2014年11月20日

相馬藩内に鈴木、渡辺の姓が多いのはなぜか? (熊野から黒潮に乗り伊豆から常陸と移動した水軍の末裔)


相馬藩内に鈴木、渡辺の姓が多いのはなぜか?


(熊野から黒潮に乗り伊豆から常陸と移動した水軍の末裔)

●立谷氏は熊野水軍、渡辺氏や天野氏は伊豆水軍の系統

立谷家ル―ツ Vol.3

鈴木重原は元々義経に従って勲功あり、功績を上げていた。その後紀州に帰ろうとしたが、里人に尊ばれるに及びこの地宇田郡中野邑にとどまり、宇田郡の那主と称し数村を領し、熊野大社をまつり祭祀を怠らなかった。
 また、建武年中(1330年〜)国司北畠顕家は特に熊野神社を尊信し大社として多くの神官、社僧をおいて中野地区は大繁栄していた。その後、乱世時代に成り下火になっていった。鈴木重原は中野左近亮の先祖にあたり立谷と名を改める。

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2004年12月25日
立谷家ル―ツ Vol.2
文治五年三月(1189年)泰衡が義経を岩手県衣川高舘に攻めた時、鈴木重原(紀州藤代和歌山の住人で熊野三山新宮・衆従の子孫に当ると思われる)
 鈴木重原は、兄重家が義経と共に戦うと聞き、義経と兄重家を慕って家臣安子、蟹田、石田、山津田氏等を率いて奥州に下る途次、既に衣川の高舘は灰燼となり皆闘死したことを知り、成すところなく、やむなく宇田郡中野邑にとどまった
 http://blog.livedoor.jp/tachiyafamily/archives/2004-12.html
 
 
 天野氏(あまのし、あまのうじ)は日本の氏族、藤原南家工藤氏の一族(藤原北家の一族足立遠元を祖とするとも)で、伊豆国田方郡天野郷(現・伊豆の国市天野)に居住した地名を取って天野と称した。天野氏は後に遠江守護となった今川氏と結び、国人勢力として遠江にて共に力を拡大した。遠江国のほか、天野氏の支流が駿河国・相模国・三河国・尾張国・甲斐国・安芸国・能登国等に繁延している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%87%8E%E6%B0%8F

その先祖渡辺喜兵衛は伊豆の舟大将として、徳川家康の信任厚く護送役人をつとめた。
豊臣家5大老のひとり宇喜多秀家が関ヶ原の合戦に敗れ、八丈島へ流された際、護送の任にあたったのもこのひと。
http://www.town.matsuzaki.shizuoka.jp/FMPro?-db=m_faq_02.fp5&-format=p01f.html&-max=all&-sortfield=NO&NO=761&-find

長浜城址

長浜城址 海上に突出した小丘全体が城で、戦国時代の北条水軍の根拠地。
天正八年(1580)の武田氏との海戦では、 前線基地として、水軍の主力が集結しました
http://www.izunet.jp/manabu/c-izk.htm


熊野の鈴木氏は、熊野信仰の発展とともに各地に発展し、全国一位を占めるほどになった。もと穂積氏といい、紀州新宮を本拠とし、榎本・宇井と三家をなした。もち名草郡藤白湊を中心として発展、同地に王子社があり、水運の要地であった関係から、熊野湛増の「頼切りたる侍」として、熊野水軍の重要な要素をなした。
 源平争乱のときには、摂津の渡辺党とともに、源氏の水軍として活躍し、義経の都落ちにも従った。四国・九州にも熊野信仰を伝えているが、やはり東海から関東にかけての活躍が著しい。三河では、幕府の御家人として江戸に移ったものが三十数家というから、如何に鈴木党が三河に栄えたがわかる。下総の香取郡・匝瑳郡にも多いが、江戸の発展が何より鈴木姓の増加をもたらしたものと思われる。
 伊豆の西海岸江梨にも、鎌倉幕府の水軍として重きをなした鈴木の一族があった。室町以降、鈴木党は水軍の将として各地に迎えられたようであるが、その一方、熊野のすぐれた漁業技術と、熊野の信仰を背景として、鎌倉中期には、三陸の海岸にまで進出した。http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/busi_myo2.html

