2015年07月17日

認知症予防には家事をつづけること (高齢化は人類の課題として与えられた)


認知症予防には家事をつづけること

(高齢化は人類の課題として与えられた)


なぜ認知症になるのか?それを実際に認知症を家族として介護した経験からわかったことがある
一人は家事を90以上までつづけていた、一人は退職して何もしない、家事もしなかった。二人の女性を見ていたとき一人は家事をやらされて一人は何もしないのだから働かされている女性は高齢だし辛いとみるんいい役回りだとは見ない
家事もしないて三食用意される人の方が幸せだと見る
ところが人間の幸せというのは何が幸せの原因になるかわからない
人生で不幸が幸せの原因になることは良くあることである。
幸福ばかりの恵まれた人生がかえって仇になり不幸になることもある
土地もちの大地主の女性の姉妹が飢え死にしたというのもそうである。
財産があっても財産を管理できなかったのである。
もちろん金持ちだと常にその金がねらわられて殺されるということも常に起きている。
金があることはいいとしてもまたそれが不幸の原因になる
金がないこともまた不幸の原因になっていることは普通であるが金があることも不幸の原因になっていることもあるから何がいいのかわからなくなる

認知症の予防にはいろいろなことが言われる、そもそも原因が良くわからないからであるただ現実に認知症になった人をみているからその経験を基に書いている
一人は趣味もなにもなかったが家事を90以上までしていたのである
92才頃までしていて認知症になっていなかったのである。
一人は一緒に住んでいても家事をしなかった。
そして自分はいつも頭がいいと言って死ぬまで自慢していた。
それは実際に本当であり頭がいいし体も丈夫だったのである。
ただ退職してからは家事はしていない、怠惰になり何もしなくなったのである。
そのことをあまり重大なものとは見ていなかった
しかし死んでから5年とかすぎるとそれが大きな問題だったのである。

家事をすでに介護とかして7年間もしているが家事はいろいろな仕事がある。
掃除、洗濯、かたづけ、料理とか様々なものがある
金銭の管理もありこれもなかなか一仕事であり頭を使う
家事をすることはそれだけ頭を使うし手も体も使う仕事なのである。
家事はそれだけ全人間的な仕事なのである。
だから自分は家事をしていても料理を未だにできない
それだけの時間を費やすことができないからである。
そして認知症の予防には家事をつづけることだというときなぜか?
例えば冷蔵庫でもどこに何を置くとか分類整理することが一仕事になるし
それが記憶力とかなり関係していたのである。
何をどこに置くか、それをどう利用するというのは記憶力が必要になる。
認知症になと下駄箱に食器など置いたりするからである。
日々記憶の能力を使うから記憶する海馬が鍛えることになるのかもしれない
簡単な計算をするのもいいいうが具体的に体や手や頭を同時に使うのがいいのである。

それが家事にはあり家事をしないとボケやすいというのはありうると思った。
だから嫁さんに「おばあちゃんは何もしないでいいですよ、テレビを見ていて下さい」と言われたおばあちゃんがボケやすいのである。
テレビは何か頭を使わないものなのである。読書なら頭を使うがテレビは一方的洗脳のメデアなのである。
それは無意識的にもそうなっているのである。
それでレナウン、レナウンというコマーシャルがあったことを思い出した。
それは女性と会話してそのことが思い出したのである。
わすれていたがテレビではレナウン娘とか何度もそれ何百回も見ていたかもしれない
それでそのレナウンのコマーシャルのことを思い出してのだある。
とにかくテレビのコマーシャルは見る回数が多いと無意識的に記憶されるのである。
何か考えることなく一方的にコマーシャルでも洗脳されやすいのがテレビなのである。
テレビを見て何か考えるということがない、だからテレビは一方的洗脳メデアになりやすいのである。
テレビばかり見ていると馬鹿になるというのはそういうメデアの特質があるからである。


