2015年08月20日

金だけでは解決しない原発の避難区域の復興のむずかしさ (小高病院を修理するのに7億円かかる)


金だけでは解決しない原発の避難区域の復興のむずかしさ

(小高病院を修理するのに7億円かかる)


テレビで放送していたけど小高病院の配管などを直すのに7億円かかるという、そんなにかかるのかという驚きがある。
やはり病院というインフラはそれだけ今では金のかかるものなのである。
ベッドは用意できないとか医者が言っていた。
でも救急医療みたいなものをしていた様子が見えた。
それでも病院にベッドがないとしたら病院として機能しないだろう。
今は病院が市町村の要となっていることが震災以後明らかになった。
病院が機能しないとき、その街には誰も住みたくないとなる
特に高齢化では病院が医者とか看護師がいないと生命の危険に常にさらされるからであるところが実際帰るのは老人が圧倒的に多く若い人は帰らないのである。
飯館村でも三所帯の住宅を新たに建てて孫と一緒に住みたいという人がいた。
でも子供たちが帰ることは未定だしその建物自体無駄になるかもしれない
小高の人で名取に子供が家を建て親の部屋まで作ってくれたという
その子供は原町の会社に常磐高速道路で通っているのである。
こういうふうに家族がばらばらになっているのがこの辺では多いのである。
飯館村でも帰る人はわずかであるからこれから復興することは容易ではない
そこで農業することが一番むずかしいからである。

小高の問題は複雑である。南相馬市が補償金で分断されていがみあうようになったというときそうである。
そのことは浪江とか避難区域で起きている、会社を経営する人が仕事をくれと仲間だった人に頼んだら補償金をもらっているから仕事は必要ないだろうと言われてがっかりしたという、それは会社とか経営していると億の金は避難区域などではもらうだろう。
牧場を経営していた大熊の人は5億円もらったとか噂になった。
それくらいの補償金もらったら人間はどうなるのか?
もう働く気もしなくなるだろう。あとはその金で楽に贅沢に暮らせばいいとなる。
だから復興するには金を与えることではないということを内村鑑三が二宮尊徳の例で言っていたけど本当にそうなっている。
多額の補償金を与えたことによって復興がかえってできなくなったという皮肉である。
その補償金によって南相馬市は分断されたのである。
特に鹿島区の人は補償金が少なくかったから小高の人に反発するようになった
実際補償金で威張っているというのもおかしなことなのである。
そして毎日パチンコ通いだとか批判されるようになった。

その補償金は復興させるものとして実際は働かない、かえって故郷に帰るより一億円もらえるなら他で暮らした方がいい、便利な街で暮らした方がいいとなってしまった。
そして若い人たちは帰ってこないのである。
多額の補償金がいいようでもかえってそこに住む人を分断して家族もばらばらにしたということがあったのである。
補償金が必要でも何か別な金の使い方も考える必要があった。
だから今回の病院を修理するのに7億円かかるとしたらそういう所に補償金などをまたは東電でも援助するとか市政でも考えねばならなかった。
もう南相馬市の人心がばらばらになることも深刻である。
小高の人は小高でやれとか鹿島の人はなる。金もらっているのだからその金でやれ、病院もお前たちの金でやれ、南相馬市の財政からは出すことは許さないとかなる

現実に一時鹿島区の人に補償金がおりないということが最初言われた。
その時臨時に市長が鹿島区に仮払いとして一所帯百万支給したとき市の財政から金を出すなと原町区の人が強硬にインターネットで発言する人がいたのである。
つまり南相馬市に小高が入るのだから今度はそういうことを強硬に言うようになる。
小高の人は金をもらっているのだから自分たちの金で病院を直せとか言われる
自分の所にきた遠い親戚だからしかたないにしても「おばちゃんは金あるんだから金でめんどうみてもらえ」と血相変えて勝ち誇ったように去って行って縁が切れたのともにている。
「金でめんどうみてもらへ」ということがまさに金の社会だからそうなる。
でも金が万能ではなくそれが人間を分断してまたかえって復興を困難にしている原因にもなっていたのである。

