我が街の家の墓地への情をつづる
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我が家の近きに墓地あり、その墓地に眠れるは我が父と姉と姉の母なり、次ぎにこの墓に入れるは我が母と我となりしや、ただその後に継ぐものなしも
この墓地の街中の近くにあれば日々我が墓の前を通りぬ、我が墓は道に面してあれば親しく我の通るを死者の見るごとしも、今し秋はすぎ冬となりしも、木の葉は一枚この墓地にひらひらと散りぬる、この墓地の街中にあれどもふるしも、その故の古き碑のあれば知りぬ、古きは宝永(1700)の大きなる石碑なり、これ弘法大師空海の真言宗の碑なり
さらに古きは隣が古代に由来する神社なればここは鹿島神社の領域なり、その後寺になり神宮寺となれり、これは全国的に神社より神宮寺になるもの多し、他に天保の碑あり、これは記されし字を見ればここは寺子屋なりしも、これまた全国に多し、何か暗唱せよという文字の記されてあればなり、天保と言えば明治維新に活躍した吉田松陰、山県有朋、坂本龍馬、,,元勲と言われた人々はみなそうなり
天保が1840年として明治元年が1868年として丁度天保に生れし人が明治に青年となり
重責を担いしなり、それ故に天保は今につづく年なりしを知るべし
天保よりの墓の多くなりしも幕末となりこの頃から豊になりて庶民も墓を作りしためなり
久しくも話もしない、同級生のその家はこの近くにあり、その家の由来を今に知れば古りしも、南北朝時代にさかのぼる古さなり、南北朝時代に霊山から落ち延びた時の祭りお浜下りのおつづら馬という馬につづらをのせたものの役を担う古い家柄なりを知りぬ
その人の街中に住むとなればこの街もまたそれなりに古りしを知りぬ
我が家の墓は新しきものなり、なぜなら我が家は明治か大正時代に今の双葉町の新山より移りすむ、父はそこの酒屋の丁稚にして葛尾村(かつろう)村から出て奉公しぬ。
その後暖簾分けしてここにいたりぬ、明治までさかのほるにしても江戸時代まではさかのぼれぬ新参者の家なり、ただこの街でも我が家の近くの神社に天明の碑あり、天明と言えば相馬藩の大飢饉で三分の一の人口の減りしときなり、そのようにその神社の古しを知らじ、天明は1780年とかになりぬ、天保より一時代前の80年前とかなりぬ
それでもまた天明もさほど遠きにはあらじか、明治より二百年前、今から三百年前、そして慶長津波はそれより百年前なりしも
たいがいの墓地は古く神社も古く江戸時代にさかのぼる、ただここが墓地となりしは明治以降であろう。江戸時代は寺の領域なり、それ故に寺子屋がありその碑があるなり
この墓地の我にとりて親しきは我が父と姉との眠ればなり、父は13才の頃に死ぬもその面影はあり、また姉は最近死ぬ故にその記憶は生々しも、次ぎに入るは我が母なり、余命幾ばくもなし、その後に我も寿命なればいつ死すとも知らじ、故に墓のことの気にかかりぬ我はここ十年介護に追われ遠くに行けず、ただこの狭き街の路地を往き来す、そしてその時必ずこの我が墓のある墓地の前を通りぬ、故に我が墓は親しきものなり
ここに眠れる人はいかなる人や、近くに生きて知る人もあり、同級生もすでにここに葬られてありしも、60代になれば死す人もあり、同じ同級生は脳出血となり一命をとどめしと語りぬ、まことに六〇代は病気の世代なり、必ずやなにかしらの病気のいでくる世代なりそれ故に死はすでに身近なり、両親の今は長生きして我が母の百歳ともなれり、余命幾ばくもなしも次ぎに死すは我なりしも、我が生きるは何故ぞ、我のみの残りて墓参りと供養なるべし、故に母死してもこの墓は我が墓参りと供養のためにありぬ
しかしその後は知らじ、我が生きる限りは墓参りと供養は欠かさじ、近くにあればその前を日々通れば墓は身近にて死者も身近なり、死者とともにあるともなれり
ここに北風は吹き木の葉は舞い散り落葉たまりぬ、この墓地の回りも前は幼稚園がありそれが取り壊されて更地となり次ぎにまた津波や原発被害で復興団地となれり、これは大変化なり、この墓の前はもともと沼地なり、それ故に地盤悪しと建設にたずさわる人の言えり、それが都会のような団地になることに驚く、ここには原発の避難者の小高の人も住めり、この変遷の大きく人の入れ代わりも激しきなり
世は常に変わるとてこれほどに変わることを前もて知るは不可なり、津波にて草茫々となり一軒の家も海岸地帯にはなくなりぬ、この変化はあまりにも無常なりしも
