万葉集東歌二題の鑑賞
(空間と時時間の感覚が現代とあまりにも違っていた)
信濃(しなの)なる須賀(すが)の荒野(あらの)にほととぎす鳴く声聞けば時過ぎにけり
天(あま)の原富士の柴(しば)山木(こ)の暗(くれ)の時移(ゆつ)りなば逢はずかもあらむ
万葉集の歌はその後の古今集との歌の相違は大きい。
古今集になると宮廷内の歌になり一般の農民の生活とは離れた感覚の歌になった。
宮廷人の歌であり源氏物語のように宮廷内のことが話題の中心になる。
万葉時代はそうした宮廷内とは全然違ったものとして歌われている。
東歌は土地に根ざした歌であり方言ば使われいるから余計にそうなる
万葉集の歌は何を意味しているのか理解しにくいというとき
短歌の歴史で万葉集と古今集の相違が大きいから理解しにくくなる。
古今集になると生々しい庶民の土の匂いのようなものがなくなり
何か宮廷内の遊びごとになり日々の生活から離れてしまった。
そもそも庶民の歌はなくなり宮廷人の歌しかなくなったのだから当然だとなる。
自然でも宮廷内の庭を見ている自然とか何か自然を人工化した自然を歌うようになる。
それは現代にも通じている。
とても狭い庭では自然を現し得ないのである。
だから京都に庭の文化があるとしてもそれは雄大な自然とはあまりにも違う。
人工化したし自然である
信濃(しなの)なる須賀(すが)の荒野(あらの)・・・万葉集には地名が歌われることが多いというときその場所に特別な思いがあり歌われている。
信濃という全体があり須賀の荒野がある。当時は荒野がどこでも広がっていたから珍しくない。その広大な荒野にホトトギスが鳴く、それか時を告げる声として広大な荒野に響いている。
現代の時は機械で一分一秒が刻まれている機械の時に酷使されている。
万葉時代は広大な自然空間がありそこに過ぎてゆく時である。
要するにここでは空間と時が一体化している。
現代ではこうした広い空間で時を意識することはない
例えば常に時は学校であれ事務所であれ工場であれ家庭ですら何か狭い範囲で時は意識されている。常に時に追われているのが現代人なのである。
それは空間の感覚が失っているからである。
働く場所でも工場とか事務所とか狭い範囲で過ごしているからそうなる。
そういう中で一分一秒で時が刻まれて酷使される時間の中に生きている。
奈良時代は200万人くらしか日本全国で住んでいなかったというのも意外である。
その時日本が広大な原野の部分が広がっていたのである。
だから空間の認識も違っていたのである。
ここでは時は広大なな空間にありホトトギスが鳴くことによって時の移るのを知る。
雄大な自然が時を知らせている。
雄大な自然が時を知らせている。
天(あま)の原富士の柴(しば)山木(こ)の暗(くれ)・・・
これもそうである。天の原というときさらに広い空間を視野に入れている。
冨士山の壮大な姿が望まれ柴山というのは柴は燃料として使うものとして生活がある。
そういう雄大な空間があり生活があり人と人が会うのである。
文明はそうした雄大な自然の空間も奪ったのである。
絶えず空間が建物でさえぎれさまざまなものでさえぎられている。
人間があうというときそれは雄大な自然空間の中で会うのではない、林立するビルの下とか狭い路地とか狭い家の中とか何か狭い押し込められたような所で会う。
万葉人は広大な自然空間で合い別れる。
すると人間が会い別れるとしてもその後に広大な自然がそこに広がっている。
冨士山の壮大な姿が望まれ柴山というのは柴は燃料として使うものとして生活がある。
そういう雄大な空間があり生活があり人と人が会うのである。
文明はそうした雄大な自然の空間も奪ったのである。
絶えず空間が建物でさえぎれさまざまなものでさえぎられている。
人間があうというときそれは雄大な自然空間の中で会うのではない、林立するビルの下とか狭い路地とか狭い家の中とか何か狭い押し込められたような所で会う。
万葉人は広大な自然空間で合い別れる。
すると人間が会い別れるとしてもその後に広大な自然がそこに広がっている。
単に人間が会う別れるにしても今とは感覚的に相当違っていた。
ただ会う別れるにしても深い余韻を自然の中に反映されていたのである。
ただ会う別れるにしても深い余韻を自然の中に反映されていたのである。
時の流れも悠長である。
時移(ゆつ)りなば逢はずかもあらむ
時が移ればあわてなくてもまたあなたと会えるでしょうという感覚であり追われて会うのとは違う。この広大なの天地でまた会うことがあるでしょうという時間感覚なのである。
ここには不思議なのが言葉の感じから例え別れても必ずこの広大な天地の中に二人は会うというたことを暗示している。合わなということはないでしょう・・・という確信みたいなものが歌われている。だから何か会う別れるにしても悲哀感が感じられないのも不思議なのである。
要するに現代ではこうした空間感覚でも時間感覚でももてなくなった。
だから万葉集のような歌は一見なんでもないようでも今になると作れないし理解できないものとなっているのだ。
ここには不思議なのが言葉の感じから例え別れても必ずこの広大な天地の中に二人は会うというたことを暗示している。合わなということはないでしょう・・・という確信みたいなものが歌われている。だから何か会う別れるにしても悲哀感が感じられないのも不思議なのである。
要するに現代ではこうした空間感覚でも時間感覚でももてなくなった。
だから万葉集のような歌は一見なんでもないようでも今になると作れないし理解できないものとなっているのだ。
この二つの歌は調べ自体が日本語の大和言葉でまるで水が流れるように自然に歌われている。言葉がよどみなく詩となっているのだ。
つまりその国にはその国から生まれた言葉があり言葉はまず詩語であったというとき万葉集の歌はまさに日本人の原点となるものがあった。
万葉集の歌は多様であり古今集とか宮廷人の歌とはあまりにも違っていた。
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