介護の後の脱力感
(介護十年の経験はやはり人間を成長させることもある)
気丈夫に最後まで家にトイレする迷惑かけじと介護されし母
腕をとり近くの介護の施設にそ行きにし母の思い浮かびぬ
心のよりどころだった存在を失う
気を配っていた生活の張りを失う
自分の老いてゆく姿を不安に思う
他者にたすけてもらった関係性を築くことができる
高齢者を自宅で看取った死別後の適応
家族介護者が高齢者のことをいつも気にかけていた分、死別によって緊張感を失い
世話するという気持の張りを失うことがある
家族介護者は自分の介護の経験を生かして身近な人が困っている時、手助けできると考えている
例えば町でみかけた高齢者が困っていれば手をさしのべる、他の人々が介護が必要になったら他の人にアドバイスできる
「母の介護がなくなって気持の張りがなくなった、やっぱりやってあげなきゃいけないと思うからてきぱきできたんですよ、今は時間ができはずなのになんかもたもたしている
」
姉が認知症になってから三年近くとか次ぎに母の介護がありあわせると10年近く介護に追われた。
それが終わったときどうなるのか、この介護の経験もやはり介護してみない人にはわからないだろう。
自分が介護で一番感じたことは時間が拘束されることであった。
介護する人に気を使うだけで心も拘束されるのである。
介護は認知症になると夜まで起きていたりするからまともに眠れない人までいる
24時間を拘束されることにすらなる、常に見まもりが必要になるからだ。
自分のように自由に生きた人間がこれほどちょっと外に行くのにも自由かない、なぜなら常に介護するもののを気づかうからである。
自分の場合は一人だったから余計にそうだった。家から自分が出れば誰もいないからそうなる
だから一人で介護することの負担は他より大きいのである。
そして一人なのにほとんど助けはなかった。むしろこの弱みにつけ込まれて大金をとられたりとか借金を要求されたりとか苦しい目に合わされたから苦しかった。
かかわった人がそういう人だったのが不運だった。
ただ相手も追い詰められていたからそうなっていたのである。
一人は家から出されたような人であり一人は事業に失敗して借金をした人である。
そんな人はもう他人のことを同情する余裕もなにもなかっのである。
だから自分はそういう人とかかわって大変な目にあったのである。
死んでまもないが介護が終わって感じることは介護は何か絶えず気づかう相手がいて緊張しているということはある。
特に母は死に近くなったときいつ死ぬのかと二カ月くらいは緊張がつづいた。
病院に入院してそうだった。結果的には死ぬ場面にはいることができなかった。
看護師も見ないまに死んでいたのである。病院でもそういうことがある
だから人間は家族がいても死ぬときは一人だと思った。
介護は絶えず介護するものを気づかうから疲れる、常に精神的負担となっいる、でもその緊張感があるのはまた奇妙だが生きがいにもなる。
会社をやめて退職すると何もすることがなく緊張感がなくなるからボケてくるという人がいる。家で勤めもなくなるときごろごろしているとそうなりやすいのは確かなのである。そして何か障害者をもった人など絶えずその人を気づかっているかボケないというのも不思議だった。
それは世話しなければならないという緊張感を絶えずもっているからそうなる
人間は生きるにしてもだらだら生きているのは良くないのである。
なんらかの緊張感がないと精神までだらけたものになってしまう
だから介護にもそれなりに人間を成長させるものがあったともなる
「他者にたすけてもらった関係性を築くことができる」これも言える
自分は社会とかかわらない時期が長いから社会を知らなかったのである。
介護してから自分も病気なにって病院に一カ月さらに二週間入院したことや様々なことで社会と地域ともかかわることになったのである。
その社会にかかわったというとき自分の所にきた人たちは自分も弱ったことをいいことに責めてくる人たちだった
自分が言っているのはそういう人ではない、利害の関係ない人である。
それは介護士などがそうだった。
今になると母の手をひいてディサービスに連れていってくれる人とか老人を世話する人をふりかえるとあの人たちにも世話になったと思う。
あんな仕事は誰もしたくないとか評価しない人がいるがふりかえるとありがたいことだったとなる
介護する人は必ずそうして世話になるから「他者にたすけてもらった関係性を築くことができる」となる、これも介護しないと経験できないことでもある
何か介護は悪いことばかり言われるが社会的にも価値ある行為でもある、でもそれがあまりにも国の財政負担になるのが問題なのである。
ともかく母の介護で経験したことは介護するものにも介護される方も両方に問題がある
介護する方と介護される方も何でもしてくれるということではいけない
母の場合は最後に入院する8日間を水しか飲んでいなかった。
それでもホータブルトイレに自分で行っていた、寝たきりになっても近くのトイレまで懸命に歩いて行っていたのである。
もともと頑張り屋であり忍耐強い人だからそうなった、そして水だけを飲む前には自分で起きて食べていたのである。
自分が嫌だなと思ったのは脳出血とかになり体が麻痺して三食食べさせて介護している人である。
その手間とか時間がとられるから何もできなくなる恐怖だった。
外出すらできない恐怖をいつも感じていたのである。そうなるとプログさえも書けず何もできなくなる恐怖だった。
母は最後まで気丈夫でなんとか自分でしようとしていた。
最後は病院で管で小便をとることをうひどくいやがっていた。あれも何か精神的ショックを受ける、オムツになるとこれもショックが大きいのである。
それもしなかったから自分自身もそうだが介護する方も楽な方ではあった。
でも介護は楽な方でも絶えず緊張感がある、気遣いをするだけで疲れるということがあるのだ。
「心の青雲」で介護されるものを甘やかすからかえって体も悪くするとか言う、それも一理ある。
なんとか迷惑をかけないようにがんばったと言う人がいたがそういう気持をもつ必要がある。もともと母は頑張り屋であるから最後まで頑張っていたのである。
そして最後まで死ぬ間際まで病気がなかったということが老衰として死ぬことにつながった。たいがいは何かの病気になって死ぬ、簡単な風邪でも死ぬ
だから老衰で死ぬということは意外とまれなことのように思える
なぜなら死ぬ前必ず病気になるからである。それがならなかったということの不思議である。母がこうして最後まで頑張り屋だったことは見習うべきことだろう
体が細身でもともと体力もないのだけど懸命に頑張る姿は心に残った。
ただ母も体が90度に曲がったときは自殺しようとしていた。
それもショックだった、だから人間は老いることは相当に実際は苦しいのであ。
体が90度に曲がったというのは骨のせいではなく筋肉のせいだと言う人がいた。
この衝撃をあまりにも大きかった。一カ月寝て注射して直った。
それからもいろいろなつまづきがあった。ただ母は90度に体が曲がった後も不思議に元気な日が長くつづいた。それは80いくつかだったのか?
結構早い時期に体が90度に曲がったが手押し車をおしつづけて普通に生活していたのである。だから体が曲がったことは生活するのにはそれほど影響しなかったのである。
ともかくと老いから死までの道のりも簡単にはいかない、紆余曲折があり苦しみがある
仕事していたのに一週間くらいで死んだ人の方がまれなのである。
死ぬまでは延々とやはり介護があり苦しむの人間だったのである。
タグ:介護のあと
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