平景政(鎌倉)までたどれる只野氏の由来
(奈良の三輪山に野馬追いの杉紋は由来している)
鎌倉景政(平景政)は、桓武平氏の流れをくむ平安時代後期の武将で、鎌倉地域を領有していたことから鎌倉氏を称しました。新吉田一帯も景政の領地であったといいます。景政は八幡太郎源義家に仕えて、16歳の時に後三年の役(1083〜87年)に従軍しますが、右目を矢で射られました。『港北百話』によると、傷ついた景政は馬で運ばれて帰ってきましたが、吉田村で亡くなります。
片目で思い起こされるのが、製鉄・鍛冶の神、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)です。
産鉄民が祀る鍛冶神は片目、一本足に特徴があります。それは、片方の目で赤く燃える炉内を見続けることでその視力を失い、長い時間鞴(ふいご)を踏むことから足が萎えるなどの欠陥を引き起こすからでした。
ここまで見て、景政の最終居住地が由井の里とされる理由も明らかになります。由井の民は産鉄・鍛冶の特殊技能民だったところから片目の景政と結び付いて、景政が由井の里に居を構えたと言う伝承が形成されたのです。由井の里、坂ノ下、甘縄と地域がばらばらなのは無理に話をこじつけたからそうなったのでしょう。
義家公の御家来である鎌倉権五郎景政の伝説も多く、役の後にこの地を治め善政をしいたと伝えられ、逢瀬町多田野の鎮守「多田野本神社」では、権五郎景政を御霊として祀り、「御霊櫃峠」の名の由来にもなっています。
桓武平氏三浦氏族という油井(由比氏)。
河国庵原郡由比から発祥した藤原南家為憲流或いは大宅氏族、桓武平氏三浦氏族という油井(由比氏)
仙台藩士は恐らく岩代国安達郡油井村発祥。
杉紋を用いる代表家は、大和の大神神社関係の家である。中心はその祖神から出た大神氏である。一名大三輪とも書き、オオカミ・オオガとも呼称する。この後裔に、豊後の緒形氏がある。緒形氏の後裔に幕末の緒方洪庵が出ている。この緒方家も杉紋を用いている。
穂積氏流の鈴木氏、清和源氏流の新見・上林・小島の諸氏、藤原氏流の本多・有馬・岩瀬・杉浦・戸川の諸氏が杉紋を用いた。さらに酒に関係した家でもこれを用いている。
古事記では玉依姫は神武天皇のお母さんと言う事になっています。
このような伝承もあって万葉集にも「旨酒を三輪の神主が斎ふ杉、手ふれし罪か君に逢い難き」と歌われています。
毎年十一月十四日醸造安全祈願祭りが開催されています(酒祭り)。
杉の葉で作られたしるしの杉玉を作り酒屋さんは貰い受けて新酒の醸造に入るという古い慣わしです。
大神神社は古神道の様式を最も良く残している神社といえます。
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柳田国男の目一つ五郎という中に景政のことがでている。この武将は鎌倉では有名であるそれは源氏来る前から力をもっていた武将である。
鎌倉の武将が関東から東北に移住して先祖になったのが多い。南相馬市の鹿島区の屋形の岩松氏もそうである。それは東北全般でそうである。鎌倉幕府によって平泉の藤原氏が滅ぼされたときから関東武士が東北に進出して先祖になったのが多いのである。
だから東北で先祖がはっきりしているのは鎌倉時代からでありその前となると明確に残っているのはまれであり伝説になる。南相馬市でも岩松氏が一番古く原町の新田とか飯館村の方まで支配地があった、それだけ広い領域を最初に鎌倉から来た岩松氏が支配していたのである。
それは他でも同じであり景政伝説があるのは御霊神社があるのはそのためである。
上杉謙信まで景政の御霊を祀っていたのである。広範囲に景政の伝説が広がりその御霊が祀られていた。
謙信の母は古志長尾家の出自で、姉は上田長尾家の政景の妻であった
景政の御霊が祀られたのはこういう経過があった。
そして奥州二本松領の多田野村において、御霊を祀ったのも長尾氏だった。
只野油井などの苗字に分かれて今も栄えている
ここに只野油井がでてくる。油井という地名は鎌倉にあり油井を姓にする人もでてくる。不思議なのは岩代国安達郡油井村がある、これはどういう経過で名前となったのか?
