万葉集の歌に死者を悼む歌を感じさせるもの
(忌中にふさわしい歌)
太宰帥大伴の卿の京に上りたまへる後、沙弥満誓(さみのまむぜい)が卿に贈れる歌二首
真澄鏡(まそかがみ)見飽かぬ君に後れてや朝(あした)夕べに寂(さ)びつつ居らむ
万葉集の歌は未だに解明されていない、今の時代の感覚では解明できないのが多いのだ。だから相聞歌でも恋愛の歌が多いというときそれは現代の感覚なのである。
折口信夫が言っているように死者を乞う歌だというときより深刻なものになる
恋は乞うでありこうであり今の感覚とは違うのである
何かだから死者を弔うときと関係ないようでもそうしたものが他にもある
この歌も不思議なの歌である。何か荘重な歌であることに気づいたのは母か死んだことでそれと重ね合わせてこれが死者を思う歌にふさわしいと思った。
これは死んだ人を偲ぶ歌としてもいい,丁度忌中であり今の感覚はこんな感じなのであるこういう歌はなかなか今の時代には作れない、簡単なようでも何か違っているのだ。
それは何か人間と人間の関係でも今は機械的でありこんなに深い情でつながらないかということがある。
常にそういう人間の純な感覚が失われたのか現代である。
真澄鏡(まそかがみ)
『池水に 左の目を洗ひ 日霊に祈り 右の目を洗ひ 月に祈り イシコリトメが マス鏡 鋳造り 進む』ホツマ4文
『天地を領らする 現の子を 生まん思いの マス鏡 両手に日・月 擬らえて 神 生り出でん 事を請ひ 頭 廻る間に アグリ 請ふ』ホツマ4文
『マス鏡 青人草も 直ぐとなる 人に於けらば 限り無し』ホツマ17文
「人を直ぐにする鏡」である。
「直ぐにする」とは「直す (なおす)」である。「直す」とは「(反り・曲がりを) 収める・合わす」ということである。
ここのサイトの説明も不思議である。真澄鏡とかが枕詞になったのは鏡か神宝となったのはそれが写ることなのである。それは姿だけではない心を写すから恐れられたのである。だから万葉人は心を清くするために真澄鏡を見ていた。今のように女性が化粧するだけのものではない、人間の心を見るものとして鏡があったのである。
神は人間の心を見るというときそれと匹敵するものとして鏡があった。
万葉人はやましい心があることを恐れたのである。それは真澄鏡に写されるということで恐れた。
要するに万葉人は日本の純な自然と直結して生活していた。それが神道と通じあっていた万葉集は恋愛集ではない、それは宗教ではないにしろ何かそうした神道に通じるものがある。
それはどこの国でも古代にはそうした自然への宗教心とかがあった。日本の宗教心は清浄な日本の自然を基にして起きてきたのである。
見飽かぬ君に後れてや、、、後れてとは死者に置かれている生者である。
それはまさに死別の歌にも通じている、忌中の歌にふさわしいものだと発見した。
つまりこうした厳粛てものが常に万葉集にはあり恋愛集ではないのである。
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