2015年10月08日

常磐線でイワキへ磐越道で郡山市へ (旅ではやはり地名が記憶に残る)


常磐線でイワキへ磐越道で郡山市へ


(旅ではやはり地名が記憶に残る)

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津波に残った久の浜の神社

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久の浜駅

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阿武隈山地

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しばしよるイワキの通り秋柳

秋の日や長橋すぎぬイワキかな

秋の日や逢隈橋を渡るかな

郡山へ逢隈橋や芒かな

水郡線ここに別れて芒かな


竜田駅金木犀の匂いしも鉄路閉ざして五年はすぎぬ

久ノ浜駅に浜菊咲きし見ゆ津波の後にあわれなるかな

津波にも残る社は奇しきかな久ノ浜去る秋の旅人

四倉にセメント工場ありにしと語りてあわれ秋の風吹く

阿武隈の山々深く家ともし秋の雲の影朝に落としぬ

阿武隈合戸トンネルぬけいでて山々深く秋の雲かな

阿武隈の流れゆるか秋の日や岸に実りや郡山に入る


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久ノ浜の駅には浜菊が咲いていたから海の駅らしい、ここは海が見える線であり海に最も近い場所だった。
それにしても久ノ浜に残った稲荷神社は良く残ったと思う。
烏崎村でも八竜神社は残ったがそれは後ろの山の高い所にありその社は津波がすれすれにきて残った。あれももう少し津波が高かったら残らなかった。
あれも不思議だけどこの久ノ浜の社は人家なみに低いし海の堤防のすぐそばだったからこれで良く残ったと思う、回りには一軒の家もなくなっていたからである。
この社は今回の津波で最も不思議なものかもしれない。
波立薬師も残っていたというのも不思議である。
久ノ浜は原発から三〇キロ地点でありここは津波の被害が大きかった。家が密集していたからである。
四倉では駅の前に錆びて朽ち果てたセメント工場の残骸があった。
土地の人が教えてくれた。あれは相当に大きな工場だったのだろう。



イワキでは通り秋柳が見えてバスは長橋町という所をすぎたのを地名で覚えた。
イワキについて電車に乗ろうとしたら磐越東線は何時間もあとでありバスで磐越道にのり郡山市に向かった。一時間半である。
イワキから郡山の磐越東線は結構時間がかかる、それよりもう一日5、6便くらいしか出ていない、これでは乗り継ぎができないからこうい線はのりにくくなった。
よほど鉄道マニアで暇でないと乗れない、今は暇がないから乗れない
何かすでに一〇年は長い旅をしていない、この線に乗ったのも今になるとずいぶんまえになったと思う。だからこの線のことは思い出せなくなった。
やはり思い出せなければ何か書くこともできなくなる。


磐越道は途中合戸トンネルに入る、その名が目についた記憶に残る,こうした地名が意外と記憶に残る、途中の小野とか三春は見ることもできなかった。
郡山に入ると逢隈橋に出た。阿武隈はもともと逢隈だったのである。それは亘理に逢隈駅があることでもわかる。逢隈は福島市にもあり他にもある。
郡山から水郡線が出ていて棚倉町にゆく、棚倉には城がある。
この水郡線も一回だけ乗ったけどかなりの距離がある。その駅の名前も忘れた。
ここを別れて水郡戦線路が見えた、そして遠い旅の日を思い出していた。
すでに十年以上もいや二十年なのかこれだけ歳月が過ぎると何かなつかしいとなる。
だいたい自分は日本の線路はほとんど乗った、乗っていないのは関西の私鉄くらいであるただ最近は新幹線が走るが新幹線には前から乗らないでゆっくり旅していた。
今になると暇がないから新幹線が便利である。


今回も何か地名の旅だった。地名は記憶に残る、特に電車の旅では駅名が記憶に残る。
バスでも早いから地名だけが何か心に記憶される、だから旅には地名が心に記憶され
地名が歌枕の役目を現代でも果たしているのである。
そうでいなとただ通りすぎるだけの旅になってしまうからである。
高速道路もやはり旅であり電車とはまた違った風景になる。
高速道路も今は縦横に走っているから旅するのには便利だけどあまり心に残らないということは言える。










タグ:阿武隈
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