2015年11月15日

晩菊(墓地のある路地裏の道)



晩菊(墓地のある路地裏の道)

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この駅舎とそっくりなのである




枯菊や二両の電車に駅舎かな

晩菊や路地裏通り墓の前

晩菊や古き碑残る街の中

晩菊や雨ぬれあわれ路地の裏

五本松一本枯れるや冬に入る

残菊や街道に残る五本松


ひらひらと木の葉の散るや六号線車は見ずに過ぎ去りにけり

残菊の咲くを見ゆるも六号線車は見ずに過ぎ去りにけり

墓の前木の葉散りにし今日もまたこの道通りなお母生きぬ


枯菊に駅舎がにわっている。駅はさびれている。だから枯菊がにあうともなる
今は二両の電車であり途切れてしまっているから余計にそうなる
枯菊がにあうということはまさに老人が多いということである。
でもそれは何か落ち着いて老人も風景になるのが田舎だとなる
東京辺りの駅とはあまりにも違いすぎるが落ち着いているとなる
やはり老人になると東京のような所に住みたくない
大都会は老人にはあっていない、もちろんそこに住んでいる人はまた違う
便利なものがあることは確かである。
どっちかというと欲望でぎらきらした若者とか中年があっている
自分は何か若いときあんなところにいても違和感を感じなかっんたからである。
今やもう十年以上東京には行っていないから遠いと思った。

毎日同じ道を通っている、路地裏の道でありそこには自分の家の墓がある
その路地裏に菊が咲いている、晩菊である。
鹿島でも街中が意外と古い歴史があった。それは街中に住んでいた同級生の家が南北朝時代からの由来をもつ古い家柄だった。
それはあと書くにしてもここ十年はほとんど狭い範囲で生活していた。
相馬市の日立木の道の駅まで行くがそこから市内は遠いから最近また行っていない
五本松の一本枯れていたことにきづいた
あれも枯れてしまうだろう、松は枯れやすいのである。

木の葉が六号線にはらはらと散る、それを自転車だと見ているが車だと走りすぎるだけなのである。
残菊も道の脇に咲いていても車だと見えないのである。車はそうして何か人間的感覚から離れるのである。車にのっていると季節感も感じないということかあるだろう
ただ車をもっている人ともっていない人との差が大きい
自分には車をもっていないからそれがわからないのである。

いづれにしろ自分の母親は病院で点滴して生き延びているけど生きたくないと言っていた百歳まで生きたから生きたくない、点滴はいらないと言っていた。
ということはまだ意識がありわかっているから生きているということになる
自分の母親はなにかやせていて何もできない人だと思っていたけど百歳まで意識がまだはっきりしてわかっていることに驚く
認知症になって何もわからなくなる人もいるからだ。
姉は最後だけ正気にもどってそのまま無意識になり一カ月後に死んだ
病気になって死んだのである。病気にならないとなかなか死なないのである。
でもそんなふうにして生きているのも嫌だから死にたいとなる
今はなかなか死ねないというのも困る ただ自分は相当に楽になる
家にいればなんかいるだけで疲れるのである。






タグ:晩菊
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