2015年11月19日

南相馬市鹿島区に多い只野(但野)氏の謎 (お浜下りの祭りのおつづら馬の話ー野馬追いの旗印は杉紋)


南相馬市鹿島区に多い只野(但野)氏の謎

(お浜下りの祭りのおつづら馬の話ー野馬追いの旗印は杉紋)

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 南相馬市鹿島区日吉神社(ひよしじんじゃ)のお浜下り(はまおり)は、12年に1度の申年(さるどし)の4月に行われます。神輿(みこし)の行列に、宝財踊り(ほうさいおどり)、手踊り(ておどり)、神楽(かぐら)などの組々が奉納(ほうのう)します


只野が関連姓でありルーツ。現山形県の広域である羽前、現福島県西半部である岩代国安積郡(多田野村)只野村が起源(ルーツ)である、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)鎌倉氏流。仙台藩の士族は清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)和賀氏流。近年、福島県相馬郡鹿島町に多数みられる。

只の(普通の)野原という意味。

岩代国(陸奥国)安積郡只野村をルーツとする。

宮城県の只野家:仙台藩の重臣。もとは毒沢氏を称して和賀氏に従っていたが、江戸時代の初めに伊達氏に仕え、仙台藩士となる。



同級生の只野(但野)氏についての由来を聞いて不思議だった。
同じ鹿島町の街内に住んでいてその家の由来を語った。有名な真野のお浜下りに「つづら馬」というのがある。つづら馬とは馬につづらをのせて荷物を運んだ。
霊山城で南朝が滅んだとき落ち延びたことを由来にした祭りなことは知られている。
それは真野の中館に落ち延びたのは桑折氏であり桑折氏が田中城の城主でありのちに伊達氏などがかかわり攻防があって相馬氏が支配することになった。
鹿島町は鹿島神社から起きていることは古代の歴史でもわかっている。
古代から鹿島神社はあった。でも中世とかなると鹿島神社がある場所が中心ではない
田中城とか真野の江垂(えたり)の中館が中心である。
その前に鎌倉から来た屋形に館をかまえた岩松氏が飯館から原町の新田とか広く支配したのである。それで鹿島町内に御前内とかその奥方が住んだ場所が伝えられるのはそのためである。


只野(但野氏)はではいつ頃からこの地に来たのか?その姓の由来は郡山の古代の安積郷の多田野村なことは確かである。
その多田野に由来して只野(但野)になったのだがそれがどうしてここに移住したのか?
鎌倉時代に由来をもつというけど史書に残されたのは霊山城が滅びたとき落ち延びた一団の中に只野氏がいた。
でも史書に残されているのは桑折氏が中心なのである。只野氏が中心ではない。
それでも盛んにつづら馬のことをいい自分の家ではそれを代々になっていてお浜下りの祭りの中心だったようなことを言っていた。
それは大学で調べに来た人もそのことを記したという。
只野氏がつづら馬を祭りで担当していることは確かである、でも史書では桑折氏が中心である。只野氏は史書にもでてこない。
ただ最初に霊山城が滅びて移住した場所が真野の中館ではなく平地の今の鹿島町内辺りだったのだろうか?
すでにここは鎌倉からきた岩松氏の妻とかが住んでいて御前内という地名が残っているからだ。
それから田中城は町内から離れたところにありそこは湿地帯であり自然の堀になっていて防御するにいい場所だった。湿地帯を利用して城を築いていたのである。
そこまでは今回の津波でも津波は来なかったのである。その近くまで津波が来たことには驚いた。
つまり田中城を築いたのは岩松氏のあとにその離れた湿地帯を利用して防御にいいから作った。


只野氏がお浜下りでつづら馬で中心的役割を果たしたとはいえないだろう。
史書にも残されていないとなるとそうなる、つづら馬という役割をになわされたのは荷物を積んで逃れた役割を果たしたからだろう。
ただ只野氏はなぜ鹿島区にこれほど多いのか他に福島県ではまれでありこの地域だけに多い、近くにも只野の姓の人が住んでいるし本当に鹿島区に多いのである。
只野氏がこんなに多いのはなぜかとなるとそれも謎だが子孫が繁栄したとなる
とにかく南北朝の動乱は全国的にありその時勝者と敗者にも分かれ落ち延びた武者がどこにでもいてその人たちが土着していった歴史がある。
郡山の安積の多田野村から南朝勢に加わり霊山城が滅びて只野氏の一団もおちのびて鹿島に来た。桑折氏が中心だが今の鹿島の街内は只野氏が住んだ。その後子孫が繁栄したとなるのか?
これはまだまだ謎であり何か只野氏の一団は入とか何か一つの文字を共有して結束していた。分かれるときその文字を記して分かれたとういう、その字は良くわからないがそういう話が伝えられていること自体、まさに口碑であり口伝だということで歴史の再発見がある。
実際人間はつくづく灯台下暮らしであり自分の住んでいる一番身近な歴史とかでも人についてもわからないという不思議があるのである。
日本の歴史とか世界の歴史とかに詳しくてその郷土の足元の歴史を知らない人が実に多いのである。その一人が自分でもあった。
屋形にある慶長津波の前の田中城主だった相馬氏の墓を知っている人はまれである。
案内板に書いてあるけど地元の人すら知らないしまた鹿島街内にそれもすぐ近くの神社に天明の碑がありまた自分の街内の墓地に安永や天保の碑があることも注目されていないのである。つまり自分の住んでいる街についての歴史を知らないということである。


三輪山をご神体とする大和の三輪神社の杉は、『日本書記』や『万葉集』に神杉として記されており、 「わがいほは 三輪の山もと 恋しくば とぶらい来ませ 杉たてる門」という歌が『古今集』にのっている。三輪神社は大神(オオミワ)神社ともいい酒の神様として親しまれ、「三本杉」が神紋である。神酒(ミワ)神社から求めた杉葉で作った鞠状の飾り(杉玉・酒林)が、むかしから酒屋の看板となっている。

只野氏の野馬追いの旗印は杉紋である。これの由来は三輪山に由来している、なぜこの三輪山に由来したものを野馬追いの旗印にしているのか?
ただ郡山の多田野村から南北朝の騒乱の時に移住したというときその紋が只野氏の紋となっていた。でもこの紋にするにはそれなたの由来があるはずである。
でも野馬追いの旗印は3000とかあるのにわからないのが多いのである。
只野氏のこの杉の紋は小池、岡和田、横手に多い、この辺に只野氏一族が勢力を広めた。
でもそもそも只野氏がなぜ南北朝に由来するお浜下りの祭りのつづら馬をになうようになったのか?
只野氏はほとんど史書には記されていない、それはなぜなのだろう
ただお浜下りの祭りのつづら馬をになっているとなると重要な一族だったはずである。
はっきりしているのは杉紋を野馬追いの旗印に採用していたことなのである。
これは明確な由来があって採用していた。
三輪山の神社と関係している何かがあったとなる
相馬野馬追いというと相馬氏の祭りでもそこに南北朝の騒乱の中で落ち延びた武士がいてそのあとにその家由来のものもを旗印とした。
だから相馬氏でもいろいろな一族がまじりあっている。山王とかの旗印も南北朝由来のものである。
野馬追いの旗印を由来を知るには南北朝からもその前の鎌倉時代からもつづいているからわかりにくいのである。



タグ:杉紋
posted by 老鶯 at 16:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係
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