金があってもそれですべて解決することにならない、その金をどう有効に使うかが意外とむずかしいのである。
金は魔物だというとき本当にそのことを身をもって経験した。
自分が病気のときも金を要求され借金している人から恐喝されたから怖い
その人は頭の中が借金のことしかないからへたすると殺人までにもなりかねない
借金に追われると人間はそこまで追い詰められるのはテレビの推理ドラマで常に放送されている。火事場泥棒にも会い実際にもう一人のこれも遠い親戚から裁判にかけると脅迫されたのである。これだけ今は金、金、金・・・・の社会になっている。
ではその金が万能かというとそうはなっていない
この辺では金がマイナスに働きかえって復興できなくさせている
でもなにやかにや言っても金がある方が勝ちだということで金は手放せないし金さえもっていればなんとかなるという考えになる
でもこの辺で復興というとき一家族が復興することではない
全体の町が復興することでありそうしなければ一家族も住めないのである。
そのことが良く自覚されていないのである。
同じ町の人と一緒に住みたいとか言うが浪江でも浪江町を他に作ると軋轢が生じる。
かえって少人数で全国にばらばらになると軋轢もないのである。
だから何か広域社会になるとそういうふうに分散しやすい社会だったともなる。

それから補償金もらったからそれで生活すればいいというが病院も修理できない、ベットもないというとき老人だけが帰ってどうなるのか?
金があってもサービスする人が働く人がいないならどうなるのか?
つまり十津川村のように村人の心が一つになるようなことが必要なのである。
それができないから復興はできないとなる
確かに老人は帰りたいとかあるしその気持がわかる
飯館村の人がうまいことを言っていた。
マラソンをしてタスキをわたすことが自分の仕事だ。農家の人でありマラソンというとき長距離か農業でありその土地を次の世代に渡すことが仕事だと言っていた。
ところが村であれ村自体が消滅するときそれが不可能になっているのだ。
一家族でもそう思っても村自体が消滅すれば復興がてきないのである。
そういうことは今まで経験していないことだから避難者が良く理解できていないのである町時代がなくなるなど故郷がなくなるなどということを経験していないから何かどういう状態にあるのか避難している人たちも明確に自覚できないのだろう。
一家族が復興しようとしても村や町が全体が復興しなければ住めないのてある

だから小高の人は補償金もらっているのだから病院を自分たちの金で集めて修理して住もうとなれば心が一つになるということもあるだろう。
でも実際はそういうことがむずかしいのである、確かに自分の家族のことは考えるがでは自分たちが住む町全体のことを考えて行動することがむずかしいのである。
それは金によってそれぞれが分断されたということもある
現実に最初から小高を見捨てて他に家を建てた人もかなりいるからである。
そういうふうに町全体を復興しようとするために心が一つになれないのである。
そして南相馬市でも復興を援助することが小高と鹿島で補償金で反目し合うとかありできなくなった。
「金もらっているんだからお前らはお前らの金でやれ」となってしまった。
金が人間の心もばらばらにしてしまっているのだ。
金が全部悪いというのではなくその使いようが悪いのである。
金というのはいくらあってもうまく働くとは限らないのである。

市政にしてもそういうことを考えてやれば政策を考えればいいのだができなかった。
市長に手腕がないとかいろいろ言われたが市長だけではどうにもならないことだろう。
小高は確かに金はもっていても南相馬市にとって負担になる
でも南相馬市の市民だから別に考えることはできない、それもジレンマになる。
何か金もっている人はいる、高額な年金をもらっている人もいる、補償金で潤っている人もいる、それでいいのかというとそうなっていない
働く若い人がいない、医療でも看護師がいない、介護でも働く介護士がいない、他にも人手不足でやっていけないとかなっている。
それはここだけではない、日本全体の問題だけどここではそれが極端なものとして先取りして現実化ししているのである。
いづれにしろ復興というときここだけではない津波の被害地域でも様々な問題があり
困難を極めているし以前として先が見えないのである。

posted by 天華 at 17:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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