卒塔婆峠についてコメントありましたので答えておきます
卒塔婆峠は前は道として確かにあったけどその後道が埋もれてわからなくなった
江戸時代もありこの道は飯館村と玉野村を結ぶ道だった。
それは南北朝時代からつづいていた古い道である。
逃げ延びてきた十三名の落ち武者を村人が殺めるという事件があったそうで
その後、供養のため峠に卒塔婆を立てた事からその名が付いたとか??
その根拠はどこにあるのでしょうか?
南北朝の争いで霊山城が炎上したとき落ち延びた桑折氏は山王権現を信仰していた。
約十三人は宝財踊りと名付けて姿を変ずること左のごとし
柄杓廻 顔を染め短衣をつけ
子供懐抱 芋屑頭巾を冠り顔を隠し女衣つけ子を抱く
山伏 顔を染め
獅子
笊下冠
道心坊 顔隠し
座頭 顔を隠し
笛吹
このように変装したのは落ち延びるためにそうなった。襲われることを恐れて変装した。
十三名というのは落ち延びた武者のおよその数だった。だから卒塔婆峠で殺されたというのはそういう数が伝えられていたからである。
十三名が殺されたわけではないだろう。
山王権現は玉野村から山上村にも祀られている。山王権現は野馬追いの旗印にもある。
玉野村から二手に別れて落ち延びたのである。
この旗印の武士は日下(くさか)となっている。山王権現を受け継いできた姓なのか?
日下石(にっけし)は別である。
落武者伝説は各地にあるけどこれは明確な歴史として残されている、宝財踊りで顔隠しということがあるからやはり武士としての身分を隠すものだったのだろう。
要するにそれほど襲われることを恐れていたからこういう変装をした
それで落武者が殺されたという伝説にもなる、落武者狩りなどもあったのかもしれない
その時郡山の多田野村から移った武士がいてその末裔が同級生だったことに驚いた。
南相馬市の鹿島区には只野、但野という姓の家が本当に多いのである。
その人はお浜下りのおつづら馬を担当してきたという。
つづらをのせた馬のことであり重要な役割である。
これも不思議な縁起だと思った。鹿島区の街内も古い場所であり古くから人が住み着いた場所である。自分の近くの神社に天明の碑があったことでもわかるからだ。
鹿島神社の脇の墓地には安永の碑もある。
落ち延びてきた武士を村人が殺すということがあったのか?それは戦国時代ではあった。
明智光秀などが村人に殺されたのは村人が手柄としてその首をもって報償にあづかるたである。ただ南北朝の争いは複雑であり誰が敵なのか味方なのかもわかりにくい
そういう中で村人が襲うということがあったのか?
それでもそれだけ恐れていたからこれほどの変装して霊山城を逃れてきたのである
それが祭りとして残ったのもその落ち延びる時が恐怖として残り記念として祭りとなったのである。
ここのサイトでは樅の木に注目していた。自分も隠れたように重厚な樅の木を発見した。
やはり相当な樹齢の樅の木であり貫祿があったので詩にしたりしたのである。
道のマニアとか廃線のマニアとか廃墟のマニアとかいるようです
こういうところには何かかえって魅力を感じるのも現代である。
お浜下り
参照したプログ
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