只野油井という姓は多田野村からでている、名前はなぜ油井なのか?それは鎌倉の地からでていることは間違いない、前に飯館村の大倉が岩松氏と関係して名付けられたと書いた鎌倉に大倉郷とかあり同じような名付け方をするということはありうる、鎌倉山などもそうだろう。つまり全国になぜ同じような同類の地名が多いのかというと人間の移動ととも地名もあり、アイヌ地名などと違い伝播性が強いのである。
地名にすくときどうしても自分が住んでいた土地の名とにたよう名づけかたをするし油井は姓が移動して地名化したともなる
南北朝の大乱の時に鎌倉に由来する武士の末裔も南朝と北朝に分かれ争った。そして只野油井とは何か二つの氏族が合体したものかもしれない。そういうことは古代からあった。昔の姓名は今とは違って個人のものではなく一族を現していたからである。
ともかく相馬氏一族でも鎌倉時代までたどれる武士の末裔はまれだろう。
南相馬市では岩松氏のことは一族皆殺しにされたことで伝説化して伝えられてきたのである。その子孫もはっきりしているし殺した子孫も現実に生きているということである。
だから意外と500年たってもこのことは生々しいのである。あいつが主君を殺した末裔かとまで今もなっている、そしてそのために姓を変えたということもわかっているからそれも無駄だったのである。
一方で400年前の慶長津波のことは一行700人溺死としか記されていないのである。
こっちの方が重大であっても記されていない謎なのである。
確かに岩松氏は悲劇だったけど700人津波で死んだ方が大惨事だったはずなのに記されていないのである。
野馬追いの旗というとその由来をたどれば戦国時代だけではない、南北朝時代から鎌倉時代からその前からも由来しているのがある、それは関西の方にその由来をたどることができる、第一杉紋は奈良の三輪山に由来していた。三輪神社の氏子から広がった門なのである。そうなると奈良時代からはじまり関西に広まり関東に広がり鎌倉時代に伝わったとなる。
そして万葉集とも関係したというからそれはまるで日本の歴史だったとなる。
只野氏からたどれるのはまさに日本の歴史である。杉紋の旗印からたどる歴史は日本の歴史だとなる。
東北では南相馬市の鹿島区の真野の草原の万葉の歌は有名である。でもこれは奈良から歌われたものであり具体的に一族の歴史としてたどることはできない
只野氏の場合は連綿とつながる氏族の歴史からたどれるから違っている
「旨酒を三輪の神主が斎ふ杉、手ふれし罪か君に逢い難き」
酒と関係したことは酒作りも鎌倉から伝えられたのだろう。原町の泉長者も酒で財を成した伝説が残っている。酒というのは江戸時代からそのあとも日本で大きな産業であり酒作りの家が長者になっているのはいくらでもあるし街の中心が酒屋だった、それは双葉の前の長塚の富沢酒店でもそうだったのである。自分の家も実はその近くの酒屋の暖簾分け支店だったのである。
万葉集までたどれる歴史がすぐ近くの只野氏からたどれる、だいたい東北ではそうした古い歴史をたどるのがなかなかできない、関西辺りだとそういうものが普通にある。
東北ではたどりにくいのである。自分の家は葛尾村の柏原から出たことはわかったがそれ以上はたどれない、鎌倉時代までその前までたどれるのはこの辺では非常に少ないだろ。う、それでも野馬追いの旗というのは鎌倉時代からその前からも由来したものがあり
それがほとんどわからない、どうししてその家でその旗印になっているのかわからないのである。
そもそも野馬追いが旗祭りだというときその由来を知らないと歴史がわからない、その解明ができない、今回はたまたま同級生が口伝として伝えたもので興味をもち杉紋というのが奈良の三輪山に由来していることがわかり一つの日本の歴史をここに実感したのである。
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