2015年02月27日

福寿草(百歳生きる時代の人生はどうなるのか?)


福寿草(百歳生きる時代の人生はどうなるのか?)

春寒し老々介護のつづくかな
福寿草百歳生きる時代かな
春北風(はるきた)に松風鳴りて丘の上

今の季節はこんな状態である。まだ寒い、春北風(はるきた)というのも誰が作ったものか日本らしいし俳句的だとなる。
普通だったら北風だけど春に吹く北風はまた違っている。
近くの山とは言えない丘の森に松が多く風に鳴っていた。
近くに森とか自然があるのがいい、
海の方の松林は津浪でなくなったから松風は聞けなくなった。

今の時代はこれから百歳の人が百倍とかに増えてゆく
百歳生きればそれで苦しいということもあるがまた幸福もある
それは個々の事情によって家によって違ってくるのである。
なんでも統計的数字として処理するの間違っている
老人にしても無用だから金がかかるから早く死んだ方がいいというのも
統計的に考えるとそうなるがこれからは百歳生きて何かを成す人もでてくる

百歳の人生としてもし人生を見るならばどうなるのか?
六十歳あたりまでは人生で経験をつむ期間であり
六十歳あたりからその経験から芸術家なら作品をしあげてゆく時間となる
今までだったら六十歳で終わりだからそんな長い時間を想定できない
でも百歳時代になるとそういう時間設定が可能になるのだ。

つくづく人間の生きる時間は本当に限られている
終わってみればこれだけなのかとみんななる
束の間の人生でありただ時間を浪費したなとなっているのが普通なのである。
自分の場合も旅をしているうちに時間はたちまちすぎてしまった。
五十歳から海外旅行をはじめてしたのだから今は旅するにしても海外まであるから
とても旅しきれないのである。

人間は漫画を読んでいようがゲームしてようがなにしてようがたちまち時間はすぎるのである。
このことを老人になったら一番後悔することなのである。
若いときはこのことがどうしても理解できないのである。
時間はありあまって暇でしょうがないとなっている
自分も別に仕事もしないのに暇だったがやれたことはわずかだったのである。
会社勤めしていれば会社が人生でありそれがすべてであり終わる
会社なんかに尽くして無駄だったといってもそれがすべてになるである
だから会社だけに価値を置いた人は退職したらもぬけの殻のようになってしまうかもしれない、自分のよりどころを根こそぎ失ってしまうからである。

自分の母親は百歳生きてもその内容はただ奴隷のように働くだけであり他は何の関心もない、花にもなににも関心がない、百歳生きてもそれが生きたのかともなる
だから長く生きたからそれで人生が充実したともならないのである。
人生はおそらく内容にあり短く生きても内容があれば長く生きたと同じかもしれない
自分は今は何か内容ある時間を生きている
それは若いときとは違う時間の感覚なのである。
何かを理解できるということが違っている
若いときはいろいろなことを本を読んでも理解できないのである。
ほとんどの本がすぐにだいたい理解できる
それを自分なりに解釈できる
創造的読書ができる、だから批評家に向いているのは老人の方だとなる
ただその本でも前に読んでいたのならできるが新しいのになると理解できないのがある
これもまた老人の特徴なのである
何でも新しいものが苦手になる、これまで経験したものは理解しやすいということである
タグ:福寿草
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