2015年09月17日

拡張型グローバル文明から内部志向型の文明形成の転換期 (日本の江戸時代、マヤ文明とか内部志向型文明が見直される時代)


拡張型グローバル文明から内部志向型の文明形成の転換期

(日本の江戸時代、マヤ文明とか内部志向型文明が見直される時代)

文明の見方はいろいろあるし文明そのものが何か定義はない。
古代文明はエジプト文明でもそうだしマヤやインカの文明でもそうだが内部志向型文明と定義づけられるかもしれない。
内部志向型というとき交通が発達しないから一地域で一つの世界を作る文明である。
外部志向型文明は拡張型文明であり一つの世界が広域に形成する
それはローマとか中華文明でも古代の文明でも起きた。日本は中華文明の縁辺に生まれた文明という見方もあるのもそのためである。
時代的にも中世とかなるとヨーロッパでも城が多いから日本の封建制時代と同じであり内部志向型文明になる。
外に拡張しない文明であり閉鎖的な文明となる。
だから中世と日本の江戸時代はにているのである。

例えば江戸時代は鎖国であり拡張文明ではない、外国との交流をたち日本独自の社会を形成した一つの内部志向型の文明だった。
江戸時代をどう定義するかいろいろあってもやはり一つの内部志向型文明を成熟した社会を形成したと評価できる。
内部志向型文明はその地域で国で自給自足して世界観を作り上げる。
日本は稲作文明の継続として江戸時代があり一つの世界観を形成した。
山に神がすみ春には里におりてくるというとき田植えの時に神が山がおりてくるというのは日本的な稲作文明の世界観であり信仰にもなった。
山には先祖が死者が眠るという山の信仰があったのはそのためである。
それは稲作文明から生まれた一つの信仰であり世界観である。
葉山(羽、端、.....)信仰がそうである。羽山は端山は低山地域にありそこはちょうど田に水を供給する山の高さなのである。高い山の信仰ではないのである。
それは日本の自然と調和した自然観であり世界観であった。
ただ明治維新は様々にとりあげられるが日本の文化の基ともなった江戸時代はまだ歴史的に文明的に鎖国というマイナスの評価になっている

でも現代の文明はこうした拡張型文明から内部志向型の文明に移行する時代にきている。拡張文明というとき西欧文明の大航海時代からはじまって現在のグローバル資本主義経済を形成した。それは地球が一つの世界を形成した。だから世界が一つの価値観をもった時代だとなる。
資本主義が絶えず資本を世界に投入して経済の発展を計る、そもそも資本主義が起きたのは大航海時代に船で貿易するために投資がはじまった。
船が沈めば株主は大損するが船が安全に帰ってくれば大儲けになるのである。
それが船の株主であり資本主義がそこから発展したことでもわかる。
ヨーロッパとか中東とかでは船を作るために大量の木材を必要として森が破壊されたというときレバノン杉の森が消失したというときそれだけすでに船を利用した貿易が地中海で行われていたのである。
文明はそうした船をつくるために食い尽くされたというときいかにそれは拡張型文明が早い時期から発展していた。

その拡張型文明は西洋だけではない、世界の資源を求めて進出した結果としてアジアの森が今度は破壊されたことは同じである。
内部志向型文明は江戸時代の葉山信仰、稲作文明のようにあまり自然破壊は起こらないのである。
それでも海の方へ田を干拓したとき湿地帯を埋め立てたから自然破壊だった。
松原は自然と調和したのもだと思っていたが自然破壊したものであった。
なぜなら津波で根こそぎ松原が破壊されたことでそのことがわかった。
松原だけとか杉林とかは人工林であり自然林ではなかったのである。
稲作文明は内部志向型文明でもその稲作の範囲を海の方面の湿地帯に拡大したとき自然破壊になっていたのである。

