石巻の歴史
(東北の港でもあり様々なテーマがあった)
雄勝の硯
ほまち
「帆待ち」「外待ち」と書く。
このあたりでは「ほまちかせぎ」と使われることが多く、「ほまづ」と濁ります。方言ではなく、国語辞典にも「出帆を待つ間の船頭さんの稼ぎ」「臨時の収入」「へそくり」と載っています。多く東北地方で言われてきた言葉と但し書きがついて。相馬に行くと「小遣い」「駄賃」の意味となるそうです。
http://archive.ishinomaki-support.com/index.php?gid=10161
このあたりでは「ほまちかせぎ」と使われることが多く、「ほまづ」と濁ります。方言ではなく、国語辞典にも「出帆を待つ間の船頭さんの稼ぎ」「臨時の収入」「へそくり」と載っています。多く東北地方で言われてきた言葉と但し書きがついて。相馬に行くと「小遣い」「駄賃」の意味となるそうです。
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この難破船事故の積荷には仙台藩の城米が主力では有ったのですが、その他には荒銅、堅炭、辛子、大豆、和薬等も積んでいたのですが
http://red.ap.teacup.com/hangui/1498.html
http://red.ap.teacup.com/hangui/1498.html
仙台藩は 石巻、 気仙沼などの良港にめぐまれ あわび ふかひれ
などの高級海産物を長崎を通じて 輸出して 外貨を稼いだ。 さらに 鉄、
金などの鉱山を持っていた。 仙台藩の経済力は 幕府にとっては 脅威
であった。
石巻の人がしきり言っていたのは「雄勝の硯」のことだった。この職人の一団が住んでいたところに津波が来てその職人の一団が死んで困ったという。
スレートという材料が出てこの硯の歴史は相当に古い、それで石巻から江戸に出していたのかと思ったらそういう記録はない、すると伊達藩とかで使われていたのか東北中心に使われていた硯だったのかとなる。
スレートでは新しい東京駅の屋根に使われたとかテレビで放送されていた。
スレートという材料が出てこの硯の歴史は相当に古い、それで石巻から江戸に出していたのかと思ったらそういう記録はない、すると伊達藩とかで使われていたのか東北中心に使われていた硯だったのかとなる。
スレートでは新しい東京駅の屋根に使われたとかテレビで放送されていた。
石巻で興味をもつのはそこは東北の港ともなっていることだった。
北上川は平泉に通じてそこからいろいろな品物が運ばれたと言われる
特に名古屋の常滑焼が多いのである。
他に象牙などはどういう径路で入ってきたのか未だに謎にされている。
江戸時代は北上川が交通路になり盛岡の方まで通じていて物資が運ばれた。
だから石巻は東北の港とも言える、一伊達藩の港ではない、そこも魅力なのである。
北上川は平泉に通じてそこからいろいろな品物が運ばれたと言われる
特に名古屋の常滑焼が多いのである。
他に象牙などはどういう径路で入ってきたのか未だに謎にされている。
江戸時代は北上川が交通路になり盛岡の方まで通じていて物資が運ばれた。
だから石巻は東北の港とも言える、一伊達藩の港ではない、そこも魅力なのである。
石巻の港には南部・八戸・一関といった東北諸藩の蔵が次々と建てられ、
だから穀町とか千石町とかの地名がある。主に米を積み出したからである。
彼は、薩摩藩士で安政年間に東北を歴訪し、見聞をもとに『東北風談』(風譚とする写本もあり)を著し、東北諸藩の藩政と海防について的確な批評をした。
肝付兼武は仙台について、広い平野に水田が広がり、諸藩に冠たる米の大産地だが、米以外にみるべき産物がなく、およそ衣服器材はみな他国に求めている、と産業の実情を述べている。
これ自体、現在にも通じる宮城の産業構造を的確に捉えているが、もっとビックリするのは、次の民情の批評だ。
http://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/200604020000/
これ自体、現在にも通じる宮城の産業構造を的確に捉えているが、もっとビックリするのは、次の民情の批評だ。
http://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/200604020000/
江戸に送られたのは主に米であり江戸の米相場まで左右したというから仙台米はそれだけ江戸で食べられていたのである。
北上川沿いとか仙台平野は米倉となった。それは広いからそれだけの米がとれたが米ばかり作って飢饉のときに米がとれなくなり苦しんだとなる。
コーヒーだけ作っている国が飢饉になれば苦しむのと同じである。
米は商品作物となっていたのである。
コーヒーだけ作っている国が飢饉になれば苦しむのと同じである。
米は商品作物となっていたのである。
もう一つ面白いのは鋳銭場があったことである。仙台藩で経済が困窮したとき「寛永通宝」が作られた。それによって一時的に藩の財政を支えた。
でもそのことが日本経済全体に影響した。これも何か経済学のテーマだった。
ここから探求すれば一つの論文が書けるだろう。
つまり学問は必ず一つのテーマをもって追及することからはじまるのである。
そういうテーマは身近にいくらでもあるのだが見いだされないだけなのである。
海の民、漁師の影響は日本では海に囲まれているのだから古くからあった。
「ほまち」というのが帆待ちから来ていたのか?
シケているというのは海が荒れているということで伝わっていることはわかる。
他にも漁師の言葉が他にも伝わっているのである。
「ほまち」というのが帆待ちから来ていたのか?
シケているというのは海が荒れているということで伝わっていることはわかる。
他にも漁師の言葉が他にも伝わっているのである。
石巻はいろいろ探求することがある。
そこで聞いた話で自分の母親は山形の人で北海道に船に向かう途中船酔いで石巻におりてそこで嫁になってしまったという。
これも嘘のような話だが人間の運命はみんな数奇なものなのである。
どうしてその人と結婚するようになったかとなるとそれも数奇であり不思議としか言いようがないことが多いのである。
特に戦後になると広域化して全国の人が交わり結婚するからこういうことも今ではめずらしくなくなったことでもわかる。
ただ石巻は港であり他国の人の出入りが多いからそうなりやすかったことは昔からあったことはわかる。
石巻に関してのネットの情報はかなりある。、仙台藩についてもあった。
やはり大藩だから歴史の集積があるからそうなる。
ただ広すぎてなにかしぼれないということで仙台では郷土史に興味を持つ人は少ないとなる。
でも石巻とかにしぼればそこから興味が広がるのである。
仙台はどうしても大藩だから東北とも関係して江戸とも関係して全国的に伊達政宗の時代からなっていたのである。
伊達政宗にしてもその歴史の裏話としては伊達政宗だけが脚光をあびるが伊達政宗によって滅ぼされた武家もいる。葛西氏は石巻を支配していたが伊達政宗に滅ぼされた。
その逸話も残っている。月鑑斎(げっかんさい)などもそうである。
相馬氏は伊達政宗に滅ぼされなかったのはなぜかというのもまた歴史のテーマになる。
石巻から登米(とめ)には行ったことがないのは鉄道が通っていないためだった。
行きたいと思っても行けないのである。車がないと行けない場所だったのである。
自転車で旅するにしてもそれは一部しかできないからぬける所が多い
鉄道が通っていれば何度でも行けるのである。
葛西氏の伊達に追われて殿入沢逃れざるかなここに果てにき
鉄道の通じざるかな登米遠くなお行かじ我が齢も尽きむとすも
万石浦浦宿すぎて女川や百羽の鴎夏に舞ふかな
石巻津波の被害なおあらわ空地のめだち夏も淋しき
石巻ここに住み着く親のこと語るも奇しき海風の吹く
タグ:石巻の歴史
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