2015年12月25日

冬薔薇(数にこだわる写生俳句)


冬薔薇(数にこだわる写生俳句)

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白菊の十輪映えて邪を払ふ

七八輪小さき町や冬薔薇

満月や介護を終えて年の暮

故郷の畑に冬菜や親子かな



昨日は満月だった、何か介護を終えてほっとした。一人になるから淋しいといっても絶えずみていなければならないし話もほとんどできないとなると辛いだけになる
生きているからいいとは言ってもそれは外からみればそうなる
外からみている人は何の責任もないし何の負担もないからそうなる
それは自分だってそうだった。他人の苦しみはそれぞれ違っていてわからない
介護はしたからその苦しみはわかる
ともかく人間一人を死ぬことは看取ることは大きな負担である。
それは子がになわされているのである。親のカルマがあり子のカルマがある
そして誰もカルマの代わりを引き受ける人などいないのである。

写生俳句だと十輪だと七八輪にこだわる、それは「鶏頭の十四五本もありぬべし 子規」からはじまっていたのである。その数が写生なのである。
祭壇には大輪の白菊があっていた。純白であり菊の花は長持ちするからいい
薔薇などは飾れないというのもわかる
墓でも菊が一番飾るのにはあっている
七八輪の冬薔薇というときこれも七八輪が大事なのである。
それは人間をイメージしている、田舎だと七八輪の冬薔薇となるとあっている
人間は絶えず意識されるものは少ない、七八人が限度かもしれない
他はその他大勢になってしまう。都会ではあれだけ数が多くなるのだからこういう感覚からあまりにも遠いのである。


それはとりもなおさず非人間的世界である。組織団体でも数が多くなればそうなる
なにか現代社会はそういうことで非人間化して非情になるのもわかる
一方で戦前でも戦後十年くらいは狭い範囲で生活していたから情の通わせる社会があった今は全くない、グローバル化社会となるとこれまた全然情の通じない社会だからである。ただ情がなく物だけが入ってくる社会である
経済にまず情が排斥されてグローバル化社会が成り立つのである。
何でも数値化されるとそこには情がない世界になる、一人一人は違っているということも認識できない、同じ一つの物ののように処理されるのである。

都会から田舎を見直すというとき何か人間的な世界を求めている、親子が冬菜の畑にいる、何かその光景だけでもまだ人間的なところがある。
田舎は実際は人間関係では最悪な所もある、それでも自然があり花が映える
ある程度の空間と自然が映える所でとないと花も映えない
東京には四季もないだろう、枯野といってもそれがない、たた人込みとビルだけとなってしまう。
そういう場所で自然の感性を磨くことはむずかしい、もちろんそれなりにはあるとしても自然はもともとそんなビルの谷間にあるものではないからである
結局俳句などは短いからいかにその背景を読むからである。
俳句を鑑賞できる人は俳句を作る人より優れているまでなる文学なのである。
それはあまりにも短いからそうなっているのである。



冬薔薇(詩)

一輪二輪と数えて
七八輪咲きにし冬の薔薇よ
淋しき町に咲きにし薔薇よ
ともしさに耐えて咲く
ほまれとて何かあれ
七八輪の冬の薔薇咲く
今日もまたこの花見つつ
この町に我は暮らしぬ



この冬薔薇の俳句を詩にするとこんなふうにもなる
写生を俳句から詩に発展する
詩でも文学でも絵でも基本は写生なのである。
写生を基本にしてあらゆるものがある
そこに写生の意義がある

ただここで問題なのはともしきに耐えということは今は田舎でもないのである。
これは昔ならあった、だから昔の状況だったらより写生でありぴったりする
今は田舎でも都会より贅沢だと思うからである
車も一人一台とかもっていて贅沢なのである。
それでも貧乏な人はどこにでもいる、それは田舎とか都会とか関係なくなっている
一般的に田舎はともしいというのが普通である。
でもどうしてもともしさに耐えというのは作っているとなる
リアリティではない、確かに娯楽施設などは欠けているしたりないものはある
そのともしさはそんなに深刻なものではないのである。
ともしてさに耐えられないからこそ原発を誘致したのである。
タグ:写生俳句
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