2015年10月01日

盛岡は芸術都市(秋日盛岡-詩と絵)


盛岡は芸術都市(秋日盛岡-詩と絵)

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秋日盛岡

盛岡の街をそぞろ歩みぬ
煉瓦作りの堅固な銀行に
上の橋擬宝珠の古りあわれ
秋の日にさして渡る橋
袂に野菊の塊り咲きぬ
長々と柳は垂れてそよゆる
昔の商家の白壁に移る日影
城跡に残る石垣の精緻に組まれ
老松もあれや忠臣もあれ
中津川に沿いそぞろ歩めば
さらさらと清らかな瀬音
コスモスの花々もここに映え
岸辺の石に老木に秋の日はさしぬ
かたや北上川の流れ滔々と
岸の狭しと流れはやしも
岩手山の輪郭際立ち迫り聳ゆも
一貫として揺るがざる厳しい姿
静かなる秋の日にここを歩まむ
歌心詩心のここに湧きなむ
煉瓦作りの銀行によりて
秋の薔薇の三色咲きて心にしみぬ
盛岡の街の通りを歩むもよしも
喫茶店によりてもの思ふもよしも
みちのくの都市盛岡は今も
古風とハイカラの交じる都市かな

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東北は都市は少ないし都市的な魅力に欠けている。都市でいいのは西である。歴史もあり自然もある。
東北で文化都市と言えるのは盛岡と弘前だけのように思える。
仙台は何かもう一つ文化都市としては大きいのだけど欠けている
商業都市で学都というのにはふさわしい。
なぜ盛岡が芸術都市で文化都市なのかというと賢治と啄木という詩人が生まれたことなのである。
なぜあのような詩人が生まれたということが東北になると不思議である。
何か東北的なものがあっても都会的なのである。

それは盛岡という都市がその時近くにあったからである。
花巻とか渋民とかは東北の貧しい村落である。
そうしたらあんな都会的なものは生まれないのである。
要するに文化というのは都会だけからは生まれない、また田舎だけから生まれないのである。
東京があんな巨大都市でも文化は生まれない、田舎がないからである。
田舎とは自然のことであり都会は文化でもある。田舎が基なのだが都会的なものも文化なのである。
田舎的なものと都会的なものが融合するとき文化が生まれる
田舎だけでも文化は生まれないのである。

盛岡は川が二つ街中を流れているし何か都会でも田舎的な所がある。
北上川と中津川がなんともいいのである。
その川べりを散歩すると気持いいのである。
それは仙台の広瀬川とは違う気持ちよさがある。
そして岩手山が映えるのであの山によって身がひきしまるのである。
それから城跡もあるし城下町なのもいい
まず文化都市となると城下町でないと歴史がないのでなれない
青森市は城下町ではない、弘前は古風の城があり城下町だから文化都市になる

常に自分が相馬について書いているが日立木から松並木を通り相馬の城跡に行く浜街道の道は何度行ってもあきないのである。
やはり歴史の道だからそうなっている。
歴史にはそうした何か人をひきつけるものが必ずある。
仙台にも歴史があるのだけどそれが何か感じない、青葉城があるのだが感じない
仙台は大きくなりすぎたとこともある。
今回の詩は前に俳句とか短歌にしたものからまた回想して作った。
自分の場合は俳句とか短歌から詩にしている
それは晩秋だったがこれは初秋であり秋の日である。
まず盛岡というときあの煉瓦作りの銀行が印象に残る
建築の影響が大きいなとつくづく思う。
ヨーロッパの魅力は建築にある。それもローマ時代からあり古いのである。
ただその魅力もそれに接する度合いが多ければいいが外国旅行は何か余裕がないので良く見れなかった。そこが一番の問題だった
盛岡は近いから何度も行っているから思い出すのである。

東北はやはり何度も行けるというのがいい
それでも会津は福島県内だが今になる遠いなとつくづく思った。
もう介護で行けなくなってから十年は行っていないのである。
会津は福島県でも別世界だとなる
この詩を作ったときとにかくまず煉瓦作りの銀行だった
あれは貫祿があるというか質実な感じがする
建築が精神に影響するということがある。もちろん岩手山なども心に影響する。
一方でも建築も心に影響する、だからヨーロッパでは精神形成が建築になっている
それが今は高層ビルでもビジネスだけであり何か精神に影響するものがない
ただ高いなというだけである。高いと大きいだけで心に影響することはない
だからこれだけの建築物にあふれていても何か精神に影響するものがない
ホテルでも一流ホテルになると確かに大理石などを使うと何か心に影響する
一流ホテルには泊まったことがないのでその辺はわからない


前に書いたり絵にしたりしたものをまた作り直すといいものができる
自分の書いたものは相当な量である。
ただ絵のようなもの、抽象画はまた変えやすいのである。
完成したものとしての芸術ではない、常に変化してやまない芸術だった
まあ、芸術の秋であり盛岡はそれにふさわしいとなる



 上の橋は南部藩主利直公が盛岡城を築くと同時に中津川に架けた橋。欄干を飾る青銅製の擬宝珠のうち、慶長14年(1609)の銘が刻まれているものが8個、慶長16年(1611)の銘が刻まれているものが10個ある。これほど多数残っているのは大変珍しく

 慶長16年は慶長津波の起きた時である。この時からあるとしたらずいぶん古い
 それだけここが歴史ある場所だった
 墓などは残っているが公共物で慶長時代となると東北ではかなり古い
 それも橋にあったというときそれは公共のものだから城とは違うからである。
 京都辺りでは珍しくないが東北ではこれだけ古いものはまれなのである。


タグ:盛岡の詩
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