瀬戸内海ー春の俳句連句
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洲本城波のやさしく春の月
船見えて若草萌ゆる瀬戸の海
夕日さし船の往来明石城
汽笛鳴り大きな船や瀬戸の春
春潮や大阪へあまた船の入る
重なりて瀬戸の島々春の海
昔なれ島々の港春の月
潮流の早き流れや燕来る
常夜灯潮流の岸辺椿散る
三重塔島の栄や落椿
瀬戸の島蝶の生まれて島わたる
船を待つ暇のあれや島の春
春日さす待合室や船を待つ
船遅く菜の花の島めぐりさる
ひた走る電車や海沿い桜咲く
思い出す旅というのも不思議である。自分は瀬戸内海を旅したときもわざわざ遅くなるようにしていた。今だったらいくらでも早く行ける、それが旅の情緒をなくしている。
旅がなくなったというとき早すぎるからである。
歩いていた時代の旅と今は百倍の速さになっている。すると心に映し出されるものは記憶できない
めまぐるしく過ぎ去ってゆくからできない、団体旅行などでは人としゃべる時間にとられるとまた心に残らない、つまり旅の時間は回りの景色に注意しなければならない
旅がなくなったというとき早すぎるからである。
歩いていた時代の旅と今は百倍の速さになっている。すると心に映し出されるものは記憶できない
めまぐるしく過ぎ去ってゆくからできない、団体旅行などでは人としゃべる時間にとられるとまた心に残らない、つまり旅の時間は回りの景色に注意しなければならない
それだけで相当な時間の余裕が必要である。
ここで一時間次はここで30分などと計画していたら旅にはならない
そういう旅は印象に残らない、ここは景色がいいから夕方までいて夕日まで見ようというのがいいのである。
だから時間が制限されたら見るものも見れないのである。
現代の旅はそういうことが多すぎるのである。
速度をわざと落とさない限り景色も心に残らないのである。
ここで一時間次はここで30分などと計画していたら旅にはならない
そういう旅は印象に残らない、ここは景色がいいから夕方までいて夕日まで見ようというのがいいのである。
だから時間が制限されたら見るものも見れないのである。
現代の旅はそういうことが多すぎるのである。
速度をわざと落とさない限り景色も心に残らないのである。
瀬戸内海を旅したときはすでに20年とか30年まえとなになった。
ただその時わざとゆっくりとした旅をしていた。
こういう時間に余裕をもてるのが贅沢であり金を使うことではない
その時間が消失したときつくづくそう思うようになった。
その場所にいつでも気軽に行けると思っていたが今は行けない
そういう時が誰にでもやってくる
あそこにもう行けないのかと思うときショックである
そうてるとあそこに長い間いたことが貴重だったとなる。
ただどうしても記憶は定かでなくなる
なんとなくこんな雰囲気だったなと俳句にしてみたのである。
こういう俳句が作れたのはやはり瀬戸の島々をぶらぶらする時間があったからである。
旅というのは意外とできない、家族を持ち勤めていたらこんな旅はできない
二三日の保養が精一杯になる。ただ移動して動いているだけなのである。
だから旅するということは意外と今は交通が発達して楽に見えてもできない
その時間が与えられないのである。これも皮肉なことである。
とにかく旅するなら一カ月間くらい余裕みてするのがいいがそれが勤めていればできないまず今はそもそも旅人というのはいない、旅人になれない、江戸時代辺りだとみんな旅人になっていた。それだけの距離を歩いて行くし時間がかかるからである。
瀬戸内海の春は春らしい、船が好きであり電車も好きである。車は好きではない
車が旅を破壊したということはある。船はやはりゆっくり進んでいる
電車も普通電車なら遅いから旅情がある
新幹線になるともう過ぎ去るだけになる。
瀬戸内海は昔だったらやはり生活があり活きていたのだろう。
港々が生活の場になっていた。
それも車時代になると変わった、運輸は船ではないだろう
ただ島から島へは橋がなければフェリーになるが橋がかかると港も廃れた
そこちまた旅情を牛なっている
瀬戸内海は潮の流れが早い、それが内海でも違った印象を受ける
その潮の流をしらないと船は操れない
瀬戸内海から村上水軍とか生まれたのは必然だった。
瀬戸内海はやはり日本の海としては魅力がある
日本の海では唯一古代から船の交通路となっていたからである。
その潮の流をしらないと船は操れない
瀬戸内海から村上水軍とか生まれたのは必然だった。
瀬戸内海はやはり日本の海としては魅力がある
日本の海では唯一古代から船の交通路となっていたからである。
淡路島の洲本に泊まったがあそこの海岸の波は穏やかだった。
自分の住んでいる太平洋岸は波が荒いから穏やかでやさしく見えた。
あそこには松がありいい場所だった。
洲本の城も小さくてかわいらしく見えた。
淡路島は大きい島でありただ洲本意外はわからない
結局今は思い出を綴る作業をしているのが自分である。
それを俳句でも詩でも作品化している
一連のものとなるときそれが一つの作品となるからである。
単発ではなりにくいのである。
だから一連のものとしてつなぎあわせる綴る作業をしている
禍福はあざなえる縄のごとし
江戸時代だったら
伊勢なんか遠い、もう一生に一度の旅だ
一カ月間はゆうゆうかかるな
歩いて歩いて目的地につく
一カ月間は農作業は休みだ
じっくりと見てまわるよ
伊勢か新幹線と数時間
パリかニュヨークか
飛行機で何時間
どこでもすぐに行けるな
でもそこで過ごす時間がない
毎日が勤めだからな
世の中とはこういうふうにできているんだよ
なんでも満たされることはない
便利だと思っても時間がなくて旅が楽しめない
肝心の時間がないんだよ
家族サービスだ、勤めは一カ月間休んだら首だよ
すぐに行けるんだけど時間がないんだよ
世の中こうなっているんだよ
原発は便利なものなんだけど
電気は便利なものでいいんだけど
原発事故になったろう
二つのものを人間は満たせないようにできている
便利が不便になり不便も実はいいところあったんだよ
何でもいいことはこの世にはない
禍福はあざなえる縄のごとし
時代時代に幸不幸があるんだよ
タグ:瀬戸の春
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