2008年02月29日

高齢化社会の命の価値は低くなる(何が幸不幸か決められない)


高齢化社会の命の価値は低くなる(何が幸不幸か決められない)

 
余命いくばく、その枕元
チュ−リップの赤さ映えぬ
生きたしと思えど生きられず
うら若き乙女の切なく哀し
生きられぬ命の心残りや
チュ−リップの赤さ映えぬ

燃焼されざる命の赤さのごとく
 

33才癌になった女性の短歌
http://www.morimuraseiichi.com/miyata/aitoshi_06.html

 
これは33才で癌にかかった女性の短歌を読んで作った。若くして死ぬときはこれから生きようとして生きられなかったものの無念の歌となる。肺病で死んだの若い人である。そこに悲劇があったし戦争でも若い人が多数死んだ。それは生きたくても生きられなくなったものの切ない叫びである。でも死ぬということでは老人も若い人も同じことなのだがそこに命の価値が違ってくる。今日も「まだ死にたくない・・・」と88才の老人が来たが人間はどんなに長生きしても死にたくないのである。しかし若い人の命の価値と高齢者の命の価値はかなり違う、老人は十分に生きた人だから命の価値は若い人が死ぬのとは違う、90まで生きたとしたら誰もあまり惜しまないだろう、でも33才で死ぬとなると悲劇であり誰もその命を惜しむ、命の価値は老人とは全然違った価値を帯びているのだ。高齢化社会の命の価値はどうしても低くなる。かえって重荷となり早く死んでくれともなる。若い人の命は惜しまれる。高齢化社会ではあまり命が惜しまれない、だから救急車で運ばれた90才の老人が断られたのは仕方がないとまで言う人がでてくる。ここに人間の逆説がある。人間はただ長生きしたからといって全部が価値あるものとはならない、かえって若くして死ぬとき命の価値は大きくなる。そして自然も全然別なものとして見えてくる。ただ単に側においたチュ−リップでも全然別なものに見えてくる。それはまさに自分の消えゆく命がチュ−リップになって赤々と咲いている。チュ−リップを普通はそうは見ない、チュ−リップでも余命いくばくの人が見ているとそれも若いとなると生きられざるものの命が託されている
 
やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに 啄木
 
というのもやはり柳が青みて故郷に春を迎えるその春を生きられないという無念が強烈に歌われた。若くして死んだからこそ老人が歌うのとは全然違った価値を帯びるものとなったのだ。価値とは必ずしも長生きしたから生まれるわけではないのだ。かえって若くして死んだときどんな人でも惜しまれる、長生きしていたらうとまれて死んだかもしれない、そこに命の価値の逆説、パラドックスがある。命の価値は別に寿命の長さでは計られないのだ。若くして死んだからすべてが不幸ともいえない、その命はみんないとしまれ惜しまれて死んでゆくからだ。それはあとあとまで惜しまれる。
 
一方あまりに長生きしたものの命は惜しまれない、やっとやっかいものが消えたとくらいしか思われないとしたらこれも不幸なのだ。だから人間の幸不幸は何なのか本当に決められない、境遇でもすべて決められない、不幸が幸福だったということが実際に長生きしてふりかえると確実にある。あんなに不幸だったのに今ふりかえると今の幸福につながっていたということがいくらでもある。90才くらいになってそのことがわかったりするのが人生なのである。何が幸不幸になるかその基準はない、なぜなら幸不幸は絶対的なものではなく相対的なものなのだ。人間の幸不幸には絶対的なものはない、金があれば幸福だとか、美人だったら幸福だとか、才能あれば幸福だとか、家族に恵まれれば幸福だとか・・・あらゆるものが実際は幸福の基準にはならない、幸福と思っていたものが不幸に反転するのはいくらでもある。そもそもそうした世俗的幸不幸を基準にすることがあやまりなのだ。絶対的幸福を求めるならそれは宗教的なものとなり哲学的なものとなる。それは世の中のめまぐるしい変転に左右されないものだからだ。そこでは水とパンだけで幸せだともなるし犠牲になっても幸せだとなる。


 

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