浪江の津島の遠さ(伝説の径路)
春の日に分け入る山に何かあれ下冷田の名覚え帰りぬ
春日さし三春の方に心向く浪江の海より津島は遠しも
津島より浪江の遠き墓所のあり道も分かれし秋の夕暮
三春へとつづく道なり何かあれ弁慶石と秋の日暮れぬ
津島より葛尾へ分かる道をゆく人あうまれに月見草咲く
なぜ浪江に津島が入っているのかえびつなものとなっている。葛尾は飯館村のように独自の村になっている。地理的一体感が津島ではもてない、江戸時代は一部は三春領だった。ここに弁慶石とかあり下ってゆくと弁慶橋とかある。弁慶の伝説は日本海から横断して白河関を通り三春を通り津島を通り浪江の方に伝わっていった。津島は一つの基点の場所であった。津島から別れて葛尾村に入る。昔ならここは浪江から遠いしさらに浪江の海までは遠い、相当な遠隔の地である。こんなところに中国人妻がまぎれこんで東京に出たいと夫をナタで襲った事件があったのも象徴的である。車があればそうでもないはずだが相当な僻地なのだ。本当に車がない時代どうしして生活していたのかと今なら思ってしまう。人々は隔絶して生きていた。それは車を使うよになって三〇年くらいでその前はバスが盛んに通る時代があった。その前は?歩きだった、馬車運送だった。飯館でも津島でも自転車で行って相当遠いのである。その遠さの感覚が車だとわからないのだ。津島にあった墓所を見るとそれが何かその墓自体遠い所にあり隔絶してしまった場所に埋もれてしまったと見る。いづれにしろ人口も半分に減ったというのもわかる。
下冷田という名だけが印象に残った。他に見るべきものはない、津島から飯館へは不便でありあまり交通はなかった。弁慶の伝説が伝わる道筋はそれなりに古いのである。飯館の方へは弁慶の伝説は伝わっていない、浪江の方に伝わって行ったのだ。ただ源義家の伝説は浜通りから大倉へと伝わっているから海から山の方に向かって行った不思議がある。伝説の径路は歴史を探るル−ツ探しになる。浜通りから阿武隈の山の方へ向かって伝説は伝わっていくのはまれである。飯館の小手森の地名も川俣の小手姫伝説が伝わったものでありこれも遠く日本海から出羽三山を通じ阿武隈高原に入ってきた。小手姫伝説は浜通りまで伝わっていない、伝説もそれなりに根拠がなくては残されない、ただ勝手に作られた伝説も多いからまぎらわしいのだ。平家落武者伝説のほとんどは歴史的根拠がないのである。この辺の見極めがむずかしいのだ。私が発見した真野の草原も草原を萱原として萱のなびく美しいみちのくの辺境地帯を歌ったものだとしたがその根拠はなくなった。地名もあとから勝手に解釈されやすいのである。鎌倉の金沢に三艘という地名がありこれも宋の船が三艘とまっていたから名づけられたという。確かに金沢は鎌倉時代に宋の船が出入りしていたのだからそういうことはありうる、でもその前にその港は小さな漁村であり小さな三艘の舟があるような目立たない場所だった。その方が信憑性がある。青森の陸奥にも九艘泊がありこれも貧しい漁村の名前だったのだ。
阿武隈の山地でも全部貧しいだけかというと山には山の幸があり葛尾大臣とかいたように鉄の生産とか炭の生産とか木材の資源があるから長者がいた。煙草も栽培して養蚕でもあったから山には山の暮らしが成り立っていた。森林鉄道これほどあったのは木材を積み出すためである。原町にも浪江にもいたるところに森林鉄道があったのだ。それが外材になって廃れてしまったのだ。山は資源のある場所だったが今や何もない過疎だけの村とされてしまった。それで山から街へ移動する人が増えたのである。急速な過疎化を推進したのはグロ−バル化だった。それは山の村自体を破壊してしまうほど急速だったのである。その一つの現象として中国人妻がこんな阿武隈山地の奥深くまでいたという驚きだったのだ。双葉の原子力発電所で働く人がいたのも象徴的である。原子力は金になるからこの辺でも働きに行き放射線をあびて死んだという噂まである。こういうのは隠されているからわからない、それが噂になったのかもしれない、それも一つの伝説になるかもしれない、伝説もそうして権力側に隠されたものを庶民が言い伝えるという効力がある。義経伝説がこれほど残っているのは庶民が判官贔屓で残したからである。現実に権力によって隠される表にでない情報はいくらでもある。新聞にもテレビにも出ない情報はいくらでもある。それは公的でありかなり制限されているのだ。大きな集団の力、権力によって制限され表に出ないのである。伝説や昔話もそこに無数の庶民の歴史が埋もれている、それは現代にも通じるものをもっているし歴史なのである。

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