が咲いていた。それは北海道で見た風景だった。

468: 港葦に交じれる草のしり草の人皆知りぬ我が下思ひは

ここまで深く葦を生活に則して感じることは今はできないからこのような歌も作れない。この葦の歌はたいがい生活と密着してできているからである。

748: 大船に葦荷刈り積みしみみにも妹は心に乗りにけるかも

この歌なども不思議である。葦を刈って船に積んで何かに使った。その積んだ荷の上に妹の心がのるというのはどういうことなのか?
まずこんな歌を今なら作り得ようがないから理解するのかむずかしくなる。
これは理屈ではなく生活実感から生れたからである。
生活の中でその仕事する人と妹が一体になっていたのである。

2762: 葦垣の中の和草にこやかに我れと笑まして人に知らゆな

この歌などは八沢浦の葦原の中に咲いていたエゾミソハギを見たがそれを思い出すと実感できるのだ。
ともかくこの辺は津波と原発事故で原初の自然がもどり縄文時代に還ったような風景にもなった。だからこの辺は何かいつも前とは違うものを感じるから新鮮だともなる。
ただ津波の犠牲者とかありそれを喜ぶのかともなるが八沢浦が葦原になったということも入江になったときもそうだったがあまりにも大きな予想外の自然の変化だったのである。
タグ:万葉集
posted by 天華 at 22:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集
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