2016年01月18日

記憶する場や時間がなくなっている (人間は記憶されたことが人生にもなるから記憶が大事)


記憶する場や時間がなくなっている


(人間は記憶されたことが人生にもなるから記憶が大事)


人間は意外と記憶すること記録することが大事である。だから学問でも江戸時代から教育というとき暗唱することだった。
墓地になっている所は寺子屋だった。そこに碑があり「暗唱せよ」ということが記されているみたいだ。それはどこでも教育というのは暗唱がまず教育なのである。
何らか暗記することであり記憶することである、読書百編自ずから意の通じというのもそうである。
99でも暗記であり算数も数学も最初は暗記である。
ただ意味もわからず暗記するというのは子供では意味を知ることがむずかしいからである

算数でも数学でもこれは暗記するだけでは覚えにくい、今になると自分なりに工夫して割り算などは図形化する、像として覚えれば興味をもち覚えやすいとなっていた。
ただ丸暗記は限界がくる、それで試験でいい点数をとっても学問としては限界が来る
学校が嫌なのは暗記を強制するからだという面もある。
自分は学校の勉強で好きになったこともないし何か自分で考える工夫して勉強したこともない、毎日何か暗記であり試験であり強制されたということしかない
もちろん自分はどうしても秀才でもないからだった。
ほとんど試験のために勉強してきたがこれは勉強ではなかった。
学ぶはまねるからきているからこれも暗記である。studyは研究するという意味があるからまねるとは違うものがある


ともかく人間が生きることは記憶することであるということもある。それだけ記憶が大事なのである。なぜなら人生をふりかえって何を覚えているのかとなるとその記憶したことが人生だったとなる
たいがいのことを人間は人物でも何をしてきたかでも忘れるのである。
ほとんど何も浮かばないともなりそれが認知症なのである。認知症の人は今の記憶が欠落している。今が記憶できない、今ここに置いたものをすぐ忘れる、そして誰かが盗ったとしてしまうのである。
ただ昔のことは若いときのことを覚えているから戦争のことを姉から千回も聞かされたのである。
それは死ぬ直前まで戦争のことを話していた。シンガポールで従軍看護婦をしていたからである。その記憶したことが人生だったとなる

記憶がなぜ大事なのか、それは旅行するときでも記憶していないとしたら旅行に行ったことにもならない、どこに行ってきたの、そこがどういう場所だったのかとかもわからなくなる、旅行が忘れやすいのはそこが一回しか行かないとか印象に残りにくいからである。ともかくあらゆるものが記憶から消えてゆくのが老人になるとわかる。
認知症というのは病気なのだけどやはり老化が極端化した現象でもある
子供は何でも認識してゆくが認知症になると何でも認識できなくなる、過去に認識した記憶のみが生きた証拠となる


記憶するというとき金の出し入れで例えば千円をやるのに千円を炬燵の上にしばらく置いておく、するとそれが記憶になっている、でも即座に千円を払うと忘れやすいのである。払ったから払わないのか良く店で問題になるのは即座に出し入れするからである。
それでお釣りを払うとき確かめるように千円札をみせて支払うと記憶として残る
即座の金の出し入れは記憶しにくいということである。
今日一万払ったと思わなかった。それは前の記憶として5千円札が入っていたからであるつまり前の記憶と今の記憶が混同していたのである。
何かそういうことがよく人間にはある。前の日に五千円入っていたから実際はそれを使って一万入れていたのだかそれを忘れて前の5千円を記憶していたためにそうなった。
金は出し入れが頻繁だから忘れやすいのである。
これは人でも多数の人は覚えにくい、金のようにしょっちゅう出し入れしていたら覚えられないのである。大衆とか群衆化している現代とそうした人は覚えていないのである。