その海岸の村の人は家もなく仮設に住みて同じ場所に住むことなしも
この路地の道の何回か曲がりて行きぬ、晩菊のかたまり咲き日のあびぬ、山茶花の垣根に咲きて道に散り雨しととふりその白さき映えぬ、我はこの道を一人行く、この街の小さくなにもなし、最近この町の本屋も空地となり店もわずかなり、スーパー一軒のみの小さき町なり、ここに用をたすもできず、隣の市に行く、自転車屋すらこの町よりなくなると淋しも、電車は通るも駅舎はあるも二両の電車の相馬市と原町市と往き来す、中に鹿島駅のあれど淋しも、一応無人駅にあらじも乗客も少なく淋し、枯菊の何かにあうもあわれ
秋薔薇も冬となり残る花びらも散りぬれ、寥々と北風の吹く、津波原発事故の後の変わりようは予想だにせざりことなり、ただ我はこの町に生れこの町に生きる、そしてこの町に死するや、その往き来するのは路地裏の道なり
この町に開業医二軒のみなり、前は四軒ほどあり、すぐ近くにもありて往診のあり、我が父は病気のとき良く往診にきて最後を看取りしなり、その医者もなく今は空家なり
そしてもう一軒の町医者の医院も空家となり、その前も日々通りぬれば淋しも
石がありその医院に枯蔦のはいていかにも淋しも、空家となるも多し時代なり、全国にて八〇〇軒の空家ありという時代なり、何か少子高齢化で日本はさびれゆく
その路地の道に一枚の木の葉散りぬ、朝見れば残月のなおかがやく、それは我が母のもはや死なんとするとかさなりぬ景色なり
それで一句作りぬ
残月や木の葉一枚路地の道
この町もしかしにぎやかなる時あり、我が家は駄菓子屋のときあり、子供たちにて活気あり、母は忙しく働き休むことなし、母は大正生まれにて働くことしかなし、何か趣味もなく遊ぶこともなし、しかし子供のときは子供は多くその声は巷に木霊しぬ、町医者も四軒ほどありて忙しき、店も多く活気あり、町はその時活きてありしも、街中に店があり人は買い物をする、今はみなスーパーに行き街中に活気はなし、どこも街中の店はシャッター通りとなりぬ、街自体がなにか空家となる淋しさのあり
墓地もまた街と一体となりてありて活きぬ、墓地もただ死者のみならば活きず、今を生きる人の通いて墓も生きるなり、死者も生きるなり
ああ 我もこの墓地に我が家の墓に眠らむやなればこの墓地の親しきものとなりぬ
四季を通じて我はこの我が家の墓の前と墓地を通りぬ、墓にも墓地にも意味のあるべし
ここに眠れる人々のまたこの町に生きし人たちなり、ただ死者はこの変わりよう知らじ
ただ墓とていつまでもあることなし、墓もまた取り壊されて無縁墓となる時世なり
この世に永遠にあるものはなし、墓も墓地も変わりゆく、しかし我が生きる間しばらくは我が墓と墓地を通りて墓参りと供養のあらむ。
なお我が父と姉とのなおそこに立ちてあらむや、ここを日々我は通りぬ
俳句も写生だが文学でも基本は写生なのである。
空想したとしても実際に起こったことを記すことが歴史であり文学である。
だから写生に忠実だとそれで別に飾らなくても一つの記録となり文学となり歴史となる
それがなぜか現代文より口語体より文語体になると平凡なものでも味わい深いものとなる不思議かある
前にもそういうものを書いて読み直してこれも書いた
これも別に空想ではなく写実文なのである。
やはりある街でも平凡な街でもそこに長く生きることは思い入れができる
だから人は老人は特に簡単に長年暮らしたと土地から離れにくいのである
別にこの土地が街がいいというのではない、長く住んでいる所は人間でも自ずから親しいものとなり一体化してゆく
大都会になるとこういう感情はもていな、あまりにも大きく無機的になり何か書き記すことさえできない
人間が感じ得る範囲は広すぎると人が多すぎてももう人間的に一体化できない
だから大都会に情を感じるということはない、索漠とした世界があるだけになる
ともかく何か書き記すとか語るとかは何か思い入れがあり記して起きたいとなる
それが人間なののだろう。墓地に眠っている人もわからないにしろそれぞれの人生があり今は忘れられ眠っているのである。
いづれにしろ自分に残されたのは墓参りであり墓守となり供養することである。
それもまた人間の勤めなのだろう。
タグ:.墓地
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