 
●古代から熊野、伊豆水軍は知られていた
 
島隠り我が漕ぎ来れば 羨しかも 大和へ上るま熊野の船
 
 柿本人麻呂と並び称される大歌人、山部赤人(やまべのあかひと)の歌。
 
万葉集には熊野の船と特定して四首がある。熊野の船がどういうものかわからないにしろ熊野の船は奈良時代にすでに知られていたのである。
熊野は地形的に海に迫って山があるから山には楠の木などの造船に適した木があり造船が盛んになっていた。
この地形は伊豆と相似形であり伊豆も造船の基地として古くからあった。

 [五年]冬十月に、伊豆国に科(ふれおほ)せて、船を造らしむ。長さ十丈(とつゑ)なり。船既に成りて、試に海に浮くるに、便ち軽く泛び疾く行くこと馳するが如し。故、其の船に名(なづ)けて枯野(からの)と曰ふ。船の軽く疾きに由りて枯野と名くるは、是、義(ことわり)違へり。若し軽野と謂へるを後人(のちのひと)訛(よこなま)れるか。(応神紀)
 三十一年の秋八月に、群卿(まへつきみたち)に詔して曰はく、「官船(みやけのふね)、枯野と名くるは、伊豆国より貢れる船なり。是朽ちて用ゐるに堪へず。然れども久に官用(おほやけもの)と為りて、功(いさをし)忘るべからず。何ぞ、其の船の名を絶へずして、後葉(のちのよ)に伝ふること得む」とのたまふ。群卿、便ち詔を被(う)けて、有司(つかさ)に令(のりごと)して、其の船の材(き)を取り、薪として塩に焼かしむ。是に五百籠(いほこ)の塩を得たり。則ち施して周(あまね)く諸国(くにぐに)に賜ひ、因りて船に造らしむ

堀江漕ぐ 伊豆手の舟の 楫つくめ 音しば立ちぬ 水脈早みかも
(巻20/4460)


古代から海に囲まれた日本だから船の技術が発達していても不思議はない、でも海の歴史はわかりにくい。遺跡としても残りにくいからわかりにくくなる。そしていたるところで洪水であれ今回のような津浪であれ栄えた港自体が消滅しているのがかなりあるのだ。
相馬藩内から黒潮が流れる海岸一帯には熊野信仰が本当に多い。なぜこんなにあるのだろうかというくらい多いのである。そのこと自体が熊野信仰をもたらした人々が相当数いた結果なのである。

相馬氏は千葉氏から出て千葉県から移動してきたとしても鎌倉時代に関東武士団が東北に移住したことから鎌倉武士団の姓が東北に移動して広まった。鎌倉時代にさかのぼる姓が東北では一番古いとなるしそこまでは史実的にもたどれるのである。
南相馬市の鹿島区の岩松氏は鎌倉時代に烏崎に船で到達したという伝説がある。
その時船運は相当に発達していたのである。だから戦国時代は伊豆の海、相模の海、駿河湾で北条氏などや武田水軍までが交わり熾烈な海上での水軍の三つ巴四つ巴の激しい戦いがあったのである。海上の派遣争いがあった。それだけの戦いをするには相当な船の技術がなければできない。
熊野水軍、伊豆水軍などはそれだけの力を古代からもっていたのである。

だから相馬藩内にはとにかく鈴木とか渡辺とかが多い。これは全国的にそうでも相馬藩内では目立った姓であり主な姓になる。それは熊野伊豆などの水軍の系統につながるものであった。
文治五年三月(1189年)泰衡が義経を岩手県衣川高舘に攻めた時、鈴木重原(紀州藤代和歌山の住人で熊野三山新宮・衆従の子孫に当ると思われる)
 

鈴木重原は、兄重家が義経と共に戦うと聞き、義経と兄重家を慕って家臣安子、蟹田、石田、山津田氏等を率いて奥州に下る途次、既に衣川の高舘は灰燼となり皆闘死したことを知り、成すところなく、やむなく宇田郡中野邑にとどまった.
 

