2014年08月31日

虫の音(介護の俳句)


虫の音(介護の俳句)


kaigomushi11.jpg

家の中に虫の鳴きにつ介護かな

街離れ墓地にひびけり秋の蝉

今日も聞く我が家に一つ秋の蝉

木槿咲く白と紫や田舎かな

ノウゼンの一輪散りぬ玄関に夏の名残や街に住むかな

高齢化というのは様々な場問題を生む、それは人類が今だ経験していないことだからである。高齢化というとき昔でも高齢な人はいたけどそういう人は優れている人であり特別な人だったからかえって尊ばれたということがある。
今はその数が多いから問題なのである。

ただ百才まで生きるということは普通は信じられないことだろう。
大正生まれはすでに一世紀を生きたのである。
明治にしても一四〇年前とかなる、この歳月は相当に長い。
ただ人工的に見ると大正時代に六千万だったというのは意外だった
そういう人口規模で工業もあまり発達していないと風景としては農村風景が多く
何か今とは違って風景的には落ち着くものがあったろう。
東京だって今とはまるで違ったものとなっていたろう。

田舎だと静かだから我が家にいて秋の蝉の声を聞いている。
これが騒音が激しい都会だったら秋の蝉の声がかきけされし聞こえないだろう。
田舎の風景は今でもやはり落ち着くのである。
木槿が咲いている風景もそうである。
木槿はやはり田舎的な花なのである。

介護というと実際は家で介護するのはかなりの負担になる。
病人でもそうだが家でかかえると病人に圧迫されるし何か重しのように
負担になる。
だから介護してから七年くらいたつ。介護していたりすると家が病院か施設のうよになるだから正常な家族の営みができなくなる
そして今は家族が少ないから特に負担になる
そして介護は長いのである。食べるものは極端に少ないから栄養不足になりもうだめなのかと思っているが生きている。
そんなに栄養とらなくて人間は生きていけるのかと思う。
もともと味噌汁とかご飯と梅干しとかたくわんとかしか大正生まれだと食べていない
だから介護でもそんなもの食べて生きていけるのかと思う。

ともかく家の中に虫が鳴いているというのはまさに介護の俳句である。
介護している人は本当に多いこれからも増える一方である。
ただ介護職というのは何か仕事としては不毛かもしれない
若い力あるとき介護して何か残るものがあるのかとなる。
若い人のエネルギーが老人に費やされるというのは
生物としてありえなことだろう。

これからもしかしたら一〇人に一人くらい百才まで生きるかもしれない
反面団塊の世代などは糖尿病などが増えて早死にかもしれない
先はわからないにしてもやはり高齢化になることは確かである。
ただ人類にとって未経験なことだから様々にいわれることになるのである。
自分にしても長く生きると金銭的にいろいろな問題が起きてくる。
まず国民年金では暮らせない、それも問題であるかほかにもいろいろな問題が起きてくるそれでもあと十年で死ぬとなれば意外と計算は楽になるのだ
そのくらいならなんとかもつなとかイメージできる。

でも二〇年だったらもうイメージできない、貯金も底をつきやっと食べるだけになっているから辛いし生きたくないとなる。
老人はある一面終わりから考えるから意外気分的には楽になっているのだ
どうせ終わりだとなると楽なのである。
若い人は先が長いからすぐに死ぬわけにもいかないから負担が大きく見えるのである。
どうせまもなく死ぬんだ終わりなんだとなると人間は楽になる。
その先延々と苦しい生活がつづくなとなると苦しさが倍増するのである。

今日は日立木に行ってきたがカメラをもっていかないので失敗した
相馬市の実りの季節であり何か南相馬市は原野化しているからその実りの風景が新鮮になっているのだ。
だから明日でも写真をとりにまたでかける。
日立木の道の駅までは近いから行けるのである。



この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/102990518
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック