2015年02月11日

冬樹(農家は人間に存在感を与える)


冬樹(農家は人間に存在感を与える)

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労務者や夕日のさして冬の草

我が庭に新しく置きし石一つ雪の積もりて重さを増しぬ
蔵に雪二本の樹の変わらずに池は凍りて農家の暮れぬ

この辺は今は除染の労務者が多い、3500人くらい入っている。だからいたるところにプレハブが建っている、またここに建ったのかとなる。
だからホテル関係や食堂や労務者が使うものなどは売れている、コンビニも夕方になると混んでいる。
何か人が多くにぎわっているから復興しているのかと外から来た人が言っていたがそれは地元の人ではない、外から来た人でにぎわっていたのである。
地元の人はパチンコなどで遊んでいるだけである。
補償金もらっているし高齢者が多いから働かないのである。
これも矛盾した話である。
あっち系の人が入っている、入れ墨の人が湯に入ってのも見た。
でもそういう人達だって働いているのである。
地元の人こそ遊んでいる人こそ非難されるべきだろう。

人間の存在感は人間そのものにあるが家とか土地とか回りのものによって存在感を与えられることがある。
特に田舎では家と広い土地と田畑がもっていることで存在感が与えられていた。
川子の高台の家はいつも存在感あるなと見ている。
二本の樹がまるで夫婦のようにあり蔵もあり変わりないのだが存在感がある。
何か毎年見ていてもそれがさらに存在感を増してくる
あの二本の樹がますます一体感をもたらしている
自然のものはそういうふうに時間の中で存在感をましてゆく
それは石でも同じなのである。
庭に新しい石一つ置いたがこれも時間の中で存在感をましてゆく

結局は自然を見るときまた人間を見ているのである。
田舎では自然とか田畑とか家がありそれぞれが存在感をもつ
だから復興団地とかなると存在感が消失するのである。
人間はもう年とってくると何か変わらないものがいいし変わらないものに価値を認める
ここに変わらずに二本の樹があるな、ここに五本松があるなということで心も安定する
変わることが苦手になる。
だから津波とか原発事故で老人は変化に耐えられないということがある
それで精神的にまいってストレスで死んだり自殺した人もいたようだ。

都会は豪邸に住んでも人間の存在感がない、存在感は自然の中で暮らす中で与えられている。一軒農家は存在感があり精神的安定感を与えているのである
ただ田舎でも街内になるとそうは感じないのである。
ともかく一身上でも回りでもあまりにも変化が大きすぎた。
コミニュティも破壊されたりこの変化の衝撃はつづいている。

農家の二本の樹は信頼を示している
それは変わらずにそこに立っている
風が鳴り枯木となり信頼を深める


そこに安心があり安らぎがある
その風景はまさに精神的に作用する風景なのである。
信頼というとき、自分の一身上では裏切りしかなかった
信頼は全くなかったから余計にそう思った。
人間が信頼しあうほどむずかしいことはないことを経験した
そもそも東電とか政府が信頼すべきものではなかった
信頼関係がなかったことが事故につながった
何事信頼関係がないと破壊されるのである。

タグ:農家
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