だからこれなどは興味深い、義経は山伏とか水軍関係の人たち、この人達は村上水軍で知られるように元は海賊だったのである。水軍の元はバトイキングでもイギリスの海軍でも海賊だった。そういう人たちが義経臣下になっていた。だから頼朝に追われるときも黒潮の流れる関東から常陸から東北へ逃れたという説もでてくる。
黒潮海流は船には大きな影響を及ぼしていた。だから黒潮文化圏が熊野から東北まで海岸地帯に生まれた。それは奇しくも今回の津浪の被害地域と一致していたのである。
ただこの海流は船に乗ってみないとわかりにくい、船が山を目印にして航海していたというのも乗ってみないとわかりにくい。つまり海とか船が理解しにくいのは自ら体験できないからである。陸地だったらある程度体験できるが海は船は体験しにくいから船のことがわかりにくいのである。
鎌倉時代から南北朝時代も畠山氏も水軍を司る氏であったり深く海と関係した氏族だったのである。だから鎌倉時代から南北朝時代は海からの視点がないと解読できないのであるただ港は一時栄えても跡形もなく消えてしまうことがある。
それが今回の津浪で証明された驚きであった。

●相馬氏にとって慶長津浪は支配地域を広げる契機となって中村に城を移した

(文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
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これだけ舟のことがでていて村上ニというのが記されている。村上ということに相当にこだわっていたのである。村上に小高から城を移そうとしたのは単なる思いつきではない、明確な意志があって村上に城を建てようとした。
そして中世に塚原には大きな港があり蔵院まであった。それだけの船が集まる港だった。海運で栄えていたのである。
つまり明らかに村上は小高い丘であり
長浜城址 海上に突出した小丘全体が城で、戦国時代の北条水軍の根拠地。
天正八年(1580)の武田氏との海戦では、 前線基地として、水軍の主力が集結しました http://www.izunet.jp/manabu/c-izk.htm

この長浜城と同じ機能を有する場所として明確な意志でもって選定されたのである。
小高には街中にも貴布船神社があり村上にも祭られている。これは船の神を祭ることでもあり小高が浮船城と言われたのも船と関係していたのである。
小高だけではない、八沢浦も天然の良港であり船運があった。
海老村には天野氏がいてこの天野氏は伊豆水軍の末裔なのである。
何を運んだかというと重に塩を運んだ。当時は塩が貴重であり塩がすでにかなり作られていて運ばれていたのである。

八沢浦 小魚を漁して浦舟20艘、13漁船、七荷運舟 浦辺に塩場、釜屋あり 村人塩を焼く (南海老村)

七荷を運ぶ大きな船が出入りしていたのである。これは磯部でもそうであり原町の泉氏も海運を担って力をもっていたのである。

ではなぜそうした港が栄えていたことが忘れられたのか?

それが津浪と関係していた。津浪で今回のように小高が甚大な被害があったことでもわかる。津浪が来た所はもともと海で港だった。そこに多数の船が停泊していた。
それが慶長津浪で壊滅したのである。
それが契機となって相馬市前の中村に城を慶長津浪の一カ月後移したのである。
そんな大事件をなぜ一行しか記されなかったのは謎である。
相馬氏進出の経路で解明したように相馬地方は最初は鎌倉から鹿島区の烏崎に船できたといわれる岩松氏が支配していた。それは原町の新田とかも支配していた。
そのあとに入ってきたのが相馬氏だった。

今の鹿島区は北郷となっていてそこは単に小高より北というだけではない、そこは別な勢力があり支配できなかったのである。 原町の泉氏の支配していた地域もそうである。
かや浜とかしふさ(しぶさ)までは進出しても泉までは入っていないのである。
慶長津浪によってそうした旧勢力が大打撃を受けて相馬氏は旧勢力を支配しやすくなった。だから一カ月に中村に城を移したのである。
相馬氏の進出にとって津浪はかえって支配地域を拡大するのに都合がいいとまでなっていたのである。
だから津浪の復興のために公共事業のために中村に城を移したことはありえないのである。


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この本は面白い、伊豆水軍は東北にも関係していた

wavesssss123.jpg

これは水軍の紋章にもなる


タグ:相馬藩の湊
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