

岩城(磐城)と相馬の境の地名
磐城太田とあるのは磐城国になっていた名残りである。太田は太田神社があるごとく相馬氏が最初に移り住んだ所である。岩城氏と相馬氏の境の富岡辺りは空白地帯だった。
江戸時代、楢葉町には有力な藩がなかったので、磐城平藩の支配下に入りました。その後、江戸時代中ごろになると幕府支配となりますが、一部の地域では私領の支配を受けて明治期を迎えます
だからここで領地争いが起きたのである。明治まで夜ノ森は森であり新夜ノ森も富岡にあるので森が広がっていたのだ。まだ広い森が平地にもあった。黒々とした夜の森ようにあったのかもしれない、余の森は相馬藩主が言ったから余の森となり小良ケ浜はオラの浜ということで地元の漁民が言った。おらほうの浜だということで何か地元の人たちの間でも奪い合いがあったのかもしれない、双葉の新山でも新地でも新とつけばやはり新しい山、新しい土地として進出してきた人たちがいた。当時では新しい土地だからそうなるが今になれば新山でも古山になる。新町も古町になってしまう。ここに森が広がっていたということはつまり相馬から岩城平の城下までの道のりを考えるとこの森をぬけると繁華な岩城平藩の城下町に至るのである。鉄道も通っていない当時はこうした森のようなものが境になっていた。
これは外国でも同じだった。原始の森が広がっていたのである。森によって交通も阻まれていた。相馬藩の城と岩城平藩に城下町がありその間は繁華な街はない、農村地帯や森だったのである。この間はかなりの距離だから今の旅とは違って何倍も遠くへ行く感じになったのだ。旅でも昔を想像すると豊かな旅ができるのだ。本当に昔を偲ぶとなると歩く他ない、相馬から平まで歩いてみると実感するものがあるだろう。余りにも早すぎるから旅は消失したのである。昔を偲ぶことは時間が必要なのである。空間を今は世界の果まで瞬時に行くことができる。でも時間の旅、歴史の旅はできないのである。時間をかけないかぎりその場に流れている時間を歴史を知ることができないのだ。だから外国に行くことは簡単なのだが時間がないから印象が薄く歴史を知ることがむずかしいのである。
昔の旅は城下町に出ることが大きな区切りだった。遠くから城が見えたときなんともいえぬ喜びがあった。なぜなら歩いてきたし距離がさらに遠いからそうなるし関所をいくつも越えるから苦労するからそうなる。今は余りにも安易になり旅が喪失したのである。江戸まで往復で二週間以上かかるとするとこの時間の中で体験されるものと数時間で行き来する時間とは余りにも違いすぎるのだ。人間は空間を克服できても時間は克服できない、時間は限られているからそうなる。境というのも電車とか自動車、飛行機の時代は意識できない、ただ国境ではじめて意識するだけなのである。
みちのくの木奴見が浜に一夜寝て明日は拝まむ波立の寺−西行
久之浜は木奴見(きぬみ)の浜だった。きぬみというのが最も古い地名だった。何の意味かわからないが木をあてたのだから木と関係して木の間から見えた海かもしれない、絹見という地名はあるが絹とは関係ないだろう。ともかくここで一夜寝たからこそここが印象に残り歌も残ったのである。
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