人間の幸福が何かなど本当にわからない、「おばあちゃんは何もしないでいいですよ、テレビを見ていてください」となればその方か幸せのように見える
一方では苦労して料理をするからである。でも実際は何もしないということが認知症になことに通じていたのである。
家事とはいろいろなものを分類したり管理したり絶えず仕事があるのである。
だから自分は文章を書いたり写真をとったり他にしていると頭が回らなくなるのである
人間一人でてきることは限られているのだ。
家事だけで相当に頭を使う手も体も使う仕事なのである。
だから自分は暇なく何かをしているし余裕がないのである。
つくづく人間は二つのことをこなすことは容易でないことを知った
女性の場合は家事をしないことが認知症なる危険がある
一方で男性でも退職して何もしていないと認知症になる危険があるのは同じだろう。

カルシム不足なにるのはかえって寝ているとそうなるが活動して体を動かすとカルシム不足にならないそうである。
寝てばかりいる兵士は足の骨に負担かからないので体が「カルシウムいらないのだな」と思って尿から体の外にカルシウムを出してしまうのだと考えられます
こに対して一日三時間以上立っている人の場合は足の骨や背骨に負担がかかるので体が「カルシウムが必要だ」と思いカルシウムの流出を防ごうとしているのです
(エコロジー幻想ー武田邦彦)

これも興味深い、

家事もしないと記憶を司る海馬も働かない、働かせる必要がないからだ

家事をしている女性は頭を常に働かせるから海馬が働き強化される

つまり使わないものはいらないとして機能しなくなる、workingしなくなる
それは人間の体でも脳でも社会でもそうである。
社会が活きているということはともかく活用されていることなのである。
道でももし誰も通らないとしたらもう死んだ道となる。
人間がともかく通れば活きた道となる、六号線でもだから車が通って活きていると感じる車さえ通らない道は死んだ道となってしまう。
原発の避難区域は人が住んでいないのだから全体が死んだ街になってしまった。
それでも車が通っているとそこだけは飯館村でも活きた道になっている
双葉や大熊は完全に死んだ街になってしまった
高齢化社会、長生きの時代は認知症を家族で介護したから最高の恐怖だった。
頭がいいとか最後まで言っていても実際は痴呆化していたのだから悲惨である。
だから認知症にならずに死ぬということも高齢化社会では一つの目的となる
高齢化には様々なリスクがある。簡単に死なないことがまたリスクなのである。
長生きするために苦しみが増すということも確かなのである。
ただ認知症にもならず90すぎても自分のことを自分でしている人がいるがそうであれば問題ないのである。
そのためにはどうしたらいいのかとなる。

それで家事をしない女性や退職して生きがいとか仕事がなくなる人には危険がある
原発事故や津波でも何もしないでぶらぶらしていた結果、不活発になりそれが病気にまでなったというのもそのためである。
車椅子で何もできなくなり泣いていた男性がいたがそれも悲惨なのである。
高齢化社会というのはやはり人類にとって必ずしもいいのではなく一つの課題として与えられたものだと思った。
高齢化社会を健康で有益に生きることが課題なのである。
それをみんなができないからこそ課題なのである。
高齢化というのは人類的に起きていることでありそれに対処するまでになっていないのである。
高齢化は体でもそうだが頭でもそれに対処するまでに人類は進化していないともなる
90頃まで一人で自立して健康で生きていれ人の割合が多くなれば高齢化に対応できるようになったとなる。
そういう過渡期として現代があり日本でもそれが試されているのである。

昔の女は家事の他に糸紡ぎや機織り・縫い物繕い物と
手先を動かす作業をしてたからボケにくいんだよ


昔ならいろいろ女性の仕事があったけど今は機械化したりしてなくなったこともある。
何でも機械化してロボットがするようになったら人間はボケになり一体何のための機械化だったのかともなる
だからこそ高齢化は人類的課題として与えられたのである。


タグ:認知症予防
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