死はあらゆる善きものの中で最高の善きものかも知れない
死はあらゆる善きものの中で最高の善きものかも知れない
このように哲学者ソクラテスは言いました。死は残された者にとっては、悲しく痛ましいできごとですが、もしかしたら、本人にとって死はあらゆる善きものの中で最高のものかも知れないのです。
母の一生は苦しみの連続だった。それは父が事業に失敗してから一家離散になりそうなった。
継母に育てられたのもそうだった。
母の話で一番忘れられないことは小学生のとき弁当を作ってもらったのだがその弁当を残したとき「本当の親でないから俺の作ったものは食えねえのか」とその弁当を投げられたという話は忘れられない
そんなひどいことをするのかということ、そんな仕打ちをされた子供時代の過酷さであるたいがい子供時代はみんな愛されるからそんなことをする親は普通はいないだろう。
でも子供を虐待したり殺す時代でもあるからないことはない
その継母も最後は老人ホームで目が見えなくなり「悪かったな」と母に言って死んだ
老人ホームで目が見えなくなり苦しんでいたとき母は行っていたからである。
つくづく何かそうして人生の最後には人は自分のしたことを後悔する
そしてその報いは必ずあるのだ。後悔して反省したときはもうすでに時遅しなのであり
その償いをする時間がなくなっているのである。
母はそれから東京にでて結婚したが夫を事故でなくした。これも不運だった。
そして子供がいたが自分の家に嫁いできた。そこにはまた自分の家の複雑な事情があった母は後妻であり複雑な家の事情で何か召使のように使われるだけだったのである。
ただ自分にとってはこの複雑な家の事情が全部は悪く働かなかったというのもふりかえると不思議である。
つくづく人間というのはそれだけ複雑なのである。とても外部からはわからない家庭の事情がそれぞれある。
夫婦が仲良しのなかで子供が育つというのも何かめずらいしということもあるかもしれない、これだけ離婚していればそうなる
ともかく母の一生は不運であり苦しみの一生だったともなる
そして介護されるということもいくら老衰で死んだといっても苦しいのである。
母の不思議は最後まで病気がなかったということである。人間は何らかの病気になって死ぬのが大半なのである。病気がないということは老衰死になる
ともかく人間の一生は苦しみなしでは語り得ない、必ず苦しみの人生がある、だからお釈迦様も生老病死と言ったのである。老も苦しみであり病もそうでありその果てに死があるだけだとなる、母の一生はそうだった。
ただ人間は本当に不可解なものであり家族関係でもそうである。
その力関係とか愛情関係でも複雑なのである。特に自分の家族はそうだった。
母だけではこの家は持続できなかった、自分の幸福もありえなかったのである。
姉がいて母がいて自分の家は成り立っていたのである。
その二人が争っていてもやはりこの家をもりたててたのは二人がいたためである。
母だけだったらかよわい女性だから何もできず自分が負担を背負ようになったからとても楽はできなかった。もちろん仕事に追われて学問でも芸術でも何もできないよう状態になっていた。
自分が楽だったのは二人がいてこそであり二人一体となって自分は負担をまねがれたのである。
だから今になると60までも食事を用意してくれた母には感謝している
それを意識しなかったが介護で全部自分がやるようになって意識したのである。
だから死んでから感謝の心が深まった、墓参りとか故人を思うことは供養は感謝することにある、そうすれば故人も喜んでいるのだ。
私も子供を産み子供のために尽くしてきた。それも60までもそうだった。
何の報いがあるのか、でも最後は介護してくれたし死んでも感謝されているので報われたとなる。
そして何よりも母の死に顔をみて救われたのは一生の苦るしみから解放されたことなのである。あんなに死に顔が安らかになるのかと思った。
人間の体は快でもあるが体があるかぎり病気になりまたいつまでも生きない、老化になり体自体は必ず弱ってゆき、いくら病気がなかったとしても体がある限り苦しむのである。つまり
人間は死なない限り苦しみから解放されない
これだけは確かである。母の死に顔はその苦しみから全面的に解放されたからあのような笑っているような不思議な顔になった。それは何よりも苦しみから解放された苦しみがぬけていったからである
だから本人にとって死は悪いものではない、ただ悲しむのは生きて別れてしまう人である本人にとっては苦しみから全面的に解放されたのである。
だからあのような安らかな顔になったのである。
「ああ、もう自分は苦しむことがない」そういう顔だったのである。
老衰で死ぬにしても人間は苦しいのである。苦しまずに死ねる人はいないのである。
楽に死にたいというとき他の人よりは楽でもそれなりに介護に入ってからもいろいろと苦しんできたのである。
とにかく死は全部悪いものではない、本人にとって悪いものではない
何かこうして死んだ人について文を書くのもカルタシスの作用があるみたいだ。
文を書くということは何でも客観的になるからだろう。
感情的ではなく冷静に見るということである。
何か冷たいようだが自分はこれまで介護ですでに姉から十年近く苦しんで泣いてきたのである。
だから今回はもう涙もでないのである。
ただ明日は焼かれるので骨になるので辛い、葬儀というのは精神的負担が大きい、一人だったら苦しかった。もう一人とかさらにまた一人とかいたので和らいだ。
一人というのは病気とか葬儀とかが家族がいる人より何倍の負担になる
自分にとって姉と母は自分の死ぬまで忘れられない人であることは確かであり供養をしつづけることになるし墓守にもなる、それが残されたものの勤めともなる
ただ姉のことは6年くらいすぎて忘れてきた。
人間は忘れやすい、家族でもそうであり忘れるから救われるとういこともある
そんなに悲しみ続けていたら生きることもてきなくなる
地獄から天国へ(詩)
タグ:死とは何か
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