2015年12月21日

万葉集の死者を偲ぶ歌 (死者は自然と一体化して生き続ける)


万葉集の死者を偲ぶ歌

(死者は自然と一体化して生き続ける)


そして万葉集で歌われたものは何か現代人とは違っている
その人の別れでもその情が深いのである
人間は特に現代は人間の情が希薄化してしまった時代である。
でもさすがに人が死んだときはやはりその思いは変わらないことはある

時はしもいつもあらむを心痛くい去(ゆ)く我妹(わぎも)か若き子置きて(467)

悲緒(かなしみ)息(や)まずてまたよめる歌五首

  かくのみにありけるものを妹も吾(あれ)も千歳のごとく恃みたりけり(470)
  家離りいます我妹を留みかね山隠つれ心神(こころど)もなし(471)
  世間し常かくのみとかつ知れど痛き心は忍(しぬ)ひかねつも(472)
  佐保山に棚引く霞見るごとに妹を思ひ出泣かぬ日はなし(473)
  昔こそ外(よそ)にも見しか我妹子が奥津城と思(も)へば愛(は)しき佐保山(474)
  
大伴家持の歌だけどこれは死者を悼むものである。

子供残して死んだ女性の歌であり、これらは死者を悼む歌としてふさわしい

かくのみにありけるものを妹も吾(あれ)も千歳のごとく恃みたりけり(470)

千歳とでてくるところが何か今とは違う、千歳の巌(いわほ)となると自分も作歌したがそれともにている。

万葉時代は人間は死んだとき山に葬られた、その葬られた山はただの自然の山ではなくなる、愛する人が埋まっている山となるから違っている
奥津城というときそれは山の奥になる、山そのものが神体になるときそこに人が死んで埋められているからそうなった。それがやがて先祖がいて守ってくれるというのは一種の自然信仰なのである。それは人間であれば自然にそうなるともいえる

昔こそ外(よそ)にも見しか我妹子が奥津城と思(も)へば愛(は)しき佐保山(474)

佐保山は別に特別な山ではなかった。でも我妹子の奥津城となったとき特別な山になったのである。
そこに愛するものが埋まっているからである。妹というときいろいろある、女性全般の意味でもある。自然も人間が死ぬことによって深い意味をもつようになる
それまではただの山であり石であったが人間が死ぬことによって深い意味ある価値あるものとなる
人間の死が樹となり石となり山とも化してゆく、それが古代の素朴な感情だった。
だから都会での死は浅薄となる、ビルに囲まれていては何か人間が威厳が意味がもてない死という重大なものでも意味がもてないのである。
墓でもしょっちゅう通る線路の脇にあったり雑踏の隅にあったり窮屈であり騒音の中にあるからとても奥津城という言葉はあてはまらない、死が荘厳にならないし死者も威厳あるものとはならない、何か人間を威厳あらしめるのは人間の作ったものではない、自然によって人間は威厳をもたらされている、ただヨーロッパの建築とかなるとラファエロのアテネィの学堂のようにアーチの建築が人間に威厳を与えている
それはヨーロッパは駅まであのような古代のローマ風のアーチの建築になっている
だからそうした駅についたとき人間に威厳がもたらされているのである。


天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴の卿の京に向きて上道する時によみたまへる歌五首
  
  我妹子が見し鞆之浦の天木香樹(むろのき)は常世にあれど見し人ぞなき(446)
  鞆之浦の磯の杜松(むろのき)見むごとに相見し妹は忘らえめやも(447)
  磯の上(へ)に根延(は)ふ室の木見し人をいかなりと問はば語り告げむか(448)
  
ここで注目するのは「磯の杜松(むろのき)見むごとに、、、、」「磯の上(へ)に根延(は)ふ室の木見し人を」とか樹と人間を一体化しているのである。
それは古代の感情である。自分でもそういう短歌とか詩を書いてきたからである。
そういうことが今の時代の感覚ではなくなっているからである
自然と一体化して生活していれば自ずと自然と一体化した感情の表出がある
だから万葉集の恋の歌ですらなにか自然と結びついて原始的なものを残している
今の恋愛の歌とは違う。

奥山の磐本菅を根深めて結びし心忘れかねつも(笠女朗)

こういうふうに恋愛の歌で今は作れない、磐本菅を根を深めて結ぶ、、、何か自然と結びついた原始的感情なのである。
例えば萱根という地名があり萱は強く根を張るというときそれが農民の生活感覚から生れた、萱が根を張って動かない、それは土着的思考なのである。
現代はそういう感覚が失われているのだ。

例えば原発事故で避難した地域が山深い村がある、

村人の去りて淋しも一本の樹によりあわれ秋の陽没りぬ

その樹は人間化した樹なのである。津波でも何か不思議だったのは庭の木が今でも離れがたく悄然としてのこっている、それが常に人間に見えたのである。
庭の樹とか人間の生活があるところの自然は人間化した自然でもあったのだ。
万葉集ではそうした感情は自然と深く接していたから普通であり自ずと歌によみこまれたのである。

我が母の百歳生きぬ千歳なる巌(いわほ)となれや冬のくれかな

人間が自然の一部と化して残る、それはやはり死でも荘重なものとして自然化することなのである。

家離りいます我妹を留みかね山隠つれ心神(こころど)もなし

これは家離りというとき例えば今なら骨を四七日置くとかあるがその後は骨納めをする、すると家から離れる淋しがある。
山隠れつとはやはり山の奥深い所に死体を葬ったからだろう
その時まだ墓を建てなかったから心神(こころど)こころともなしとなったのかもしれない江戸時代でも死体はこの辺ではホトケッポとかという所に葬っていた。
つまり墓は庶民にはなかったのである。ましてや万葉時代になれば墓はなかったろう。
それでこころともなしとなったのかもしれない、墓は古墳でもあったから墓がないということではない、心ともなしというのはやはりこの場合は墓がなかったととれるのである。



posted by 天華 at 19:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集
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