相馬氏進出の経路
(文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
やえこめ(八重米)からまず相馬氏が進出した。
だからそこに初発神社を建てた
しふさ(渋佐)にも相馬氏は慶長津波の前に進出していた?
女場(おなは)という地名のある位置に注目
津波がここまで来ていた。
角部はつのほうとして記されている
塚原はつさはらとして記されている
村上も記されているからこの辺は相馬氏では重要な地帯だった
それは舟運の港があり女場(おなは)は最初の港かもしれない。
深い入江になっているし港に適していた。
そこまで津波が来ていたことはもともと海が深く入りこんでいたと思われるからである
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(小高)
おなは(女場)
つのほう(角部)
村上
つさはら(塚原)
鳩原(山側)
(原町)
かや浜
しふさ
高倉
羽鳥(はとり)
江井
太田
牛越
かや崎
大原
谷河原
はの倉(羽倉)
やいこめさい(八重米)
谷加平
牛来
太田中島
目々沢
高平
谷が原
高の倉
鶴が谷
大和田
新田
高平
おおわた
つるかや
やかはら
(鹿島ー北郷)
とちくほ
山下
やす倉
小池
ゆノ木
相馬氏の進出した経路はまずやえこめ(八重米)から坂を下って今の片倉村に入った。そこに初発神社を祭ったのはここに始まるとして祈願して建てたことがわかる。
片倉という地名はなく羽倉(はのくら)はてている。
大田神社が最初に相馬氏の移住先の根拠地になった。
この地名からは相馬氏の進出経路が見えてくるのである。
地名の中で牛来玄番という人が相馬氏に従ったものとして記されている。すると牛来というのは姓か地名化したのだろうか?巣江(須江)という姓もあり末であり末の森とか浪江にありその名が地名化したのか?姓が地名化することはまれである。
相馬地方に中世の館(たち)が38もあった。そこに相馬氏が進出してきて動乱になった。
在地の勢力となっていた豪族がいた。それは中世の館を中心にして治めていた。
つまり小高城とか牛越城ができるまえにそうした館が38もあったのである。
それはいわば草分け百姓が成長して館を構えその回りに人が集まったのである。
相馬氏は新来者でありそうしたもともとの地元の勢力を治めねばならなかった。
この辺一帯は鹿島区の鎌倉から来た岩松氏が最初に治めていたのである。
在地の勢力となっていた豪族がいた。それは中世の館を中心にして治めていた。
つまり小高城とか牛越城ができるまえにそうした館が38もあったのである。
それはいわば草分け百姓が成長して館を構えその回りに人が集まったのである。
相馬氏は新来者でありそうしたもともとの地元の勢力を治めねばならなかった。
この辺一帯は鹿島区の鎌倉から来た岩松氏が最初に治めていたのである。
中の郷(原町)、小高郷ばかりは御手に入りそのほかは服従しないために人夫でしばらく太田の別所の館を普請して在城された。
なぜ北郷と鹿島区か名付けられたかというとそれは単に太田や小高から北にあるからではない、相馬氏の支配領域に入らない地としての北郷なのである。だから文禄士録帳にはわざわざ北郷の・・・と記してある。岩松氏などの旧勢力が力をもっていたからそうなる。
そしてこの地図に示したように山側から海側に進出している。中心部は欠けている。
原町でも高倉とか大原に進出して鹿島区でも小池とか山下とかとちくほ(栃窪)に進出してゆノ木(柚木)の名が記されている。
柚木は今でも相馬市であり鹿島(北郷)の境になっている。それは相馬氏が進出していたからかとなる。
深野(ふこうの)から小池に出る所に古い墓地がありそこに武家の立派な墓がいくつも残っていることを紹介したがそれもこの相馬氏の進出経路と関係しているのかもしれない。
大原の名は一番多くでているから小池は隣り合って相馬氏が早くから進出していたのかもしれない、ただ小池の墓は江戸時代後期のものである。
そしてこの地図に示したように山側から海側に進出している。中心部は欠けている。
原町でも高倉とか大原に進出して鹿島区でも小池とか山下とかとちくほ(栃窪)に進出してゆノ木(柚木)の名が記されている。
柚木は今でも相馬市であり鹿島(北郷)の境になっている。それは相馬氏が進出していたからかとなる。
深野(ふこうの)から小池に出る所に古い墓地がありそこに武家の立派な墓がいくつも残っていることを紹介したがそれもこの相馬氏の進出経路と関係しているのかもしれない。
大原の名は一番多くでているから小池は隣り合って相馬氏が早くから進出していたのかもしれない、ただ小池の墓は江戸時代後期のものである。
原町では不思議なのはかや浜としふさ(渋佐)にすでに進出していた。かや浜はもともとはかい浜と呼ばれていたがかや浜と記されている。
つまり相馬氏が進出してきた時、かや浜と変えたのだろうか?
発音を聞き違えてそうなることが地名には良くあることだからである。
ただしふさ(渋佐)にすでに相馬氏が進出したとなると慶長津波の前なのである。
するとすでに渋佐に人が住んでいた。そこは湊の機能があったのだろう。
慶長津波の前に人が住んでいてかや浜にも人が住んでいても慶長津波の記録は残されていない。そこは相馬氏が進出して住んだ地域だともなるとまた解せないのである。
どうしても慶長津波のことが記録にないから探りえようがないとなる。
ただ700人溺死と一行記されたのは溺死となると溺れた人となる。
700人の死者を確認できたのかという疑問である。今回の津波でもそもそも行方不明者が多いだろう。当時はそれ以上に行方不明者が多くなる。探しようがないからだ。
だから700人溺死とは死者として死体があがり確認された人数である。
当時ではその何倍もの行方不明者がいたかもしれない、するとこの数からすればどれだけの被害があったのか、今回の津波と同じように大きな被害があったとなる。
そういうことが全く記されていないし謎なのである。
ただ慶長津波のすぐあとに中村城に移ったということがその時期があまりにも慶長津波があってからだから何かあったのかと詮索するのは当然なのである。
津波の影響があってその時期に移転を決められたということもある。
津波が大きな契機となり中村に移転したともとれるのである。
ともかくこの文禄士録帳は相当に貴重な記録である。
相馬氏関係では一番古い資料だから貴重だとなる。
何か郷土史でも貴重な資料がありまずそこから郷土史研究の手がかりとなる。
これはその一つである。
津波の影響があってその時期に移転を決められたということもある。
津波が大きな契機となり中村に移転したともとれるのである。
ともかくこの文禄士録帳は相当に貴重な記録である。
相馬氏関係では一番古い資料だから貴重だとなる。
何か郷土史でも貴重な資料がありまずそこから郷土史研究の手がかりとなる。
これはその一つである。
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