2006年09月05日

町名など名前の変遷は歴史そのもの(双葉の新山−長塚駅の由来)

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常磐線の福島県内の長塚駅は消えてなくなった。戦後10年後くらいまで双葉駅は長塚駅だった。なぜ長塚駅がわかったかというとここに自分の父親がここの酒屋に勤めていて鹿島町に移り酒屋を始めたからである。暖簾分けをしたわけである。そこには一年くらい住んでいたことがありそこのことを語ったからわかったのだ。長塚駅におりて酒屋に行ったのである。昔は長塚村と新山村があり双葉町はなかった。のちに新山村が新山町となったのだ。その酒屋の近くに銀行がありそこで子供だから遊んでいた話をした。銀行というのも当時ではめずらしいものだったのだ。ここでわかることは長塚村と新山村は江戸時代からあった古い村であり双葉町はそのあと合併した名前である。江戸時代からつづく村が古いから郷土史では古い方が大事でありそこを基点に歴史を考察する必要があるのだ。

新山城に関する記述があり、常磐線の東西にあったことや東の館跡には新山神社があることなどが書かれている。元弘元年(1331)に標葉(しねは)左衛門尉隆連が築城したと伝えられ、明応元年(1492)標葉清隆・隆成父子が相馬盛胤に滅ぼされるに及んで標葉郡は相馬氏の支配下に入った。慶長16年(1611)以降廃城になっている。鬼木橋を渡ると長塚宿だ。さっきの新山宿とこの長塚宿は、合宿で、月のうち前半は長岡宿、後半は新山宿が勤めていた。

氷川橋の先の十字路で旧道は右折する。ここを左折して、踏切を渡ると長塚陣屋跡がある。享保年間、相馬昌胤が領内の宇多、行方(なめかた)、標葉(しねは)の三郡を分けて七郷とし、一郷に一陣屋を設けて統治に当たらせた際に設置された。長塚陣屋は、29村を掌管した。陣屋跡の見取図が掲示されている


安政の大火以降の浪江宿の東を通り、請戸川の手前で左折して高野(こうや)宿(のちに浪江宿)に入っていた。浪江宿は、以前高野宿と呼ばれていたのが、度重なる大火により寛政10年(1789)に火伏せとして水にちなんだ「浪江宿」と改名した。
http://hyakkaido.travel.coocan.jp/iwakisoumakaidou11tomiokanagatuka.htm

インタ−ネットを探してこのサイトに出会った。仙台から来てかなり丹念に調べているのには感心した。地元でもないのにこれだけ細かく関心を持つ人もいる。

左折してすぐ右に入って行くと常福寺がある。ここには戊辰の役で戦死した筑前藩士の墓と句碑がある。「的野」、「川庄」など福岡県に馴染みの名前があって懐しく、丁寧に合掌した


この人は福岡県出身なのか戊辰の役で死んだ官軍の人の墓が残っていることは知らなかった。中通りは二本松少年隊とかで有名で激烈な戦いがあったが浜通りにも規模は小さくても戦いがあったのである。

これで注目すべきは名前とか地名の変遷は歴史そのものなのだ。最近南相馬市が合併でできたように常に村とか町の名前は昔から変遷してきたのである。
興味深いのは「浪江宿は、以前高野宿と呼ばれていたのが、度重なる大火により寛政10年(1789)に火伏せとして水にちなんだ「浪江宿」と改名した。」これが史実だとするといかに江戸時代は火事に悩まされたかわかる。江戸の大火は有名だが地方でも火事のために名前まで変えていたのだから火事は大きな災難だったのだ。鹿島区でも火伏祭りがあるが火を伏せるとあるから火を消すではなくなんとか火を止めるというのが当時の消防だった。延焼を防ぐことしか方法がなかったのである。ともかく市町村合併で地名のことを書いてきたが名前の変遷は歴史そのものであり注意が必要である。
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