2015年08月27日

木槿(俳句はやっぱり写生だー写生の奥義を究めよ)


木槿(俳句はやっぱり写生だー写生の奥義を究めよ)

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我が庭に木槿に石や落ち着きぬ
雨濡れて雀の来るや白木槿
雨しとと我に一日向き白木槿
鶏頭に黄菊の映えて偽らじ

雨しとと月見草咲きこの道を今日も通りつ田舎に住みぬ
のうぜんの暑さの名残り散りてあり雨しととふり季節変わりぬ
おおらかに芙蓉の咲きていやされぬあどけなきかも田舎に住みぬ
街中の家に赤々とさるすべり鶏(かけ)も鳴きにき田舎町かな

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この頃雨がふる、秋雨なのだろうか?また残暑があるみたいだけど秋である。
庭の木槿の白い花が雨にぬれている。
そして塀に雀がやってくる。その景色のままを写生にした。
雨にぬれている雀がくる、白い木槿が咲いている
そこには何も飾るものがなない、ありのままの写生である。
ただそこには深い真実がもの言わず現れている。
それをどうみるかイメージするかは人によって違う。
雨にぬれた雀とは人に例えれば誰になるのか?
それはそれぞれがイメージすることである。
そこにはいろいろなものがくみとれる景色なのである。
雨ぬれた雀はかわいそうだなとかみるしただそこに白い木槿が咲いている
その雀はやはり人間に見るのである。

なんか雀は庶民であり貧乏人にも見える
ただこうしたシーンを貧乏の時代に見ていたらまた違って見える
その時はしさらにしみじみと我が事のように見えるかもしれない
貧乏なのだけど濡れた雀だけどそこに白い木槿が咲いている
そこには田舎の素朴なものの象徴である。
つまり貧乏な時代だと自然の風景でも一段と心にしみ入るものがある
飽食の時代はそういうふうに見えないのである。
だから貧乏は嫌であるが貧乏な時代には清貧がかえってあった。
清く貧しいということがあった。
そこに精神的に深いものがあった。
豊になってかえって精神の深さは消失するということもあったのである。

 
俳句は写生でないと深いものが作れない
それはあまりにも短いからである。説明できないからである。
だから俳句は読む人がよほど鑑賞力がないとどこがいいのかもわからない芸術である。
要するに鑑賞する側によってその良し悪しが決められるとまでなる芸術である。
それだけ読み取る力が必要になるからである。
だから俳句を作る人より鑑賞する人の方が大事だともまでなる。
俳句の善し悪しは作る人より鑑賞者によって決まるとなるからである。
その背景をいかに読むかが問われているからである。

いづれにしろ写生は物の真実を見つめることである。
ありのままが実は深いものを語っている
雀は自然は何も飾らない、人間ほど飾るものはいない、なぜそんなに飾らなければならないのか?
嘘だらけの虚飾だらけの人間も普通にいる、自然は飾らないことで真実をしめしている
別に貧乏でもいいではないか、この世に生きるということは虚飾であってはならない
貧乏は貧乏でも生きることは自然の中で生きれば自然と調和したものとなる
白い木槿は別に金持ちの家の庭でなくてもどこでも咲いているのである
おそらく貧しい時代でもそうして花は映えていたし一層調和して咲いていたのかもしれない
それがなぜか貧乏というものがわからなくなり豊になることを装わなければならなくった嘘をつき借金までして豊かさを装うということが何か間違っていた。
この辺ではそうである。原発でも何でもいい金になることなら何でもいいとなっていた。それをとめることは誰もできなかった。それは日本がそうであり世界でもそうなのである人間が求めるものが何か間違っていたのである。

貧しい、しかしその心は清く生きている、その時ボロを着ていても美しいものがあったのかもしれない、ただそういうものは忘れられてしまったのである。
昔はただ貧乏でありみじめなものとしてしか見えなくなったのである。
なぜ自然は美しいのか?。それは飾らないありのままであるからだ。
人間はなぜこれほど豊なのに美しくないのか?
その心はもう金しかなく清い心などない、どこまでも欲望を満たす金を求めているのである。
お前もそうではないかとといえばある程度はそうである。
お前には貧乏の苦しみなどわからないというのもそうである。

ただ自分は真実を追及してきたのである。虚飾的なものは拒否してきたのである。
虚飾があまりにも多くなった、貧乏はあってはならない見えてはならないものとなった。それもまた虚飾なのである。
貧しいときはみんな貧しいのだから貧しさが気にならないということがあった。
その貧しさのなかで共有する人間のあたたかみもあったのだろう。
過去はただ否定的に見られるが今の社会の方が人間の方が失ったものが大きいかもしれないのだ。
借金までして贅沢して虚飾の生活していた人は何なのだろうと思う
そういう見栄とかを軽く考えているがそれも怖いことになる
そんな見栄のために他人が苦しめられるからである。
病気の時に借金で責められたからである。
そんなにまでして成功を装いたいのかともなる
現代はそれ相応の生活などしていない、借金している人が多いからである。
だから雨にぬれてくる庶民などいない、金もないのに虚飾の生活をしているのである。





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