現代のグーバリズムの拡張型の文明は限界にきている。もう拡張する発展するフロンティアが消失している。だからいくら資本を投入しようにもその場がなくなっている。
だから世界経済が発展するということはなく世界経済自体が停滞して後退してゆく
それは中国経済でも限界が生まれたことが象徴している
新興国の発展にもブレーキがかかる、資本主義はグーーバリズムはそうした限界にきているのだ。
だから世界的に株価は低迷して成長する国も分野ももうなくなる
それは日本だけではない世界的に起きている現象である。
例えば日本でアベノミックスで資金をいくら投入しても経済発展が望めない、回復しない、一見株が上がり成長しているように見えてもそれは見せかけであり日本はこれ以上経済成長するのは限界なのである。
それは中国でも起きてきたし世界自体が経済成長することができない限界にきている。
これ以上グローバリズムの経済を押し進めればむしろ地球の自然環境は破壊されるから
それは自然の理が働いてブレーキがかかったともとれる。

現代の資本主義拡張型文明は会社文明であり多国籍文明であり今までの文明とは違う、そこには文化がないのである。ただ経済の原理があるのである。
文明には必ず文化があり世界観がある。グローバリズム経済には資本主義には文化が生まれない、会社は多国籍会社はその土地に根ざすものではないから文化を生まないのであるつまり文化はcultivate(耕す)場がなければ生まれないのである。
だからシュペングラーが警告したのはまさに土地に根ざした田舎が失われ都市文明化して文化が消失して世界が数で計られる無機的なものとなる。
毎日世界が株を標準として常に数で計っていることでもわかる。
その株価も実質の経済を繁栄したのもでもない、架空の数字の世界だとも言われる。
致命的なことは文化がグローバリズム経済から生まれないことなのである。
そこに精神の不毛があり文化の不毛があり精神の貧困がある。

だから今見直されるべきは日本では江戸時代であり国風文化なのである。
それは日本だけではない、かえってグローバリズムの世界、一様化した世界には興味がもてない、会社文明、多国籍会社文明は精神的に軽薄であり文化がない。
それはただ外部志向があるのみであり内部志向がないからである。
内部志向というとき縄文時代の土器の装飾とかマヤの土器でも装飾が豊かなことが共通している。
内部志向型文明は一見それはグローバルでとないと批判されるが濃密な自然との交流があり芸術性豊かな装飾性が豊かな文明だったのである。
だからこうしたエジプト文明でもまたマヤ文明でもそこに一つの自然と調和した世界観宇宙観がありそれは一つの詩的空間にもなっているのである。
つまりそもそもグローバル資本主義経済には詩はない、経済の話だけである。
それから科学が技術が現代を形成するものでありそこに文化はないのである。
もちろん科学でも技術でも文明を作るものであり文化を形成する
だから科学技術文明はエジプト文明でもマヤ文明でもあった。
石を緻密に正確に刻み寸部も隙なく石の神殿を造ったことではにていたのである。

外部拡張型文明というとき第二次世界大戦とかもそうした時代に起きたしそれは大航海時代からヨーロッパの拡張としてアメリカの発見がありそれが現代の世界を作ったきたことでもわかる。
その時日本も世界史的に拡張型文明となり太平洋戦争を起こしたのである。
その後の70年も経済のグローバル化にのって日本も発展した。
しかし世界はもうそうしたグローバル資本主義の拡張も限界にきている。
中国が台頭して戦争にになるとか日本が集団的自衛権で戦争に突入するとかもないだろう世界的に小競り合いがあっても世界第二次大戦のようなものは起こらないだろうという見方もある。
つまり世界はそうした拡張型文明から内部志向型文明に移行するのである。
それぞれが国風文化に内部志向型文明にもどってゆく,回帰する時代になる。
それはとりもなおさず新しい文化が華開くルネサンス時代の到来なのである。

自分はもともと相馬藩内でそうした地域文化を土地に根ざしたものを追及してきたのである。
そうした小さな地域でも世界でも一つの世界観をもてる。
いやその世界観の方が自然の理にあっている。だからマヤ文明ひかれようになったきはそのためである。
そこには矛盾はあっても一つの森に埋もれた自然と調和した文明があったのである。
そういう一地域で世界観を深化させて構築していったのである。
何か不明なのものが多いが一つの石のブロックが一年とかとなり時間を積み重ねていった文明の構築物なのである。
それは内部志向型の内密な装飾性豊かな人間的な文明だったともなる
いづれにしろ古代文明にしろこれから再評価されてゆくし新たな意味がもたらされてゆくことは確かである。
それは現代のグローバル社会との対比で再評価されてゆくのである。


タグ:古代文明論
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