2015年06月16日

情報過多時代にどう対処する? (NHKクローズアップ現代ー買い物は“おまかせ”スタイルで!? )


情報過多時代にどう対処する?

(NHKクローズアップ現代ー買い物は“おまかせ”スタイルで!? )



今やインターネットとかで買い物も情報化している。そして情報過多に悩んでいる。
情報が多すぎて自分でも選びきれないというのが問題になる。
それはインターネットでは常に起きている。
種類が多くて何でもあるとしても何を買っていいのかわからなくなる。
そもそも買い物だったら昔だったら隣近所の店であり次にスーバーとかイオンとか
買い物の種類が増えたきた。
だから自分も買い物が仕事になっている。様々なものがりそれを選びきれないしわからないものがまだまだある。
意外といいものを買うのはむずかしい。特に野菜とかは生ものはむずかしい。
それから調味料とか料理に使う細かいものもわかりにくいのである。

自分はもうインターネットでプログで発信するために情報にアツセスしたり本を読んだりするからもうそんなにいろいろなことを一人でできないのである。
もうスーパーマンになるほかない状態である。
家事だけでも実際に書類とかいろいろあるからそれだけでも頭に入れることが手間になるそれは自分だけではない他の人も情報が多すぎて仕事するにもどうしていいかパニックになっている人が多いだろう。
人間が情報を処理できるのは限界がある。つまりもう情報はとても消化しきれなくなっているのだ。
情報の性質として情報は天文学的無限大であり常に膨張しているしグローバル化するグローバルに膨張しているから一人の人間の頭では処理しきれないのである。
情報の性質としては

●一つの物事一つの場所の深化する情報
●広域化グローバル化する情報
●視覚化する情報

一つの物事とか一つの場所で深化してゆく情報は江戸時代とかがそうであった。
一つの藩内からほとんど出ることがないからその中での情報を知ればいいのであり外部の情報はそれほど知るなくても困ることがなかった。
人間もそうした狭い範囲で親密に暮らしていたのである。

今の情報は単に情報でなくても物でもグローバルに流通しているときその情報を広げれば無限大になる。とてもそんな能力は人間にはない。
そして現代の特徴はデジタルカメラなどで動画になり写真の情報も膨大になっている。
その視覚化された情報でもそこには写真からよみとるものが様々にありまたふえてくる
そして原始的な情報の取得は対面的なものである。そこには活字だけではない、声や身振りや表情という情報を伝えるからそれは一番心に残りやすい。
でもこの対面的なものはわずかに限られた人にしかできない
外国になるといくら交通が便利なになっても直接合うことはむずかしい。
直接合うことわずかであり限られているからどうしもその他のことで知ろうとする
医者でも直接みてもらうとなると病院で半日待っているとか手間がかかりすぎるのであるそれで医者が説明するのは二三分なのである。
それだけで何かわかるかというと一方的に聞いているだけで詳しく聞くこともできないのである。
でも直接医者に聞かないで自分で判断するとまた命取りになることを経験した。
ある人は癌になり医者にも行かずインターネットとかで情報を調べて漢方薬の医療とか民間医療のようなことをして悪化して死んだとかもある。
これも様々な情報にまどわされてそうなった。
要するに癌の情報も膨大になると情報の迷路に入ってしまっておかしなことになる。

学問でも例えば本を読む場合でも今や古本から無数の本を知るしアマゾンでボタン一つ手に入る。だから何か調べて書こうとするときやはり情報が多い方が詳しくなるから毎月古本とかなるべく安いものを十冊は買っている。
でもその本を一冊一冊詳しくは読まない、要点だけをさーっとよんで利用しているだけである。
何回も今でも読んでいるのは古典的なものである。
そういうものは何回読んでも新たな発見がありなるほどいいことを言っているなと感心するものが何度読んでもある。
一種の古酒のような味わいになるのかもしれない。
ただそうして何度も読む本と何か学術的に調べる本は違っている。
それはあることについて様々な視点で書かれたものを知る事がいいからその方面の本を集める。
しかし本は中味はなかなかわかりにくいので古本だと立ち読みのようなことはネット上でもできないのでこまる。

そして電子本は読みにくいことがわかった。自分のように要点だけを読もうとするパラパラとめくり全体の要旨を知ることができないのである。
どうしても一ページづつ読むから手間になるからできない
そして活字を本で読むのと電子文字で読むのも相当に違っている。
何か本の方が記憶に残りやすいのがなぜかわからない。
だから本というメデアは出版社とか書店がなくなってもなちならないのかもしれない
要するに本で読みたい人は残る。でも出版社とか書店で本を買うということはなくなる
アマゾンのような販売になるだろう。

いづれにしろこの情報過多の時代でまた時間が奪われるのも問題だろう。
ただ本にしても今ふりかえると情報がずいぶん少ない江戸時代のようだったともなる。
なぜなら本自体が田舎だ専門的なものはほとんどなくベストセラーのようなもの売れるものしか置いていなかった。
それで仙台の方に度々自分が行っていたのは本を買うためだった。
その仙台の大書店でも本の種類は膨大だったのである。
それがわかったのはアマゾンで本を買うようになってからである。
地方では本は極端に少ないし古本は神田の書店のようなところでしか買えない時代があった。
そういうことでも田舎にいても今でも情報格差はないのである。
何か調べる気だったら田舎でもできる。

今は金に糸目つけず買っているからかなり専門的な貴重な本も手に入るのである。
そうはいっても本も買い切れないし読みきれない
だから若い人は今までもそうだったが情報過多になりつまらないものを読んで時間を奪われることである。
何が必要な本でももはや自力では選ぶこともできないかもしれない
本の内容を若いときは簡単に読めこめないからである。
要するに本を読むということは自分の文脈で読むとういことである。
その文脈の中でインターネットの検索があり本がある。
本には確かに詳しい専門的な情報があってもそれは自分の文脈で利用する
それではじめて本を読んだとなるのである。
あとはただ受け身だと頭にも残らないしただ読まされているというだけになってしまう。そういうものはたいがい忘れて何も残らないである。
つまり本を読むことは自分なりに解釈することである。
そして本を読んだことを自分の文脈で解説すれば取り入れればそれが他人にも有益となるのである。
タグ:情報過多
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/141867236
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック