蠟梅の詩(百歳で死んだ母を偲ぶ部屋ー介護も死ねば思い出となる)
大輪の百合の目立ちて祭壇に見しもその後添えにし花も見る
去年はいたく寒く
蠟梅すらもその枝の
大雪に折れていたいたし
二三輪ほど咲きしのみ
今年はあまた咲いている
この部屋に我は母を介護しぬ
母は介護されてもこの部屋に
懸命に最期を百歳を生きぬく
母が死んだ今この部屋は虚しも
蠟梅がこの部屋に映える
そして我はここを百歳の間と名づく
母の労苦の一生はここで終えぬ
死してもここに母のなおいるごとし
母に母の部屋のなしも悲しむ
ここに介護の時に部屋をもつ
我が家の悲しき物語
それぞれの家の悲しき物語
家には死してなおも人がいる
今は憎しみも争いも終わりぬ
我が家に残るは我が一人
ただ在りし日を偲びつこの部屋にいる
今また北風がこの家に唸る
立春は過ぎてもまだまだ冬である
家は何か女性の場合嫁とあるごとく家と一体化している。我が家は何か普通の家ではなかった。だから複雑である、自分にとってはいいものだったが母にとっては自分の家はいいとは言えないものだった。
母は自分の部屋をもっていなかった。いろいろ不遇でありそのことを自分は思っていた。母が最期に部屋をもったのは介護されるときだったのである。
この一部屋が母を自分が介護した時母の部屋になった。
自分はずっと母に対しては悪いと思っていたがどうにもならなかった。
母は自分の家に嫁ぐ前も不遇だった。一生が不遇だったのである。
ただ最期は自分の部屋をもち自分が介護したから不遇とは言えなかったろう
母は喜んでいたからである。
そして母はこの部屋で介護されるときも懸命に生きた、頑張り屋だった。
最期までベッドの脇のポータブルトイレに自力で行っていた。
オムツもせずに水しか飲まなくなり一週間もそうだったがポータブルトイレに行っていた食べるときも自力で食べていて自分が食べされることもなかった。
それで実際は自分にとって楽な介護だったのである。
病院に入院してオムツとか管で小便をとるとき凄くいやがっていたことでもわかる
オムツとかなるとその衝撃が大きいのである。
母はやせていてともかく頑張り屋だった。
でも母は何か世間にうといからこの家を一人で切り盛りはできなかった。
姉がいてこの家は成り立っていたのである。
それぞれの家にはなにかみんな複雑な事情があるからわかりにくいのだ。
母は前の夫も事故で死んだとかいろいろ不遇だったのである。
そういう人が大正生れとか戦前とかなると多いのである。
そしてつくづく病院という場はそうした家の事情とか関係なく無機質な空間であり
それぞれの人に対する思いがない場所である。
だからそこは長居する場所ではない、その人の特に女性の場合、家に一生があるとすると家で介護されて死ぬのがふさわしいとなる、そしてそこには死んだ後も思い出として残る場所なのである。
だから病院とか介護施設は本当は介護されるにも病院でも看取りとなるとふさわしい場所ではない、医者とか看護師とか介護士は家族とは違うからである。
体をみてもこのようにその人間そのものが生きたというその一生をみれないからである。なぜ死んだ後にもこの部屋が「百歳の間」として名付けてなおその人が生き続けるようなことはありえない、病院ではなんかもののように死ぬとかたづけられるだけである。
そこにはもう誰がいたかもわからない、ただ一人が消えてその名も覚えている人がいないだろう。
そこが病院とか介護施設と家との大きな差だった。
人間は死んでもそれで終わるわけではない、その人はその生きた家になお生きつづけているのだ。病院とか施設ではそういうたとはないのである。
もちろん介護になると認知症とかなると介護自体が嫌な思い出となる、てもやはり人は特に女性の場合は家と切り離されずにある。
それで家で介護されたい家で死にたいとなるのが情である。
ただそれに対処するのは家族が少ないから本当にむずかしい
自分がなんとかやれたのは母が介護を楽にしてくれたからだと思った。
脳出血とかなり三食食べされるようになったら本当になにもできなくなった。
それが常に自分はおそれていたのである。
とにかく人間の一生というのは死んでみないとまたわからないとも思った。
死んでからまたその人をふりかえり深く思うことがある
生きている内はそういうことが見えないことも多いのである。
嫌だ、嫌だと思っていてもそれがなつかしくなったりするのが人間なのである。
だから介護も嫌なのだかふりかえるとなつかしくさえなるということもありうるのも不思議である。
それは重荷から解放されたからそうなっているのかもしれない、それは介護だけではない、人間は苦しいことでもふりかえるとなつかしくなったりするからである。
憎しみ合い争っていてもそれすら死んでしまったりするとなつかしくなったりする
それは兄弟で昔喧嘩したことがなつかしくなったりするのと同じなのである。
人間死んだらなぜそんなに争ったのかとみんななるからである。
つまり人間は今は介護というのがその一生の間で経験する、次ぎに看取りがありその後に死者を偲ぶ場として家がある。
人間はそうして死んだからその生がそれで切断されないのである。
でも病院とか施設では死んだら切断されて何も残らないのである。
偲ぶ人もいないのである。そこはただ一時的に体をみる場所なのである。
だから人間的な場所ではないのである。
でも現代は在宅介護とかするのは本当にむずかしいからそうなった。
ただそこには人間として最期を迎えるのにはふさわしくないのである。
大きな百合の花を最初は目立つから見ていた、次ぎにしばらくたつと添えて咲く花をみるつまり人間は最初は主役をみているが脇役も長い間みていると花でも見るようになる
母はずっと脇役でありそういう性格だった。目立たない花だったのである。
でも長い間見ていると脇役も注目される、一瞬見た時はどうしても主役の大きな花に目がむくがやがて脇役の小さな添えて咲く花も見るようになるのである。
タグ:介護も思い出
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