厚寿苑で聞いた大正生れの小高のばあちゃんの話
(老人の役割と価値は昔を語ることにあるー倉の話しが興味深い)
厚寿苑のショートスティで今日話を聞いたのは大正生れの小高のおばあちゃんだった。
大正一〇年生まれであり二月に生れたからユキと名付けられたという。
その当時の名前の名付け方もそれなりのパターンがあり時代を反映している。
春に生れればハルとなり秋に生れればアキとなっていたともなる。
ウメとかキクという名前はポーュラーでありあとはその土地の名をつける人もいる。
自分の母親は富岡で生れたからトミ子になったと聞いた。
苗字はどこかの土地の地名と結びついているからその謂われある土地と結びつくことは不思議ではない。
要するに昔の人の名前はわかりやすいのである。今の人の名前はその由来も様々でありわかりにくくなったのである。
その名前のことだがそのおばあちゃんが言うには私の弟は倉で生れたら倉吉となづけられたというのも不思議だった。倉が吉ということで名付けられた。
というのはおばあちゃんの実家は火事になったことがあり家が燃えてしまってそのあと母親が大変な苦労をしたという。倉も一部の柱などが燃えて焦げたが残った。
倉は家から離れているから残った。倉は町では防火のためにもあった。
倉は今回の津波でも残っていたりするから丈夫な作りになっている。
昔は蔵の役目は生活に欠かせないものとしてあった。
肺病になり若い女性が蔵に隔離されたことをテレビで放送していた。
蔵の利用にはそういうこともあった。
自分の家には蔵などないから蔵のもっている意義がよくわからない。
ただ今でも農家にはたいがい蔵はある。
蔵に関する物語も多い、喜多方は蔵の町だったのは商人の街として栄えたからである。
倉敷なども蔵だらけだからやはり商人の街として栄えると蔵が農家でなくても蔵が多くなるのである。
忠蔵 ちゅうぞう chuuzou
恒蔵 つねぞう tsunezou
米蔵 こめぐら komegura
清蔵 せいぞう seizou
五百蔵 いおくら、いおろい iokura、ioroi
泰蔵 たいぞう taizou
修蔵 しゅうぞう shuuzou
嘉蔵 かぞう kazou
小蔵 おくら okura
網蔵 あみくら amikura
与蔵 よぞう yozou
重蔵 じゅうぞう juuzou
秀蔵 しゅうぞう shuuzou
律蔵 りつぞう ritsuzou
助蔵 すけぞう sukezou
蔵並 くらなみ kuranami
西蔵 にしくら nishikura
古蔵 こくら kokura
蔵座 くらざ、ぞうざ kuraza、zouza
くらきち 倉吉 庫吉 蔵吉
くらじろう 倉次郎 蔵次郎
くらたろう 蔵太郎
くらのすけ 蔵之介 倉之助 内蔵助
蔵とつく名前もいろいろある。米蔵(倉)はわかりやすい、蔵並というのも蔵が並んでいる風景があって名付けられた。倉吉という名前も他でもあった。
喜多方は新しい街だった(喜多方の歴史)
ここのページに喜多方を訪れたことを書いています。
その女性は小高のどの辺のかわかりにくい、福浦と言っていたからその辺なのか、父親は村会議員だったというからそれなりの家だった。だから蔵もあった。
尋常小学校をでて小高の小高専修学校に二年学んだというから普通は尋常小学校で終わっているから村ではいい暮らしをしていた部類なのだろう。
弟は北海道大学を出たとう、そして獣医になったというからその当時大学まで行ったとなるとほんのわずかだろう。それでも金がなくて困って学費で苦しんだという。
その弟か兄は獣医になったのはいいけどなぜか南米に移民したという。
その辺の辻褄が合わない、獣医が地元でうまくいかないのか獣医が嫌になって南米に移民したのかよくわからない、ただ結果的には乞食のようになって帰ってきたという。
その辺の事情がよく聞き取れないしわかりにくい、あのくらいの年になると話を聞いても何か明確でないことはよく起きる。
ともかく当時としては他の人よりは裕福な家だったことは確かである。
ただ女学校に入ることはできなかったから当時では下になるがそれでも尋常小学校で終わらないのだから恵まれていた。何かそこで生け花とか花嫁修行のようなこともしたといっていた。当時の学校は花嫁修行という側面が江戸時代から継続されていたとなる。
まず大正生まれでは字を書けない,読めない人はいない、明治生まれでは自分の祖母にあたる女性が字を読めないし書けないので苦労していた。代筆してもらわないから苦労していたのである。自分の父親も明治生まれだけど学校に入った形跡もないのに字を書けたのは不思議だった。丁稚方向していたからどこかで字を覚えたのだろう。
その小高のおばあちゃんの話でその尋常小学校に通うとき、坂道がありその崖の穴に乞食が住んでいて怖かったという。その乞食の話しは自分も姉から良く聞いた。
乞食は洞穴に住んでいたのである。裸でいたから怖かったというのは少女だったらそうなる。乞食は戦後もいたるところにいたのである。
子供にとってはやはり乞食は怖いものだったとなる。地名としては乞食坂とかとして残ることになる。
小高は実際は相馬藩では最初に城があったところだから一番古いとなる。相馬氏の歴史では古いから古い家も残っているとなる。小高はなんとか浪江のように住めなくはならないでも先はわからない、若い人が帰らないから家も直さないとか老人が多いから復興が進まないのである。
老人の価値とか役割は何かというと昔を語ることなのである。
その昔はその土地と密接に結びついている。記憶はその土地と結びついている時残りやすいのである。
だから古い碑でも神社でもその場所から昔を探るのである。
それでどこに住んでいたのかその土地のことを知らないとなかなか話が通じない
厚寿苑では今は外部から来た介護士が身体の世話をしているがそうした昔の話を聞きあわせることはむずかしい。
ただ身体だけを世話しているだけでありその土地と結びついて話を聞いたりできないことが問題になる。
身体だけの世話ならいいがやはり介護はそれだけではない、昔の話を聞いてその土地に刻まれたゆく人間の歴史を記す必要がある。
だから郷土史は祖父母から聞くことからはじまると前にも書いたのである。
いづれにしろ大正生れとなると今はかなり貴重だろう。
ただやっかいなものとなるが大正生まれが多いというのもやはり高齢化なのである。
百才もだんだんめずらしくなくなってくるかもしれない、もし六〇才から百才となる退職しても四〇才あるとなると第二の人生はさらに長くなるのが高齢化社会なのである。
自分は戦後十年は大正時代や戦前の生活の延長を経験しているので実感としてわかる。
乞食も知っているし燃料は炭だったとかも経験している。
だから大正時代とか戦前の人と話を聞いても通じる。でも二〇代とか三〇代とか四〇代でも高度成長時代になるから話しが通じなくなっているだろう。
そこに介護する側の問題もある。
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