旅行でも記憶するというとき例えば電車が来るのを待っている、その時間が記憶する時間だったのである。何かバスにはそうして待っている時間があっても記憶されにくい
電車はレールが伸びていて電車を来るの待っている、その時間が記憶される時間になる
だから待つ時間も貴重なのである。今は待つ時間がない、だから旅情もないとなる
新幹線になると全く待つ時間がないから旅情もないのである。
旅をふりかえると記憶がよみがえるときそこに旅に行ったと感じるが忘れると本当にそこに行ったのかどうかもわからなくなる
だから記憶されない旅は旅にならない、団体旅行などは周りの自然でも記憶しにくい。
自然でもある時間がない限り記憶できないのである。
それである場所に何回も行った方がこれからはいいかもしれない、なぜならもう新しい場所を旅するより一度行ったところで記憶を確かめる、一回行った所でもそこは新鮮である季節も変わるし見方も変わるからである。
なるべくそこに長くいることがまた記憶することになる。


現代とは何か記憶することがむずかしい時代である。電車であれ車であれ便利なものを利用していると記憶しにくい、五感で感じるものがなくなる、車だったら外の空気とか風でも感じない、冬でも寒さも感じない、そのことがまた記憶しにくくしている。
坂だって峠でもそこが峠ということも感じにくい、だから空間でも記憶しない、まず都会とかなると記憶しにくい、混雑しているから余計にそうなる
東京などほとんど何も記憶していない、どこに行ったかどこを通ったかも記憶していない記憶する空間ではないしとても人間の記憶する範囲を越えているからそうなる
だから人間も集団でありマスであり大衆であり群衆であり一つ一つの顔として人間として記憶されないのである。
ただ人間というより物にしか見えない、そうなると人間は危険になる
人間が物ののようにしか見えないということは大量殺戮になっても感じない
殺していることも感じない、空爆すれば人間を人間と見ないからできる
空から見ればそこに見えるのは建物だけであり人間はいないのである。
パリのテロで130人が死んだというとき何かその悲惨さが具体的に感じる
でも空爆だったら何も感じないとなる怖さがあるのだ。
もし人間同士が見えて殺していたら殺すことにちゅうちょすることがあるだろう
パリでも最初は無差別に殺したがあとで人質にした人は殺さなかったのは何かしらそこに人間がいることを感じて躊躇したのだろうと生き残った人が言っていたのもうなづける
人間とみる時間がそこに生れていたからだともなる


今や都会では人間は無数の影のように消えてゆく、存在感がないものとなっている
都会には仕事があり田舎にはないとか田舎を常にネガティブに言うが人間の存在感は田舎の方にある。
俳句にしたように一本の木でも存在感がある、そして大地に根付いていかにも充実していると最近見る。
それはそもそも当たり前でも大地に根付いているからである。大地があるからその樹も不動であり存在感がある。
都会だと大地というのが関係ないのである。養分は大地からとっているのではない
すべて外から外国からでも食料はとっているし大地というのは都会にはないのである。


そしてそこは何か記憶する場がない、希薄な生が消耗する場となる
記憶というときそれは記憶される場が必要なのである。日本の神社はその場の記憶としてあるという見方もある。神社にとって場が大事なのである。
場の記憶だともなる、都会にはそうした記憶する場が消失している。
特に東京に巨大になるともう記憶する場が消失している
都会に生きることは記憶も消えるということにもなる
都会では生は記憶されない、無数の大衆群衆として消えてゆくだけだともなる
例えばもし東京が廃墟になったら何か記憶されているのかともなる
なぜ現代が廃墟趣味になるかというと廃墟になるとそこ人間的なものが残る
廃墟の中に何か人間的なものを感じる、それが廃墟でないときは巨大なビルとして人間を圧迫するものとして感じていたが廃墟になるとそれがやはり存在の無常を感じる
それが何か愛おしいものにもなる
ああ、ここに人が生活していたんだなとなつかしくなるのである。
それが現実に活きている時は圧迫するものとしてあった
めまぐるしく人間が動き交差して人間は無数の顔なき群衆にすぎなかったのである。


この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/172236630
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック