2015年07月16日

間や余白がない西欧化文明化された社会 (日本語の間(マ)の意味)


間や余白がない西欧化文明化された社会

(日本語の間(マ)の意味)


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物と物の間の空間は西洋のものの見方では空白でしかないのだが、日本の思想からはそこに何かがあると感じさせる。
http://www.designtope.net/mandara/39.htm

日本の大和言葉にはその国の言葉にはその国の独自の文化とかがあって生まれている。
日本人は日本語がどういう思想あるのかわからない、それを検討するのもむずかしくなっている。
それで本居宣長が大和心と唐心として日本の言葉を分けて日本人の心を知ろうとした。
その国の民族の言葉はその民族の自然の見方とか思想が反映している
日本語にもそれがあるのだがなかなかわかりにくい。
だから唐心とは今では欧米の心でありそれが主に英語になるからそこから対称的に日本語を見るのが今でもわかりやすいのである。

つまりそもそも日本人とは何なのか?日本の文化とは何なのか?そういうことをわかっている人は少ないのである。
日本の文化は中国文化の亜流だと見る人もいるし中国ではそう見ている。
でも日本人が使っている漢字と中国人が使っている漢字の意味は相当に違っている。
特に明治維新語は西欧化して日本の言葉が多くて日本人が造語したのをちゅうごくじんか使っているのである。
日本は何か造語するのがうまいのである。地歴という言葉もうまい言葉だと思う。
そういう言葉は他にもあるが適切でないものもある。
言葉でも社会が変化してゆくと言葉もすたれるし新しい言葉もできるし同じ言葉でも別な意味になってしまう。

日本語の特徴はおそらく一字の言葉だった。一字に何か意味があった。
例えばまとあるとき(間)あてたり(真)あてたりする。
ただこの真にこの両方の意味があるとなるとまた複雑になる
ただ日本語には語尾にまとつく言葉が多いことは確かである。
基本的な言葉でもヤマとかシマとかハマとかがある
マという一語でも意味がある。
間をとれとかある。でも間とは何なのかというとまたはっきりしない。
ヤマとあったらそのマとは何なのだろうとなる
ヤとは何なのか、屋根とあるから屋根をイメージする間は屋根と屋根の間なのだろうかとなる
普通だったら山を見て山と山の間の空間を意識しない、山自体一番意識するのである。
山とは連なる山であり間をおいて連なる山を意識したのかもしれない
島でもそうであり一つの島ではなくて間を置いていくつもある島のことかもしれない
日本列島の地形は連なる山であり島も多いからそうなったのかもしれない
ハマでもこれはハは端(は)であり端(はし)になる、浜はハシにある間だともなる
浜とは何らかの間なのである。須磨(すま)とあれば澄んだ間と感じるから名付けられた。間とは何か、何かほっとする何もない空間なのかもしれない


日本の原自然状態だったらそうした間が多かった、家も少ないしもちろん工場などもないし都会もないから間がいくらでもあった。
その間を埋めつくして発展してきたのが日本でありそれはどこの国でもそうである。
そもそも間というとき部屋が間というのも不思議である。
間というとき何もない空間のことだからである。欧米的には部屋は実用として役にたつものとしてしか意識しない
誰々の部屋とか何を置く部屋とか何に使う部屋とか実用として役に立つものとして家があり部屋がある
それは何でも都市でも用あるものとしてすべてがあり間という考え方がない
間をとるという考え方がないのも不思議である。
space というときspaciousとなり空間なのだが空間が贅沢だという意味がある、宇宙が空間として認識していたことは共通性があるのか?
ただ間という感覚はない、ただ広いということは贅沢だという意味はあった。
でも間という考え方はない、間とは物と物があってその間となるからである。
blank space 余白となるとblankという意味は否定的マイナスのイメージである。
間というとき何か履歴書でもブランクあるなとなると評価されないのである。


間という考え方は日本的なものなのかとなるとすでに中国では無用の用とかの思想があり有名である。それとにていることは確かである。
無用の用とか余白を重んじることは東洋的なものである。
それが最近感じたことがパソコンの画面が正方形で余白のない古い型のものを使っていてわかった。
横に画面が長いと余白が生まれる、その余白が作業しているとき何か余裕をもたらすのである。
ぴっちりとして正方形の画面で作業しているとまさにそこは実用しかなくなる。
一見これは何でもないようで精神に影響していた。
つまり余白がないと何か正方形の画面が実用だけとなり心の余裕がなくなるのである。
その余白は無駄なものではなく無用の用として必要なものとして東洋の思想があった
それは時間にあてはめてもそうである。一時間でこなす仕事でも必ず一時間ぴったりで終わることはないしある程度の時間の余裕をみないと仕事もできない
だから一時間で仕上げろというと人間は余裕をもって仕事ができないのである。
文章をこうして書くのにも3時間で書き上げろと言われてもその前に準備が必要であり
時間の余裕が必要になる。
そして改行して間をおくのも文章を理解するのには役立つ
文章でも話すにしても間が必要なのである。
落語家は間をとるのがうまいというときやはり日本の間の文化がある。床の間もそうである。


最近は家事とか介護に追われるからその余裕がないのである。
それは自分だけではなく間とか余白とかもてない欧米的効率社会になった。
そういうことができるのはまさに機械が適している、人間はそんなに効率的にできないのである。
人間が効率化するために機械に合わせるような世界では人間の心は疲弊するだけだとなるもちろんそれに適合しているのが文明人である。そういう歯車のようにさせられるのが学校から文明人として強いられる。
そういう文明の時間から離脱するとなるアウトサイダーのようなものに社会からはずれたものとなる、そういう生活をするとなる山尾三省のようになる変わり者とされてしまう。ともかくデジタル化すると一分刻みで時間に追われる。
その一分の重みを知ったのは新幹線とか電車にのるときである。自分の時計が一分遅れていたのである。その一分の遅れが致命的になる。
新幹線の時間に間にあわなくなったりする。仕事でも一分刻みで仕事させられている人が工場などにいる
つまり時間でも間をもていなのである。その間をもてないことから文明人は常にギスギスしてイライラしているし心に余裕がないのである。
だから間に満ちていた時代は江戸時代でも日本人はいい顔していたとヨーロッパ人が見たときそれは貧乏でも時間の間が多く空間にもいたる所に間がある社会だったからとなる。
posted by 老鶯 at 20:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本(世界)文化文明論
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