2015年11月27日

人間は意識があるうちは生きている (死に向かう百歳の母)


人間は意識があるうちは生きている


(死に向かう百歳の母)


医者が言うにはもう母は水だけの点滴であり長くはもたないという、それがどのくらいになるのか?
明日なのか一カ月なのかわからない、ただ明らかに血圧が低くなっているから体が弱ってきているからいつ危篤状態になるかわからないという
でもあわずかに目をあけて自分を見つめて二言三言しゃべる、
「掃除しておけ」とか「一人でやれるのか」とか言う、母は異常に掃除とかにこだわる女性だった。
ただ自分のことを心配していること気づかってくれることは驚く
まだ意識がはっきりしている、脳も全くわからない認知症とは違う。
病気がひどくなると人間は意識が朦朧としてきて相手を気づかうなどできない
姉は一回正気にもどりうなづいてそれから一カ月意識不明になった。
意識不明になったとき実際は死んでいたのである。


人間は脳が意識していれば生きている、相手のことが誰かとか何か意識していれば生きている
意識がなくなったとき死んでいるのである。
だから認知症の怖さは脳が病気になって正気を失うことなのである。
正気のままに死ぬのとそうして正気がなくなり死ぬのとは大違いである。
ただ認知症のむずかしさは時々正気にもどるということがある
そして死ぬ間際には正気にもどりやすい不思議がある
だから死ぬ前に姉が正気に一瞬でももどったことは救われたのである。
それで人間は簡単に楽に死なせた方がいいとか言って早く死なせた方がいいとは必ずしもならないのである。
つまり正気であれば脳が意識してわかっていれば生きているからである。


とにかく人間は生きたように死ぬとか人は生きてきたように看取ってゆくとか言うのは人間は生は連続であり死に際になったから特別変わることではない
掃除にこだわっているのも生前もそうだったからである。
どうしてまともに生きてこなかったものはまともな死に方をしないとなる
死ぬときだけ特別にまともになるということはない
ただ死ぬときはやはりどんな人でも何か悟るということはあるがもうその時はすでに時遅しになる
死ぬ間際なって人間は特別変化するわけではない、生の延長として死がある
人間はそうして死のことを特別なこととみるが生きていることを特別なことと見ていないのである。
だから生きることを浪費しつづけているのである。
だから死ぬことが特別のように思うが実際は死も生の延長であり死に方もそうなのだろう
ただ人間は大きな死というかそういうのをほとんど見ない、無惨に体が疲弊して衰弱して心も弱り死んでゆく、何か大きな死を見ない、天地と一体化するような死があったら凄いと思う。
やせ細り衰弱して死んでゆく姿は敗者でしかない、生前どんな地位があり金持ちでもそうなのだ。


いづれにしろ自分の母は心臓が強いから長生きしているという、学校も一日休まなかったとか何か働きづめであり何の楽しみもない人生だった。ただ長生きするために生きてきたのかもしれない、でも長生きすることが人生の目的ではない
その中味なのでてある。百年生きても中味がなかったらただ長く生きた馬齢を重ねたとなってしまうからである。
とにかく自分にとってこの十年間は辛かった。自分自身も病気になりさんざんな目にあっこことを書いてきた。
近くで介護疲れて家に火をつけて義理の母を殺したという事件があった。
夫は入院したとか一人に負担がかけられたからである。
自分も一時は二人を介護したような状態になりパニック状態になった。
その時一人だったから苦しかった。何か介護は一人にまかせられて親戚であれ他の人でも無関心なのである。
一人に負担がかかるから耐えられなくなるのである。
そうなりやすいのが介護なのである。その人も親戚は何もしてくれないと言っていた。


これから介護の事件は次々に起きる、病院は次々に老人が運び込まれる、昨日いたかと思ったら今日はいない、病院は今は長くはいさせられない、あとがひかえているからである何かうーうーと騒いでいても看護師は何も気遣いもしない、何騒いでいるのとか言っている。次々に人が変わればこんなふうに無関心になるのだろう。
だから病院は長くいるべきところではない、でも今はほとんど病院で死ぬ
病院だけでは死にたくないといってもどうにもならない
ただ病院に入ってすぐに死ぬならいい、長くなることが問題なのである。
かといって今介護でも5年とか長くなる、両親だと二人合わせて十年になる
その十年は介護に費やされるのも辛い、二十年という人もいた
自分もつくづく長かった、でも脳出血のようにいちいち食べされるということはなかったその点は楽だった、ただ一人だから辛かった。
ともかくこの十年は津波原発事故だとなんだかんだと災いがつづいた。
こんなことがあるのかと思う、今になると涙もでない、それだけ悲しんだということもある
津波で家族を失った人たちもそうだろう。この辺は自分だけではないみんな災難に見舞われたのである。


逮捕されたのは、南相馬市原町区の自営業手伝い=白川三子容疑者62歳。
三子容疑者は、今月16日の午前6時30分頃自宅に火を放ち同居していた91歳の義理の母親=マツヨさんを殺害した疑いだ。
火事の当日、三子容疑者は「家が燃えている逃げ遅れた人がいる」と自ら消防に通報していたが、警察の調べに「自分が火を付けた」と容疑を認めているという。
三子容疑者は自営業の夫とマツヨさんと3人暮らしだったが、近所の人などによると犯行当時、夫は入院中で、白川容疑者がマツヨさんを介護していて老老介護の状態だったという。

もうこんな事件はめずらしくもない、次々に起こる、すぐ身近だから驚くが珍しくなくなる、それだけ介護は国民的課題になっているのだ。

タグ:死に際
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